勇みこの時泣かせるも。
中先代(なかせんだい)の乱)(北条時行(ときゆき))(1335)
[ポイント]
1.1335年、北条時行が奉じられた反乱、中先代の乱がおこった。
[解説]
1.中先代の乱(なかせんだいのらん)(最後の鎌倉幕府執権北条高時の遺児時行が信濃国から挙兵、1335年)を直義が迎撃したが、逆に敗走。
2.直義はこの敗走の直前に、護良(もりよし)親王(かつての天台座主(てんだいざす)、前征夷大将軍、後醍醐天皇と対立して鎌倉幽閉中)を、1335年、殺害している。これは後醍醐天皇に対抗して、護良親王が北条時行に奉じられる事を警戒したもの。
3.足利尊氏は、この中先代の乱討伐および直義支援を理由に鎌倉に向かい、これを鎮圧後、鎌倉に居すわり拠点としたため、建武新政としての鎌倉将軍府は消滅。
〈2012明大・法
B.1335(建武2)年、(c).北条高時の子時行らが反乱をおこして鎌倉を占拠すると、足利尊氏は、その討伐のため関東に下り、その後、新政権に反旗をひるがえした。1336(建武3)年、京都を制圧した尊氏は、後醍醐天皇を幽閉して持明院統の光明天皇を擁立し、幕府再興の方針を明らかにした(d).建武式目を定めた。しかし、後醍醐天皇は、吉野へ脱出し、正統の皇位にあることを主張した。ここに吉野の南朝(大覚寺統)と京都の北朝(持明院統)とが対立して争うことになり、以後約60年にわたる全国的な南北朝の動乱がはじまった。
問3.下線部(c)の反乱を何というか。
問4.下線部(d)に関連して、室町幕府の法令も、建武年間以後の追加という意味で建武以来追加とよばれたが、これは[ ア ]が室町幕府のもとでも基本法典としての生命をもっていたことを示している。空欄(ア)に該当する語句を記しなさい。
問5.建武式目には、「遠くは延喜・天暦両聖の徳化を訪ひ、近くは[ イ ]父子の行状を以て、近代の師となす」と書かれており、鎌倉幕府の政治を継承する意志をあらわしている。空欄イに該当する父子のうち、父親の人名を記しなさい。
(答:問3中先代の乱、問4貞永式目、問5北条義時)〉