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ベック式!難単語暗記法ブログ

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1317(文保元)年 〈文保の和談〉★

2016-09-11 | 『新日本史頻出年代暗記』

●鎌倉時代(花園天皇 北条高時) 
Reconciliation of Bumpo; That Jimyōin and Daikakuji branches of imperial line occupy the throne alternatively is decided.
いざ柔軟(じゅうなん)に 両統大事。
 1317年       両統迭立 大覚寺等 持明院統      

後嵯峨天皇の譲位後、皇統が後深草天皇の流れをくむ持明院統と亀山天皇を祖とする大覚寺統の両統にわかれて対立。

1317年、幕府は解決策として両統の交互擁立案である両統迭立を行った。

翌年、大覚寺統の後醍醐天皇の即位が決まったが《後醍醐天皇は大覚寺統の天皇、〈ダイ〉の音の字が共通することを利用して覚えよう!》両統の対立は解消しなかった。

 

〈文保の和談の結果〉 文保の和談の結果、1318年には大覚寺統の後醍醐天皇

(「ダイ」の音に着目)の即位が決まった。しかし両統の対立は解消せず、南北朝期には南朝(大覚寺統)は吉野にあって、京都に拠る北朝(寺明院統)と対立。1392年の南北朝合一によって、南朝の後亀山天皇が北朝後小松天皇に譲位。再び両統迭立の原則によることとなったが守られず、大覚寺統は皇位を得ることなく衰えた。

護符自嘲僕  課題はな 。

後深草天皇 持明院統 長講堂領 北朝  亀山天皇 大覚寺統 八条院領 南朝

"Ryto tetsuritsu" refers to the situation where the family line of a country's monarchy is split into two and the monarch is alternately selected from these two family lines.

両統迭立(りょうとうてつりつ)とは、一国の君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に国王を即位させている状態をいう。

 

  

〈2016早大・人間科学〉

問8 下線部f後醍醐天皇についての説明として、正しいものはどれか、1つ選べ。

 ア 持明院統から天皇となった。
 イ 正中の変によって、隠岐に流された。
 ウ 寺院勢力の協力を得るため、懐良親王を天台座主にした。
 エ 建武の新政で、諸国には守護を置かなかった。
 オ 権威を示すため、大内裏造営を計画した。」

(答:オ ※ア×大覚寺統の誤り、イ×隠岐に流されたのは正中の変のあとの元弘の変による、ウ×天台座主としたのは護良親王、エ×守護と国司を併置した)

〈2014明大・全学部前期(2/5):「下線部(オ)に関して、天皇とその属した皇統の組み合わせとして誤っているものを、次のA~Dのうちから一つ選べ。

 A後深草-持明院統 B伏見-持明院統
 C花園-大覚寺統  D亀山-大覚寺続」

(答:C※ゴロを記憶しておればA、Dが〇だと分る。しかし残りのB、Cどちらが×かは分らない。後醍醐天皇(大覚寺統)の前が花園(持明院統)である。難問)〉

〈2014立大・現代心理(心理)・コミュ福祉(コミュ政策・観光(交流文化)・経営(経営・国際経営):「
問7 これ7)八条院領を経済基盤とした上皇と皇統名の組み合わせとして正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a亀山上皇-持明院統  b亀山上皇-大覚寺統
 c後深草上皇-持明院統 d後深草上皇-大覚寺統」

(答:b)〉

〈2013早大・文:「下線d一方、荘園の複雑な階層の頂点にある摂関家や皇族の側でも全国に展開する荘園群を束ねて帳簿を作成するようになったについて。鳥羽法皇が皇女に伝え、平安時代末期には約百カ所に達した荘園群は何と呼ばれているか。漢字4字で記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。」

(答:八条院領)〉

〈2012立大・経済法異文化コミ:「これ(大覚寺統)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。

 a.後嵯峨上皇亡きあと、皇室は、後深草天皇の流れをくむこの皇統と亀山天皇の流れをくむ持明院統に分かれて、皇位などを争うようになった
 b.この皇統から即位した後醍醐天皇は、正中の変・元弘の変において討幕の計画を立てるも失敗し、隠岐に流された
 c.1392年、将軍足利義満の主導で南北朝合一が実現し、天皇は、この皇統に属する後小松天皇1人となった
 d.吉野の南朝(大覚寺統)と京都の北朝(持明院統)が対立したが、南朝側についた武将として、楠木正成、新田義貞、高師直などがいる」

(答:b ※a後深草は持明院統、c北朝の持明院統の後小松に統一された、d高師直は北朝方)〉

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1495(明応4)年 〈『新撰菟玖波集』、成立〉★

2016-09-11 | 『新日本史頻出年代暗記』

 

 

 

 

●室町時代(後土御門天皇 足利義澄)

 

Sōgi begins compilation of the renga collection Shinsen-Tsukubashu.

意欲込めそう 親切に。

1495年  宗祇 『新撰菟玖波集』    

           正風連歌

 

連歌を心敬意に、和歌・古典を東常縁・一条兼良に学んだ宗祇は1495年、『菟玖波集』以後の全盛期の連歌を集め、『新撰菟玖波集』を編纂。芸術的な正風連歌のみ約2000句を採択し勅撰に準ぜられた。宗祇の連歌作品には『水瀬三吟百韻』もある。

〈2013同志社大・法グロコミュ

 彼の生年は応永28年(1421)である。前半生はキ)京都五山の臨済宗相国寺で修行していたという以外は詳しく分からない。30歳を超えてから連歌を志し、古典についてはe一条兼良に師事し、和歌は東常縁などについて学び、熱心に修行した。

 応仁の乱の直前の文正元年(1466)、46歳で関東に下り、戦乱中は主として関東にあって各地を遍歴して、連歌論書などを著作した。折から幕命によって関東に下向し、伊豆国三島に滞陣していた東常縁からf『古今和歌集』の特別な講義を受けた。

 文明4年(1472)京都に帰り、入江御所に隣接して種玉庵を営み、後半生の在京中の拠点とした。上流の公家や武家を迎えて和歌や連歌の会を開き、『源氏物語』、『伊勢物語』などの古典を講義した。同8年正月には、幕府の連歌会始めに初めて列する栄誉を得た。以後将軍義尚の連歌の師となり、長享2年(1488)には連歌界最高の名誉職である北野連歌会所奉行に任じられ、斯界の第一人者となった。明応4年(1495)75歳の時に、ク)自ら編集した連歌集が准勅撰となった。

 後半生は旅に出ることが多く、越後へは7度下向したのをはじめ、関東や九州へも足跡を残し、各地にケ)京都の文化を伝えた。文亀2年(1502)7月、越後から駿河へ向かう途中の箱根湯本の旅宿で没した。享年82.文芸に優れた三条西実隆と親交があり、連歌と古典研究に精進した刻苦勉励の生涯であった。

問キ.相国寺以外の京都五山の正しい組み合わせを選べ。

 1.鹿苑寺・万寿寺・天龍寺・建仁寺

 2.天龍寺・建仁寺・東福寺・万寿寺
 3.慈照寺・建長寺・円覚寺・寿福寺
 4.建長寺・万寿寺・浄智寺・浄妙寺

問e.一条兼良が将軍義尚の諮問に答えた政治上の意見書であり、1480年に成立した書名を記せ。


問f.『古今和歌集』の故実・解釈などの秘伝を特定の弟子に教え授けることを何というか。その呼称を記せ。


問ク.准勅撰となった、この連歌集を選べ。


 1.『菟玖波集』
 2.『新撰菟玖波集』

 3.『水無瀬三吟百韻』
 4.『犬筑波集』


問ケ.1423年に生まれ、単なる喫茶を、禅の思想や作法を織り込んだ流儀にまで高めて、茶の湯の開祖といわれる人物を選べ。


 1.武野紹鴎 2.土佐光信
 3.村田珠光 4.池坊専慶」


(答:問キ.2、問e樵談治要、問f古今伝授、問ク2、問ケ3 ※彼は宗祇)〉

〈2013明治大学・商:「
 一方、政治や経済の面で力を失った公家のなかには、伝統的な文化の担い手となって有職故実の学問や古典の研究を積極的に行ったものもいる。古典では古今和歌集がはやくから和歌の聖典として重んじられ、その解釈なども秘事・口伝のもとで神聖化され、特定の人だけに伝授された。こうした古今伝授は、「古今和歌集」の故実・解釈などの秘伝を弟子に伝えることであり、武士で二条流歌人でもあった

E[1三条西実隆 2東常縁 3細川藤孝
  4中院通勝 5牡丹花肖柏]

(1401~1494?)が1471年に宗祗に伝授したのが始まりであるとされる。それに加えて、「古今和歌集」や「伊勢物語」、「源氏物語」などの古典に対する関心は強く、書写・校合だけでなく、一条兼良らについて講釈を聴聞したり、同好者による研究会もしばしば行われた。また地方武士のなかには、上洛の際に古典の知識を習得するものも少なくなく、領国文化の発展の要因となったが、これは応仁の乱で公家が地方に下ったことでいっそう促進された。」


(答:E2)〉

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