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ベック式!難単語暗記法ブログ

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905(延喜5)年 〈『古今和歌集』の成立〉★★

2016-02-07 | Weblog

●平安時代(醍醐天皇)
 
Kokin wakashu, the first imperial anthology of waka verse , is completed.
句(く)をご覧じた 古今集。 

905年            醍醐天皇 

                                『古今和歌集』 

                                           紀貫之 

905年、醍醐天皇の命により、紀貫之は紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑とともに、わが国最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を編纂。優れた歌論でもある『仮名序』を記した。五・七・五・七・七の短歌が大部分。歌風は優美・繊細で技巧が目立つ。いわゆる古今調として、以後の勅撰集の理想となった。

2014近大・法

 平安遷都後の9世紀前半には文章経国の思想が高まり、嵯峨天皇の治世である弘仁年問には勅撰漢詩集である『凌雲集』や『文華秀麗集』が編纂された。ところが、9世紀後半から10世紀になると大陸との関係も変化し、10世紀から11世紀には日本の風土や日本人の嗜好にかなった優雅な国風文化が生まれた。とくにかな文学が発達し、e醍醐天皇の時代には最初の勅撰和歌集である『[ 4 ]』が編纂された。その編者のひとりである[ 5 ]は、『土佐日記』の著者としても有名である。

 

問4 空欄[ 4 ]に入れる語句として最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。

 1.経国集 2.古今和歌集 3.和漢朗詠集 4.新古今和歌集

 

問5 空欄[ 5 ]に入れる人名として最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。

 1.小野篁 2.在原業平 3.菅原道真 4.紀貫之


(答:4→2、5→4)

 

〈2015立命館大・全学部

〔1〕「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける」というのは、有名な『古今和歌集』の仮名序の冒頭の部分である。実は『古今和歌集』にはもう一つ、漢文による真名序があるのだが、この二つの序の存在が、漢字から仮名文字が生まれ、この時代に新しい文化が生み出されたことをよくあらわしている。また仮名はすぐれた女性の文学を生み出す原動力になったが、それは世界的にもめずらしい。この点について『古今和歌集』の編者でもあった[ A ]は、「をとこもすなる[ B ]といふものを、をむなもしてみんとてするなり」という印象的な文章を記した。和歌も貴族社会に広がり、ときの権力者たちもしばしばそれを娯楽として楽しんだ。「此の世をば我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも 無しと思へば」という[ C ]の有名な歌もそうした座興の場で詠まれたものである。       

 

(b)空欄[ A ]にあてはまる、もっとも適当な人名を答えよ。
(c)空欄[ B ]にあてはまる、もっとも適当な語句を答えよ。
(d)空欄[ C ]にあてはまる、もっとも適当な人名を答えよ。

 

(答:A紀貫之、B日記、C藤原道長)

 

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日宋貿易

2016-02-07 | 『新世界史頻出年代暗記』

〈2015早大・社会科学

問8【史料2(894年菅原道真遣唐使廃止建白)】の時期より後の日本と大陸との交流に関する記述として、適切なものはどれか。2つ選べ。

 イ 宋による中国の統一後に国交が再開された。
 ロ 宋の商人が来航し、博多を拠点として貿易を行った。
 ハ 刀伊の入寇により宋との外交関係が途絶えた。
 ニ 輸入品としては陶磁器や書籍、輸出品としては香料や薬品があった。
 ホ 大陸から輸入された品々は唐物と呼ばれ、都の貴族に珍重されるようになった。

(答:ロ・ホ ※イ.日宋間に最後まで正式国交はない、ハ日宋間の往来はあった、ニ輸出品は金・水銀・真珠など)〉

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983(永観元)年 〈然、入宋〉★

2016-02-07 | 『新日本史頻出年代暗記』

 

 

●平安時代(花山天皇)

 

Buddhist monk Chounenvisited Song.

悔み然 宋写生。

         983年  然 入宋 釈迦如来像 

 

平安時代中期の僧然は983年、入宋。五台山を巡礼し、釈迦如来像を請来した。

然が持ち帰った釈迦如来像は、然が宋にわたる前に伽藍の建立を誓った愛宕山麓の地に清凉寺が建立され、然の没後に完成してそこに安置され、あつい信仰を獲得、経典は摂関家にささげられた。

 

〈2015慶大・文

( M )年、遣唐使派遣計画は正式な決定のないまま中止されたが、その後も中国文化への関心は続き、たとえば( N )は中国に渡り、釈迦如来像を将来した。胎内に五臓などが納入された同像は現在、京都の( O )に安置されている。」※語群中に適当な語句がない場合は0を記入せよ。

 1.884   2.901   3.918
 4.成尋  5.然  6.円仁
 7.清涼寺 8.醍醐寺 9.法界寺

(答:M0※894年、N5、O7)〉

〈2014同志社大・文:「(2)907年に東アジアの政治と文化の中心であった唐はほろび、中では五代の諸王朝ののち、宋(北宋)によって再統一が果さされた。日本は宋と正式な国交を開こうとはしなかったが、大陸への関心がおとろえたわけではなかった。
 日本人の渡航は禁止されていたが、巡礼を目的とする僧には許されることがあったので、10世紀末の然と11世紀後半の( ク )らは、宋からやってきた商人の船に同乗して大陸にわたり、宋の文物を日本にもたらした。なかでも然が持ち帰った釈迦如来像は京都嵯峨の( f )に安置され、あつい信仰を獲得、経典は摂関家にささげられた。一方、宋の商人は博多に書籍、陶磁器や薬品などをたずさえてやってきて、かわりに金や水銀、真珠などを得て帰った。宋の商人がとくに望んだ金は奥州の特産であったことから、奥州への関心が高まった。

【設問ク】空欄( ク )は天台宗の僧で、1072年に入宋し、天台山・五台山を巡礼して多くの経典などを日本に送ったが、善慧(ぜんけい)大師の号を賜り宋に残った。この人物を、次のうちから1つ選べ。

 1.成尋 2.俊寛 3.徳一 4.源信

【設問f】空欄( f )に入る寺院名を漢字で記せ。

(答:ク1、f清涼寺)

〈2013青山学院・経営:「
 下線部m東大寺の学僧で五台山を巡礼し、宋から釈迦像を持ち帰った僧は誰か。下から選び、その番号をマークしなさい。

 1.円仁 2.円珍
 3.然 4.最澄」

 (答:3)〉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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985(寛和元)年 〈源信、『往生要集』を著す〉★

2016-02-07 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

●平安時代(一条天皇)

The Ōjōyōshū was an influential medieval Buddhist text composed by Buddhist monk Genshin.

苦(く)は御免です 泳げんし。

        985年               『往生要集』   源信 

 

985年、横川の恵心院に隠遁していた源信浄土教の観点より、多くの仏教経典論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書、『往生要集』を著して死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創った。

また、『往生要集』が撰述された直後に、北宋の周文徳という人物が本書を持って天台山国清寺に至り、会昌の廃仏以来、五代の混乱によって散佚した教法を、中国の地で復活させる機縁となったことが特筆される。

 

 

 

 

 

〈2014早大・国際教養

6 下線郎f造寺・造物・写経等が盛んになりに関連する記述として、誤っているものはどれか。1つ選べ。
  
 ア 豊後国の豪族は富貴寺大堂を建てた。
 イ 定朝は寄木造による和様の仏像様式を大成した。
 ウ 藤原頼通は宇治に平等院阿弥陀堂を建てた。
 エ 藤原清衡は平泉に中尊寺阿弥陀堂を建てた。
 オ 源信は『往生要集』を書き、醍醐寺を建てた。

(答:オ ※醍醐寺の創建は違う)

〈2014早大・教育

問6 下線部e「濁世末代」から「往生極楽」するためには、念仏などの実践がもっとも有効な方法であるいう教えに関連する説明で正しいものはどれか。
 ア 慶滋保胤は『日本往生極楽記』を著して、これから念仏往生しそうな人々を記録にとどめた
 イ 比叡山の源信が著した『往生要集』は、宋に送られて広まったと言われている。
 ウ 六波羅蜜寺に伝わる空也像は、笏と太鼓をもって口から「南無阿弥陀仏」を唱えている立ち姿である
 エ 釈尊の死後、正法・中法の世についで末法の世がおとずれるという思想も浄土信仰を加速した
 オ 関白を務め終えた藤原道艮が晩年に建立した法成寺は、阿弥陀堂を中心とした壮麗なものであり、道長はここで死を迎えた

(答:イ ※ア『日本往生極楽記』は、これから念仏往生しそうな人々ではなく、往生を遂げた人々の伝記を集めたものである、ウ六波羅蜜寺に伝わる空也像は笏と太鼓ではなく、胸に下げた太鼓を鳴らす撞木を右手に、左手には鹿の角をさした杖をもっている、エ正法・像法・末法の順である、オ藤原道長は関白には就任していない)

〈2012法政大・法営文

問6.下線部A「末法思想」について、80字以内で説明せよ。」

〔解答例〕釈迦の死後、正法・像法を経て末法という乱世に突入するという仏教の予言思想。1052年に末法に入ると考えられ、浄土教信仰が強まる要因となる。(67字)〉

 
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