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漢詩文集

2017-04-22 | 『新世界史頻出年代暗記』



[ゴロ]凌さんが加齢臭だと/淳は警告


雲集(りょううんしゅう)・嵯峨天皇)(文麗集(ぶんかしゅうれいしゅう))(淳和(じゅんな)天皇・経国集(けいこくしゅう))

[句意]凌さんが加齢臭元だと淳は(皆に)警告した、という句。

[ポイント]           
1.嵯峨天皇の命で、凌雲集文華秀麗集が、淳和天皇の命で、経国集がつくられた。

[解説]
1.勅撰漢詩文集とは、天皇の命により撰定・編纂された漢詩文集。嵯峨淳和両天皇の在世中に撰集された3勅撰漢詩文集がある。嵯峨天皇をはじめ宮廷の漢詩文への強い意欲を反映している。

2.凌雲集(814年成立)は、1巻。最初勅撰漢詩文集(最初の漢詩文集は懐風藻)。嵯峨天皇の命で、小野岑守(みねもり)(778~830)・菅原清公(すがわらのきよきみ)らが782~814年間の24人の漢詩91首を収載。

3.文華秀麗集(818年成立)は、3巻。嵯峨天皇の命で藤原冬嗣・菅原清公(きよきみ)(770~842)らが編集。嵯峨天皇自ら作品を撰定。「凌雲集」にもれた28人の漢詩143首を伝える。

4.経国集(827年成立)は、20巻(現存6巻)。淳和天皇の命で、良岑安世(よしみねのやすよ)(785-830)らが編集。漢詩・漢文を集録。707~827年間の178人の作品。現存は詩211首(もと917首)、賦17編、対策26編。

〈2016立命館大・全学部2/4:「
問f 下線部5勅撰漢詩集が相次いで編纂されたに関連して、淳和天皇の命により良岑安世らにより編纂された勅撰漢詩集として、もっとも適当なものを下から一つ選べ。

 あ『凌雲集』 い『文華秀麗集』
 う『経国集』 え『性霊集』」

(答:う)〉〈2014近大・法:「


B 平安遷都後の9世紀前半には文章経国の思想が高まり、c[ 3 ]の治世である弘仁年間には勅撰漢詩集である『凌雲集』や『文華秀麗集』が編纂された。ところが、9世紀後半から10世紀になると大陸との関係も変化し、10世紀から11世紀には日本の風土や日本人の嗜好にかなった優雅な国風文化が生まれた。とくに  dかな文学が発達し、e醍醐天皇の時代には最初の勅撰和歌集である『[ 4 ]』が編纂された。その編者のひとりである[ 5 ]は、『土佐日記』の著者としても有名である。

問3 空欄[ 3 ]に入れる天皇名として最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。

 1.桓武天皇 2.平城天皇
 3.嵯峨天皇 4.仁明天皇」

(答:3)〉

問4 空欄[ 4 ]に入れる語句として最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。

 1.経国集 2.古今和歌集
 3.和漢朗詠集 4.新古今和歌集

(答:2)〉

問5 空欄[ 5 ]に入れる人名として最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。

 1.小野篁 2.在原業平
 3.菅原道真 4.紀貫之」

(答:4)〉

問8 下線部c[ 3 ]の在位中に起こったできごととして最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。

 1.勘解由使を設置し、国司交代の事務手続きを厳しくして不正を防止した。
 2.徳政論争とよばれる議論を裁定し、造都と征夷の二大事業を打ち切った。
 3.東北や九州を除いて軍団と兵士を廃止し、郡司の子弟や有力晨民を健児として採用した。
 4.天皇の命令をすみやかに太政官へ伝えるために、蔵人頭を設けた。」

(答:4)

問9 下線部dかな文学についての文として誤りを含んでいるものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。

 1.かな文学が発達する前の9世紀前半には、漢文学の隆盛で和歌はまったく作られなかった。
 2.かな文学に用いられた平がなは、万葉がなの草書体を簡略化して成立した。
 3.広くかな文字が使用されるようになると、『竹取物語』や『伊勢物語』などのかな文学の作品も次々と著されるようになった。
 4.かな文字で著された宮廷女流文学の代表的な作品には、清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』がある。」

(答:1)

問10 下線部e醍醐天皇の在位中に起こったできごととして最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。

 1.阿衡の紛議 2.遣唐使の廃止
 3.安和の変 4.延喜の荘園整理令の発布」

(答:4)〉

〈2012早大・文化構想:「
 下線部c平安初期には漢詩文集に該当しないものはどれか。2つ選べ。

 ア「文華秀麗集」 イ「懐風藻」
 ウ「経国集」   エ「凌雲集」 
 オ「日本霊異記」

(答:イ・オ)〉


河村瑞賢

2017-03-31 | 『新世界史頻出年代暗記』

河蛙の味も西東。

河村瑞賢(かわむらずいけん))(川改)(東廻り航路西廻り航路)


[ポイント]

1.河村瑞賢は、東廻り航路西廻り航路を開き、また淀川を改修した。

[解説]

1.河村瑞賢(1618~1699)は、伊勢国(三重県)の貧農出身の豪商。江戸明暦の大火のとき、木材の買い占めで巨富を得る。実際の工事を重ねる毎にノウハウを蓄積し卓越した土木家となる。やがて幕命・諸藩の命を受け数々の大土木工事を完成し、近世海運隆盛の基盤をつくり、その功績は後世に称えられる。

2.その2大工事が、西廻り航路東廻り航路の開発と、安治川(あじがわ)(大阪府)の開削工事。

3.東廻りは、出羽酒田を起点とし、津軽海峡を経て江戸に至る。西廻り酒田を起点とし、日本海沿岸諸港をめぐり瀬戸内海を経て大坂に至るルート。これらを整備し、江戸と大坂を中心とする全国規模の海上交通網を完成させた。これらの寄港地として港町が発達した。

4.後者は、淀川の水を安治川の蛇行部分を開削して、ストレートに海に流すことで、蛇行が原因で水害が起こるのを防ぎ、淀川水運を確立したもの。


〈2016関西学院大学・全学部2/2

問7 a・bの正誤を判断せよ。

 a 17世紀後半に河村瑞賢によって青森から江戸に至る東廻り海運が整備されると、出羽・越後諸藩の年貢米の大半は東廻り海運を経て江戸に廻漕された。

 b 近世後期に絹織物の生産地として発展した上野国は、五街道のなかの奥州道中と日光道中とが通る交通上の要衝でもあった。」

(答:a×東廻り→西廻り、b×上野→下野)〉


〈2016明大・情報

問1 下線部ア17世紀後半の時期の説明として、もっとも正しいものを、つぎの1~4のうちから1つ選べ。

 1.幕府は、糸割符制度を設けて、貿易統制を始めた

 2.上方を拠点とする井原西鶴が『好色一代男』を刊行した
 3.角倉了以は西廻り航路を整備し、北前船が就航しはじめた
 4.江戸の山東京伝が『仕懸文庫』を著した」

(答:2 ※1×糸割符制度(1604)、3×角倉了以→河村瑞賢、4×山東京伝(1761~1816))〉


〈2015大学入試センター

問2 下線部bに関連して、近世の西日本の流通に関して述べた次の文X・Yと、それに該当する人名a~dとの組合せとして正しいものを、下の1~4のうちから1つ選べ。

 X 大坂と東北地方とを結ぶ、西廼り航路(海運)を整備した。

 Y 高瀬川の開削を行い、内陸部の河川舟運の発達に寄与した。

 a河村瑞賢 b紀伊国屋文左衛門

 c田中勝介 d角倉了以

 1.X-a、Y-c 2.X-a、Y-d

 3.X-b、Y-c 4.X-b、Y-d」

(答:2)」〉


〈2014明大・農(食料環境政策)

問10 下線部キ松前藩に関連して、江戸時代の日本国内における海上交通および流通経済に関して記述した文章として、適切でないものを一つ選べ。

 A 江戸では、米や雑穀をはじめとする地廻り物を扱う問屋が結成され、江戸地廻り経済圏が形成された。

 B 17世紀後半になると、河村瑞賢によって南海路が整備され、全国的な海上交通網が完成した。
 C 18世紀末ごろに、日本海の北前船や尾張の内海船などの廻船業が各地で発達した。
 D 大坂・江戸間には、菱垣廻船や樽廻船が定期的に運航され、大坂から木綿・油・酒などを江戸へ運んだ。」

(答:B ※江戸-大坂間の南海路は河村瑞賢の開いたものではない)〉


〈2014明大・国際日本(国際日本)

問7.農産物の全国的な流通が盛んになっていく条件として、交通網の発達は不可欠であった。江戸時代の交通網の発達について述べた以下の文章A~Cについて、その正誤の組み合わせとして正しいものを、下記の1~4の中から選びなさい。

 A:東海道、中山道、山陽道、甲州道中、奥州道中の五街道は、重要な幹線道路として幕府の直轄下に置かれ、17世紀半ばから道中奉行によって管理された。

 B:五街道や脇街道などの主要な街道には宿駅が多く置かれ、流通の要所となった。宿駅には、本陣、旅籠、問屋場などが設けられた。

 C:大坂・江戸間では菱垣廻船、樽廻船が運航するようになり、17世紀後半には江戸の商人だった角倉了以によって東廻り海運・西廻り海運が整備された。

 1.A〇、B×、C〇

 2.A×、B× C×
 3.A〇、B〇、C×
 4.A×、B〇、C×」

(答:4 ※A×奥州道中→日光道中、C×:角倉了以→河村瑞賢)〉


〈2013早大・文化構想

 下線f(江戸時代になると太平洋・日本海にも広く廻船による海運が発達する)に関連する説明として、正しいものはどれか。1つ選べ。

 ア 蝦夷地・東北の物資を、松前・日本海沿岸・下関を経由して上方に運ぶ松前船が盛んに往来した。

 イ 江戸時代初期に堺商人によって樽廻船が創始され、上方と江戸の間を回漕した。

 ウ 樽廻船は十組問屋と提携しに酒荷を上方から江戸へ輸送して菱垣廻船を圧倒した。

 エ 江戸の商人河村瑞賢は、諸藩による海運整備の動きの高まるなか、東廻り・西廻り両航路を改良・整備した。

 オ 南海道を通じて上方から江戸にもたらされる物資は「下り物」とも呼ばれた。

(答:エ ※ア×北前船の誤り、イ×1730年結成、ウ×十組問屋脱退の酒問屋が結成、オ×南海路の誤り)〉


〈2012同志社大学・文経済

 物資の流通には交通網の確立を必要とする。幹線道路としては江戸に通じるいわゆるイ五街道をはじめとして、全国各地に街道筋が開発・整備されるようになる。街道筋には宿駅を設けて人馬を常備し、旅籠・一里塚などを整え、各領国を横断する人と物との往還路となった。しかし物資の大量輸送を担ったのは水運である。なかでも17世紀後半になって開発・整備されたオ.東廻り・西廻り海運は、東北地方あるいは松前と江戸とを、また九州、瀬戸内海沿岸諸国ばかりでなく北陸・東北と大坂とを結びつけたのであって、全国的な流通海路を作り上げた点で画期的であった。廻船の技術的発達とともに海運はさかんとなり、それまでの流通路であった内陸部の都市の発展は停滞するが、海運の要所にあたるカ港湾都市は飛躍的に発展した。また、海路に接続するキ河川交通もまた全国各地で開発・整備され物資の輸送を一層促進させた。

問オ.下線部オについて、幕府の命によりこの2つの海運を改良・整備したのは誰か、その人物名を記せ。


問カ.下線部カについて、1672年に西廻り海運が整備されて、庄内地方および最上川流域の産物の集散地と、して発展した出羽国の都市はどこか、その地名を記せ。


問キ.下線部キについて、角倉了以が大堰川を開削して発達した、丹波より京都への輸送水路を何と呼ぶか、次の1~4の中から選べ。


 1.高瀬川水運 2.淀川水運
 3.保津川水運 4.富士川水運

(答:問オ河村瑞賢〔瑞軒〕、問カ酒田、問キ3 ※2×淀川水運は河村瑞賢)〉


勘解由使と検非違使

2017-03-27 | 『新世界史頻出年代暗記』

 桓武の〈か〉 入ろう、佐賀の良家にね。

816年 嵯峨天皇 検非違使 令外官


検非違使(けびいし)・嵯峨天皇)(勘解由使(かげゆし)・桓武天皇)

[ポイント]
1.桓武天皇勘解由使を、嵯峨天皇検非違使を設置した。

[解説]
1.勘解由使(797)は、桓武天皇が設置した令外官で、国司の不正を審査する。国司交代の際、後任者は新任者から在職中不正がなかった旨の証明書(解由状)を受け取る。この書類の審査を行い交代の不正を防ぐのが勘解由使

2.検非違使(816)は、嵯峨天皇が設置した令外官で、京中の犯罪者検挙、風俗取り締まり、訴訟・裁判に当る役所で、都の警察裁判権を司る要職。検非違使庁を開設。後に国々にも国検非違使を設置。

〈2014明大・情報コミュ(情報コミュ(A))

 下線部(カ)桓武天皇から嵯峨天皇の時期の政治動向として、もっとも正しいものを、次の1~4のうちから1つ選べ。

 1.藤原氏らにより、道鏡が下野薬師寺に追放された

 2.早良親王の怨霊の跳梁を恐れ、長岡京遷都は実行されなった
 3.藤原薬子が自害したことで、一時的に藤原北家の勢力は衰えた
 4.平安京の治安維持を担当する検非違使が設置された

(答:4)

〈2013青山学院・文

 809年に即位した嵯峨天皇は、翌年に発覚した薬子の変を平定し、蔵人頭や[ d ]などの令外宮によって律令の市制に変革を加えた。」

問7.空欄[ d ]に入るもっとも適切な語句を、次の選択肢の中から選べ。

 1.按察使  2.皇后官職

 3.勘解由使 4.検非違使
  
(答:4)〉

〈2012早大・文化構想

 桓武天皇は長岡京を経て、平安京に遷都したが、このとき中央の豪族たちも大和の地を離れて都市貴族化し、さらに都市・平安京を舞台に摂関時代の政治・文化が営まれていった。都の治安維持などには[ A ]があたり、都では[ B ]とよばれる和風の貴族住宅が広まった。」

問2.空欄Aに該当する語句を、漢字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。

問3.空欄Bに該当する語句を、漢字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。

(答:問1検非違使、問3寝殿造)


角倉了以

2017-03-26 | 『新世界史頻出年代暗記』

墨の料理酒 高い富士。

角倉了以朱印船貿易 高瀬川(たかせがわ)・富士川)



[ポイント]

1.角倉了以は、富士川高瀬川を開削して舟運(しゅううん)を開いた。

[解説]

 角倉了以(1554~1614)は、京都出身の初期豪商の一人で、朱印船貿易河川土木事業に活躍した。まず幕府の許可を得て、保津川下流の大堰(おおい)の開削に成功。これによって、丹波の山奥からの物資搬送を可能にした。続いて富士川天竜川の通船工事に成功。もっとも著名なものは晩年の高瀬川開削。京都から細い運河高瀬川を掘って淀川へつなぎ、大坂までの水運を飛躍的に発展させた。いずれも巨額の私財を投入しているが、通船料による収益を独占することで莫大な利益を上げた。

〈2016明大・情報〉

問1 下線部ア)17世紀後半の時期の説明として、もっとも正しいものを、つぎの1~4のうちから1つ選べ。

 1.幕府は、糸割符制度を設けて、貿易統制を始めた

 2.上方を拠点とする井原西鶴が『好色一代男』を刊行した
 3.角倉了以は西廻り航路を整備し、北前船が就航しはじめた
 4.江戸の山東京伝が『仕懸文庫』を著した」

(答:2 ※1×糸割符制度(1604)、3×角倉了以→河村瑞賢、4×山東京伝(1761~1816))〉


〈2016上智大・法(地球)済(営)総人(社福)

問3 次の文章は、都市と町衆について説明したものである。文中の空欄(ア~オ)に入る適切な語句をあとの語群から1つずつ選びなさい。

 都市のなかには、富裕な商工業者である町衆を中心とした自治的団体である町が生まれた。町はそれぞれ独自の町法を定め、住民の生活や営業活動を守った。京都でも、有徳人などとよばれた金融業者の( ア )や酒屋などの商人が中心になって町衆の文化が育った。町が集まって町組という組織がつくられ、さらに複数の町組が集まって、公家・武家が多い上京と商工業者の町である下京という大きな惣町が形成され、上京と下京は( イ )通りでむすばれていた。町組は、町衆のなかから選ばれた( ウ )によって自治的に運営され、応仁の乱で荒廃した京都は、これらの町衆によって復興され、御霊会として行われていた( エ )祭も、町衆たちの祭として再興された。その経済力は近世にも衰えることはなく、嵯峨の( ア )出身で、朱印船貿易に従事し、水路の開発にも貢献した( オ )や、幕府の呉服を扱い朱印船貿易でも活躍した茶屋四郎次郎などが出た。」

(答:ア土倉、イ室町、ウ月行事、エ祇園、オ角倉了以 ※原問題には30項の選択肢あり)〉

〈2015大学入試センター

問2(中略)近世の西日本の流通に関して述べた次の文X・Yと、それに該当する人名a~dとの組合せとして正しいものを、下の1~4のうちから1つ選べ。

 X 大坂と東北地方とを結ぶ、西廻り航路(海運)を整備した。

 Y 高瀬川の開削を行い、内陸部の河川舟運の発達に寄与した。

 a河村瑞賢 b紀伊国屋文左衛門

 c田中勝介 d角倉了以

 1.X-a、Y-c 2.X-a、Y-d

 3.X-b、Y-c 4.X-b、Y-d」

(答:2)〉


〈2014早大・国際教養

問10 下線部gの人物角倉了以について、正しい説明はどれか。すべて選べ。

 ア 幕府の呉服師を務めた。

 イ 朱印船を派遣した。
 ウ 西廻り航路・東廻り航路を開通させた。
 エ 菱垣廻船を就航させた。
 オ 高瀬川・保津川などの水路を開削した。」

(答:イ・オ)〉


〈2014明大・国際日本(国際日本)

問7.農産物の全国的な流通が盛んになっていく条件として、交通網の発達は不可欠であった。江戸時代の交通網の発達について述べた以下の文章A~Cについて、その正誤の組み合わせとして正しいものを、下記の1~4の中から選びなさい。

 A:東海道、中山道、山陽道、甲州道中、奥州道中の五街道は、重要な幹線道路として幕府の直轄下に置かれ、17世紀半ばから道中奉行によって管理された。

 B:五街道や脇街道などの主要な街道には宿駅が多く置かれ、流通の要所となった。宿駅には、本陣、旅籠、問屋場などが設けられた。

 C:大坂・江戸間では菱垣廻船、樽廻船が運航するようになり、17世紀後半には江戸の商人だった角倉了以によって東廻り海運・西廻り海運が整備された。

 1.A〇、B×、C〇

 2.A×、B× C×
 3.A〇、B〇、C×
 4.A×、B〇、C×」

(答:4 ※A×山陽道→日光道中、C×:角倉了以→河村瑞賢)〉

〈2014立大・現代心理(映像身体)・社会・コミュ福祉(福祉)

 江戸時代には水上交通もいちじるしい発達をとげた。大量の物資を安価に運ぶには、陸路よりも海、河川、湖沼などを利用した水上交通の方が適していた。瀬戸内海は物資や旅行者に多く利用されたが、江戸~大坂間をはじめ廻船による貨物の運搬は盛んで河川・湖沼も運行の可能なかぎりは利用された。( リ )は富士川や高瀬川などを開墾し、河川舟運をひらいた。海上交通では、17世紀前半から菱垣廻船が運行を開始し、その後樽廻船の運行も始まった。」

(答:リ角倉了以)〉


〈2012立大・全学部

 また、〈 く 〉による富士川や高瀬川の開削などは、内陸部の物資を舟運によって河口に運び出すことを可能とし」

(答:く角倉了以)〉


〈2012同志社大学・文経済

問キ.角倉了以が大堰川を開削して発達した、丹波より京都への輸送水路を何と呼ぶか、次の1~4の中から選べ。

 1.高瀬川水運 2.淀川水運
 3.保津川水運 4.富士川水運


(答:1※「た」)〉


〈2011近畿大・法済営

問5 下線部b角倉家に関連して、角倉了以についての文として適当でないものはどれか。次のうち一つを選べ。

 1 朱印船貿易をおこなった初期豪商であった。

 2 樽廻船の航路を整備した。
 3 高瀬川の開削をおこなった。
 4 富士川の開削をおこなった。

(答:2)


嵯峨天皇

2017-03-25 | 『新世界史頻出年代暗記』


[ゴロ]小6薬子(くすこ)と/高2(りよう)さんは/けばいドクダミ黒カレーを/食え
(新撰(しょうじろく)・薬子(くすこ)の変)(弘仁(こうにん)格式(きゃくしき)・雲集・筆)(検非違使(けびいし)・徳丹城・人(くろうど)・文集)(公営田(くえいでん))


[ポイント]

1.嵯峨天皇は、薬子の変を鎮め蔵人所検非違使を設置、『新撰姓氏録』『弘仁格式』『凌雲集』『文華秀麗集』を編纂、文室綿麻呂を派遣し徳丹城を築き、三筆の一人である。

[解説]

1.嵯峨天皇(786~842、位809~23)は、即位ののち810(弘仁元)に、平城京に還都しようとする兄の平城太上天皇と対立し、「二所朝廷」とよばれる政治的混乱を生じた。結局、嵯峨天皇側が迅速に兵を出して勝利し、太上天皇はみずから出家し、その寵愛を受けた式家藤原薬子は自殺、薬子の兄藤原仲成は射殺された(薬子の変、平城太上天皇の変ともいう)。

2.この事件の際に、天皇の命令をすみやかに太政官組織に伝えるために、秘書官長としての蔵人頭を設け、藤原冬嗣(北家)らを任命した。その役所が蔵人所(810設置)で、それに属する蔵人はやがて天皇の側近として宮廷で重要な役割を果たすことになった。


3.また嵯峨天皇は、平安京内の警察にあたる検非違使を、816年に設けた。検非違使は、のちには裁判もおこなうようになり、京の統治をになう重要な職となっていった。


4.嵯峨天皇は、氏姓秩序の混乱を収めるため『新撰姓氏録』(814成立)を、法制の整備のため『弘仁格式』(820成立)を編纂した。


5.朝廷は財政難に苦しみ、小野岑守(おののみねもり)の建議により大宰府の財源として、公営田が設けられた(823設置)。


6.嵯峨天皇は、蝦夷征討に文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)を派遣、最後の城柵の徳丹城(とくたんじょう)を築いた。


7.嵯峨天皇は、初の勅撰漢詩文集である『凌雲集』(814成立)を、ついで『文華秀麗集』(818成立)を編纂させ、三筆の一人として数えられる能筆でも知られる。

〈2014明大・情報コミュ(情報コミュ(A))

下線部(カ)桓武天皇から嵯峨天皇の時期の政治動向として、もっとも正しいものを、次の(1)~(4)のうちから1つ選び、マーク解答欄に記入しなさい。

(1) 藤原氏らにより、道鏡が下野薬師寺に追放された(×770年)
(2) 早良親王の怨霊の跳梁を恐れ、長岡京遷都は実行されなった(×長岡京へは建設途上に遷都。しかし建設が放棄され平安京へ遷都された)
(3) 藤原薬子が自害したことで、一時的に藤原北家の勢力は衰えた(×薬子は式家)
(4) 平安京の治安維持を担当する検非違使が設置された(〇)

〈2014近大・法

平安遷都後の9世紀前半には文章経国の思想が高まりに、[  ]の治世である弘仁年間には勅撰漢詩集である『凌雲集』や『文華秀麗集』が編纂された。問3 空欄に入れる天皇名として最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。

 1.桓武天皇 2.平城天皇
 3.嵯峨天皇 4.仁明天皇
(答:3)〉

〈2013青山学院・文

809年に即位した嵯峨天皇は、翌年に発覚した薬子の変を平定し、蔵人頭や[ d ]などの令外官によって律令の官制に変革を加えた また、自らは漢詩文を多く残し、三筆の一人に数えられるなど、宮廷を中心とする唐風文化の隆盛をもたらした。彼の後を継いで823年に即位した淳和天皇の時代には、『養老令』の注釈書である『令義解』や、勅撰漢詩文集の『[ ウ ]』が編纂されたことでも知られている。」
(答:d検非違使、ウ経国集 ※稽古柔軟。)

〈2012慶大・文
次の史料(ニ)を読んで、設問に答えなさい。

(ニ)太上天皇、大和国添上郡越部村に至りたまふ。即ち、甲兵、前を遮るを聞きたまひて、行きたまふ所を知らず。…乃ちc.に旋りて剃髪入道したまふ。藤原朝臣( 4 )自殺す。( 4 )は、贈太政大臣( 5 )の女、中納言藤原朝臣縄主の妻なり。…

問1 史料(4~5)に当てはまる語句を記しなさい。
(答:4薬子、5種継)

問5 史料(ニ)の下線c「宮」の具体的な名称を記しなさい。
(答:c平城京(平城宮))

問6 史料(ニ)の事件の前年に即位したのが嵯峨天皇である。嵯峨天皇の時代を、次の3つの語をすべて用いて90字以内でまとめなさい。

 蔵人所 検非違使 弘仁格式」

 (解答例)
蔵人所検非違使の設置や弘仁格式の編纂など、実状に合わせた律令官制・法制再建を図り、また漢詩文集の勅撰を進め、自ら三筆の一人に数えられるなど、唐風文化の隆盛に努めた。(83字)



中山道

2017-03-24 | 『新世界史頻出年代暗記』


「中山道 碓氷」の画像検索結果
中板死もす 寄付も草

中山道 板橋 下諏訪 草津 守山 木曽福島 

碓氷(うすい)下諏訪(しもすわ))(中山道


[ポイント]

1.中山道は、碓氷木曽福島に関所があり、草津で東海道に合流し、下諏訪で逆に甲州街道が合流してくる。

[解説]

1.中山道は起点の江戸日本橋から草津東海道に合流し、そのあと終点京都まで道を共有。碓氷木曽福島に関所があり、下諏訪(甲州道中終点)で甲州道中が合流してくる。江戸~草津間に67宿、東海道と合流後共通の2宿を加え全69宿

2.甲州道中は、小仏に関所があり、下諏訪で中山道に合流する。


3.日光道中奥州道中栗橋に関所があり、2つは宇都宮で分かれ奥州道中の方は白川に至る。日光道中の終点はもち日光


〈2016明大・情報:「

問7 下線部キ宿場のうち、中山道に存在するものとして、もっとも正しいものを、つぎの1~4のうちから1つ選べ。

 1.栗橋 2.守山 3.甲府 4.千住」


(答:2)〉


〈2016立教大・済コミュ福観光:「

問1.これ江戸幕府による国内交通網の整備に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.主な関所として、東海道に箱根・新居、中山道に碓氷・小仏、甲州道中に木曽福島が設けられた

 b.18世紀前半に酒荷専用の菱垣廻船の運航が開始された
 c.宿駅に置かれた本陣は、親藩と譜代大名、幕臣のみが利用できた
 d.五街道は幕府の直轄下に置かれ、17世紀半ばから道中奉行によって管理された」

(答:d〇 ※a×木曽福島→中山道、小仏→甲州道中、b×菱垣廻船→樽廻船、c×大名はすべて可)〉


〈2014立大・現代心理(映像身体)・社会・コミュ福祉(福祉)

 徳川家康は京都中心の交通体系を江戸中心に再編し、1601年には東海道の宿駅を定め伝馬制度を実施した。さらにこれを8中山道などにも及ぼし、幕府が直接管理する五街道を整備し、1659年に( チ )奉行をおいて管轄させた。また民間の商品輪送が増えたため脇街道と呼ばれる主要街道が全国的に整備された。五街道や脇街道には宿駅がおかれ、治安維持のために関所が設けられた。伝馬制度は旅行者には多くの便益を与えたが、人足や馬を徴発される宿や助郷村の負担は大きかった。

問8.これ中山道に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.新居に関所を設けた
 b.江戸~京都間に53宿をおいた
 c.江戸~草津間に67宿をおいた
 d.小仏に関所を設けた」

(答:チ道中、問8c ※c〇江戸~草津間に67、東海道と合流後共通の2宿を加え全69宿、ab×東海道、d×甲州道中)〉


〈2012同志社大学・文経済

 物資の流通には交通網の確立を必要とする。幹線道路としては江戸に通じるいわゆるイ五街道をはじめとして、全国各地にウ街道筋が開発・整備されるようになる。エ街道筋には宿駅を設けて人馬を常備し、旅籠・一里塚などを整え、各領国を横断する人と物との往還路となった。

問イ.五街道の1つで、江戸日本橋から浦和、高崎、軽井沢、塩尻、木曾福島、垂井などを経て草津に至る街道の名称を記せ。


問ウ.脇往還の1つで、追分宿から小諸、善光寺、柏原などを経て春日新田を右折し出雲崎に至る街道の名称を次の1~4の中から選べ。

 1伊勢街道 2中国街道 3北国街道 4山陰道

問エ.宿場において輸送荷物の継ぎ送りや人馬の継ぎ立ての差配などの業務を行った事務所を何というか、その名称を記せ。」

(答:イ中山道、ウ3、エ.問屋場)〉


1615(元和元)年 〈一国一城令、武家諸法度、禁中並公家諸法度の制定〉★

2017-03-23 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

●江戸時代(後水尾天皇 徳川秀忠)

Shogunate promulgates Bukeshohatto to control daimyo, and Kinchu narabini kuge shohatto as the leagal basis for bakufu control of the imperial court.

異論(いろん)以後無し 武家や公家。

   1615 以心宗伝 一国一城令 大坂夏の陣 武家諸法度 禁中並公家諸法度 

 

1615年、江戸幕府は大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした直後、一国一城令によって大名の居城を一つに限った。また徳川家康は以心崇伝に起草させ、将軍秀忠の名で発布した武家諸法度によって大名を厳しく統制。さらに禁中並公家諸法度を制定して朝廷をも統制化に置いた。

 

1.林羅山起草の武家諸法度の寛永令1635年)は、4月中の参勤交代の義務化・500石以上の大船建造禁止など定められた。

[解説]
1.家康金地院崇伝(こんちいんすうでん)に起草させ、諸大名を伏見城に集めて2代秀忠の名で発令した武家諸法度元和(げんな)1615年)に始まる。以後将軍の代替わり毎に出される慣例に。大名の心得(文武弓馬の道、専ラ相嗜(たしな)ムベキ事)・新規築城無断修補の禁止・徒党の禁止・婚姻の許可制・参勤交代作法などを規定。

2.3代家光寛永令1635年)では、4月中参勤交代義務づけられ、かつ500石積み以上の大船建造禁止が定められた。起草は林羅山。なお参勤頻度は、対馬宗氏は3年1勤、蝦夷松前氏は6年1勤、水戸家は江戸常駐で無し、などあり、交代月にも例外があった。

3.5代綱吉武家諸法度天和(てんな)(1683年)では、末期養子(まつごようし)の禁止緩和殉死の禁止条項が加えられた。大名の心得が「文武忠孝を励し、礼儀を正すべきの事」となり文治政治への転換を示している。

4.8代吉宗は享保の改革で、1722年、財政窮乏を理由に、大名1万石につき100石上米を取る代わりに参勤を在府半年在国1年半とした(~1729年廃止)。

5.参勤交代の意義:
 従属させられた諸大名は江戸と在国との二重生活による繁忙と経済的困窮に苦しめられ、いっぽう幕府による中央集権的支配に絶大な効果があった。
 他方、江戸文化の地方伝播および全国人心の一体化促進、水陸交通・宿場町の発達、国内市場の形成など文化・経済発展への影響ははかりしれない。

 〈2015早大・文

江戸幕府がa参動交代の制度を定めたのは1635年のことである。大名は将軍から屋敷を拝領したが、藩によってはそのほかに抱屋敷を購入することもあった。江戸藩邸には大名の妻子と、国元へ帰らず江戸で暮らす定府の家臣、ならびに国元からきた藩主とその供奉をした家臣が住んだ。定府の役職の一例として、幕府や他藩との連絡・交渉を行い、諸藩の情報収集にあたった江戸[ A ]があげられる。藩邸には物売りなども訪れたが、住居の長屋に付属した小さな庭で野菜や花を育てる家臣もいた。諸大名の妻子は人質として江戸藩邸に居住しており、その意昧では幕府による大名統制と言えるが、江戸には参勤交代により、日本国中の大名とその家臣が入れ替わり常駐していたわけだから、江戸城に住む将軍と将軍の直臣たる旗本・御家人は、諸大名の軍隊に取り囲まれていたとも言える。

〔問〕

1 下線a参勤交代に関する記述として、誤っているものを1つ選べ。
 ア 参勤交代は原則として江戸と国元に1年ずつ大名を生活させる制度である。
 イ 参勤交代は公事方御定書で定められた。(×武家諸法度寛永令で明文化)
 ウ 参勣交代と江戸での生活には費用がかかり、藩によっては財政困難に陥るところもあった。
 エ 参勤交代の大名行列が多数通る東海道などでは、宿場町が繁栄した。
 オ 参勤交代で江戸へ来た大名は、江戸城に出向いて将軍に挨拶をした。

2 空欄Aに該当する言葉を、漢字3字で記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。

(答:留守居)」〉

〈2014明治大・文(文・史学地理・心理社会)

大名統制の根幹となるのが、1615年(元和元)に制定された武家諸法度である。この武家諸法度は徳川家康が南禅寺金地院の[ b ]に起草させ、秀忠の名で発布され、その後、将軍の代がわりごとに少しずつ修正して出された。[ c ]の時に発布されたそれには、大名が国元と江戸とを1年交代で往復する参勤交代が義務づけられており、将軍と大名の主従関係の確立がみられる。

 bの選択肢:1.隆光 2.契沖
                  3.沢庵 4.天海
                  5.崇伝

 cの選択肢:1.吉宗 2.家光
                  3.綱吉 4.家宣
                  5.家綱

(答:b5、c2)


東海道

2017-03-23 | 『新世界史頻出年代暗記』

都会オツ品荒いハコ。


大津(おおつ)・品川(しながわ))(新居(あらい)・箱根


[解説]

1.東海道は江戸日本橋から京都三条大橋まで。この間53宿場町(品川大津)があり、伝馬役は100人100疋で、関所は、箱根新居にあった。

〈2016立教大・済コミュ福観光〉

問1.これに関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.主な関所として、東海道に箱根・新居、中山道に碓氷・小仏、甲州道中に木曽福島が設けられた

 b.18世紀前半に酒荷専用の菱垣廻船の運航が開始された
 c.宿駅に置かれた本陣は、親藩と譜代大名、幕臣のみが利用できた
 d.五街道は幕府の直轄下に置かれ、17世紀半ばから道中奉行によって管理された」

(答:d〇 ※a×木曽福島→中山道、小仏→甲州道中、b×菱垣廻船→樽廻船、c×大名は外様など種別を問わずすべて利用可)〉


〈2014立大・現代心理(映像身体)・社会・コミュ福祉(福祉)

 徳川家康は京都中心の交通体系を江戸中心に再編し、1601年には東海道の宿駅を定め伝馬制度を実施した。さらにこれを8.中山道などにも及ぼし、幕府が直接管理する五街道を整備し、1659年に( チ )奉行をおいて管轄させた。また民間の商品輪送が増えたため脇街道と呼ばれる主要街道が全国的に整備された。五街道や脇街道には宿駅がおかれ、治安維持のために関所が設けられた。伝馬制度は旅行者には多くの便益を与えたが、人足や馬を徴発される宿や助郷村の負担は大きかった。

問8.これに関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.新居に関所を設けた
 b.江戸~京都間に53宿をおいた
 c.江戸~草津間に67宿をおいた
 d.小仏に関所を設けた」

(答:チ道中、問8c〇 ※ab×東海道、d×甲州道中※「」)


〈2013学習院大学・経済:「

 また、街道宿駅には、公用交通に人や馬を差し出す伝馬役が課せられた。例えば、17世紀中ごろから、東海道の各宿駅には〔イ10人・10疋 ロ20人・20疋 ハ50人・50疋 ニ100人・100疋 ホ200人・200疋〕を常備させる原則となった。」

(答:ニ)〉


徳政相論

2017-03-21 | 『新世界史頻出年代暗記』

徳政相論(論争) 

やれ困ります 緒嗣説く。

805年)(菅野真道(すがののまみち))(藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ))(徳政相論


[ポイント]
1.徳政相論(論争・争論)(805)とは、二大政策(軍事と造作)をめぐり、継続を主張する菅野真道と、反対の藤原緒嗣の論争。

[解説]
1.徳政相論は、東北地方での蝦夷討伐軍事と平安京造営などの造作という桓武天皇時代の二大政策をめぐる論争。二大政策の継続を主張する菅野真道に対し、藤原緒嗣(藤原百川の子、式家)は「天下の民が苦しむ元凶は軍事と造作」と主張。桓武天皇は緒嗣の議を採用、ついに二大事業を打ち切ることにした。桓武天皇は翌年亡くなるのである。

 〈2015慶大・法

次の本文を読み、空欄[1516]~[1718]に入る最も適切な語句を語群より選べ。また、本文中に1か所ある下線部に関連した設問1~3について、それぞれの指示に従って番号を選べ。本文および設問の文中にある空欄[X]、[Y]および[Z]は、問題作成上あえて伏せ字にしたものである。引用した史料の原文は、適宜改めてある。

  旧来の寺院勢力を排除し、新たな皇統に相応しい宮都を求めて、[X]は即位後、平城京から、水陸交通の便が良い長岡京への遷都を断行した。ところが、造長岡宮使に任じられ造営事業の陣頭指揮に当たっていた[Y]が射殺されるという事件が起きた。[Y]は[X]の皇位継承に尽力した[0102]の出身であり、「天皇、甚だこれを委任して、中外の事皆決を取る」と評されるほどの寵臣であった。すぐさま数十人が犯人として捕らえられ、処罰された。万葉歌人として名高い[0304]も、すでに死去していたが、この事件を首謀したものとして官籍から除名された。また、[0506]が事件への関与を疑われ、皇太子の地位を廃されて乙訓寺に幽閉された。[0506]は自ら飲食を断って無実を訴えるも、淡路へ配流される船中で没したと伝えられている。

 この事件そのものが長岡京の造営に影響を与えたかどうかは定かでないが、しばらくしてのちに、皇太夫人であった[X]の生母[0708]や2人の妻が相次いで死亡するなどの不幸が続き、畿内に天然痘が流行するなどの災厄に襲われた。これを[0506]の怨霊の崇りによるものと考えた[X]は、折しも水害に見舞われた長岡京の造営を諦めざるを得なかった。『[Z]』延暦18年2月乙未条によれば、[0910]が[X]に「潜かに奏して」遊猟を□実に葛野の地を視察させたという。そして[X]は再び都を遷すことを決断した。平安京への遷都である。


 ところで、長岡京造営中に[Y]が暗殺され、[0506]が廃太子となった事件は、国史編纂においても取扱いに苦慮した出来事だったようである。

 (弘仁元年9月)丁未、・…… [1112]に載する所の……好からぬ事を、皆悉に破り却て賜いてき。而して更に人言に依りて、破り却てし事を本の如く記し成しぬ。此も亦礼无(な)き事なり。今前の如く改め正せる……。(『[Z]』)
                                           
  省略した前後の記述も参照すると、ここでは、[X]が[0506]の怨霊を畏れて『[1112]』から先の事件に関する記事を削除させたこと、[X]の没後、[Y]の娘[1314]らが人の証言を得てその記事を元のとおりに復活させたこと、それに対して後代の天皇が無礼と評し、改めて削除させていたことが読み取れる。権力者の意向によって国史の内容が変転する様を見せているのである。

 在任中、[X]は、律令制の緩みを正すために、官僚機構の再編成や社会的実情に見合った制度の合理化、民衆の負担軽減に資する政策を行った。しかし、蝦夷征討と平安京造営を二大事業として推し進めたために、結果として国家財政は窮乏し、民衆は疲弊した。政治のあり方を見直すために、[X]は信任が厚い[1516]と[1718]を呼んで議論させた。このときの様子は次の史料に見ることができる。この史料では、空欄[ア]に当たる人物が[1516]であり、空欄[イ]に当たる人物が[1718]である。

 (延暦24年12月)壬寅、……時に[ア]議して云う。方今天下の苦む所は、軍事と造作となり。此の両事を停むれば百姓安んぜむ。[イ]異議を確執し、聴くことを肯んぜず。帝、[ア]の議を善しとす。即ち停廃に従う。有識之を聞きて、感歎せざる莫し。(『[Z]』)                           

  これにより征夷と造都はいったん打ち切られることとなるが、律令国家の支配力拡大に腐心した[X]の治績は、「文華を好まずして、遠く威徳を照す。宸極に登りてより、心を政治に励し、内には興作を事とし、外には夷秋を攘つ。当年の費と雖も、後世頼とす」(『[Z]』大同元年4月庚子条)と評された。

 (答:0102 式家、0304 大伴家持、0506 早良親王、0910 和気清麻呂、

 設問1 次の文章を読み、空欄[1920][2122]に入る最も適切な語句を語群より選べ。

  延暦7年12月、[X]は「坂東の安危、此の一挙に在り」と訓じて征東大将軍[1920]を送り出した。しかし、蝦夷の返り討ちに遭い、政府軍は大敗を喫したのである。この敗戦を受けて[X]は周到に準備を整え、延暦13年、同20年に大規模な派兵を敢行し、いずれも政府軍が勝利を収めた。[X]の征夷事業はこののち、延暦24年にいったん打ち切られることとなるが、弘仁2年には征夷将軍[2122]が率いた遠征によって残る蝦夷も制圧された。およそ38年の長きに及んだ戦いがようやく終息に向かったのであった。

 設問2 次の[01]~[05]の文章のうち、令外官の職務や組織に関する説明として正しいものを選び、その番号を解答欄[2324]にマークしなさい。

 [01]中納言は、天皇に近侍して奏上・宣下に当たるものとして、大納言の定員が削減されたことにともなって設置さ
れた。大納言に準じる地位を与えられ、朝政に参議し、大納言と同様に大臣の職務を代行することもあった。
(×大納言とちがい、大臣不在の際、職務を代行できなかった)

 [02]按察使(あぜち)は、地方行政の監察機関としての役割を担うものとして設置された。当初は畿内を除いた全国の国守が兼帯
し、複数の隣国を互いに巡察した。国司の不正を摘発し、優良な国司を中央に報告することなどを主な任務とした。
(×全国の国守ではなく、数カ国のうちから1人の国守が任命される)

 [03]勘解由使は、国司が交替する際の事務引継ぎを監督するために設置された。前任の国司について正税稲など官物の欠損や職務怠慢の有無を厳しく監査し、不正がなかった場合にはそのことを証する解由状を交付した。
(×職務は前任国司が持ち帰った解由状の審査にとどまる)

 [04]検非違使は、犯罪や風俗の取締りなど警察権を行使し、京中の治安維持に当たるものとして設置された。この官職には専任の者が就いたが、弾正台・刑郎省・京職などを経験した者が除目を経て任じられたことで、しだいにそれらの職務を吸収し、訴訟・裁判の事務をも取り扱うようになった。
×衛門府の役人が任命された)

 [05]蔵人頭は、天皇の秘書としての役割を相うものとして設置された。天皇の宣旨によって任命され、蔵人所の実質的な長として本官を持つ者2名が兼帯し、太政宮との間に入って詔勅の伝達や奏上の取次ぎを行った。
(〇)

 設問3 次の[01]~[05]の文章のうち、[X]が行った政策に関する説明として誤っているものを選び、その番号を選べ。

 [01]  令で定められた定員外に置かれていた国司を廃止した。(〇)                     


 [02]  畿内を除いて徴兵による軍団制を廃止し、郡司の子弟を健児として採用した。
(×畿内はじめ全国で軍団制を廃止。ただし陸奥・出羽など辺境は軍団制を残した) 

 [03]  公出挙の利息を改め、10束につき利息を3束収めるようにした。
(〇)             
 
 [04]  正丁に課される雑癌の期間を年30日とした。
(〇)                               
 
 [05]  班田収授を励行させるため、班田の期間を一紀―班に改めた。
(〇)              

 (答:1516藤原緒嗣、1718菅野真道、1920紀古佐美、2122 文室綿麻呂、
2324-05、2425-02 ※原問には選択肢が66語あり、なおX桓武天皇、Y藤原種継、Z日本後紀)〉

 〈2014日本女子大・人間社会:「
問1 下線部1軍事と造作のため、国家財政は窮乏し、農民の疲弊が進んだ。下線部1にあてはまる組み合わせとして最も適当なものを、下記のa~eの中から一つ選べ。

 a 薬子の変と平城京造営

 b 藤原広嗣の乱と国分寺建立
 c 隼人征肘と遣唐使船の建造
 d 伊治呰麻呂の乱と大仏造立
 e 蝦夷征討と平安京造営

(答:e)〉

 〈2013早大・文化構想

 805年には、勅によって、藤原緒嗣と菅野真道との間で天下の徳政をめぐる相論がおこなわれ、その結果、b軍事と造作が中止された。」

問2 下線bに関する説明として正しいものはどれか。1つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。


 ア 軍事とは対隼人戦争のことである。

 イ 造作とは長岡京造営のことである。
 ウ 軍事とは対新羅戦争のことである。
 エ 造作とは平安京造営のことである。
 オ 軍事と造作とは、架空の課題として設定されたものである。

(答:エ)


五街道

2017-03-20 | 『新世界史頻出年代暗記』

□近世408. ◇A

[ゴロ]口臭臭う(こうしゅうにおう)/五街道                                   


[ゴロ2]口臭臭うと嗅(か)で/泣途中に置こうごかかせたろ移動                                   


甲州道中・光道中・州道中)(東海道)(中山道(なかせんどう))


[ポイント]

1.五街道東海道中山道甲州道中日光道中奥州道中

[解説]
1.幕府は、全国支配のために、陸上・水上の交通・運輸網の拡充に努めた。陸上交通では、江戸日本橋を起点とする五街道を直轄下におき、各街道に宿駅(宿場)制度を整えるいっぽう、治安維持のため関所を設けた。一里塚(いちりづか)がもうけられた主要街道の宿駅には、大名らが宿泊する本陣(ほんじん)・脇本陣(わきほんじん)や、一般用の旅籠(はたご)・木賃宿(きちんやど)、人馬の手配や公用の書状を継送する継飛脚(つぎびきゃく)を扱う問屋場(といやば)などがおかれた。また五街道以外の主要幹線として脇街道の整備もすすめた。


〈2016法大・文(英地心)法(国)営(戦略):「

問3 下線部b参勤交代において利用され、通常、五街道の一つに数えられる道として正しいものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。

 ア甲州道中 イ山陽道

 ウ北国街道 エ山陰道」

(答:ア)〉


〈2014明大・国際日本(国際日本)

問7.農産物の全国的な流通が盛んになっていく条件として、交通網の発達は不可欠であった。江戸時代の交通網の発達について述べた以下の文章A~Cについて、その正誤の組み合わせとして正しいものを、下記の1~4の中から選びなさい。

 A:東海道、中山道、山陽道、甲州道中、奥州道中の五街道は、重要な幹線道路として幕府の直轄下に置かれ、17世紀半ばから道中奉行によって管理された。

 B:五街道や脇街道などの主要な街道には宿駅が多く置かれ、流通の要所となった。宿駅には、本陣、旅籠、問屋場などが設けられた。
 C:大坂・江戸間では菱垣廻船、樽廻船が運航するようになり、17世紀後半には江戸の商人だった角倉了以によって東廻り海運・西廻り海運が整備された。

 1.A〇、B×、C〇

 2.A×、B× C×
 3.A〇、B〇、C×
 4.A×、B〇、C×」

(答:4 ※A×山陽道→日光道中、C×角倉了以→河村瑞賢)〉


〈2013成城大学・経済

 近世には、幕府によって江戸を起点とする東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中の五街道が整備された。ほかに伊勢街道、北国街道、中国街道、長崎街道など[ 7 ]と呼ばれる主要道路が全国にひろがった。これらの陸上交通に加え、海上の交通も年貢米輸送を中心に大坂と江戸を起点に整備された。」

(答:脇街道〔脇往還〕)〉


〈2012同志社大学・文経済

 物資の流通には交通網の確立を必要とする。幹線道路としては江戸に通じるいわゆるイ五街道をはじめとして、全国各地にウ街道筋が開発・整備されるようになる。エ街道筋には宿駅を設けて人馬を常備し、旅籠・一里塚などを整え、各領国を横断する人と物との往還路となった。

問イ.五街道の1つで、江戸日本橋から浦和、高崎、軽井沢、塩尻、木曾福島、垂井などを経て草津に至る街道の名称を記せ。


問ウ.脇往還の1つで、追分宿から小諸、善光寺、柏原などを経て春日新田を右折し出雲崎に至る街道の名称を次の1~4の中から選べ。

 1.伊勢街道 2.中国街道
 3.北国街道 4.山陰道

問エ.宿場において輸送荷物の継ぎ送りや人馬の継ぎ立ての差配などの業務を行った事務所を何というか、その名称を記せ。」

(答:イ中山道、ウ3、エ.問屋場)〉


〈2012大学入試センター

美 咲:ここのお城は石垣がなくて、堀や[ イ ]のような防御施設に囲まれていたのね。あのあたりに、今でも城ノ内、堀ノ内という地名があるでしょう。廃城になってしまったけれど、dここにお城があったということが、地名からわかるのよ。
拓 也:地名も一種の文化財なんだね。景観からも歴史がわかるのかな。

問5 下線部dに関連して、地名にかかわる歴史について述べた次の文X・Yと、それに最も関係の深い地名a~dの組合せとして正しいものを、下の1~4のうちから一つ選べ。


 X 江戸時代には、米の増産をはかるために、商人資本を活用して開発が行われた。

 Y 江戸時代の街道には、宿駅や関所などの施設が設けられた。

 a銀座 b新田 c大湊 d一里塚


 1X-a、Y-c 2X-a、Y-d

 3X-b、Y-c 4X-b、Y-d」

(答:4 ※Xは「米の増産」「開発」とあるので新田、 Yは「街道」とあるので一里塚)〉


大内裏

2017-03-19 | 『新世界史頻出年代暗記』


天の代理は丁度感。
  (天皇の住居・内裏)(朝堂院(ちょうどういん)・官人が政務)

[ポイント]

1.宮城すなわち大内裏は、天皇の住居である内裏官人が政務を行なう朝堂院などからなる。

[解説]

1.大内裏(だいだいり)とは、宮城(きゅうじょう)全体のこと。大内裏=(朝堂院+内裏+諸官庁)。内裏(皇居)を中心として、その周辺に諸官庁を配した一角をいう。

2.朝堂院(八省院(はつしよういん)ともいう)は大内裏の中で、官人たちが政務をおこなう政庁で最も重要な場所。その朝堂院の大極殿(だいごくでん)が、国家的な儀式に用いられる正殿だった。


3.内裏は、天皇の私的な生活を営む場所。皇居、御所ともいう。


4.1177年(治承1)年の京都大火で大極殿が焼失、その後は再建されず、代わって内裏の紫宸殿(ししんでん)が正殿として代用されるようになった。


〈2015関西大・全学部

平安京の中央北端は平安宮(大内裏)という宮域である宮域内の南中央を占めるのは正庁の( 2 )で、南面に設けられた応天門の炎上をめぐる事件が9世紀後半に起こり、その炎上の様子は『( 3 )』に描かれる。宮域には( 2 )のほか、天皇の居所である内裏や諸官庁があり、また平安宮外の南には神泉苑という広大な禁苑があった。(中略)内裏の正殿は中央やや南に位置する( 5 )で、正面の南庭とあわせて公式の儀式・行事の場となった。」(2朝堂院、3伴大納言絵巻、5紫宸殿、問題には選択肢が30語あり)〉

〈2013大阪大・前期:「(I)平城京は、およそ10万人が住む政治都市であったといわれる。平城京はどのように区画され、いかなる施設が配置されていたのか、その概要を述べなさ
い(200字程度)。」〉
〔解答例〕
平城京は、碁盤の目状に東西・南北に走る道路で区画される条坊制を持つ都市であった。中央を南北に走る朱雀大路で東の左京と西の右京とに分けられ、左京の張り出し部に外京もあった。中央北の平城宮には、天皇が生活する内裏、政務・儀礼を行う大極殿・朝堂院、二官・八省などの官庁がおかれた。京域内には貴族・官人や庶民の住宅、官営の東市・西市が置かれた。薬師寺・興福寺などの大寺院も建立され,鎮護国家の法会を行った。(203字)〉


道鏡と天皇

2017-03-17 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

 

●奈良時代(淳仁天皇)

 764(天平宝字8)年 〈恵美の押勝の乱〉★★

Emi no Oshikatsu revolts against Dōkyō but is defeated.

なぜ無視(むし)するの 恵美のこと。

        764年 南家  淳仁天皇      恵美押勝の乱 孝謙上皇 道鏡 

 

淳仁天皇から恵美押勝の名を賜って専制的な政治を行った藤原仲麻呂も、孝謙上皇に信任された道鏡が台頭すると、これと対立。764年に兵を挙げたが捕らえられて斬罪に処せられた(恵美押勝の乱)。孝謙上皇は淳仁天皇を退位させた後淡路に流し、重祚によって称徳天皇となり、乱による死者の冥福を祈るため百万塔をつくった。



[ポイント]

1.孝謙上皇(→淳仁天皇を廃し重祚して→称徳天皇)は道鏡を寵愛、その彼は称徳天皇の死後失脚し、→光仁天皇が即位した。

[解説]

1.(孝徳=)称徳天皇は、僧道鏡太政大臣禅師とし、さらに法王(法王の地位や内容は不明)とした。

2.さらに道鏡を皇位につけようとしたが、和気清麻呂らに阻止(そし)され(宇佐八幡宮神託事件)、同天皇の病死後失脚し、下野薬師寺別当に左遷された。


3.清麻呂に連座した姉の和気広虫(わけのひろむし)は、恵美押勝の乱後の孤児の養育活動でも知られる。


〈2015立命館・全学部

(f)下線部6皇位継承問題まで勃発するに至ったに関連して、このとき皇位をうかがったとされる道鏡が、天皇崩御ののちにある寺院に追放された。その寺院の所在地はどこか。旧国名で答えよ。(答:下野国)

〈2013青山学院・文教育経済法経営

問9.下線部d天平神護年間について、この時期の前後の出来事Ⅰ~Ⅲについて、古いものから年代順に並べた組合せとして正しいものを、下の1~6の中から一つ選べ。
 Ⅰ.僧道鏡が太政大臣禅師に任じられた。
 Ⅱ.皇位継承をめぐり、和気清麻呂が宇佐八幡宮に遣わされた。
 Ⅲ.淳仁天皇が廃位された。
 1.Ⅰ-Ⅱ-Ⅲ
 2.Ⅰ-Ⅲ-Ⅱ
 3.Ⅱ-Ⅰ-Ⅲ

 4.Ⅱ-Ⅲ-Ⅰ
 5.Ⅲ-Ⅰ-Ⅱ
 6.Ⅲ-Ⅱ-I」

(答:5)〉


764(天平宝字8)年 〈恵美の押勝の乱〉★★

2017-03-15 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

●奈良時代(淳仁天皇)

 764(天平宝字8)年 〈恵美の押勝の乱〉★★

Emi no Oshikatsu revolts against Dōkyō but is defeated.

なぜ無視(むし)するの 恵美のこと。

         764年    淳仁天皇      恵美押勝の乱 孝謙上皇 道鏡 

 

淳仁天皇から恵美押勝の名を賜って専制的な政治を行った藤原仲麻呂も、孝謙上皇に信任された道鏡が台頭すると、これと対立。764年に兵を挙げたが敗死(恵美押勝の乱)し、孝謙上皇は淳仁天皇を退位させた後淡路に流し、重祚によって称徳天皇となり、乱による死者の冥福を祈るため百万塔をつくった。


新羅攻撃・橘奈良麻呂の変・淳仁天皇)(南家養老律令施行)(紫微内相・恵美押勝)                                                           


[ポイント]

1.藤原仲麻呂は、南家出身、紫微内相淳仁天皇を擁立し恵美押勝の名を賜る、橘奈良麻呂の乱を押さえ、養老律令を施行新羅攻撃を計画。

[解説]
1.藤原仲麻呂孝謙天皇の時代に、光明皇太后と結んで政界で勢力をのばした。

2.これまで政権を握っていた橘諸兄の子の奈良麻呂は仲麻呂をたおそうとするが、逆に滅ぼされた(橘奈良麻呂の変)


3.仲麻呂は淳仁天皇を擁立して即位させると恵美押勝の名をたまわり、破格の経済的特権を得るとともに独裁政権を確立した。


4.仲麻呂は紫微中台(光明皇后の皇后宮職を改称したもの)長官(紫微内相)となって権力をふるった。長官はもと紫微令といったが、紫微中台を太政官と同格にするため、内相とあらためたもので、太政大臣に相当する。


5.養老律令(成立は718年)が施行されたのは、藤原仲麻呂が政権を担当していた757年である。


6.唐で安史の乱(安禄山・史思明の乱、755~763)がおこり混乱が広がると、押勝は新羅攻撃を計画したが、実現しなかった。


7.恵美押勝は後ろ盾であった光明皇太后が死去すると孤立を深め、孝謙太上天皇が自分の看病にあたった僧道鏡を寵愛して淳仁天皇と対立すると、危機感をつのらせて764(天平宝字8)年挙兵したが、太上天皇側に先制され滅ぼされた(恵美押勝の乱)。


8.のち淳仁天皇は廃されて淡路に流され(淡路廃帝)、孝謙太上天皇が重祚して称徳天皇となった。

〈2014同志社大・文

755~763年に唐で乱がおこり混乱が広がると、新羅攻撃を計画した人物がいた、光明皇大后の信を得て、新設された紫徴中台の長官に任じられた、その人物を次のうちから1つ選べ。

 1藤原清河 2藤原広嗣
 3藤原仲麻呂 4藤原百川」


(答:3.藤原仲麻呂)〉


〈2013早大・国際教養

安史の乱による唐での混乱に乗じて、新羅遠征討画をくわだてたのは誰か。1つ選んで、マーク解答用紙の該当記号をマークせよ。

 ア長屋王 イ橘諸兄 ウ藤原不比等
 エ藤原仲麻呂 オ吉備真備)


(答:エ藤原仲麻呂)〉


〈2013立命館・文法済営などA方式:「

下線部(3)718年に養老律令がつくられた連して、養老律令は、大宝・養老両律令の編纂に関わった人物の孫が政権を掌握した時期に施行された。政権を掌握した孫とは誰か。氏名を漢字5文字で答えよ。」

(答:藤原仲麻呂)〉

〈2012明大・商:
「その後、b【1元明 2光仁 3元正 4聖武 5孝徳】天皇在位の718年、養老律令が編纂されたが、大宝律令と比べて大きな変更はなかった。この養老律令(成立は718年)が施行されたのは、藤原仲麻呂が政権を担当していた757年である。」

(答:3〉


〈2012立大・全学部

 他方、この時期には、光明皇太后の信を得た藤原仲麻呂が紫微中台の長官として権力を握っていた。これに対抗する〈 え 〉は、藤原仲麻呂を倒そうと図ったが、757年、計画が発覚し失脚してしまった。光明皇太后が病に伏せると、その看病のため、孝謙天皇は淳仁天皇に譲位した。淳仁天皇のもとで、藤原仲麻呂は、( ト )の名を得て、太政大臣としてさらに権力をふるった。ところが、光明皇太后の死後、このような状況に変化が生じる。孝謙太上天皇は、僧道鏡を重用して、淳仁天皇と対立するようになったのである。これに危機感を感じた( ト )は、764年挙兵するも、制圧された。この後、淳仁天皇も天皇の地位を追われて淡路に配流され、孝謙太上天皇が重祚し、称徳天皇となった。」

(答:え橘奈良麻呂・ト恵美押勝)〉


〈2012立大・全学部2/6実施:「

これ(養老令)に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
 a.これの多くの部分は、注釈書『令義解』や『令集解』に引用されている
 b.藤原仲麻呂によって、757年に施行された
 c.藤原不比等らによって、701年に編纂された

 d.令とは、行政組織・官吏の勤務規定や人民の租税・労役などの規定である」

(答:c ※不比等らで718年成立)〉


藤原四家四子

2017-03-15 | 『新世界史頻出年代暗記』


[ゴロ]武智南北部(まき)


家(なんけ)・智麻呂(むちまろ))(家(ほっけ)・前(ふささき))(合(うまかい)・家(しきけ))(呂・家)


[ポイント]

1.藤原四家とその始祖(長幼順)は、南家武智麻呂)、北家房前)、式家宇合)、京家麻呂)である。

[解説]

1.藤原四家は藤原不比等の四子が興(おこ)した4つの家。729年、長屋王を、謀反の意思ありとして長男武智麻呂らが邸を囲み、一族と共に自殺させ(長屋王の変)、光明子を立后させて覇権をにぎる。

2.しかし、藤原四子は737年に疫病(天然痘か?)で相ついで亡くなった。


3.藤原武智麻呂(680~737)は、不比等の第一子、南家の祖。名称は邸宅の位置に由来。


4.藤原房前(681~737)は、不比等の第二子、北家の祖。名称は邸宅の位置に由来。


5.藤原宇合(694~737)は、不比等の第三子、式家の祖。。名称はその官職式部卿に由来。


6.藤原麻呂(695~737)は、不比等の第四子、京家の祖。名称はその官職京職大夫(きょうしきだいぶ)に由来。万葉歌人として重要な大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)を妻としたときもある。


7.長屋王の変で、長屋王の邸宅を囲んだ「六衛の兵」の六衛とは、令で定められた五衛府(衛門府・左右衛士府・左右兵衛府)と聖武天皇の時に新設された中衛府のことである。この六衛の兵を藤原宇合が、中衛大将(ちゅうえいのだいしょう)(中衛府の長官)の藤原房前とともに、ひきいていたことは、藤原氏が宮廷の武力もしっかり握っていたことを示している。

〈2015早大・法

下線eの藤原四子のうち、南家を興し、藤原仲麻呂の父として知られる人物は誰か。正しいものを一つ選べ。」

 あ麻呂 い武智麻呂 う房前

 え種継 お宇合

(答:い)〉


奈良時代の藤原氏対他氏の覇権争い

2017-03-15 | 『新世界史頻出年代暗記』


[ゴロ]不憫長屋に四人んの子立場もなか王と/4子(よんし)rたちの/仲ど~思(もオも)う


(藤原不比等(ふひと)・長屋王(ながやおう))(藤原四子(よんし(しし))・諸兄(たちばなのもろえ))(藤原麻呂(なかまろ)・鏡(どうきょう)・藤原川(ももかわ))


[ポイント]

1.奈良時代の覇権は、藤原不比等長屋王藤原四子橘諸兄藤原仲麻呂道鏡藤原百川の順で推移した。

[解説]

1.藤原不比等(659~720)は、鎌足(かまたり)の子。大宝律令の制定および平城遷都に努力。養老律令を完成。娘が聖武天皇を生み、藤原氏が外戚となる端緒をつくる。

2.なお不比等の後妻で、光明子の母である県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)は、後宮(こうきゅう)の女官として大きな力を発揮し、賜姓して橘三千代となり橘氏の祖となる。


3.長屋王(684~729)は、天武天皇の孫で、藤原不比等の死後、最高位の左大臣となり権勢を振い皇親政治をおこなう。


4.藤原四子(~737)は、不比等の4子。729年、長屋王を、謀反の意思ありとして武智麻呂らが邸を囲み、一族と共に自殺させ(長屋王の変)、光明子を立后させて覇権をにぎる。しかし、藤原四子は737年に疫病(天然痘か?)で相ついで亡くなった。


5.橘諸兄(684~757)は、皇族出身で光明皇后の異父兄。この権力の空白に諸兄は、738年に右大臣になり僧玄昉(げんぼう)(?~746)・吉備真備(693?~775)らを登用して政権をにぎった。


6.権勢をふるう玄昉吉備真備の2人に反感を抱く者も多く、ついに藤原広嗣宇合(うまかい)の子、式家)は740年に、2人の排斥を求めて大宰府で反乱(藤原広嗣の乱)を起こしたが、敗れた。


7.これをしりぞけた諸兄は、743年には左大臣となる。晩年は藤原仲麻呂に権勢がうつる流れのなかで失意のうちに死去。


8.藤原仲麻呂(706~764)は、武智麻呂の第2子、南家出身。光明皇太后の信任により、藤原氏再台頭をはたす。光明皇后の後見機関の皇后宮職を唐風に改称した紫微中台の長官に就任して、政治の実権を握る。


9.仲麻呂は、757年橘氏の反撃(諸兄の長子橘奈良麻呂の変)を未然に封じ、独裁政権を確立。758年淳仁天皇を擁立し、天皇から恵美押勝の名を賜(たまわ)るなど一時全盛をほこった。


10.しかし光明皇太后が没すると孝謙上皇とは道鏡の処遇をめぐって不和となり、764年道鏡を除こうとして反乱を企てたが、事前に発覚して(情報漏(も)れで発覚)、押勝は捕らえられ斬首された(恵美押勝の乱)。


11.なお光明皇后は皇后宮職に貧窮者・孤児の救済機関「悲田院」「施薬院」を設置。


12.僧道鏡(?~772)は、河内国志紀郡弓削出身の僧。孝謙上皇の病気を秘法で治し寵愛を得て政界に進出。


13.道鏡は、孝謙上皇が重詐した称徳天皇の下で権勢をふるう。上皇は彼を太政大臣禅師とし、さらに769年には法王(地位や内容は不明)とし、


14.さらに天皇は、道鏡を皇位につけようとしたが、和気清麻呂らに阻止された(宇佐八幡宮神託事件)。


15.この事件で、清麻呂は大隅に配流。このとき清麻呂の姉で孤児院をつくった和気広虫も連坐し備後に流されている。


16.道鏡は、770年同天皇の病死で失脚、下野薬師寺に左遷され、その地で死去。


17.藤原百川(732~779)は、式家宇合の子(甥が種継)。称徳天皇の死後、藤原永手北家房前の子)と協力して道鏡排斥の中心となる。


18.百川は、吉備真備らの反対を抑えて、壬申の乱以来の天智天皇の皇統でしかも62歳の光仁天皇桓武天皇の父)を擁立し、平安初期の式家台頭の基礎を築く。

 〈2015同志社・法グローバルコミュ

 次の文章を読み、下線部・空欄に対応する下記の【設問a】~【設問i】および【設問ア】~【設問ケ】に答えよ。

 聖武天皇は、大宝元年(701)に文武天皇の子として藤原宮に生まれた。母はa藤原宮子である。慶雲4年(707)に文武天皇が亡くなると、祖母の元明天皇、伯母の元正天皇に続いて、神亀元年(724)に即位。即位後間もない天平元年(729)2月にb長屋王の変がおこる。これは養老5年(721)にc従二位右大臣となり、政権を担当し、その後正二位左大臣に進んだ長屋王を除くために藤原氏が画策した策謀であり、変後の8月には光明子の立后が実現したほか、藤原氏が大きく勢力をのばすこととなった。しかし、天平9年(737)に流行した天然痘によってア藤原四子があいついで病死し、藤原氏の勢力は一時後退した。


 かわって政権を握ったのが皇族出身の橘諸兄であり、唐から帰国した吉備真備や玄肪が聖武天皇に信任されて活躍した。一方、d橘諸兄政権と対立し、藤原氏内部でも孤立したとも言われるイ藤原広嗣は、ウ九州で玄と吉備真備らの排除を求めて大規模な反乱をおこしたが、鎖圧された。乱勃発の知らせをうけ東国への行幸に出発した天皇は、天平12年(740)12月にe新都を造営して遷都し、その後、複数の宮や都を転々とした。天皇は天平17年(745)に平城京へ戻るが、その頃から、ことに光明皇后の信任を得て、f大仏の造営を推進し、次第に橘諸兄政権の勢力を凌ぐ勢いになっていったのが藤原仲麻呂である。


 彼は孝謙天皇が即位した天平勝宝元年(749)に大納言となり、中衛大将を兼ね、さらに( g )を設置してその長官に就任し勢力を広げた。またエ大仏の開眼供養の日には、仲麻呂の田村第に孝謙天皇を迎えるなど天皇との連携も密であった。一方、このような藤原仲麻呂の台頭に対し、天平宝宇元年(757)にh橘諸兄の子が仲麻呂を倒そうとするが、逆に滅ぼされた。仲麻呂は淳仁天皇を擁立して即位させると恵美押勝の名を賜り、破格の経済的特権を得るとともに権力を独占した。しかし、恵美押勝は後ろ盾であった光明皇太后が死去すると孤立を深め、孝謙太上天皇が道鏡を寵愛して淳仁天皇と対立すると、オ危機感ををつのらせて挙兵したが、太上天皇側に先制され滅ぼされた。淳仁天皇は廃されてカ流され、孝謙太上天皇が重祚して称徳天皇となった。


 道鏡は称徳天皇の支持を得て太政大臣禅師、さらに法王とかって権力を握り、政治を行なった。神護景雲3年(769)には、称徳天皇が神託によってキ道鏡に皇位をゆずろうとする事件がおこったが、この動きは( i )らの行勤で挫折した。称徳天皇が亡くなると、ク後ろ盾を失った道鏡は退けられた。つぎの皇位には、ケ藤原百川らが図って光仁天皇が迎えられた。

 【設問a】藤原宮子の父の名を解答欄に漢字で記せ。
(答:藤原不比等)

【設問b】長屋王の父は天武天皇の皇子の高市皇子であるが、長屋王妃の吉備内親王の父も天武天皇の皇子で、大津皇子と皇位継承問題でライバル関係にあった人物である。この吉備内親王の父の名を漢字で記せ。

(答:草壁皇子※〈土〉)

【設問c】長屋王の政権下の養老7年(723)に発布された、水田の開墾を奨励する法令の名称を解答欄に漢字で記せ。

(答:三世一身の法)

【設問ア】藤原四子のそれぞれが興した4つの家のうち、嵯峨天皇の信任を得て、以降、とくに隆盛した家の祖は次のうち誰か。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.武智麻呂 2.房前 3.宇合 4.麻呂
(答:2)

【設問d】橘諸兄は光明皇后の異父兄であるが、母の名を漢字で解答欄に記せ。

(答:県犬養三千代(橘三千代))

【設問イ】藤原広嗣の出身は、藤原四子のそれぞれが興した4つの家のうちのどれか。その番号を解答欄に記入せよ。、

 1.南家 2.北 3.式家 4.京家
(答:3)

【設問ウ】(九州で)藤原広嗣が反乱をおこした時の官職は次のうちどれか。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.大宰帥 2.筑前守 3.大宰少弐 4.薩摩守
(答:3)

【設問f】聖武天皇が大仏造立の詔を出した時の宮の名称を漢字で解答欄に記せ。

(答:紫香楽宮(信楽宮))

【設問g】空欄( g )には、光明皇后の皇后宮職が749年に昇格した官司の名称が入る。その名称を漢字4文字で解答欄に記せ。

(答:紫微中台)

【設問エ】大仏の開眼供養の西暦年は次のうちどれか。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.750年 2.752年 3.754年 4.756年
(答:2)

【設問h】この事件をおこした橘諸兄の子の名を漢字で解答欄に記せ。

(答:橘奈良麻呂)

【設問オ】この事件がおこった西暦年は次のうちどれか。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.760年 2.762年 3.764年 4.766年
(答:3)

【設問カ】淳仁天皇が流された地は、次のうちどの国にあったか。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.隠岐 2.土佐 3.佐渡 4.淡路
(答:4)

【設問キ】この道鏡の即位を告げた神社は、次のうちどの国にあったか。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.筑前 2.筑後 3.豊前 4.日向
(答:3)

【設問i】空欄( i )は、道鏡の即位の神託を確認するために派遣され、偽託であることを復奏して大隅に配流されるが、道鏡の失脚後は復帰し、平安遷都の進言などで活躍した人物である。その人物名を漢字で解答欄に記せ。

(答:和気清麻呂)

【設問ク】道鏡が追放された寺は、次のうちどの国にあったか。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.武蔵 2.下野 3.上野 4.常陸
(答:2)

【設問ケ】藤原百川と共に光仁天皇の即位に尽力した人物は次のうちどれか。その番号を解答欄に記入せよ。

 1.藤原緒嗣 2.藤原仲成 3.藤原永手 4.藤原冬嗣
(答:3)〉

〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ

5.下線部藤原不比等に関する次の出来事a~dを年代順に並べたとき、3番目に古いのはどれか。
 a.息子たち4人が長屋王を滅ぼした(長屋王の変729年)
 b.娘の光明子が聖武天皇の皇后となった(長屋王の変の直後)
 c.娘の光明子を文武天皇の皇太子に嫁がせた(716年)
 d.娘の宮子を文武天皇に嫁がせた(697年)
(答:d→c→a→b)

6.下線部聖武天皇の治世下で起きた政変はどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。

 a.応天門の火事をめぐり、大納言伴善男が政敵の失脚を画すが失敗に終わった
(866年清和天皇代)
 b.遷都をめぐり太上天皇が天皇と対立し、乱を企てた藤原仲成が射殺された
(810年嵯峨天皇代)
 c.橘奈良麻呂が、台頭してきた藤原仲麻呂を除こうとするが、逆に滅ぼされた
(757年孝謙天皇代)
 d.藤原広嗣が吉備真備らの排除を求めて乱を起こすが、鎮圧された
(〇740年聖武天皇代)

7.下線部奈良の都への望郷の思いから、大宰府の地にて、「あをによし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」と詠んだのは誰か。次のa~dからlつ選べ。

 a.小野老  b.小野篁
 c.小野道風 d.小野好古
(答:a※「あによし奈良都は咲く花薫ふがごとく今盛りなり」

 〈2014同志社大・文

【設問ウ】755~763年に唐で乱がおこり混乱が広がると、新羅攻撃を計画した人物がいた、光明皇大后の信を得て、新設された紫徴中台の長官に任じられた、その人物を次のうちから1つ選べ。
 1.藤原清河
 2.藤原広嗣
 3.藤原仲麻呂
 4.藤原百川
(答:3)〉

 〈2014早大・教育

問5 下線部d8世紀ににわかに台頭してきた宇佐の八幡神は皇位にかかわる託宣を下し、この神託の判断をめぐって大きな混乱が巻き起こったについての説明で正しいものはどれか。
 ア 孝謙天皇の重祚をうながす神託が下された。
(×孝謙天皇の重祚ではなく、道鏡の皇位就任に関する神託問題)
 イ 神託を確かめるために藤原百川が宇佐へ派遣された。
(×派遣されたのは和気清麻呂である)
 ウ 神託後、日本史上初の法王が誕生した
(×道鏡が法王になったのは766年、宇佐八幡宮の神託が下ったのは769年)
 エ 石清水から宇佐へ勧請された八幡神が猛威をふるった
(×平安時代初期、宇佐八幡宮から石清水八幡宮に勧請(神仏の分霊を請じ迎えること)された)
 オ 神託によって皇位につくことをうながされた人物は、下野薬師寺に追放された(〇)」〉

 〈2013早大・文

古代において、藤原氏の果たした役割には大なるものがある。そこで藤原氏について考えてみることにする。
 藤原氏の基をつくったのは中臣鎌足である。鎌足は中大兄皇子に協力し、乙巳の変を成功させた。その後、改新の詔が出されたとされる。
 鎌足の子供が[ A ]である。[ A ]は、大宝律令の編纂に尽力し、平城京への遷都にも協力した。藤原宮子は[ B ]天皇と婚姻関係を結び、首皇子(後の聖武天皇)を生むことになる。こうして藤原氏の権力基盤は確立していった。
(答:A不比等、B文武)

 〈2012明大・商

天皇と皇族を中心とした政治形態である[ 2 ]の体制が崩れて、藤原氏の台頭に伴う権力争いが激しくなり、朝廷もそれを統制する力を失っていた。このような政治や社会の混乱の中で、徒に遷都が繰り返され、ときの聖武天皇は仏教の力による平穏を期待するばかりであった。この遷都のうち、京都府相楽郡に置かれたものを
c【1紫香楽京 2難波京 3甲賀京 4福原京 5恭仁京】という。藤原氏は、鎌足以来皇族を中心とする[ 2 ]に関連してきたが、不比等は皇室との結びつきを強め、その四子も対立していた長屋王を追い落とし、臣下として初めて妹の光明子を天皇の皇后とすることに成功した。しかし、天然痘の流行で四子が相次いで病死すると勢力は一時衰え、政権は皇族出身の[ 3 ](684~757)や唐に留学経験のある玄昉、吉備真備らの主導するところとなった。玄昉と吉備真備は、[ 3 ]に重用されて活躍したが、d【1藤原百川 2藤原武智麻呂 3藤原緒嗣 4藤原冬嗣 5藤原広嗣

は、彼らを除くことを名目に、740年、乱を起したが、敗死した。やがて、藤原仲麻呂が政権の座についた。彼は、[ 4 ]天皇(733~765)から恵美押勝の名を賜り、権力を独占するようになり、太政大臣にまでのぼった。ところが、後ろ盾であった光明皇太后が死去すると孤立を深め、孝謙太上天皇の寵愛を受けた道鏡が台頭すると、道鏡を取り除こうとして乱を起し敗死した。このころ、僧侶のなかには、道鏡のように政治的野心をたくましくする者も現れた。のちに[ 4 ]天皇は、廃され、淡路に流された。孝謙太上天皇は、再び即位して称徳天皇となり、そのもとで道鏡による仏教政治が展開された。
 道鏡は、称徳天皇のもとで、765年、太政大臣禅師に任じられ、さらに翌年は法王の地位に就いた。769年には、道鏡が、皇位を求める事件が起ったが、この動きは、和気清麻呂の行動で挫折した。[ 5 ]が道鏡の即位を促すお告げを下したが、その神意を聞く使いとなった和気清麻呂は、最初のお告げとは反対の報告をして道鏡の皇位をうかがう意図をくじいたのであった。清麻呂の行動の背景には、道鏡に反対する貴族たちが存在したとみられる。道鏡は、770年に称徳天皇が死去すると、ただちに
e【1元興寺 2会津慧日寺 3西大寺 4下野薬師寺 5筑紫観世音寺】に追放され、そこで死去した。その後、道鏡時代の仏教政治で混乱した律令政治と国家財政の再建が追求されることになった。
(答:2皇親政治、3橘諸兄、4淳仁、5宇佐八幡宮、c5、d5、e4)〉

 〈2012立大・経済法異文化コミ

聖武天皇と(7)光明子との間には、皇子が生まれたものの早世してしまったため、娘である阿倍内親王が、聖武天皇から譲位されて天皇となった。孝謙天皇である。孝謙天皇は、父聖武天皇の事業を受け継ぎ、大仏開眼供養の儀式を盛大にとり行うなどした。他方、この時期には、光明皇太后の信を得た藤原仲麻呂が紫微中台の長官として権力を握っていた。これに対抗する〈 え 〉は、藤原仲麻呂を倒そうと図ったが、757年、計画が発覚し失脚してしまった。光明皇太后が病に伏せると、その看病のため、孝謙天皇は淳仁天皇に譲位した。淳仁天皇のもとで、藤原仲麻呂は、( ト )の名を得て、太政大臣としてさらに権力をふるった。ところが、光明皇太后の死後、このような状況に変化が生じる。孝謙太上天皇は、僧道鏡を重用して、淳仁天皇と対立するようになったのである。これに危機感を感じた( ト )は、764年挙兵するも、制圧された。この後、淳仁天皇も天皇の地位を追われて淡路に配流され、孝謙太上天皇が重祚し、称徳天皇となった。称徳天皇のもとで重用された道鏡は、太政大臣禅師、( チ )の位につき、さらには、宇佐八幡の神託を受けて、称徳天皇が道鏡に皇位を譲ろうとする事態が生じた。結局、宇佐八幡の神意を確認する役を担った( リ )の報告により、道鏡への譲位は行われなかった。称徳天皇の死後、後ろ盾を失った道鏡は失脚したが、天皇と道鏡との関係は『日本霊異記』などにも記され後世に語り継がれた。称徳天皇の後、天武天皇直系の皇統はとだえ、また、その後長い間、女性が天皇になることはなかった。」

 A.文中の空所それぞれにあてはまる適当な語句をしるせ。

(答:え橘奈良麻呂、ト恵美押勝、チ法王、リ和気清麻呂)〉

 B.下線部7光明子に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。

 a.藤原不比等の孫であり、藤原仲麻呂とは従姉弟の関係にあった(×)
 b.仏教を篤く信仰し、鑑真から授戒を受けた(〇)
 c.平城京に、悲田院を設けて孤児・病人を収容し、施薬院を設けて医療にあたらせた(〇)
 d.律令では、皇后は皇族であることが条件とされていたにもかかわらず、藤原氏出身である光明子が聖武天皇の皇后となった(〇)〉