With the I Ching

易経や四柱推命、暦、占星術などの運命学の記事がメインです。

やりとり、あれこれ Part4:運命と自由意志

2013-10-09 03:22:53 | スピリチュアリティ

以下の文章は、2013年9月7日にFacebook上で書いたものです。やり取りをしている相手は、仮に、Yさんとしています。

関連記事:

新しい知覚を楽しみながら追いかける

あなたはわたし、In Lak'ech(イン・ラケチ)

 

*******************************************************************

[Yさん]


昨日の話で、まだわからないことがあるんだけど、結局、運命って、自分で決めるって事?運命に正直になるって、自分を見つめ直して、自己理解を深めるということでしょ?そしたらやっぱ、運命は、『ある』ものでなく、『つくる』とか『生み出す』ものなのかなぁ、と思った。違うのかなぁ。てことは、何を運命とするかは、自分自身にかかってるってことなのかなぁ。私が人の話を聴くことを自分の運命と決めたのは、別に運命ではなく、単なる意思じゃない?


*******************************************************************


実のところ、その「運命に正直になる」って言葉、書く時に迷ったんだ。「自分に正直になる」にするか、「自分の“運命に”正直になる」にするか…なんか物議を醸しそうだなって思って(笑)・・・で、そのままにしたんだけど。


そんな訳で、今日、これを書くことになりました。自分自身も意識のどこかで整理をしたかったのか、長々と「運命と自由意志」というテーマで今の自分の考えを書き連ねました。書いてたら夜が明けてしまった。


最後、疲れてきて間違ったこと書いてるところもあるかもしれないけど、暇を持て余す時にでも、ゆっくり読んでくれたら嬉しいです。

 

///////////////////////////////////

 

宿命と運命っていうね。


定義次第だけど、通常、宿命は前もって決められたものを意味する。例えば性別や出生環境、出生前の契約に応じて起きる特定の出来事なんかが該当するよ。占いでは「先天命」とも言う。よくカルマと誤解されやすいことは前に話したよね。


一方、運命は、まあこの場合は運勢とか運気と言うほうが理解しやすいと思うけど、先天命の枠組みにおける、その時々での状態とか傾向を表している。なので、基本的には運命(運勢・運気)というのは宿命の範疇にある。


言葉の定義で話が混乱することはよくあるので仕方ないけど、Yさんが言っているのは、むしろ運命というよりは、前に話していた「自由意志(意思)」に関することだよね。


占星術をやる人たちの中でも運命論者と自由意志論者がいるくらいだから、これは昔からよく議論されてきたことなんだ。


でも、僕が思うに、この二つは別のものではなく、宿命&運命と自由意志とは表裏一体になっている。光に波と粒子の性質があるような感じで、関わる人の意識次第で異なる側面として現れる。だから、Yさんが、


「運命は、『ある』ものでなく、『つくる』とか『生み出す』ものなのかなぁ、と思った。」


というのも、見方としては間違いではないはず。


とはいえ、人の一生を形作る枠組みが「ある」ことも確かで、そうでなければ運命学自体が成り立たないね(笑) 運命学とは要するに、時間と因果論(作用反作用)との結び付きを解釈する技術とも言えるだろうから。


四柱推命やバイオリズムにあるように、運命は波のようなものとして表せるので、これを別の言い方をすれば、作用反作用(鏡)の法則を占いの技術で読み取っている、ということになる。占星術にしても四柱推命や紫微斗数にしても、生まれた時点のデータで生涯の運気を読み取れるから、これはYさんの言う『ある』に相当するものになるね。


一方で、自由意志は光の性質にたとえると粒子に似ていて、端的に言えば、これはその瞬間瞬間での決断とか選択に関係している。


量子力学では、人が原子や素粒子のような微細な物質を見る際に、観察者の意識が物体に作用することが知られているけど、それと同様に、人間その他諸々を構成する原子・分子も、その人の意識に呼応して自発的な働きをするようになるんじゃないかと、僕は見てる。


そして、光波や音波、電磁波、色などの性質には干渉現象が起きるのはYさんも知っていると思う。干渉し合って増幅したり打ち消し合ったりということが起きるよね。


それと同じことが人間にもあって、それが相性とか人間関係として運命学では扱われる。結婚などの対人関係によってその人の持つ波形や色合いに、別の人の波形や色合いが重なって(物理的に言えば干渉したり回折したりして)、運気が強調されたり打ち消されたりする。


表現を変えれば、一人の時以上に自分らしさを発揮できたり、逆に不協和音になって自分らしさを損なったりもする。


また、自分自身のネガティブな感情や考え方をポジティブなもので相殺するという使い方もよくされているし、大事な決断をする時にどちらを(何を)「意識的に」選ぶかによっても、そこから『作られる』未来は別の時間軸を持つようになる。


この時、それまで辿ってきた運気の時間軸は、そのまま存在し続けるけど(光の干渉が起きた後も、光は元々の波形を保持して進む)、意識的に選んだ段階で、その人はシフトアップ/ダウンした軸を進むようになる。この過程を運命を『生み出す』と言ってもいいかもしれない。


結局のところ、精神世界の理屈も運命学の理屈も、ベースとしては単純な物理学と同じ。ただ単に、それを表現する言葉や考え方、視点、アプローチの仕方が違っているだけ。本質的には同じものを、別の切り口で眺めているに過ぎないんだと思う。


ただね、真の意味で、“自由意志を発揮して全く異なる運命を作る”となると、ちょっと大変だよ。


前にカルマの話が出た時に話せればよかったのだけど、実際にはカルマというのは時間(原因と条件と結果の時間差)や空間(物事や出来事が存在する場所)に基づいているので、過去や未来のことを思い悩んでいたり、こだわったりしている間は、ずっとカルマに振り回されることになる。


つまり、時間の流れという概念に意識が縛られている状態なので、そもそも“自由”とは言えない。もちろん、その状態でも意志を発揮しているとは言えるだろうけど、カルマそのものの影響を受けなくなっているわけじゃないので、「ただの思い込みだよ」とか、「それさえも運命や宿命の範疇だよ」と言われても仕方ないところがある。


言い換えれば、カルマというのは、過去から未来という直線時間の流れに固執している自分が「自分で設定しているもの」だってことだよ。


だから、よく精神世界で「Be here, now.」と言われるのは、今という瞬間そのものが全てだという認識を持ち、そこに立脚することで、そもそもカルマを生じさせないポイントに自分を置く、という意味でもあるんだ。


このことは実に色々な言い方をされている。ハートの中心に生きろ、とか、ゼロ・ポイントに立て、というように。これらは同じことを言っていると考えていい。


運命の元になっている作用反作用の法則というのは、宇宙全体の基本法則の一つだと言われているけども、これに時間という設定が加わったものが因果論(カルマ)。で、さっき書いたように、これは僕ら生命ある者が自分自身で科している枠組みに他ならないんだよ。


本来の作用反作用の法則には時間の性質がないので、何かを行うと同時に反応が起きる。言い換えると、これがスピ系で言う「創造」というやつで、自分で意識的に作用を起こした時、それが間髪入れずに何かの現象を生み出す。


実際には、「意識的」とは言っても、フィジカルな面での表層意識(顕在意識)でのそれと、潜在意識や深層意識(多くの場合は無意識に作用している)でのそれとでは意味合いが違う。だから、現実の中では多くのことが無意識層で「意識的に」創造がなされているわけだけど、そのことには大抵気がついていない。


そして、潜在意識やさらに奥深い意識とが自覚されていないので、そこで意識されたこと(潜在意識内では感情やイメージ、深層意識内では思考や意思)が現実のものとして知覚されるまでに、タイムラグや屈折といったことが起きる。つまり、“創造”に時間差や歪みが生まれてしまう。


だから、真の意味で運命を創り出すためには、自分が今知覚している表層意識だけでなく、潜在意識や宇宙意識とも呼ばれる深層意識などを貫いて、歪みなく一つのものにする必要がある。それがスピ系で言う「今、ここ」に生きるということの本義。


これを目指して古来から多くの人が修行してきた。有名どころではシッダルータ(仏陀)とかジーザス(イエス)とかがそうだけど、それこそ無数にいる。


訳わからない話かもしれないけど、運命を超えるとか、新しい人生を創造するというのは、結局のところ、その「ビー・ヒア・ナウ」であれ「ゼロ・ポイント」であれ、「センター・オブ・ザ・ハート」であれ、自分自身の意識の奥底にある核心部(コア)とのダイレクトラインを作るっていう話なんだ。


まあ、ダイレクトラインっていうのは一つの比喩だけど、とにかくそれができることで、本当の意味で自覚的に好きな人生を創造して参加することができるようになる、と言われてる。このことは特に生まれ変わりの際に、過去のカルマに強制されることがなく、自分で好きに選べるという意義が大きい。


もっとも、それは元々誰の中にもあって、現在は忘れられてしまっているか使われていないだけ。だから、それに「気づこうね(悟ろうね)」ということも昔から頻繁に言われてる。もちろん気づきの段階は様々なので、一つずつ積み重ねて、ベールを剥がしていく作業となるけども。


また、仏教的には解脱というのがあって、悟りとは異なる方法論で、最終的に同じ目標に向かう。よくスピ系で「手放す」という言葉が使われるけども、たぶんこれを分かりやすく言い換えたものだと思う。(解脱は、執着を離れて迷いの世界(時間や因果律に縛られた世界と言い換えてもいいかもしれない)を抜け出るという意味なので)


悟り(気づき)は、自分を覆っている無智(本質を見抜けないために生じる愚かな考え)を、玉ねぎの皮を剥くように一枚ずつ取り払う(あるいは適切な方向に変容する)智慧をつけていくわけだけど、解脱は物理的・精神的・感情的、霊的・・・様々な面で、自分の中にこびりついた欲望や執着のエネルギーを手放していく。“こうあるべき”みたいな観念・思い込みや、“こうあって欲しい”という期待も、その対象となるよ。


昨日の話で出た「ジョハリの窓」も、要は「汝自身を知れ」の格言にあるように、自分についての理解を深めることが狙いだよね。でも、自分自身とは言っても実に色んな皮を被っていて、何が本当の自分なのかわからない。


だから、そうした皮や着飾っているものを取っ払っていって、純粋な自分自身というものに出会うというのが、古来から続く宗教であれ現代の心理学であれ、人々が究極的に目指しているところだと思う。


本当の自分自身がいかに自由かってことに気がつくと、そこで「自由意志」が本領を発揮するようになり、運命的な一大転換が起きる。これは実に自然なことで、その瞬間に自分がどうしたいかが、そのまま意識を通じて現実に創造される。一瞬一瞬が自分の意志の反映になる。


このことは、究極の状態を経験していなくても、少し時間差や歪みがある状態で経験することはできる。だから、僕は今こうして書けるわけだけどね。


ここ数十年で言われるようになったことに「シンクロニシティ」(共時性)という現象があるよね。意識してか無意識かはともかく、必要な時に必要な人が現れたり、適切なタイミングで何かの出来事が起きたりする現象。因果の仕組みから時間という概念が外されることで時間差や歪みなどの条件付けがなくなり、即時に人や物事が同調する、というもの。


その瞬間その場所に、いるべくしている、会うべくして会うというのは、言い換えれば、その時点でそうなるような創造を適宜行っているということだよ。


他にも、必要な時に必要なものが手に入るとか、必要な情報を与えてくれる人に会うといったことも、そういう状況を自分自身が設定(意図)して、それが即座に現実に反映されている、ということを意味している。そして、それが「今ここ」に居続けることのいい練習になる。例えば『聖なる予言』という本では、シンクロニシティを始点として、次第に様々な「気づき(洞察・内観)」を得ていくプロセスを小説風に描いている。


Yさんも、仕事先を選ぶ時に何度も今の会社名が出てきたりとか、お母さんの心臓が急に悪くなって倒れた時に偶発的に居合わせたという経験をしているように、そうした出来事はカルマ(因果)の論理だけで説明をつけるのは難しい。(カルマの影響がないわけではないけれど)


こういった場合では、自分ではまだ気がついていない無意識層(スピ系では「ハイヤーセルフ」などと言われる)からの働きかけで、「偶然の一致」に思えるような状況を作りだして、そこに身を置くことになったと考えると受け入れやすい。


で、こういうシンクロ現象は全く神秘的なことでも精神世界に特有の現象でもなく、さっきも書いたけど、実にシンプルな物理学なのだけど、精神や意識と物理の関係が研究されるようになったのは前世紀くらいからなので、まだ歴史が浅い。だから、ひょっとしたら精神科学とか意識科学みたいな名称で、新しい学問が今後生まれてくるんじゃないかって思ってる。


話を最初のYさんの疑問に戻すと、運命を自分で『生み出す』とか『つくりだす』という感覚を練習するには、


1.今にフォーカスするシンクロニシティを追う(これはバシャールという異次元存在が、チャネリングで「ワクワクする事をし続けよう」と言っていることと同じだと思う)


2.それと同時に、いつも自分は何を意識しているか、何をどんな風に感じ考えているのかを掘り下げて、そこから「気づき」(悟り)を得たり、不要なものを「手放す」(解脱)


という方法があると僕は考えてる。この二つは、1が動的な在り方で、2が静的な在り方という風に分けることもできるけど、どちらも本質的には同じで、片方を突き詰めてやってもいいし、両方を並行して行ってもいいと思う。静かに座って瞑想や内面の分析・・・みたいなのが苦手な人は、1の方法で自分の好きなこと・エキサイティングすることを次から次へと見つけていくのがやりやすいみたい。


いずれにしても、これらを行うことで自覚的に自分と向き合うことになり、何が自分にとっての偽りなのか、逆に言えば、何が自分の真実に近いのかが明確化されてくる。


そして、これを繰り返すことで、自分自身の音色というか波長というか、あるいは色合いみたいなものが認識されてきて、例えばYさんならYさんに固有の美徳とか価値を再発見し始める。よく哲学とかで「真善美」と言われるものがあるけど、そんなようなものだと考えてくれたらいいと思う。同じことをスピ系では「神性」などと表現している。


「ナンバー・ワンにならなくていい、もっともっと特別なオンリー・ワン」って、SMAPの歌だっけ?


とにかく、それぞれの人には特有の個性や輝きがあるから、自分自身のそれに深く気がついて価値を認めてあげることができたら、その時には意識が「現在(ゼロ・ポイント)」にフォーカスされて因果の時間差がなくなるので、必然的に、シンクロ的に、そんな自分に見合う出来事、現象、人が現れるようになる。・・・もっと正確に言えば、そういう状況を自分で『作り出す』ということだね。何度も言うようだけど、これは道理であって全く不思議なことじゃないんだ。


「いつやるの? 今でしょ!」の人は違う意味で使っているんだろうけど、その「今」というゼロ・ポイントに立脚すると、過去や未来という概念に意識が囚われなくなるため、自分で条件付けた因果律を超えてカルマはカルマではなくなってしまう。簡単に言うと、カルマというのは、宿命的にプログラムされているものじゃなくて、自分自身で筋書きを書いているものだということ。幸せなことも不幸せなことも全て。


だから、ライターである自分がそのことを深い意識の中で思い出して自覚すれば、そこからはもうカルマは宿命や運命を象るものではなく、自在に、自分の好きなようにストーリーを作ることができるようになる、ってことなんだ。その状態であれば、まさにYさんが書いてくれたように、「何を運命とするかは、自分自身にかかってるってことなのかなぁ。」ってことが実感される。


そして、「私が人の話を聴くことを自分の運命と決めたのは、別に運命ではなく、単なる意思じゃない?」ということへの僕の回答は、Yさんがどの意識のレベルでそれを決めたかによる。端的に言えば、Yさんがまだ自覚していないような深層レベルでそれを決めたのであれば、なにがどうあろうと、そうしていくことがある期間の(もしくは人生全体の)重要なテーマになる。でも、表面的な意識で決めただけだと、それは長くは続かず、別のテーマに移行することになると思う。


現在の僕らは、というか人間の多くは、まだ意識(次元と言ってもいいかもしれない)の広がりや深化について認識が浅いから、単純に「意識」と「無意識」という二層構造で語られることが一般的かもしれない。でも例えば、寝ている時に見る夢を「これは夢だ」と自覚して自由にできる人は、いわゆる現実の中でも自分の思うように事が運ぶ経験をしやすい。これは当然のことで、意識の使い方に習熟すればするほど、より自分の意に沿った生き方ができるようになっていく。


それと同じことが、ヘミシンクや音楽瞑想をしている人、何らかの方法で潜在意識や高次意識の自己にアプローチしている人に多く見られる。もっとも地球の全人口からしたら、まだまだ少数だろうけど。


こうしたことは、一口で意識ということもできるけど、具体的には、考え方や物事の見方、感情の持ち方、自分や他人や物事に対するイメージ、そして実際の行動や態度、話す内容を通じて現れてくるものなので、例えば自分の感情に客観的に向き合ってみるとか、何かの固定観念に縛られていないかチェックすることで、自分の中での「ブロック」に気がつき、それを壊すか、迂回する方法を見つけやすくなる。


ちなみに、迂回する方が負荷が少ないから、無理に自分の中の凝り固まった考えを打ち砕こうと懸命になる必要はないと思う。一旦ブロックをかわした後で異なる視点に立ってみると、その次に同じブロックに遭遇した時に打破したり乗り越えるのが楽になるので。


物事をどう捉えてどう考えるか、また、どんな感情を自分に住まわせるかということは、その人の行動に背後から多大な影響を与える。このことは哲学的にも心理学的にもずっと言われてきたことだけど、実は、それは意識の各層とも関係している。潜在意識は感情やイメージングに関わりがあり、観念とか思考は潜在意識よりも深い意識と繋がりがある。


だから、例えば自分や他者を呪うような感情やイメージを持っている人は、必然的に身体の様相もそれに応じたものに変わってくるし、行動も危ないものになってくる。逆に、人の幸せや豊かさを願い、そのような暖かい感情を持っている人は、自然とそれが行動や言葉に現れる。


同じように、視野や考え方に柔軟性がある人は、自分とは異なる他人の考えに耳を傾ける余裕があるし、見方が違うからって憤ったり誹謗中傷したりすることもない。また、無理に相手の考えを変えさせようともしない。早い話、自分の考えを押し付けたり、洗脳させようとはしない。なぜなら、それが相手だけでなく自分自身をも縛ることになり、思考の自由度を奪うことになると分かっているからね。


カウンセリングではどうなのかは分からないけど、人の話を聞く、あるいは話し合うというのは、基本的に、相手の存在、相手の考え方、相手の生き方を認めるってことから始まるものだと思う。そういうところをベースにして、その人自身の自尊心や価値、目標や希望のようなことに“本人自ら”が気がつくように手助けする、というのが大切なことだろうと思う。自分にとって納得できる答えが、相手にとってもそうであるとは限らないから。


少し話が逸れたけど、日常的な意識や感情の持ち方一つにも現実を変える力があるから、それをより根源的な部分から行えるようになれば、それだけ運命と自分の意志(意思)との間の境目がなくなってくる。そして、もし完全に垣根がなくなって一体化するほどになれば、自由自在に人生を謳歌していることを自他共に認めるようになると思う。まあ、その時には、決められた運命か自分の意志かなんて全く気にならなくなるだろうね(笑)

 

///////////////////////////////////

P.S.

これを書いた後で、ブログで運命や自由意志についての翻訳を二つしたことを思い出しました。

http://blog.goo.ne.jp/creative_imagination/e/a0e6e564ef5a98039bc951fc91c7530c

http://blog.goo.ne.jp/creative_imagination/e/3d7b16dfaaa143d9d755e923a2ad1a58

「占星術と自由意志に関する見解」のほうでは、巡ってくる星の影響を受けるのは誰もが同じだが、それにどう対応するかは自分で決められる、ということが書かれてる。これは占星術の視点としては真っ当だし、スピ系の視点としても正しいと思う。

何かの状況がパターンのように繰り返し起きる場合、それは結局、自分自身がある事柄や誰かに対して同じ反応を示し続けているということだから、状況が良くならないのは当然といえば当然の話なんだよね。そういう時に頑なになってしまうと、いつまでも気に食わないループに陥ってしまう。だから、改善したければ、そこで反応の仕方を変えるか、力みのない素の自分を出すかする必要がある。

状況それ自体や相手を変えようとしてもまず変わるものではないけれど、自分の考え方や見方、感情の持ち方、広く言えば意識のあり方を見直すことで、それに応じて外部の状況や相手の反応にも変化が出てくる。ここを誤って、人のあり方を変えようとするばかりで自分は頑固なままの人もいるけれど、それは土台無理な話だと思う。


また、こういうチャネリング・メッセージもあります。一応、紹介だけしておきます。
(翻訳は専門の方で、僕じゃないです)

2010年5月19日 マシュー君のメッセージ より 占星術に関すること


22. I have been asked if the universe’s astrological aspects are as significant as some people believe. Without knowing how much importance each individual ascribes to planetary movement, I can only say that their changing positions do indeed affect your lives. You choose your birth time in accordance with celestial activity because its influences, with which you are energetically aligned, enhance other choices in your soul contract. The juxtaposition of some planets is favorable for evoking positive feelings, high energy and meaningful productivity, while other alignments present considerably more challenges in those respects. Knowledge of the various astrological influences can be helpful in decision-making, but dependence upon daily “readings,” even from a chart with meticulous accuracy, would be suppressing the spiritual growth that comes from recognizing and heeding inner guidance, your soul’s messages that come as intuition.


http://www.matthewbooks.com/mm/anmviewer.asp?a=120&z=2

 

22. 星占いでいう宇宙の様子はある人たちが信じているように重要ですかと訊かれました。惑星の運動に個人個人がどれだけ重要性を置いているのか分かりませんが、それらの変化する位置が実際にあなたたちの人生に影響することだけは言えます。あなたたちは自分の誕生時を天体の活動に合わせて選びます。なぜなら、あなたたちとエネルギー的に同調しているその影響力が、あなたたちの魂の合意にある他の選択を強化するからです。惑星の横の配列によってポジティブな感情や高いエネルギー、大きな生産性が呼び起こされやすくなります。一方で、他の配列は、それらの点でのより大きな課題を提示します。様々な占星術の影響を知ることはなにか決める際に助けになりますが、毎日”リーディング”に依存することは、それが非常に正確な星座表からであっても、スピリチュアルな成長を抑えることになります。それはこころのガイダンスを認識しそれに従うことでもたらされるあなたたちの魂のメッセージであり、直感として来るのです。


http://moritagen.blogspot.jp/2010/05/blog-post_27.html
 

///////////////////////////////////

 



3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (まるまるまるた)
2013-10-09 08:07:54
お久しぶりのコメントです。

1.ワクワクを基準に行動
2.気づき・手放しを活用

これを動的と静的アプローチと分類。

いや、さすがだわ、C.I.さん。
これはわかりやすい。

わたしの中で理解が不足していた(欠けていた)ところを埋めていただいた気がする。

個人的な感触ですが、人によっては、人生の中で、「運命ポイント」のようなものが決められていて、それは通過する必要があって、それまでの人生でそのポイントから離れていると、強制イベント(病気とか失職とか・・・)が起こって、そのポイントへ戻るように促されるように感じています。

離れ方が大きいと、強制イベントも「かなりの品」になる(笑)。

自分の中心・根底と今の自分の位置がどの程度合致していて、どの程度離れているかは、なかなかわかりにくいけれど、シンクロの早さ(意図ーシンクロまでのタイムラグ)で、一つの指針となりそうですね。

イエスやブッダになると、シンクロではなく、その場で起こる意図した創造になるのでしょう。

もう一つは、行動する際に、過去・未来、他者・出来事(結果)をどれだけ気にしなくなってきているかということも、自分が、根本にどれだけ近づいているかの目安になりそうに思います。

何だか楽しい時期になってきましたね。
ではまた。
返信する
BE STILL (CI)
2013-10-09 19:06:27
バシャールがワクワク(エキサイティング)することをしようと語る一方で、エックハルト・トールさんをはじめ多くの方が静寂(Stillness)を語ります。

この二つは極性が逆のように思えますが、その実は陰陽や光と影のように二つでワンセットになっていると思います。

この物理世界という水圧の高い海中にいて、僕らはなんだかんだと自分に沢山の重荷をくっつけていますが、ワクワクでもスティルネスでも、結局は心身を身軽にするための方法論には違いなく、好きなやり方をしたらいいんだろうと思います。

>離れ方が大きいと、強制イベントも「かなりの品」になる(笑)。

これですね。

バシャール/ハイヤーマインドは決して諦めない!!
http://youtu.be/WQvOdJe0blk

>もう一つは、行動する際に、過去・未来、他者・出来事(結果)をどれだけ気にしなくなってきているかということも、自分が、根本にどれだけ近づいているかの目安になりそうに思います。

これ読んで、自分独自の存在価値(意義)を自分自身に認めてあげるって、ことかなぁと思いました。

最近の僕のお気に入りの言葉は、スザンヌ・リーさんのブログで見た「I love myself unconditionally.」(わたしは無条件に自分自身を愛してる)というものですが(※)、以前はなかなかそうは考えられなくて、一日の大半を自己否定に費やしてはダメ人間だとなじってきました。

※New Visitors -- Part 3 Another Surprise Visit
http://suzanneliephd.blogspot.jp/2013/10/new-visitors-part-3-another-surprise.html

今でもネガティブになって悲観する時もありますが、ちゃんと自分が生きていることの価値を自分で分かってあげられるようになろうと思っています。

いつもコメント下さってありがとうございます。
返信する
たびたびで・・・ (まるまるまるた)
2013-10-09 19:41:02
>この二つは極性が逆のように思えますが、その実は陰陽や光と影のように二つでワンセットになっていると思います。

おっしゃる通りです。
以前は、バシャールのワクワクに従って・・・が理解しにくかったのです。

それは、ワクワクが「欲にかられて」と「本質から」の場合で、見分けられるのか?という疑問でした。
似て非なるものですから。

しかし、おそらく、ワクワクで活動すると、内側のある部うbんの静けさが確認できるようになるのだろうという気がしてきました。

同様に、エックハルトの静けさの中にいても、行動があらわれてくる(彼が本を書いたように)。

それは両者とも、「我が業は我が為すに非ず」の境地に至るからなのだろうなと。

陰陽・静動・・・面白いですね。

石井ゆかりさんのご紹介ありがとうございました。
年報・週報とも、とても参考になりました。
返信する

コメントを投稿