With the I Ching

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日々心がける事柄は、たったそれだけ。

2013-03-25 21:03:23 | スピリチュアリティ

今日は久しぶりに、自分の言葉での記事を書きます。

この頃感じた雑感を、徒然と綴ってみたいと思いますが、昨日訳した3月23日付のUte Possega Rudelさんの記事に触発されたことと、それからRoxana Jonesさんの覚醒植物に関する記事を読んで思ったことがメインです。
 

☆☆☆ 前半 ☆☆☆
 

前半は、主に昨日のUteさんの記事に関連した話です。

ワンネスとかビーイングネス、あるいはユニティ、All-That-Is、単純に I AM でもいいと思いますが、知識として持っている人は多くても、それを実感することができるかできないかで、翻訳や原文を読む際に、だいぶ印象が違うと思います。

23日付のUteさんの記事では海の譬えが出てました。執着、思い込み、こだわり、恐れ、自虐・・・僕らは色々な重りをぶら下げながら、泳ごう、浮上しようとしているわけですが、もちろん、重ければ水面に顔を出すことはおろか、どんどん沈んで行ってしまいます。それに、もし泳ぎ方や波乗り方法を知らなければ溺れてしまいます。

だからまずは心や身体にくっ付けている重りを取り外す(スピリチュアル用語では「手放す」)ことが必要であり、同時に、精神的な道を泳ぎ切る(渡り切る)技術と気力、モチベーションも欠かせません。

で、「手放す」という状態は、もう十二分にその経験は得たと納得することから生じる場合もあれば、たくさん経験しなくても思索や直観、内的な叡智によって、もはやその必要性を感じずに執着が消える、または断ち切る場合もあります。

コンピュータ用語で「メモリーを解放する」などと言うように、それまでこだわっていた内容をリリース、フリー、レット・ゴーしてあげることで身軽になれば(いずれも手放す・自由にするの意味)、代わりに新しい認識や観点、能力を得ることもできるし、本質的には、そうしたものを超えて自由闊達(フリーパス状態)になることもできる、というわけです。

それじゃあ、何を一体自分は抱え込んでいるんだ、とか、何を手放したらいいんだ、ということを知るには、まずはそうしたことに関する情報、知識が必要です。もちろん、今まさに苦しんでいるストレスがあるのなら、スピリチュアルや自己啓発的な知識の有無はともかく、何とかしてそれをなくしたいと思うでしょう。

それで、ストレスをなくす、もしくは状況を改善するための知識を得ることは、一つに、今僕らが表面的に知覚している意識を変えるのに役立ちます。これについては特別深遠な教えでなくても、よくある自己啓発本や心理学の本などを開けば何かしらヒントになることは載っているので参考にできるでしょう。

もう一つの知識に関するポイントは、特定のことについての情報を蓄えることが潜在意識(一般に言う無意識)において量的転換を図る上で必要だ、ということです。潜在意識は、普段僕らが自分だと認識している意識のより深い面にあり、それは現実と人格に対してより大きく、より深い影響力を持っています。

たとえば、いつもは理知的に思える人でも、泥酔すると信じられないほど感情を爆発させたりすることがありますね。顕在意識では自覚的に制御できることでも、潜在意識に根付く感情や思い込みの力は、それとは比べ物にならないくらい程度に差があります。

この潜在意識に働きかけて自己修正を図ろうとする方法は、今昔問わず様々な方法が試されてきました。例えば、ヴィジョンやイメージを使った瞑想法、音楽や言葉(真言、マントラ、チャント、神経言語プログラミング)による感情統制、アファメーション(自分に対する肯定的な確言・宣言)、退行催眠でトラウマとなっている感情を見つける、色彩や香りを用いたセラピーなどです。

いずれにしても、目標となる情報、方向性を定める指針がないと、どちらが海面なのか分からずに彷徨う(曖昧になる)状態に陥るので、繰り返し潜在意識に方向付けを行おうというものです。単純に言えば、彷徨っている状態は地図や方向感覚を失っているということなので、きちんと自発的に進む方角を決めるか、適切な道先案内人(ガイド)を得るということです。

ただし、潜在意識の受け答えは「こっちですか? それとも、あっちですか?」のような選択肢の限られた単純なものであり(意識の奥底に行くほど複雑性が低減し、よりシンプルで強力な要素が出てくる)、あえて明確な答えを避けて「どちらでもない(動かない)」を選ぶのでなければ、ネガティブであれポジティブであれ、「では、そのようにします」と、社長秘書のようにテキパキと働きます。

とはいえ、この潜在意識の中には色々な感情パターンが渦巻いていて、それらをお掃除しないことには想定していたような働きは為されません。新しい情報をインプットして上書きすればよいというものでもなく(それによって緩和されるかもしれませんが)、これまでに蓄積してきた分はそれとして経験することになります。これが感情の起伏や精神的な好調不調の波の一因になっていると思います。また、こうした浄化作業を一般に「カルマを解放する」のように言っています。)

しかし、実のところ感情の発端となった意思、想いというものが根本的な原因となっている場合があり、それを癒すのは潜在意識に働きかけるだけではダメで、対症療法になってしまいます。そこで、例えば退行催眠やアカシック・レコード読みでは、過去世や来世の内容から問題となっている原因を取り出すということをしています。それはたぶん、潜在意識よりも深い領域である深層意識や集合的無意識にアクセスしている、ということじゃないかと思います。

アファメーションやマントラを何万回も唱えるような量的転換に対して、原因それ自体を変えるという質的転換を図るには、そうした情報や叡智の出所そのものを感じたり、同化する(合一する、100%感じきる)経験が不可欠です。

人為的に形成してきたアイデンティティ(小さな自己)が、一つの海(または空でも自然でも宇宙でもいいですが)としての大きな自己、神なる自己、ユニティ、All-That-Isと融合すると、カルマ(因果)という制限的で条件付けられた枠組みを超えた立ち位置から、あらゆる物事の繋がりを捉えることができます。ある問題を解決するには、それを達観する視点に立たなくてはなりません。

そこはUteさんが書かれているように、虚空(無や空虚ではなく!)、もしくは光で満たされた場で、全ての情報、経験、叡智が一つの存在エネルギーとして統合されています。これはよく言う人類の(地球に付着した)アカシック・レコードではなく、ソースと呼ばれる宇宙の根源、大本のことです。

ソースまたは、それに近い光の領域にいる間は、全てに慈愛のエネルギーが流れています。あらゆる存在に対して優劣の意識がなく、等しく大切に育まれるものだという、思考としてではなく、素のままの自発的な慈しみの心から出たフィーリングだけがあります。とても光り輝く壮大な意識場とでも言ったらいいのか、それを一つの存在と言うのであれば、まさしくそうなんだろうと思います。そして躍動的に息づいています。

そして、ここにいる時は「いまここ」で時間の流れを感じず、呼吸さえ忘れ(というか肉体的な感覚はなく、意識だけ)、静止画の中にいるようにさえ思えますが、物理次元に戻ってくると(逆の意味で目覚めてみると)、時間は極端に早く過ぎ去っています。熟睡して目覚めたら朝だったという感覚のように、この光の海、光の空の中では瞬間の体験に思えることが、3次元の枠内に戻ると数十分も数時間も経っていたりします。

苦しいという感覚が全くなく、完全に幸福感や喜び、楽な状態に意識が浸っている(集中している)ので、恐れや不安だとか達成のための障害や試練として拡張される時間の幅そのものが作られないのです。なので、直線時間というのが因果の経験のために設定された幻想(条件)であることが、ここで意識的に明白なものとなります。

すると、それによって性質転換が起きるわけです。本「質」的に現実に対する見方が変わってしまう。というよりも、何が本来の現実、リアリティであったのかがハッキリして、今まで認識錯誤に陥っていたことに気がつきます。そして、僕らがどこからやって来たのか(どこかの星や宇宙の出身とかいう意味ではなくて)、そして僕らが何者なのかに気がつく。思考の上でも「思い至る」。感情としても何が生来のものなのかに得心する。身体的にも背筋が伸びて、その瞬間、思考・感情・身体の全てが整います。

愛は、感情として心やマインド・セット(思考形態)に抱くものではなく、そうしたものを作り出している存在エネルギー、生命力そのものです。愛情や愛着と混同しそうですが、“特定の誰かや何か”を愛したり好きになったり大切に思うというものではなく、“ありとあらゆるもの”が「愛」という光のエネルギーを基にしています。ただ、それらが中立的に意思を運ぶ電子(素粒子)を介して、感情によって色形や密度を変える原子・分子により構成されている、ということです。

日本には八百万の神とか森羅万象という表現があるけども、そうした認識が理解としては近いかもしれません。愛とは、目に見える見えないを問わず、存在そのものです。あなたも、そして僕もそうです。

電子・・・の件は、いわゆる第三の目、眉間のチャクラに関係していますが、存在エネルギーにどんな意思や感情が加わるかで、いわゆる振動率(周波数・波動)の状態が変わります。ポジティブな意思や感情か、あるいはネガティブなそれかによって、作り出される物質、現象、出来事などが素粒子や原子レベルで規定されるわけです。だから、アセンションに伴って人体のDNAが現在の2本のストランド(螺旋構造の糸)からエーテルの3本目が加わるとか、12本のストランドに変化するとか、あるいは遺伝情報がアセンション仕様に書き換えられるとかいうのは、遺伝子を構成するタンパク質、その構成要素である電子や原子レベルからの変容ということなんだと思います。

で、いったんこの大いなる意識、愛という存在エネルギーの場を知覚すると、そこが基点であり始点である、つまりゼロ・ポイントやONE(一点)であることが分かり、その観点から物事を見るようになるので、必然的に、形成される思考や感情もワンネスを意識したものになります。

それでも、実際には「大いなる全て」は無限で常に変化しているため、一度そこを訪れたとしても単に圧倒されるだけだったり、自分がそのパーツであることを認識するだけで、全体に溶け込んで一つになるとか、あらゆるものの繋がりを密に知覚するところまでは行けないのではないかと思います。正直、僕自身もそこまで行ってません。僕は幾度か「それ」を垣間見た程度です。この辺がまだUteさんや先賢の認識との差を感じるところです。
 

☆☆☆ 後半 ☆☆☆
 

さて、この辺から後半として、ロクサナ・ジョーンズさんの記事の話題とも関連する話に移ろうと思います。

僕が、あるいは他の多くの人もそうかもしれませんが、内的な世界へ旅立つ時は大体、次のようにします。できれば外側の気配や雑事から身を引いて、まず身体的な姿勢・呼吸・鼓動に意識を向け、感情を波立てず平静にし、心を覆うベールの向こう側・・・「いまここ」へと集中します。そして、「そこ」に入ると自然とリラックスして、感謝と幸せな気持ちと一緒に、心地よい高揚感か静けさを感じます。

こうした一種の超越体験は、覚せい剤とか幻覚剤、あるいは麻薬・ハーブのようなものでも一時的、仮想的に体験できるのかもしれません。詳しくはありませんが、LSD・大麻、アヤワスカとかいったものです。しかし、たとえ幻想的なビジョンや光の体験ができたとしても、それは本来の前進的・発展的・成熟的な在り方とは異なるものだろうと思います。

なぜなら、僕らの意識の層を考えると、潜在意識そして深層意識の内容を明瞭&清澄なものにしていかない限り、心の成長やスピリチュアルな(精神的・霊的な)発達というものは付随せず、そうした短絡的な方法では、高い可能性で退廃の道を下っていくことになると思われるからです。

これは陥りやすい罠です。カップラーメンを作るような、あるいはレンジでチン! のような手軽さでスピリチュアルな体験を得ようとしても、そして仮に得られたとしても、それは結局は幻想・幻覚・錯覚・空想・夢想の範疇でしかないでしょう。真の意味で霊的・精神的な積み上げと意識の浄化を行うには、各意識層にある障害物――自らを拘束する様々な制限・条件付け・こだわり・固定観念・先入観(思い込み)、自他の尊厳の否定など――から自分を自由にしていかなくてはならないからです。

この清掃作業(最初の方に書いた「心のメモリーの解放」)をせずに、ただ即物的に霊的に“思える”体験を求めても、それが心の成熟に繋がることにはなりません。それは意識の構成上、明らかに順序と視点が逆なんです。

中には、そうした幻覚的な体験を通して革新的な芸術だとか、一般の人間の知覚を越えた世界を表現しようとする人も世界にはいます。でも、そうした社会的活動を通して人々の認識の幅を広げる働きをしている人というのは、おそらく身心や意識の内的な統合性を第一に考え、そのわずかな補助として適切な用法でLSDやアヤワスカのようなものを使うのでしょう。さもなければ、次第次第に心は暗く淀み、芸術表現にしてもドロドロとした気色の悪いものになっていくはずだと思います。

しかし、現代においては「適切な用法」というのが果たして見出されているものなのか、あるいは伝わっているものなのか、そして、今ある幻覚植物というのが、その本来の高次波動を維持したものなのかについては疑問があります。故オレリア・ジョーンズさんの『レムリアの叡智』には、覚せい剤や幻覚剤に関して章が割かれていて、現存する地球の幻覚植物には古来のように神聖な高次波動を発しているものはなく、そればかりか、黒魔術によって意図的に波動が下げられてきたと記されています。

先述してきたように意識の層には大別して三つあります。表層意識(顕在意識)・潜在意識・深層意識(宇宙意識)です。それらを細かく分けると、バシャールが言及しているように9つだとか、その他の区分の仕方も個人や宗教によりけりですが、あります。いずれにしても、これらの意識の層がクリアであるほど、因果の法則を直観しやすく、創造の仕組み(物事が現象化するプロセス)に対する理解が早く歪みが少ない、という性質があります。なぜかと言うと、創造の工程を邪魔する条件付けという障害物が少ないからです。

そして同時に、意識がクリアであるほど、現象や事象間の繋がりにも気がつきやすくなります。これは不完全ながらも各層の意識がユニティやワンネスの残響を反映しているからです。もしくはそれらの面影を残しているからです。言い換えれば、表層意識としてのこの現実を生きる意識に固着がなく、また潜在意識を汚したり曇らせるネガティブな感情や自己否定の想念にもとらわれず、速やかに因果の根本領域である深層意識へと突き抜けることができる、ということです。

その途中で出てくる霊的なヴィジョンやイメージは、どれも光が、点在する障害物とか固着した観念に反射して色や形を得たものだと思うので、本質的に重要ではありません。だから、それに気を取られて引き込まれると、心を惑わされて不要な回り道をすることになったり、場合によっては意識や波動が下がって各層の意識を濁らせてしまうおそれもあります。

で、この三層の全てがいわゆるボディ-マインドの領域ですが、これをさらに突き抜けた先にスピリットとしての真我、高次の自己との出会いがあります。とはいえ、僕らはそれと気がつかぬ内に(つまり各層が意識化されてないので無意識に)、このスピリットやハイヤーセルフからのメッセージを受け取っています。

僕にとってはこうして静かに文章を書いている時が特にそうですし、それぞれの人の在り方でメッセージが届けられています。例えばガーデニングをしている時や、掃除をしている時、楽器を奏でている時、歌を歌っている時、散歩を楽しんでいる時、お風呂に入っている時、好きな人や友達と話している時・・・などにです。でも、そうしたメッセージも、意識が濁っているほど間接的で、大体は歪みが生じたり、気がつかずに全く伝わらなかったりします。その場合は、自分のエゴが優先されているのでしょう。

大人になって経済観念や所有欲を強く抱き、とりわけ縦社会での権力構造に加わったりすると、三次元の世界観でガチガチに固められることになります。まさに自縄自縛状態です。そうなると、なかなか叡智の道や霊的・精神的な向上に心を向けることが難しいかもしれません。

ちなみに、一般論として子供の頃のほうが早くスピリチュアルな高みに到達しやすいというのは、(かつてのあなたや僕もそうであったように)彼ら彼女らが、いわゆる社会通念だとか、物理的な現実を生きていく上での様々な枠組み・常識・先入観に縛られていないからです。単純に言えば、子供に限らず、強いエゴとかストレス、または自分を優先的に保全しようという考えが巣食っていない人ほど、意識の各層がクリーンで、スピリットまでの道のりをスムーズに進むことができる、ということです。

ところが、これを幻覚剤や覚せい剤、LSDや大麻・コカインなどで行おうとすると、ごく細い通路を通る感じで(ストローで吸い込まれるようにして)一時的に別の領域に誘われるんでしょうけど、それが高次である保証は全くなく、むしろ低次の潜在意識である闇(孤独・無知・愛や幸福感のなさ)に落ち込んでいく可能性のほうが高いと思います。結局は「自力」ではないので、山登りで登頂を果たしたような達成感や爽快感は得られないだろうと思うし、いつでも自分で来た道を昇り降りしたり、安全に往来できるように道を拡幅したりはできないんじゃないかと思います。

それが、そうしたものを安易に使用して、誤った意味での「努力しない」スピリチュアルを求めている人に対して、僕が抱いている懸念です。

ここで、Uteさんが以前に書いていた「伝統的な道・方法」というものを考えなくてはなりません。それは詳しくは言及されてはいませんでしたが、たぶん他力本願の道ではなく、自らの力で問題を克服・解決し、経験的に不必要となった観念を手放していくプロセスのことだろうと僕は思っています。

他力本願が認められるのは、・・・僕の印象では、小さな自己としての自我ではどうにもならないことに対して、そんな自分を支援したいと願っている別次元・別世界の自分やハイヤーセルフ、天使達、マスターなどに懇願する時か、本当に最後の最後、究極的に自らの存在そのものを無限・永遠なるもの(それを神と言おうが何と言おうが構いませんが)にサレンダー(ゆだねる・まかせる・明け渡す・降伏する)時だろうと思います。

でも、実のところワンネスを実感すれば、その「神」と「自己(セルフ)」との隔たりはないんだと知ることになるので、結局は他力本願と言いつつも、本質的には自助性です。つまり、内的な解決を図ることが、(因果での条件や制限による時間差はあるにしても)結局は外的な問題を消滅させることになると分かれば、この道を辿ることこそが王道であり、近道でもあると僕は信じます。

もちろん、現代の技術(音響や光、誘導瞑想など)を用いて意識の変性を補助したり促進することは可能ですし、自分自身の経験的にも有効な手段だと感じています。そしてこれは技術的に現代的であるということであって、そうした補助ツールを用いながらも、ベースとしては内面性の向上や意識の浄化を心がけているのならば、必ずしも伝統的手法に反するものではないと思います。

しかし、一時的な霊的体験やヴィジョン視、霊聴・霊視などに大きな価値を置いて精神的な発達度を蔑ろにしてしまうと、見せ掛けの部分ばかりが冗長して段々と視野が狭くなります。場合によっては、抱え込む自己拘束の鎖を増やしてしまうことになるでしょう。これでは本末転倒というものです。

前半の終わり頃にも書いたように、存在の構成要素は、この世界で「愛」とか「思いやり」とか「感謝」などと呼ばれる意識・エネルギーからなる光です。そしてそこに乗っかった意思や感情が素粒子を働かせ、電子を動かし、異なった重さや密度や振動数を持った原子や分子を形作り、それが人体の細胞を構成したり、周りにある事物の素になっています。

最近はこうして僕も「愛」という言葉を使っていますが、以前は誤解を恐れて意識的に使わないようにしていました。強い言い方をすれば封印していました。恋愛感情や性的な感情、親子間の愛情、故郷のような場所や物への愛着みたいなこととして考えてしまう人もいるかもしれないと思っていたからです。でも、こうしてスピリチュアルの情報が溢れてきた今なら、そういう心配はもう必要ないように思います。

愛・感謝・思いやり・信頼・尊厳を認めること・・・、こうした意識やエネルギーに宿る意思はユニティやワンネスとしての一体性への想いです。「あなたとわたし」とを結び付ける重力や引力のようなエネルギーの働きです。こうした意思には明確な存在感があり、神の息吹により魂(命)が吹き込まれていると表現されたりもします。

そして、こうした意識・想いを基礎とすることが、心の成熟度や精神的・霊的な向上に貢献する「伝統的な道」に他ならないと思います。もちろん、この他にも具体的な身体技法(呼吸法、ヨガ、レイキ、気功、武道などの修養法)は多々ありますが、意識の働き、そして思考・感情・身体の統御を考慮せずに、覚醒植物のような短絡的な方法で悟りを得られるんじゃないかとか、地球(人間)の問題を宇宙人に代わりに解決してもらおうだなどと考えるのは、根本的なところで何か間違っていると思うのです。

新生地球として、そして新生人類として進化を遂げていくためには、まずは人間自身の力でやれることは諦めずにとことんやらなくてはならないと思うし、それが地球に生かしてもらっている恩に報いることだとも感じます。そしてそのためには、一人ひとりが自分自身の内面と向き合って、最も確実で最も直接的な方法で意識を発達させてゆくことが、全ての要です。

その方法とは、何度強調しても足りないほど大切なことですが、「自他に対する思いやり、感謝、寛容、許し、理解などのハートフルな気持ちをもって謙虚に生きる」ということです。それを一言で言えば「愛」に生きるということになるんじゃないかと思いますが、こうした生き方を続けていれば、自然と自分に不必要だと感じるものは手放して、心身ともに身軽になっていけるはずです。

世にある宗教や精神的教義の多くで、たぶんこうしたことが基本的なこととして説かれているのでしょうけど、その他諸々の内容(神の定義や戒律やら)によって差異が強調され、そのために教えが乱立し、時に争いに至ってしまったんだろうと思います。

でも、宇宙の法則というのは、バシャールが指摘したように、たった四つだけ(存在、全=一、反射、変化)、物理学での力も四つ(重力・強い力・弱い力・電磁力)、また僕が学んできた易でも「易に三義あり(易簡・変易・不易)」としています(五義や六義とする人もいます)。いずれにしても、ごくごく限られた数で、とてもシンプルなものです。

日々心がける事柄は、たったそれだけ。
様々な自己制約を外してシンプルで平易な生き方をすれば、混乱や煩わしさのない、豊かな人生と精神的な恵みを自ずと享受できるものと信じます。


今日はたくさん書きました。
翻訳以外で、これだけ長文を書いたのはかなり久しぶりでした(^^)

 

※後半の内容に関しては、少しツイートでも述べたことがあるので、良ければそちらも参考にして下さい。
http://twilog.org/CI_ONOFF/date-130311

一応、以下に抜粋します。

2013年3月11日の自分のツイッターより

CI@CI_ONOFF

ヴィジョン体験や精神的恍惚状態、変性意識、いわゆるトランス体験の類については、音響や光彩を使った方法もあれば、海外では薬物(大麻・LSDなど)を用いて体験を促すこともあるようですが、後者については僕は賛成しません。これらはかえって霊的傲慢さに陥らせて意識を下げる可能性が高いです。
posted at 12:05:06

そして、それは神聖なる自己を内的探求によって見出すことよりも、薬やアルコール、嗜好品などの外的なもので埋め合わせよう、満たそうとする欲求・・・際限のない渇望を生み出すんじゃないかと思います。しかも、そうしたトランスで経験するものは、おそらく深い自己理解には結び付かないでしょう。
posted at 12:09:31

植物を用いた霊的な促しは、たぶん変性意識の補助として先住民族の中で使われていたものだと思いますが、たぶん古来の方法では今は使われていないでしょうし、医療用の鎮痛として已む無く使われる以外は、大麻にしても広く出回らないほうがいいと僕は思います。時折、歓迎するツイートを見かけますが。
posted at 12:18:57

霊性(スピリチュアル的な感性)を高めるのはまさしく自分自身の仕事であって、何か他のものに頼っても本質的には得られるものではありませんし、まして依存的になってしまったら、なおさらです。本末転倒にならないためにも、再度、内省・内観の意義を考えるべきだと思います。
posted at 12:33:10

薬物については、ロクサナ・ジョーンズさんのブログにもあって訳そうか迷っていましたが(http://roxanajones.com/2013/02/21/a-moment-in-time-february-21-2013-ayahuasca-has-healed-me/)、ひとまず自分の意見をツイートできたので、今は置いておき、必要だと思うことがあれば翻訳と共にブログに書くかもしれません。
posted at 12:39:18

 

 



1 コメント

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深いぞ!これぞコツですね (まるまるまるた)
2013-03-25 21:44:35
昨年から、翻訳を始められた意味が、ここに凝縮されて紡がれてますね。

個人的な考えですが、日本語の本を読むよりも、英文を読んで翻訳する方が、内容の噛み締め方が違っていて、より深く内容が自分の内側に蓄積されてくると思います。

それは、生徒として学ぶより、誰かに教える方が自分のより深い学びになるということと同じようなものであると思います。

さらに、これも推測ですが、Uteさんやその他の著者の方の何かが翻訳中にはC.I.さんの身近に(距離的では荷ですけど)存在している・・・正確には重なってくるかな?・・・という感じで、C.I.さんの変容を促しているのかもしれません。


後、これも個人的な感想ですけど、「ひとり」でいること・・・その状態を受け入れるというか楽しめるというか・・・そういう誰にも依存せず、組織(宗教団体など)にも依存しない、自立性が結構大事なような気がします。・・・時に人間としては孤独でも、本当の「愛」を感じる感度が上がってくるような気がします。
結婚しているわたしが言ってもあまり説得性ないかもですけど(笑)。


この記事は、わたしにとって、とても勉強になりました。有難い内容です。感謝します♪
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