さて、この最後は夢なのかな、現実なのかな…
全ての夢が覚めゆくなかで
あゆが願った最後の願い…
それは後に栞が示唆することとなってますが
多分「好きな人がずっと幸せに笑っていられるように…」
そしてそれは祐一ではなく
どういう経緯かはわかりませんがw
神様に届いたようで、
治らないはずの栞が完治し、
秋子さんは後遺症もなく日常に戻り、
舞と佐祐理さんも予定より早く治り、
という様々な「奇跡」という形によって
彼が笑えるようなお膳立てをしていきます。
まあ、ここが駆け足で描かれるのは
ある程度予定調和というのと、
既に彼女たちのシナリオは済んでいるのが大きいですね。
でも、祐一にとって起きてほしい何よりの奇跡というのは
こんなことでは晴らしきれず…
しかし、そこで秋子さんから
衝撃の事実、
「樹から落ちた女の子は死んではいない」
という事実を知らされ、急いで病院へと。
そこには、7年間の間ずっと目を覚まさないあゆが…
そしてここからが原作と違う解釈であり、
目覚めない彼女に対して
祐一をはじめ皆が彼女が幸せを取り戻すように
という考えでいいのかはわからないですが
妙に介護のシーンがリアルだったので、
多分取材したんだろうなあと思った僕は
アニメをもう少し素直な気持ちで見るべきですねw
まあ、それはともかくそれでも目覚めないあゆ…
冬が終わり、春が来て、夏が過ぎ、秋が訪れ
そしてまた彼女との想い出の眠る冬がやってきましたが
それでも起きないあゆ。
さすがに祐一もくじけそうになる時に
最後のキーを舞が伝えに…
なんで1年もと想わずにはいられないですけど、
でもこれは冬に動いた物語であり、
冬にそれを見つけないと意味がないのでしょう。
まあ、そのあたりはご都合主義でw
そして祐一はついに本当の最後のピース、
「本当は渡していなかった赤いカチューシャ」を
「学校」で見つけて泣き崩れます。
そう、本当に夢から覚めていないのは
実はあゆではなく、祐一だったと。
その渡せなかったという現実へと戻ってきた先に
待っていたのは…
ゲームでもあゆシナリオの最後の印象的な
すごくありふれているような待ち合わせ風景。
何度となく少しずつ形を変えながら
待ち合わせあった駅前のベンチというKanonにのせて
二人はまた歩き出します。
いや、正確にはあゆは車イスでしたけどね。
これってよく考えると本当にリアルですよね。
7年も寝たきりだった人間が
急に元気に歩き回れるわけがないわけですし。
そして、それを見越したかのような
「また昔みたいに元気に走り回れるかな」という
あゆの言葉。
さらに畳み掛けるように雪原をあゆが走るいつものED
この京アニにしては単調な動きが
全てはこのために繋がっているとするならば
実に策士というべきかw
さて、なんにしてもこれで2度目のアニメとなった
Kanonは終了。
全編を通した完璧と呼ぶに相応しい作画クオリティ、
2クールでもなお若干詰めこみ気味な部分はあれど
原作をきっちりと消化した上で昇華させて
6つのフラグをキレイに回収したまとめ方。
半年間、本当に楽しめました。
この後も、京アニの作品は
全てみたいものばかりなので
当然のように追いつづけようと思います
以下、チラシの裏。
さて…上に書いたのは表の解釈ですけど、
今回の24話について想うことというのは、
もう一つあって、それは
「どこからどこまでが夢?」というお話。
病気や怪我をしていた人の復活、
彼女たちのそれぞれの未来、
あゆが生きているという事実、
あゆを世話する風景
そして祐一がカチューシャを見つけるシーン…
この全ては確かに奇跡という言葉と
夢という言葉によって生み出されているものなんですけど、
でもこれが果たして「現実」なのかなあと。
そう想ったのはなぜかというと、
今回のお話の全てが、意図的に抽象的に
描かれているからこそでして…
23話から24話への意図的な時間の跳躍、
そしてカチューシャ発見から
あゆとの待ち合わせの間の時間の跳躍…
ここのどこからが現実で
どこからが夢かなんて
確か描かれていないし、触れられてないはず。
つまり、この幸せな世界ですらも
本当は実はあゆ、あるいは祐一の夢のなかである
という解釈は、トンデモになるのかなw。
以上、チラシの裏
全ての夢が覚めゆくなかで
あゆが願った最後の願い…
それは後に栞が示唆することとなってますが
多分「好きな人がずっと幸せに笑っていられるように…」
そしてそれは祐一ではなく
どういう経緯かはわかりませんがw
神様に届いたようで、
治らないはずの栞が完治し、
秋子さんは後遺症もなく日常に戻り、
舞と佐祐理さんも予定より早く治り、
という様々な「奇跡」という形によって
彼が笑えるようなお膳立てをしていきます。
まあ、ここが駆け足で描かれるのは
ある程度予定調和というのと、
既に彼女たちのシナリオは済んでいるのが大きいですね。
でも、祐一にとって起きてほしい何よりの奇跡というのは
こんなことでは晴らしきれず…
しかし、そこで秋子さんから
衝撃の事実、
「樹から落ちた女の子は死んではいない」
という事実を知らされ、急いで病院へと。
そこには、7年間の間ずっと目を覚まさないあゆが…
そしてここからが原作と違う解釈であり、
目覚めない彼女に対して
祐一をはじめ皆が彼女が幸せを取り戻すように
という考えでいいのかはわからないですが
妙に介護のシーンがリアルだったので、
多分取材したんだろうなあと思った僕は
アニメをもう少し素直な気持ちで見るべきですねw
まあ、それはともかくそれでも目覚めないあゆ…
冬が終わり、春が来て、夏が過ぎ、秋が訪れ
そしてまた彼女との想い出の眠る冬がやってきましたが
それでも起きないあゆ。
さすがに祐一もくじけそうになる時に
最後のキーを舞が伝えに…
なんで1年もと想わずにはいられないですけど、
でもこれは冬に動いた物語であり、
冬にそれを見つけないと意味がないのでしょう。
まあ、そのあたりはご都合主義でw
そして祐一はついに本当の最後のピース、
「本当は渡していなかった赤いカチューシャ」を
「学校」で見つけて泣き崩れます。
そう、本当に夢から覚めていないのは
実はあゆではなく、祐一だったと。
その渡せなかったという現実へと戻ってきた先に
待っていたのは…
ゲームでもあゆシナリオの最後の印象的な
すごくありふれているような待ち合わせ風景。
何度となく少しずつ形を変えながら
待ち合わせあった駅前のベンチというKanonにのせて
二人はまた歩き出します。
いや、正確にはあゆは車イスでしたけどね。
これってよく考えると本当にリアルですよね。
7年も寝たきりだった人間が
急に元気に歩き回れるわけがないわけですし。
そして、それを見越したかのような
「また昔みたいに元気に走り回れるかな」という
あゆの言葉。
さらに畳み掛けるように雪原をあゆが走るいつものED
この京アニにしては単調な動きが
全てはこのために繋がっているとするならば
実に策士というべきかw
さて、なんにしてもこれで2度目のアニメとなった
Kanonは終了。
全編を通した完璧と呼ぶに相応しい作画クオリティ、
2クールでもなお若干詰めこみ気味な部分はあれど
原作をきっちりと消化した上で昇華させて
6つのフラグをキレイに回収したまとめ方。
半年間、本当に楽しめました。
この後も、京アニの作品は
全てみたいものばかりなので
当然のように追いつづけようと思います
以下、チラシの裏。
さて…上に書いたのは表の解釈ですけど、
今回の24話について想うことというのは、
もう一つあって、それは
「どこからどこまでが夢?」というお話。
病気や怪我をしていた人の復活、
彼女たちのそれぞれの未来、
あゆが生きているという事実、
あゆを世話する風景
そして祐一がカチューシャを見つけるシーン…
この全ては確かに奇跡という言葉と
夢という言葉によって生み出されているものなんですけど、
でもこれが果たして「現実」なのかなあと。
そう想ったのはなぜかというと、
今回のお話の全てが、意図的に抽象的に
描かれているからこそでして…
23話から24話への意図的な時間の跳躍、
そしてカチューシャ発見から
あゆとの待ち合わせの間の時間の跳躍…
ここのどこからが現実で
どこからが夢かなんて
確か描かれていないし、触れられてないはず。
つまり、この幸せな世界ですらも
本当は実はあゆ、あるいは祐一の夢のなかである
という解釈は、トンデモになるのかなw。
以上、チラシの裏
言われてみれば確かに、抽象的なイベントが多い点からも、何処か現実感を欠いた部分がある印象を受けますし。
妙に「みずか」の立ちポーズに似せた「ちびあゆ」の存在も気になりますしw
http://www.kid-game.co.jp/kid/game/game_galkid/kisetu/kisetu.html
↑比較資料w
と言うか、そうも解釈出来る様に、あえて余白を残した、それすらも京アニの予定調和だったとすれば、この「Kanon」という作品の底の深さを原作以上に体感出来るものに仕上がった、最高の作品になったと思われw
全てチェックして、
自分の考えと同じだったり
違ったりを楽しんでいましたよ。
是非CLANNADでもやりませう。
まあ、それ以外の作品でも
見るものが会えば是非w
で、この解釈ですが
もともとのKanonのそれぞれのストーリーの
終わり方にしても
最後の願いに関係するものは
どこからが夢でどこからが現実かを
意図的に表していないんですよね
それだからこそ、この作品の終わりとして
これは実に見事だったと想うわけで
とりあえず今はいい作品だったと
心から余韻に浸りたいと思います