鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

今日は12月の29日。

2007-12-29 08:40:37 | 直言!
いつもだったらもっと何か家事をしていたが今年は年賀状を書き始めて体調を崩してしまって何もしないでボーと過ごしている。
それでも年賀状の宛名書きは夕べ深夜までかかって仕上げた。11時ごろ宛名のプリントを終えたが手書きしたものをまた宛名の名簿に登録する作業した。これをしておくと来年は楽だろうと考えてそうした。
その間に年賀状印刷の本を購入して少し勉強をしなければならない。まだまだ分からないところがある。いつもは裏には一言の言葉を入れるが今年はやめた。印刷したままにして今朝、夫にポストに入れてもらうようした。
しかたがない。
来年は年賀状の印刷も考えてみようかなと思ったりするが果たしてできるのかどうか-------。

子どものころ29日に餅を搗くと苦労がつきまとうといってたいて28日か30日に餅つきをした。
昔は私が住んでいた近所に在日の人がいたので私の家にきて餅つきを一緒にした。私の子どものころはもっと寒かったような気がする。
このころはまだ祭祀は祖父が健在だったので旧暦でしていた。
これで我が家が日本の正月はひっそりしていると思ったら大間違い。
隣町に私の父親の姉がいたのでその家族が私の家にきて父親に挨拶に来られた。本家の直系の長男ということで姉は年上でも外に出た娘だったので必ず私の家にこられた。家族の中で父親の弟たちと似たり寄ったりの年恰好の子ども、私から見れば従兄弟がいたのでこの家族がくると叔父たちが我が家にやってきた。
そしてここで膳を囲んで飲んだり食べたりとした。

あの時代も我が家もまだまだ裕福でなかったのにどうして酒の肴を作っていたのか今思い出すことはない。鶴橋で買って来た豚肉だったのか。いつも乾いた明太は家にあったのでこれを韓国の洗濯棒(韓国語でパンマイ)叩いている母親の姿は覚えている。それをちぎりながら食べていた叔父の姿を覚えている。
祖父が亡くなって高校2年の時から祭祀は我が家で行われ日本の会社に勤めていた父親の都合で日本の休みに合わして新暦で祭祀をするようになった。
このなかで北朝鮮の政治団体を支持者する一家族は8月15日は途中でいつもいなくなった。
奈良県のどこかで行なわれていた解放記念日の「゛光複節」の行事に参加するため朝の祭祀、茶礼が終わるといそいそと帰っていった。
1960年代後半あたりになるとそういう光景が見られた。
このとき私はそういうところに行くのが異様な光景に見えていた。
そして年を重ねて縁があって韓国系の新聞で仕事をするようになって8月15日に私も参加するようになった。
若いときは嫁さん家業はほったらかしだった。
夫の兄嫁も高齢になってきた。いつまでも甘えているわけにはいかない。
もう50代の後半からこの行事にでなくなった。若い記者にまかせて私は夫の兄の家に行っている。長いこと光複節に参加していない。

そんなことをまた正月の茶礼を目の前にして思い出した。
子どもの頃よく歌った。
「もういくつ寝るとお正月」そして正月になると「年の初めのためしとて---」なんて歌っていたがそんなことから遠ざかっている。
このごろは正月の挨拶は韓国語で「セーヘ ポンマニイ バドセヨ(新しい年に福をたくさん頂いて下さい)」と言っている。
こんな言葉を生涯使わないで帰化すると30代の時は思っていたのに人の出会いで私の人生は180度変わった。
これも私の人生だと思っている。
29日、今年もあと2日になった。 


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