全国紙の朝日新聞朝刊の生活面に「積極的その日暮らし」というタイトルである。私は落合恵子さんの「スプーン一杯の幸せ」からのフアンである。
あれからずいぶんの年月が流れた。落合恵子さんも私も同じ63歳、同学年である。ただ落合さんは1月生まれでこの間63歳になったばかり。私は昨年の8月の末に63歳になった。
落合さんは早生まれだが私とは同学年である。同じ時代を生きてきた。
落合さんは栃木で生まれて東京都中野区で学生時代を送られた。私は京都府の南部、今は木津川市になったが私が育ったころは相楽郡というド田舎、私は山城町で生まれて木津町で育った。東京の香りは唯一国道24号線を行く修学旅行生の観光バスだった。周りはまだまだ宅地開発されていなくて国道の両側は田園風景で今頃は菜の花がいっぱい咲いていた。菜の花の絨毯だった。そして5月になると青々として麦が天に向いて伸びてその背筋の凛とした麦に私は何度も見とれたことがあった。
落合恵子さんとはまったく違う環境で学生生活を送っていたのに結婚して落合恵子さんのエッセイに魅せられた。
高校時代に何かの雑誌で落合恵子さんと吉永小百合さんの対談の記事を読んだが同級生ということとなぜか落合恵子さんの言葉の端々が気になったことを記憶している。
それから何年もたって落合恵子さんが文化放送に勤務しながら詩集やエッセイ集を出された。当時の奈良の町でもふれない感性の言葉の珠玉に私は虜になった。
男女平等を説いて権力の理不尽のあり方にも自分の考えを書いた人だった。
私は結婚して在日韓国人家庭の「男尊女卑」の現実、実家で育った時も「女は黙って」と父親は私を叱り発言をさせてくれなかった。しかし女性が新聞や本を読むことに一切とやかくいわなかった。小学校高学年になると新聞を読むように黙って教えていった。本も読むようにとも言った。
しかし結婚した嫁ぎ先では私の本を読むことも嫌い新聞を読むことも嫌った。生活に余裕のない私は図書館に行きその帰り社会の窓に触れたのが友だちの兄が経営していた喫茶店だった。1ヶ月2回ほどの外出にも夫の身内に告げ口する人がいて私はだんだん押し黙った生活に心の病になった。
そんなとき私の心を「晴れ」にしてくれたのが落合恵子さんの「スプーン一杯の幸せ」だった。今だったら男女対等に自己主張ができるが1960年代の後半から1970年代前半はまだまだ女性は男性の後ろにいた。
そうした日本社会の見えない部分を表に出して落合恵子さんなりの哲学を書いていた。そして私は共鳴し感動しそのはやる心は「スプーン一杯の幸せ」を連載していた女性セブンあてにフアンレターをせっせっと書いた。
そしてやがて何かの名鑑で落合恵子さんの自宅住所(今だったら個人情報法で出されないだろう)がわかって毎週毎週、感想文を兼ねたフアンレターを書いた。大方4年近く書き続けた。
その間に自宅の電話番号がわかって最初はお母さんとの会話だったがそのうち夜になると落合恵子さんが直接に電話口にでられて何度か話をした。
天にも上るように浮き足だったことを体験した。
雑誌記者時代は無理にお願いして寄稿もしてもらった。
ナイブーな繊細な落合恵子さん、しかし心の広さと気さくな人柄になおさらファンになった。営業マンたちは大変喜ばれた。これで購読と営業につながったという。この恩返しはまだ落合恵子さんに何もしていない。ただただ申し訳ない気持と感謝の気持で今もいっぱいである。
そして私は男女差別より在日コリアンの諸問題が私に課せられた課題とわかって私の問題対象は男女差別でなくて在日コリアン差別事象になった。
しかし人権差別も取り組む落合恵子さんとは同じだが私は在日コリアンの問題は自分の問題として正面から見据えて記事や文章にしている。
いつのまにか落合恵子さんに手紙を書くことはなくなったがいつも影で応援している。大阪で落合恵子さんのテレビの楽屋を訪ねた女友だちも今も落合恵子さんのフアンである。テレビを見ると見たよと話してくれる。
54歳の時は人生のとりあえずの折り返し点で「午後の昼下がり」のタイトルでエッセイを書いておられた。それも思いでに残っている。
そして今度は「積極的その日暮らし」である。
これからは自分の健康に留意して1日1日を大切にそしてぼんやり生きることだろうと文章を読んでそう思った。
高校時代に落合恵子さんの名前を知ってから随分と長い年月が立った。
文化放送のパーソナリテイのアナウンサー時代は「レモンちゃん」が愛称だった。今もその面影を残して若々しくイキイキしておられる。
これからこのエッセイが楽しみである。
お母さんを最後まで介護された落合恵子さん。すごいな。当たり前と言う人もいるが介護はそんな生易しいものではない。ホームヘルパーさんとの二人三脚の介護と言っても1日も気のゆるむ日がなかったと察している。
そして落合恵子さんの虜になった奈良県宇陀郡生まれの女性、奈良市内での幼稚園の先生を辞めて落合恵子さんが経営する絵本の店・クレヨンハウスに飛び込んで行った。私は思いきった決断と情熱に驚いた。魅力ある落合恵子さんの側を片時も今は離れないで秘書をしておられる。
奈良県から巣立っていったことも誇りに思っている。彼女の同級生たちはもう結婚して子どもも大きくなっていることだろう。必ずどこかで絵本のお世話になっていることだろう。彼女に恋をしていた男性も何人かいた。彼女と会うのを目的に私の家に若い男性たちが遊びにきていたころが懐かしい。私の30代の初めだった。そのころ「スプーン一杯の幸せ」のエッセイが連載されていた。懐かしい。そのときの私の子どもは沖縄で暮らしている。結婚して子ども2人に恵まれている。私自身、長い年月を生きてこられたことにまた感謝の念でいっぱいである。そして生きる勇気を与えてくれたのが落合恵子さんの「スプーン一杯の幸せ」のエッセイだった。
「その日暮らし」のタイトル。落合さんらしいなと心の中でクスクスと笑っている。これから毎週楽しみになりました。
あれからずいぶんの年月が流れた。落合恵子さんも私も同じ63歳、同学年である。ただ落合さんは1月生まれでこの間63歳になったばかり。私は昨年の8月の末に63歳になった。
落合さんは早生まれだが私とは同学年である。同じ時代を生きてきた。
落合さんは栃木で生まれて東京都中野区で学生時代を送られた。私は京都府の南部、今は木津川市になったが私が育ったころは相楽郡というド田舎、私は山城町で生まれて木津町で育った。東京の香りは唯一国道24号線を行く修学旅行生の観光バスだった。周りはまだまだ宅地開発されていなくて国道の両側は田園風景で今頃は菜の花がいっぱい咲いていた。菜の花の絨毯だった。そして5月になると青々として麦が天に向いて伸びてその背筋の凛とした麦に私は何度も見とれたことがあった。
落合恵子さんとはまったく違う環境で学生生活を送っていたのに結婚して落合恵子さんのエッセイに魅せられた。
高校時代に何かの雑誌で落合恵子さんと吉永小百合さんの対談の記事を読んだが同級生ということとなぜか落合恵子さんの言葉の端々が気になったことを記憶している。
それから何年もたって落合恵子さんが文化放送に勤務しながら詩集やエッセイ集を出された。当時の奈良の町でもふれない感性の言葉の珠玉に私は虜になった。
男女平等を説いて権力の理不尽のあり方にも自分の考えを書いた人だった。
私は結婚して在日韓国人家庭の「男尊女卑」の現実、実家で育った時も「女は黙って」と父親は私を叱り発言をさせてくれなかった。しかし女性が新聞や本を読むことに一切とやかくいわなかった。小学校高学年になると新聞を読むように黙って教えていった。本も読むようにとも言った。
しかし結婚した嫁ぎ先では私の本を読むことも嫌い新聞を読むことも嫌った。生活に余裕のない私は図書館に行きその帰り社会の窓に触れたのが友だちの兄が経営していた喫茶店だった。1ヶ月2回ほどの外出にも夫の身内に告げ口する人がいて私はだんだん押し黙った生活に心の病になった。
そんなとき私の心を「晴れ」にしてくれたのが落合恵子さんの「スプーン一杯の幸せ」だった。今だったら男女対等に自己主張ができるが1960年代の後半から1970年代前半はまだまだ女性は男性の後ろにいた。
そうした日本社会の見えない部分を表に出して落合恵子さんなりの哲学を書いていた。そして私は共鳴し感動しそのはやる心は「スプーン一杯の幸せ」を連載していた女性セブンあてにフアンレターをせっせっと書いた。
そしてやがて何かの名鑑で落合恵子さんの自宅住所(今だったら個人情報法で出されないだろう)がわかって毎週毎週、感想文を兼ねたフアンレターを書いた。大方4年近く書き続けた。
その間に自宅の電話番号がわかって最初はお母さんとの会話だったがそのうち夜になると落合恵子さんが直接に電話口にでられて何度か話をした。
天にも上るように浮き足だったことを体験した。
雑誌記者時代は無理にお願いして寄稿もしてもらった。
ナイブーな繊細な落合恵子さん、しかし心の広さと気さくな人柄になおさらファンになった。営業マンたちは大変喜ばれた。これで購読と営業につながったという。この恩返しはまだ落合恵子さんに何もしていない。ただただ申し訳ない気持と感謝の気持で今もいっぱいである。
そして私は男女差別より在日コリアンの諸問題が私に課せられた課題とわかって私の問題対象は男女差別でなくて在日コリアン差別事象になった。
しかし人権差別も取り組む落合恵子さんとは同じだが私は在日コリアンの問題は自分の問題として正面から見据えて記事や文章にしている。
いつのまにか落合恵子さんに手紙を書くことはなくなったがいつも影で応援している。大阪で落合恵子さんのテレビの楽屋を訪ねた女友だちも今も落合恵子さんのフアンである。テレビを見ると見たよと話してくれる。
54歳の時は人生のとりあえずの折り返し点で「午後の昼下がり」のタイトルでエッセイを書いておられた。それも思いでに残っている。
そして今度は「積極的その日暮らし」である。
これからは自分の健康に留意して1日1日を大切にそしてぼんやり生きることだろうと文章を読んでそう思った。
高校時代に落合恵子さんの名前を知ってから随分と長い年月が立った。
文化放送のパーソナリテイのアナウンサー時代は「レモンちゃん」が愛称だった。今もその面影を残して若々しくイキイキしておられる。
これからこのエッセイが楽しみである。
お母さんを最後まで介護された落合恵子さん。すごいな。当たり前と言う人もいるが介護はそんな生易しいものではない。ホームヘルパーさんとの二人三脚の介護と言っても1日も気のゆるむ日がなかったと察している。
そして落合恵子さんの虜になった奈良県宇陀郡生まれの女性、奈良市内での幼稚園の先生を辞めて落合恵子さんが経営する絵本の店・クレヨンハウスに飛び込んで行った。私は思いきった決断と情熱に驚いた。魅力ある落合恵子さんの側を片時も今は離れないで秘書をしておられる。
奈良県から巣立っていったことも誇りに思っている。彼女の同級生たちはもう結婚して子どもも大きくなっていることだろう。必ずどこかで絵本のお世話になっていることだろう。彼女に恋をしていた男性も何人かいた。彼女と会うのを目的に私の家に若い男性たちが遊びにきていたころが懐かしい。私の30代の初めだった。そのころ「スプーン一杯の幸せ」のエッセイが連載されていた。懐かしい。そのときの私の子どもは沖縄で暮らしている。結婚して子ども2人に恵まれている。私自身、長い年月を生きてこられたことにまた感謝の念でいっぱいである。そして生きる勇気を与えてくれたのが落合恵子さんの「スプーン一杯の幸せ」のエッセイだった。
「その日暮らし」のタイトル。落合さんらしいなと心の中でクスクスと笑っている。これから毎週楽しみになりました。