震災から1カ月

2011年04月11日 | ジャカルタ通信
大震災からあっというまに一か月が過ぎ、個人的な大惨事も重なり本当に慌ただしい時間が過ぎてしまいました。
この間、自分にできることを何かやらなければと考えた挙句、個人的な大惨事を逆手にとって送別ゴルフ大会で約30名と総握りと送別会を送られる人間がお世話になった人達への感謝祭と称して、精魂込めたカレーを振舞ってのチャリティーガレージセール兼チャリティーコンサートを決行して義捐金募金を企画しました。
半年かけて作成したタイタニック号やゴルフコンペで貰った景品、書籍類、残った日本食材などを供出し、結果として合計5,940,000ルピア+190US$+5,000円=約7万3千600円を集めることができました。





・・・が、ここでこの義捐金をどのように寄付するかが問題です。いままでに、さまざまな機会で義捐金を寄付してきましたが、その度に何かしらの自己嫌悪を感じていました。何かをしなければという強迫観念から、できるのは寄付することぐらいだとお金を出すことで自分の気持ちをやわらげていただけのような気がしています。寄付したお金がどのように使われるかとかはあまり気にしていませんでした。
史上最高の義捐金が集まったというのにその分配方法がなかなか決まらない話が報道され、色々と考えるようになりました。あまりに大きなお金が大きな組織に集まると政治や行政の枠組みに組み込まれ、結果的に個人個人の気持ちは膨大な数の中で埋没してしまいます。お金を出すことも大事ですが、出した以上その使われ方にも目を光らしていく義務もあるような気がしています。
そんな中、私の友人がある企画を立ち上げブログ等で色々と呼びかけています。彼の企画はとにかく被災した人にできるだけ早く義捐金が届くように、そして支援しようという人達の善意がどうのように役立つかを単純に伝わるようにした企画です。正直、まだまだ未熟な企画でどこまで成功するか疑問もありますが、彼は彼でいてもたってもいられない気持ちから過去の経験を踏まえて、ひとつの方策として考えています。被災した人たちは様々な状況ですぐに支援が必要なことも事実で、お役所仕事に付き合ってる暇はないのです。支援が必要な人はアピールする余裕もなく、彼の企画は支援を必要としている人達と支援をしようという善意をいかに結びつけて、単純なシステムでスピーディーに義捐金を被災した人たちに直接届けようというものです。
今回集めた義捐金をいかに有効に寄付するかについて彼の企画も候補の一つと考えています。
ここで彼の立ち上げているブログを紹介しておきます。
東日本大震災地場産業共労(支援)プロジェクトブログhttp://blog.livedoor.jp/jibasangixyou/archives/65649375.html

というわけで、私の5年間のインドネシア生活も後1週間で終わろうとしています。
実は、またしても会社は粋な計らいをしてくれました。定年までの一年間をタイで過ごせというのです。充実したリタイア生活を目指す総仕上げとしては最高の舞台を与えてくれました。

大震災から1週間を過ぎて思うこと

2011年03月19日 | ジャカルタ通信
2泊2日で日本へ帰っていた3月5日の日本一の富士山。7日にジャカルタへ戻り、そして・・・。

それは、妻からの最初のメールから始まった。「怖いよ~」このメールを貰った時点では、既に日本でかなり大きな地震があったとの情報は入っていたのだが、最初は地震とは結び付かなかった。「何が?」という返信に「震度6だって!」と受信。その時点で、留守宅の浦安もかなり揺れたんだろうとは思ったが、まさかあのような大惨事が起こっていたとは・・・。その後、インターネットや周りからの情報で徐々に実際に起こったことが判り始め、TV映像での地震直後の様子や津波の状況を見ても、まさかあの阪神大震災以上の被害にあっているとはとても思えなかった。
妻は外出先で近くの広域避難場所に一旦避難した後、3時間ほど歩いて自宅に戻り、液状化が起こってる様子などを知らせてきた。

毎日、放映される地震後の津波や東日本の被災した様子を映像で見ながらも、実体験ではないためか世界各地で起こった大惨事を映像で見ていたのと同じ感覚が、どこか自分の中にあることに愕然とし、今何ができるかと自問自答の毎日である。ボランティアで被災地まで行って直接被害にあっている人たちの支援ができるわけでもなく、取りあえず今できることは色んな機会で、義捐金を寄付することぐらいである。インナーネットでの寄付は、決済方法をクレジットカードにすればなんの苦労もなく、キーボードを叩いてクリックすればことたりる。

日本人はいままでに幾多の困難を乗り越えてきたDNAをもっている。今回の大惨事も現在進行形ではなく、歴史の中の出来事になることを願うばかりである。

ところで、5年間続いたジャカルタ通信もそろそろ終わりに近づいてきた。
来月からは?通信になります。

乞うご期待!!

新年あけましておめでとうございます

2011年01月02日 | ジャカルタ通信
ブログを覗いてくださる皆様

今年は私にとって区切りとなる最後の一年です。リタイア後の充実した生活のための総仕上げをしなければならないのですが、どうなることやら・・。

ちょっと昨年を振り返ってみると、ダイビングはバリ島だけで計5回、26ダイブしか潜れず、NIKE+iPodは走行距離347km、走行時間41時間でいずれも2009年を下回る結果に終わってしまいました。体重も春に68kg台をマークしたものの最近は増え気味で70kgが切れない日々が続いてる。



といことで今年の目標はダイビング50本、ジョギングは400km、体重はコンスタントに68kgを維持することにします。そして、2012年からの充実したリタイア生活の幕開けを目指して!!

2010 シンガポールマラソン&カジノ

2010年12月07日 | ジャカルタ通信
今年で3回目のシンガポール・ハーフマラソン。
今回はマラソンだけではなく、話題のカジノへ行くことも目的のひとつでした。
3回目ということもあり勝手知ったるシンガポールマラソンと高を括り、メールやホームページも確認することなくシンガポールに乗り込んだ。ところが、まず事前にレースパックを貰いに行く場所がいつものエキスポホールではなく、マリーナ地区に新しくできたスタジアム駐車場に変更されていた。ちょっとあせったが、運がいいことに宿泊するパンパシフィックホテルのすぐ近くのため、空港からタクシーで直行してレースパックを受け取ったらすぐにホテルへチェックイン後、カジノへと気持ちも高ぶり気味。


道すがら車窓からマリーナサンズを横目に見ながら、心は既にランナーではなくギャンブラーに。

まずは、持参したiPadでマリーナサンズカジノを調べ、明日のレースのことなどあまり気にせずカジノへいざ出発と思ったのだが、一応はレースパックを開封してみるかと思いとどまったのが正解でした。
パンフレットを見ると、なななんとレースのコースが違ってるじゃありませんか。スタート地点もいつものエスプラネード前ではなく、セントーサブリッジに。これでは明朝は歩いていけません。どうも、道路の封鎖もあるしタクシーでちゃんとたどり着けるか心配で、コンシェルジェに尋ねたら大丈夫とのことで、いざカジノへ。カジノはマリーナサンズホテルと道路を隔てたショッピングセンターやコンベンションセンターの建物の中にありました。まだ、建物の一部や外回りは工事中だったが、このエリアの雰囲気はほとんど出来上がりつつありました。



これがカジノの内部。写真撮影禁止のため携帯で話している真似をしながらパチリ。
さすがに、賭博場でここはシンガポールとはいっても治外法権的で喫煙も可。ルーレット、ブラックジャック、バカラ、スロットルマシン、その他よくわからないゲームがいっぱいあったが、無難なルーレットで
軽く足慣らしで100USDの負け。

さあ、いよいよメインイベント。

今年のハーフのコースはセントーサブリッジを渡りセントーサ島を回った後高速道路の上をマリーナ地区へ向かって走り、ゴールはいつものシティーホール。

去年よりはいいタイムだったが、お恥ずかし結果に終わりました。

ホテルに戻り、シャワーを浴びひと眠りしてチェックアウト。後は空港へ行くまでの時間を再度カジノで。昨晩ネットでルーレットの必勝法を勉強したので、もう一度ルーレットへ挑戦。でも、頭が回転せず必勝法も役に立たない。後は勘のみの勝負。ということで1,000SIN$勝ったところで切り上げ。

その後、マリーナサンズホテルの最上階を見学して一路空港へ。



腎臓結石顛末記(その2)

2010年11月27日 | ジャカルタ通信
CTスキャンの再検査をしたところ、まだ石が残留していることが判明。CTスキャンの画像を見る限り小さい石はみあたらなかったが大きなのが残っており、前回上部にあった小さいのも下に下りてきていた。術後は特別自覚症状も無く、なんとなく以前よりも尿の溜まりも早く開通したものと思い込んでいたのだが・・・。画像を見せられたとたん、気分が落ち込んでしまった。 ということで、またまた同じパターンでシューティングマシンのお世話になってきました。今回は余裕があったのでカメラ持参で、誰もいなくなったところを見計らってパチリ。多分、写真を撮っていいかと聞けばNGでしょう。この機械の上で約1時間ほど、真ん中にある機械が腎臓の後ろ辺りをコントロールデスク(次の写真)からぐりぐりと操作しながら動かして、位置決めをしているようでした。何度となくグリグリ動かした後、ピ、ピ、ピという電子音のような音とともに、腎臓あたりに衝撃と軽い痛みを感じながらなんとか終了。


今回は、術後におしっこしたら真っ赤な血尿とともに何か異物が出てたので、成功したような気がします。 医者からは毎日最低2リットルの水を飲んで、よく運動しなさいと言われたので、来週のシンガポールマラソンは決行予定です。

腎臓結石顛末記

2010年10月30日 | ジャカルタ通信
腎臓に石があることは15年ほど前から知らされていた。その頃、胆石による胆嚢摘出手術をし、胆石と判るまでの何回かの超音波検査で腎臓にも石があると、教えられていた。その後も、定期健康診断で時々指摘されていて、お医者さん曰く「石が悪さをして自覚症状があれば、その時対処すればいいでしょう」と。

しかし、今回こうして画像をみるともっと早くに処置しておいた方が良かったと反省。思い起こせば、強烈な痛みはなかったが色々と症状はあった。背中がごわごわした感じとか、左側背中の鈍痛とか、そして血尿。実は今回で3回目の血尿が出て、その後左脇腹後ろの鈍痛と違和感や倦怠感があり、病院へ行ったことで、やっとどういう状況かが白日のもとに曝されたのだ。
最初の血尿が出た時はびっくりして翌日すぐに病院で検査したのだが、潜血反応が出ておらず、お医者さん曰く「激しい運動などしたときに腎臓が揺らされて、血が出ることもあるけれど、一時的な現象で心配ないですよ。」と。そんなもんかと、2度目に出た時は、やはり走った後で、それもシンガポールマラソンのハーフの後だったので、全然気にもしなかった。でも、思い起こすとこの時も、なんとなく体調が悪かった。

そんなこんなで、今回はJJC医療相談室で尿検査をしたところ潜血反応が出た。それで翌日は超音波による検査。石は見当たらないとのことだが、左の腎臓が肥大してるとのことで、紹介状を書いてもらい専門の医師に診てもらうことにした。更に翌日は別の病院でCTスキャンでの検査した結果がこの画像である。たいした痛みもなっかので、この画像を見たときはちょっとショックだった。こんなになってたのならもっと激しい痛みがあってもおかしくない気がして、医者からすぐにESWL(体外衝撃波による結石破砕術)を勧められた。前の日に入院して翌日施行して夕刻には帰れるとのことで、後進国でのことで不安もあったのだけれど即決でお願いしたのでした。

前の日に入院とのことで、何か処置をするのかと思いきや血圧と体温を測っただけで、後は何もなし。翌朝も何をするでもなく、午前9時ころに看護婦が来てこれからおこないますと。ところが、どこへ行くのかと思ったら、救急車に乗せられ、時々申し訳程度にサイレンを鳴らしながら、ポンドックインダーからクマヨラン方面へ1時間ほど乗せられ、着いたところは場末のビル。一応なんとかクリニックとは書いてあるのだが、とても病院にはみえない。そんなビルの一室に連れられていくと、そこには似つかわしくないマシンが据えられているではありませんか。でも、いくら外科的手術じゃないといっても、もう少し病院の手術室のようなところでやってくれないと心配になります。
事前にネットでどんなものかを一応調べておいたので、それほど気にはしなかったけれど事前知識がなかったら、何をされるかと心配でたまらなかっただろう。小一時間ほど機械の上に寝かされて、衝撃波を受け一応石は破壊されたとのこと。衝撃波を受けてる感じは電気鍼のような感じでたいして痛くはなかったが、やはりなにかしら内臓に衝撃を受けているような感覚はあった。

ということで、2週間後に再度CTスキャンでの検査で石がなくなっていれば終了だが、まだ残っていれば再度体外衝撃波を受けなければならない。

レバラン休暇2010・イン・イスタンブール&カッパドキア

2010年09月19日 | ジャカルタ通信
今年のレバラン休暇はトルコ共和国。

9月10日午前1時ジャカルタ発のカタール航空でドーハ経由、イスタンブールには昼の12時半ごろ到着。ジャカルタとは4時間の時差があり、ドーハでのトランジットを入れて約15時間の旅。

チェックインしたホテルは旧市街にあるプチホテルで、裏道に面しており周りは道路を椅子とテーブルが占領しているような通りで、イスタンブールの雰囲気が溢れている。
ここからは有名なアヤソフィヤやブルーモスクまたグランドバザールなどが近く、歩いて行けるところでとても便利。

先の写真はブルーモスクの愛称で呼ばれている「スルタンアフメッド・ジャーミィ」で、オスマン朝時代の最高傑作建築といわれている。


■ブルーモスク内部



 内部は青を主体としたタイル模様で、非常に均整のとれた美しさが醸し出されている。


■アヤソフィア博物館



 こちらはブルーモスクよりもはるか1,300年ほど昔にビザンチン帝国時代にギリシャ正教の教会として建てられ、その後オスマン帝国時代にイスラムモスクに改築し、現在は博物館として機能している「アヤソフィア」。

■アヤソフィア内部



内部はモスクに改修された際に偶像崇拝を禁止しているイスラム教により、キリストの壁画などが無残に剥ぎ取られている。長い歴史の中で侵略、征服が繰り返されながらも現在のトルコ共和国では歴史の事実として貴重な文化財として保護されている。
トルコでは政教分離が徹底されていて、ここアヤソフィアではイスラム教徒もキリスト教徒もお祈りは許されていないという。


■グランドバザール



 こちらは約4,400件のお店が軒を連ねる屋根付き市場。その昔は市民が集まる市場として栄えたようだが、今ではほとんどが観光客相手のようだ。


イスタンブールで一泊した後、ボルポラス海峡を挟んでアジアサイドにあるハイダルバシャ駅から夜行寝台電車で首都アンカラへ。朝7時半にアンカラ駅へ着きそこからは、バスで途中観光しながらアナトリア高原中央部にある世界遺産のカッパドキア。

■ギョレメ国立公園周辺にある奇岩の愛称「ラクダ岩」



■キノコのような奇岩



これらの奇岩は数億年前の火山噴火による火山灰と溶岩が積み重なってできたできた地層で、長い年月の風化によりできた自然の景観である。最近は地球温暖化現象により浸食が激しくなっているという。


カンパドキアでの宿泊は所謂洞窟ホテル。岩をくり抜いて作った部屋は夏は涼しく、冬は暖かい。




翌日は今回の旅行のメインイベントの気球ツアー。
朝5時半にホテルからピックアップしてもらい、気球ツアーを企画しているツアー会社のオフィスに集結。その後、予約を確認していざ出発かと思いきや、いつまでたっても出発する雰囲気がない。天候によって中止になることもあると聞いていたので不安な気持ちで1時間半くらい待たされていたが、やっと出発するとのアナウンスに皆、安堵の歓声。どうやら、風が若干強かったらしく、様子を見ていたようだ。
気球には思ったよりも多くの全員で24名が搭乗。
 

いざ、出発!!







いやー!!!
最高でした!!!

Family Day

2010年07月11日 | ジャカルタ通信
今日は2年に一回のファミリーデイ。
早朝からバスを連ねてボゴールの自然公園の中でスタッフの家族が一緒の大イベント大会。
相変わらず、インドネシアの人たちは大の大人がたわいのないゲームに興じていました。


我ら日本人も昨年の会社創立記念パーティーの二番煎じを、大汗をかきながらの成果発表でした。

こだわりのカレー専門店

2010年05月02日 | ジャカルタ通信
カレーを作り始めて、もう何年経ったことだろう。多分、2度目のタイ赴任で走り始めた頃と同じ時期だったと記憶している。ということは、既に10年以上か・・・。その間、試行錯誤を繰り返しながら、色んな人に食してもらい、ルーや食材なども色々試してみたが、現在行きついたレシピをここで、一度紹介しておこうと思う。
最近は宣伝も行きとどき、カレーのルーだけは切らしたことがない。お土産といっては誰かしらが、カレールーを持ってきてくれる。

【カレールー】
 一番のお気に入りは「コスモ直火焼」。ちょっとマイナーなメーカー物でこれは固形ではなく粉状になっている。詳しい製法は判らないが、窯で炒ったものという印象。
 これに、他のメーカーの固形カレールーを基本的にブレンドする。

【材料】
 ①玉葱
 ②生姜
 ③ニンニク
 ④マッシュルーム
 ⑤しめじ
 ⑥牛肉或いは豚肉
 ⑦オリーブオイル
 ⑧みそ
 ⑨赤ワイン
 ⑩チリパウダー
 ⑪塩
 ⑫胡椒

【作り方】
 ①ミキサーでマッシュルームと水で、ベースのスープをつくる。
 ②玉葱のみじん切りをオリーブオイルで焦げ付かないように、かさが3分の1になるぐらいまでじっくりと炒める。
 ③ニンニクと生姜のみじん切りも焦げ付かないようにオリーブオイルでさっと炒める。
 ④肉は表面に焼き色が着くまで強火で炒め、最後に赤ワインで味付ける。
 ⑤基本ベースのマッシュルームスープの中に上記②~④としめじを入れて、後は弱火でじっくりと煮込む。(この間、こまめに灰汁をとる。)
 ⑥塩コショウは適宜、適当に、また、チリパウダーも適当に使用。
 ⑦1時間ほど煮込んだ後、カレールーを入れ弱火で煮込む。(焦げ付かないようにかき混ぜていることが重要。)
 ⑧適当に煮込み、熱が冷めたら冷蔵庫で熟成させる。
 ⑨いたまないように数日に一回は再度熱を入れて沸騰させる。
 ⑩3日から1週間後に食べ、残りは冷凍保存。(冷凍保存した1カ月ものぐらいは絶品。)

最後に、カレーはライスがなければ始まりません。お米は無洗米だろうが、とにかくよく研ぐことが重要。おいしい日本米が用意できなければやめた方がいい。