遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

20年連作のジャガイモ大豊作

2024年06月20日 | ものぐさ有機農業

私のものぐさ農業は基本的に連作です。農業の教科書に反しますが、ものぐさを優先した結果です。

サツマイモを除いて、連作が奨励される野菜は無いでしょう。

「病気にかかりやすくなる」「収量が落ちる」など、連作障害を回避するには、作付け場所を変えていかねばなりません。

これは相当に面倒くさい、ものぐさ農業の原則に反します(^^;

そこで、いずれの野菜も連作を重ねてきました。そのトップランナーがジャガイモで、もはや20年の超ベテラン連作野菜です(^.^)

しかし、収穫は減らないものの、歳を重ねるごとにそうか病が酷くなり、もはや、中学生坊主の顔のようなジャガイモのオンパレードになってしまいました。自家用に食べる分には関係ないですが、人様に差し上げるのはチョッと(^^;

で、今年は、満を持して、ジャガイモの連作に臨んだわけであります(^.^)

まず2月初旬、多めに米ぬかを撒き、発酵促進剤カルスをいれて耕しておきました。米ぬかが発酵し、増えた乳酸菌によって、土壌を酸性にしようと考えたわけです。そうか病の原因、そうか病菌は、アルカリ土壌で活発になるからです。もちろん、石灰の類はNO.

2月下旬に、カニ殻(有用微生物の餌となる)を大量に入れ、さらに放線菌(特に有用)堆肥を撒いて耕し、有機肥料ソイルファインを入れて、2週間寝かしました。

3月初旬に、3畝にマルチを張り、3種のジャガイモ(北アカリ、メークイン、ダンシャク)の種芋を植えました。

結果はこれ。

こんなに採れて、どうしましょう(^^;

いずれもベッピンさん(^.^)

配り歩きの毎日が続きそうです。

ジャガオットセイ君もまんざらでなさそう(^.^)

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民家の屋根にシラサギ

2024年06月18日 | 故玩館日記

故玩館、中山道脇の畑から西方をのぞむと、

正面に四方屋根の家が見えます。

もう少し近寄ると、

何か、おかしい。

よく見ると、屋根のてっぺんに白い鳥がいます。

橋をゆっくり渡っていく電動カートのおじさんには、無関心の様子。

一心不乱に、左下方を見つめています。

この家(写真右端)は、川の際に建っています。

ジッと獲物を狙っているのですね。

ここからなら見通しがききます。

しかしこの距離から、水中の獲物が良く見えるものですね。鳥の視力に感心(^.^)

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高取焼菱形水差

2024年06月16日 | 高札

故玩館の隅にころがっていた水差しです。

少し古い品です。どうしてウチにあるのかわかりません。

最大径 11.8㎝、底径 9.5㎝、高 13.7㎝。明治?

底に、「東堂」(「東雲」?)の印銘があります。

高取焼に特有の釉薬が美しい。

しかし、土は、典型的な高取焼の土色(薄褐色)とは少し異なります。

すわ、新物か!?・・・・しかし、そうでもないようです。

内側の底には、目跡が5つあります。内側に別の器を入れて焼いた跡です。燃料の薪が貴重であった古い備前焼や美濃焼では、まま見られます。しかし、比較的新しい今回の品のような陶磁器では、例をみません。

ひょっとしたら、内底の目跡は、一生懸命に古陶磁を演出したものかもしれませんね(^.^)

蓋も少し歪みのある菱形です。木の塗りからすると、100年近くは経っています。このような手間のかかる物をわざわざ設える日本人の美意識は、なかなかのものですね。

内側目跡による古陶磁の演出が本当だとすれば、立派な木蓋を備えて必死に茶陶であろうとするこの品に、何とも言えない親近感をおぼえる私です(^.^)

 

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華渓寺と梁川星巌・紅蘭

2024年06月14日 | 故玩館日記

先回のブログで、大垣市北東部の曽根城址を紹介しました。

ここは現在、曽根城公園となっていて、菖蒲園や池、湧水などがあります。

菖蒲園の横は、広大な芝生広場になっています。

桜の巨木が並ぶ輪中堤の下あたりに、なにやら見えます

銅像です。

梁川星巌・紅蘭夫妻の像です。梁川星巌は、江戸時代の代表的な漢詩人で、紅蘭はその妻です。彼女も、江戸時代の代表的な女流漢詩人です。二人とも、書画をよくしました。

稲葉一鉄の居城、曽根城は、関ケ原の合戦の後、廃城となり、本丸跡には、一鉄の菩提寺、華渓寺が移り、現在に至っています。江戸時代、城下町はすべて、田畑になりました。寺の西方には、その面影がまだ残っています。

南側が正面。

境内に進むと、

「史跡 曽根城本丸跡」の石碑とともに、

「梁川星巌記念館」の案内板が建っています。

さらに進むと、巨大な石碑がそびえています。

梁川星巌顕彰碑です。

実は、梁川星巌は、この華渓寺と深い関りがあります。

曽根城が廃城になってから200年後、寺のすぐ南に、大垣藩士、稲津丈太郎の長男として生まれたのが星巌です。聡明であった彼は、数え7歳から寺の和尚のもとで、歴史、漢文、書をならい、学問にひかれていきました。

しかし、12歳の時、相次いで両親が病死。彼は、親の供養のため、庚申像を作り、曽根村の辻に祀りました。

19歳の時、江戸へ出て、儒学と漢詩を本格的に学び、25歳で帰郷します。そして、地元で開いた私塾に学びに来ていたのが、紅蘭です。3年後、15才年上の星巌と彼女は結婚します。彼女は、またいとこであった星巌に対して、「将来はこの人」と、早くから決めていたそうです。

以後二人は、郷里の曽根村にいるのはほんのわずかで、江戸、京都、そして日本各地を放浪の旅でめぐりました。文字通りのオシドリ夫婦、江戸時代には稀な生き方です。

梁川星巌記念館(無料)

文政五(1822)年、中国、九州、四国を巡った旅は、5年に及びました。ほとんど路銀をもたず、各地の文人を訪ね、交流した書画三昧の旅でした。生涯に作った漢詩は3000以上で日本の李白とよばれました。紅蘭も1000ほどの漢詩をのこしています。

星巌の漢詩は、独特の草書体で書かれています。ちなみに、星巌の書画は、戦前までは珍重されたため、贋物が多く出回っています。

晩年は京都に住み、多くの門下生を育てました。勤王の志士、山中静逸三輪田元網(三輪田米山の弟)の妻、三輪田眞佐子は、京都時代の梁川星巌下で学びました。

勤王思想の主導者としても高名で、佐久間象山、藤田東湖、吉田松陰、西郷隆盛などと交友しました。

安政五年、安政の大獄で捕えられる寸前に、星巌はコレラで亡くなりました。代わりに、紅蘭が捕らえられ、獄に入りました。しかし、彼女は、頑として口を割らず、半年後に釈放されました。夫の死後、門人たちとともに膨大な作品を整理し、星巌の遺稿集を世に出しました。

紅蘭も、多くの書画をのこしています。その作風は、星巌とよく似ています。

梁川星巌・紅蘭の作品については、また、ブログで紹介します(いくつかありますが、ほんど読めません(^^;)

華渓寺に入る時には気がつかなかったのですが、入り口脇に湧水場がありました。最近整備された「曾根華渓寺乃福水」と呼ばれる湧水です。20か所以上ある大垣市の湧水のなかで、最北部に位置しています。

地下180mからコンコンと湧き出ています。水汲みの人が、次々とやってきます。

さらに少し南には、豊富な地下水を生かしてワサビ栽培がおこなわれています。このワサビ田も、最近、作られました。

梁川星巌が生れたのは、この近辺です。

もし今、彼がこの地に立ったなら、昔と変わらぬ湧水を見て、どんな漢詩を作るでしょうか。

 

 

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大垣、曽根城公園と華渓寺

2024年06月12日 | 故玩館日記

この季節、花菖蒲がまだ見られるかもしれないと思い、近場の名所へ出かけました。

故玩館から中山道を西へ、次の赤坂宿方面へ向かいます。すると、すぐに揖斐川。

江戸時代、ここは、木曽川、太田の渡し、長良川、合渡の渡し、とともに、中山道での主要な渡し場、呂久の渡しがあった場所です。

『木曽街道名所図会』に描かれた情景を見ると、当時、呂久川(杭瀬川、猿渡川とも)とよばれた揖斐川は、現在よりもっと急流であったことがわかります。

この難所も、現在は、橋を渡ればなんなく通過。実はこの橋は、50年ほど前まではいわゆる沈下橋。少しの降雨で、すぐに通行止めとなりました。

西方向、右側は伊吹山(雲の中)、左は養老山脈がずーっと南へ三重県境まで続いています。その狭い隙間を抜けて近江や越前に向かうので、すべての交通が集中します。

後ろを振り返れば、東に金華山、頂上に岐阜城が点のようにかすかに見えます。左方の御嶽は雲の中。

橋を渡ってしばらく行くと前方の土地が少し低くなっています。

実は、かつての揖斐川は、ここを右から左へ流れていたのです。大正時代に、頻発する洪水を防ぐため、大改修を行い、揖斐川の流路を東へ数百m移動しました。ですから、木曽街道名所図会の呂久の渡しは先の橋付近ではなく、この辺だったのです。

もう少し進むと、かつての大川を渡り終えたことになります。

向こう側にこんもりと見えるのは、大垣輪中の堤防(通称、大島堤)。左方面は大島地区。戦国武将、大嶋光義(雲八)の生誕地との説もあります。右方面が今回の目的地、曽根城公園です。

公園には、すぐに到着しました。

やはり盛期は過ぎていて、人はまばら。その分、ゆっくりできます。

かなり広い湿地帯に、色とりどりの花菖蒲が育ててあります。

125種類、27000本だそうです。

その横には、大きな池(曽根の池、6200㎡)。

向こう側の桜並木は輪中堤(大垣輪中、大島堤)です。その向こうを、かつては揖斐川が流れていました。

大池の横には、湧水の小さな池があります。天然記念物、ハリヨが生息しています。

ハリヨは、湧き水のあるところに生息する小さな淡水魚で、巣を作り子育てします。

昔はウチの辺りでも、湧水池がそこら中にあり、私たちはハリヨを捕まえては、遊んでいました。ところが、高度成長期を境にして、湧き水は枯れ、池はつぶされ、ハリヨはごく限られた所にしかいなくなりました。

大垣地区はまだ、湧水がかなり豊富です。ところが、揖斐川の東、わずか2㎞しか離れていないのに、私たちの辺りは、皆無です。おそらく、地下水脈が、揖斐川より西では伊吹山系、東では、能郷白山系の水から成っているからでしょう。

公園の一角に、地味な説明板が。

曽根城本丸跡とあります。この公園は、戦国時代にここに存在した曽根城跡なのです。現在、石垣や土塁が少し残っています。

本丸のあった場所には、曽根城ゆかりの寺、華渓寺が建っています。

 

曽根城は、戦国武将、稲葉一鉄の居城で、創建は、永禄年間(1558-1569)。関ケ原合戦では、東軍の前線基地となり、数㎞南の大垣城に陣取った石田三成を牽制しました。曽根城の焼き討ちに失敗したことが、西軍のその後の命運を決したとも言われています。そして、関ケ原合戦以降、廃城となり、水田にかわりました。

華渓寺に残された「濃州曽根古城跡図」によれば、本丸、二の丸、内堀と外堀、惣堀を備え、家老屋敷、侍屋敷、町屋などが集まった、本格的な城下町であったことがわかります。

注目されるのは、中央の本丸の少し左上方、細長い土地です。「斎藤内倉佐」と書かれているのは、名将、斎藤利三のことです。彼は、後に、明智光秀の重臣となり、活躍します。

斎藤利光の娘、お福(後の春日局)は、私の集落の城、十七条城主、稲葉正成の妻となります。その経緯ははっきりしませんが、揖斐川を挟んで東西に対峙した二つの城です。離合集散が日常茶飯事だった当時、和解に伴う政略結婚だったのかもしれません。

思わず、歴史散歩の一日でした(^.^)

 

 

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