遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

崩れた鳳凰

2021年04月19日 | 陶磁胎七宝

20年程前、骨董市で求めた品物です。

これはいったい何でしょうか。

ぐじゃぐじゃで、わかりません。

180度回転して見ると・・・

黄色いガラスの上になにやら形が見えてきます。

径 21.2㎝、高 1.4㎝。高台無し。

 

眠れる少女?

その上を見ると・・・

黄ガラスの上に、鳳凰が描かれています。

実は、骨董市で買ってきたばかりの時は、見事な鳳凰が銀線で描かれていました。

けれども、あまりにもホコリがひどくたまっていて、それを洗い流すため、水道の蛇口の下に置いて栓をひねったのです。

ところが、流れたのは、ホコリではなく銀線(^^;

この品は、七宝の鳳凰紋皿を作る途中の品だったのです(^.^)

下絵の上に、細幅の銀線を切り、下線に沿って曲げて、糊で貼り付けたものでした。

次には、銀線で囲まれた中に色釉を入れていく作業が待っているはず。

おお、これは七宝の製作工程がよくわかる品だ・・・・・

と喜んだのもつかの間の出来事でした😢

 

裏側は白い釉。

表側の黄釉は、鳳凰の色釉を生かすためのキャンバスだったのでしょうか。

無傷に近い形で残った羽根の部分。

それにしても、細かい仕事です。

でも、少し離れた所は洪水でごっそり流されています。

いくらコロナで暇だとはいえ、流れた銀線を一つずつ拾い、下絵の部分部分に貼り付けていかねばなりません。究極のクロスワードパズル。考えただけで、気が遠くなります😢

 

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七宝花鳥紋大皿

2021年04月17日 | 陶磁胎七宝

明治七宝の大皿です。

この品は、以前、大皿として一度紹介しました。

今回、七宝として観察し直したところ、いくつかの興味深い事柄が見つかりましたので、あらためてアップした次第です。

径 36.0㎝、高台径 19.5㎝、高 4.9㎝。明治時代。

典型的な輸出品です。

明るいブルーが、明治の時代を表しているようです。

皿吊り金具は、外国で付けられたのでしょう。不思議なのは、オリジナルの幅広金具のうち、3本が折れ、針金パーツに変えられていることです。針金には糸か細布が巻かれていた痕跡が残っています。幅広金具で傷がつくのを嫌ったのでしょうか。ならば全部変えてしまえばいいように思うのですが(^^;

裏面は、全面に青海波。

 

この皿の売りは、やはり、表の花鳥図です。

 

絵が単純なので、七宝の描き方がよくわかります。

金属線で縁取りをして、その中に色釉鉛ガラスを入れ、焼き付けます。グラデーションも一部ありますが、基本的には、金属線で囲まれた部分は単色です。その結果、色釉が混ざり合うことなく、シャープな絵ができあがります。丁度、友禅染めの場合に、糊で縁取りをして、色をさすのと同じです。白い糸目が、七宝の金属線に相当します。

この品の場合、金属線は、葉脈や花びら、青海波模様も表しています。

 

さて、今回はじめて気がついたのですが、表面のあちこちに、◯が点在しています。中小かなりの数あります。白っぽいのがほとんどですが、茶色っぽいのもいくつかあります。

伊藤若冲にならって、病葉を描いたのでしょうか?

じっと見ると白い部分が輝いているような・・・

拡大して見ると、

ぽっかりと穴があいています。中は、ピカピカと銀色に輝いています。

針の先でつついてみると・・・

白い部分は取れて、茶色が出てきました。

 

確かに削れています。

どうやら、表面の濃紺色釉が剥げた後には、銀粉が残り、その下にさらに茶色の色釉があるようです。

 

他の場所に、もっと深くえぐれた穴がありました。

茶色で、銀粉は見られません。

 

ピンセットでつついてみると、

 

茶色ガラスの小塊がポロリととれ、

 

ポッコリと穴があきました。

 

拡大して見ると、

ボディの銅が見えます。

 

七宝の解説書には、銅などのボディに、金属線で細かく縁取りをした後、鉛ガラスを糊で溶いて輪郭線の内側を埋め、焼成する、とあります。

しかし、この皿の傷からは、もっと複雑な工程が浮かんできます。

いきなり色釉をさして絵を描くのではなく、下地を茶色釉で作っておき、その上に銀粉(?)をまいた後、各種色釉で最終的に花鳥図を描いたと推定されます。

どうしてこのような工程をふむのでしょうか。

銀粉は、ひょっとしたら、日本画の胡粉のような役割をしているのかも知れません。材質も、銀ではなく、胡粉そのものの可能性があります。白いキャンバスに色ガラス釉で描かれた花鳥画が、より映える効果を狙ったのではないでしょうか。

裏面も含め、青色の地には、◯型の剥離は全く見られません。銀粉(胡粉)が下に撒かれていないからでしょう。その分緻密で、剥離し難い。

この推定が合っているかどうか、青色部分を少し傷つけて調べてみる必要がありますね(^^;

それにしても、これだけきれいな◯形に、色釉が剥離するのはなぜでしょうか。

疑問だらけですが、一度の焼成で済むようなものではないことは確かです(^.^)

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大皿・大鉢13 見立て祥瑞花丸紋伊万里大鉢

2021年04月15日 | 古陶磁ー大皿・大鉢・壷

今日は、本来なら休ブログ日(下戸につき休肝日とは無縁)なのですが、昨日、古伊万里コレクターのDr.Kさんが祥瑞写丸紋の古伊万里鉢を紹介されました。

ひょっとして思い、あちこち探したところ、それらしき物が出てきましたので、七宝ではなく、陶磁器を、急遽、アップします。

古伊万里大鉢  江戸後期

径 30.5㎝、高台径 15.6㎝、高 8.7㎝。

 

福とも、乾ともつかない銘が書かれています(^^;

時代は江戸後期、それも幕末の品でしょう。

植物模様が全面に描かれています。

特徴的なのは、花木で丸紋が描かれていることです。

 

梅。

 

椿でしょうか。

 

ところが、品物を90度、回してみると・・・

上下に、丸紋がもう二つ浮かび上がるではないですか。

 

菊。

 

Unknown(^^;

 

裏面にも流水に丸紋が4つ浮かんでいます。

この皿のモチーフは、丸紋であるようです。しかも、それを、植物で描くとは憎い演出です。

どうやら、祥瑞丸紋を意識してデザイン化したのではないかと思われます。丸紋以外の、びっしりと描かれた葉は、祥瑞の地模様と考えられます。

ただ、祥瑞にしては、丸紋の配置がきれいな四つ割りで、そろい過ぎています。

まあ、見立て祥瑞としておくのが無難でしょう。

 

ところでこの大鉢、私が買った物ではありません。

神社の境内の骨董市で、つれあい殿が求めた物です。もちろん、横にいた私も、それなりのアドバイスはしました。

で、その用途はというと、故玩館のトイレの手水鉢です。真ん中を繰り抜いて排水口をとりつければ、洒落た手洗いになる・・・・はずでしたが・・・

実際の使用を考えてみると、一回り以上小さいのです。よほど上品に手を洗わないとビショビショになります(^^;

ということで、結局、市販の信楽焼の手洗い(径40㎝)を設置しました。結構なお値段でした(^^;

 

見立て祥瑞鉢の方は、まだ出番がありません。

コロナで、食べ物を大盛にするほど人が集まることはないので、しばらくは棚の奥に隠れていてもらいましょう(^.^)

 

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七宝古代紋花瓶

2021年04月14日 | 陶磁胎七宝

先回に引き続き、明治七宝の紹介です。

高 18.5㎝、幅 7.5㎝。明治中ー後期。

近代七宝の技術が確立し、欧米への輸出がピークに達したころの品物です。

イギリスからの里帰り品です。

西洋を意識した、対称性の高いデザインです。

胴には、鳳凰と龍が2匹ずつ描かれています。

このような模様は、なぜか古代紋とよばれていて、盛期尾張七宝の得意とするパターンの一つです。

 

花瓶の内側や底にも青釉が施されています。

 

鳳凰と龍も格調が高い。

 

 

小品ながら、完成度の高い七宝です。

縁取りの植線は銀でしょう。

表面の平滑度が高く、まるで釉薬の下に色絵があるような錯覚をおぼえます。

当時、欧米の人々が競って求めたのも肯けます

 

 

 

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七宝六角面取花紋花瓶

2021年04月12日 | 陶磁胎七宝

故玩館には、得体の知れない物や顔をそむけたくなる品が多いのですが(^^; 今回は誰でも知っている、そして女性に受けの良い綺麗な品物の紹介です(^.^)

古い七宝の花瓶です。

高 24.6㎝、幅 10.4㎝。 明治初。

丸窓の中に花がいっぱい描かれています。

器体が丸形でなく六角形です。

120度ずつ廻してみます。

 

花の間の地は、金属線(金?)でぐるぐると唐草模様のように埋められています。

 

上下はそっけなく、地がむき出し。

 

 

 

 

 

 

 

明治にはいって、七宝は殖産興業の一端を担い、膨大な数の七宝が輸出されました。この品もその一つでしょう。

この品は、色釉や表面の状態が盛期の輸出品ほど洗練されておらず、明治になって近代七宝が生産されるようになった比較的初期の品ではないかと思われます。

明治七宝は、京都と尾張が二大産地であったのですが、今回の品は京都の産ではないかと考えています。

 

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