今回は、河鍋暁斎の娘、河鍋暁翠の版画『卒都婆小町』です。
18.5㎝x25.5㎝。明治時代。
河鍋暁翠(きょうすい): 慶応三(1868)年ー 昭和十(1935)年。日本画家、浮世絵師。河鍋暁斎の娘。。明治35(1902)年から3年間、女子美術学校(現、女子美術大学)の日本画教授(女性初)。明治―昭和初期にかけて活躍し、美人画、能画を得意とした。
これまでも、河鍋暁翠の能版画をいくつか紹介してきました。
それらすべて、能舞台の一場面を描いたもの(B型)です。一方、肉筆の能画には、能舞台ではなく能の情景(想像上の)を描いたタイプ(A型)もあります。『卒都婆小町』で、これまで紹介してきた3種の能絵はすべてA型でした。その点、河鍋暁翠は、明治期に主流となるB型と江戸期のA型の両方をこなした過度期の画家といえるでしょう。
彼女は小さな頃から、父暁斎の教えを受け、絵師として高度な技法を身に着けました。その辺の事情は、葛飾北斎とその娘、応為(おうい)の関係に似ています。
父、河鍋暁斎が残した下絵(右上)をもとに、娘、暁翠が完成させた浮世絵(左側)をみると、父、暁斎に勝るとも劣らない技量であったことがわかります。
今回の品は、このような精細な肉筆画ではなく、モノクロの木版画です。明治期には、多くの浮世絵師が能版画(B型)を描きました。そのほとんどは、彩色されたもの、それも細線が描ける石版刷りが多いです。木版の白黒刷りは、明治に入ると急速に衰えていったのです。
そんな中、あえて白黒木版で能画に挑んだ暁翠は、よほど画力に自信があったのでしょう。
狩野派の流れをくんだ、父親、暁斎ゆずりの力強い線描です。
年老いた小野小町の見事な仏教問答に感服した僧たち。真剣な横顔に、彼らの気持ちが表れています。
能舞台での出で立ちです。小町の衣裳は、襤褸ではありませんね。
年老いたとはいえ、色を内に秘めた小町を象徴しているのでしょう。また、老いさらばえてもなお気品を失ってはいない小町の姿が基本にあります。
私たち観客は、『卒都婆小町』の舞台で展開される語り、謡い、そして所作によって、大きく変化していく老小町の情景を自分の中につくらねばなりません。気難しい仏教教理を展開して僧侶をやりこめる才媛小町、はかない身の上を語り物を乞う乞丐人の小町、そして深草少将の霊がとりついて狂乱する小町。
これまで、3回にわたって紹介してきた絵画、『卒都婆小町』は、それぞれの小町を描き表していると思われます。
作者不詳『卒都婆小町』。江戸時代中期。
狩野栄信『卒都婆小町』。江戸時代後期。
菊池容斎『卒都婆小町』。幕末ー明治初期。
ところで、能では「卒塔婆小町」とは書かず、「卒都婆小町」です。観世流では「そとわこまち」とよびます。「卒都婆」はもちろん造語ですが、「塔」ではないく「都」と書きます。
「極楽の 内ならばこそ 悪しからめ 外は何かは 苦しかるべき」
作者は、「卒塔」を「卒都」とすることによって、極楽の内と外を強調しようとしたのでしょう。また、小野小町にとってみれば、その美貌と才能がもてはやされた「都」が極楽で、年老いた零落の身は都から外へ出るほかはないことを意味しているのではないでしょうか。
着々と、能楽に関する貴重な資料が充実されてきていますね(^_^)
単なる古美術愛好家の目で集められているのではなく、能楽研究家の目からも集められていることを感じます(^-^*)
いつのまにか、珍妙な品がゴマンと集まってしまいました。
解説つきでないと珍妙なままで終ってしまうので、ブログでしばらくがんばります(^.^)