今回は、中国古陶磁学者、三杉隆敏の著作、2冊です。
『海のシルクロード』恒文社、1976年。
岩波新書『真贋ものがたり』岩波書店、1996年。
三杉隆敏は、白鶴美術館、小原流芸術参考館などに勤務する傍ら、二十数回海外を歴訪し、世界中に散らばる中国美術品を調査しました。特に、トルコのトプカピ宮殿やイランのサライミュージアムにある中国陶磁器を詳細に調べ、中国焼物の海上交易史とも言うべき「海のシルクロード」を明らかにしました。
それをまとめたのが本書です。
副題には、「中国磁器の海上運輸と染付編年の研究」とあります。膨大な中国陶磁器(特に染付)や陶片の研究から、染付けの発生やその編年に関しても、元、明時代の陶磁器について、書かれています。
染付模様は、中心となる主模様と器の縁などに描かれる従属模様とに大別されます。この本では、主模様を、植物類、獣類、鳥類、魚類、象徴類に分けて、時代の特徴を記しています。
興味深いのは、従属模様です。三杉によると、従属模様は、時代とともにゆっくり変化するそうです。したがって、各時代の特徴を帯びやすいことになります。これを応用すれば、時代判定の有力な根拠となりうるわけです。
三杉隆敏 (岩波新書)『真贋ものがたり』岩波書店、1996年。
中国陶磁器の専門家、三杉隆敏のもう一つの本、『真贋ものがたり』(岩波書店、1996年)です。岩波新書でこのような本は珍しい。「「ほんもの」とにせもの、見極めの奥義」と帯にあります。内容は、第一章 埋もれた宝を求めて、第二章 贋物作りにかける情熱、第三章 社会を揺るがした真贋論争、第四章 真贋鑑定あれこれ、第五章 美術品とどうつきあうか、となっています。第一章では、沈没船からのお宝引き上げや盗掘について、第二章では、古今東西の贋物作りの背景とテクニックが、第三章では、永仁の壷事件や佐野乾山、正倉院御物の製作地論争などが記されています。贋物作りのテクニックでは、先回のブログで紹介した、和紙を2枚に剥ぐヒコーキとよく似たテクニックが紹介されています。著名人の葉書を二枚にめくって、表と裏を別々の品物に仕立て、本物を二つ作るのです。「ヒコーキ」に対して、こちらのテクニックは、「メクリ」の俗称がついています(^^; 他に、中国の竹細工品を煮込んで古作としたり、新しい緑釉壷にマニキュア液を施して銀化壷に変身させたりするなど、いろいろな技法が紹介されています。
第四章が、この本のハイライトです。真贋鑑定の奥義は、とにかく、「良い物をたくさん見る」ことにつきる、とのことです。と同時に、贋物もたくさん見る。そして、写真などで見ていた品物を、実物として目の前にしたとき、思っていたより大きく見える物は本物であると考えて良いとのことです。また、焼物では、形、重さ、模様などがチェックポイントとなります。焼物は焼成すると2割方縮みます。壷や瓶などでは、贋物の場合、肩の張出部分の計算がうまくいっておらず、真横から見ると、肩の部分が垂れ下がったり、上がり気味になり、本物のもつ緊張感がなくなります。模様に関しては、数多くの中国染付け磁器を見てきた著者ならではの意見が興味深いです。先述の本でも書かれているように、皿の従属模様は時代の様式を表しています。しかし、贋物作者は、中心部の主模様を描くのにエネルギーをとられ、周縁の従属模様は、つい、いい加減に描いてしまうらしい(^^;
本物と写しの問題は、古くからあります。でもそれは、マイナスのことばかりではありません。染付磁器の場合、世界史的にみれば、中国の名品に何とか迫ろうとして、必死でコピー品を作ってきた・・・その結果、技術の向上と広がりがもたらされたというのです。ベトナムの染付、日本の伊万里焼、ペルシャ、トルコ、エジプトの中国染付写し、さらには、ドイツのマイセン、オランダのデルフト、イギリスのチェルシーなどです。それどころか、本家の中国でさえ、いつの時代も、過去の名品を写すのにエネルギーをそそいできました。写しが、さらに新しい焼物を生み出す原動力となったわけです。
ただ、中国物を横に置き、限りなく本物に近くしようとした結果、多くの場合、きっちりし過ぎて堅苦しくなり、本物のもつ大らかな優美さがなくなってしまいます。本歌には、のんびりとした柔らかさやほのかな温かさが感じられるのに対して、写しの方は、堅苦しさが出てしまうのです。
以上の記述でもわかるように、この本は、類書にくらべれば、贋物(写し)に対して比較的寛容だという感想をもちました。佐野乾山論争についても、否定的な記述をしていません。また、大英博物館など、世界の美術館、博物館では、積極的に贋物を収集して研究を深めようとしているそうです。
著者は、本書を次のように締めくくっています。
本物と贋物には、虚栄や欲心など、人間の業のようなものが見え隠れするが、それらを含め、人間らしさの一面であり、人類の歴史を美術というフィルターを通して見つめなおした、という思いがある。
そして言います。
もしあなたがその品物を気に入っているのであれば、「ほんもの」「にせもの」の判断はあなたの心の中にこそあるのではないだろうか。
<岩波新書に誤りあり>
このように、本書は、中国陶磁器の研究家が、フィールドワークで得た豊富な経験、知識を基にして書き下した真贋物語です。贋作を機械的に切り捨てるのではなく、「贋」と「真」との関係を有機的にとらえ直して、そこから「真」を考えようとする姿勢は、新鮮で示唆に富んでいます。
しかし、そのような本にも誤りがありました。「第四章 真贋鑑定あれこれ」のなかの、「赤外線ランプによる判定」です。
よく知られた、ブラック・ランプ(ブラックライト) を用いる方法です。補修のために接着剤などの樹脂が使ってある品にブラック・ランプを照射すると、その場所が蛍光色に光るのです。でも、これは 赤外線ランプではありませんね。紫外線ランプです。
どうやら、単なるミスプリではないようです。著者も編集者も、赤外線ランプと思い込んでいたのですね。
赤外線をあてても、分子の運動が激しくなる(温度が上がる)だけで、光は放出されません。赤外線よりずっとエネルギーの大きな光、紫外線を照射したとき、紫外線を吸収した分子は不安定な励起状態に変化し、その後、元の状態(基底状態)に戻る時、光(エネルギー)を放出します。これが蛍光です。陶磁器や絵画の補修に用いられる材料の中には、そのような性質をもつ成分(分子)が含まれている場合があります(すべてではない)。
ちょうどこの本が書かれた頃、赤外線〇〇のような暖房器具が盛んに宣伝されていたので、おもわず、「赤外線ランプ」となってしまったのでしょうか(^.^)
いやー沁みました笑
もしあなたがその品物を気に入っているのであれば、「ほんもの」「にせもの」の判断はあなたの心の中にこそあるのではないだろうか。
この考え方はなんだか素敵ですね。
家族にさえ理解されない趣味ですからねー。自分が気に入ったらそれでいいじゃないってことですよね。(^^)
ただ贋作って手に取った瞬間というかファーストインスピーションでなんだかやな感じするものでよね!?笑
それがなければ贋作でも気にいることができるかもです(^^)
私の持っている本は、「海のシルクロードを調べる辞典」(芙蓉書房 2006年)でした。
>大英博物館など、世界の美術館、博物館では、積極的に贋物を収集して研究を深めようとしているそうです。
そうですか。私もその姿勢には賛成です(^_^)
一概に「贋物」と決めつけ、抹殺してしまっては、美の東西交流なり、時代による好みの変遷なども分からなくなり、文化の抹殺にも繋がりますよね。
また、
「もしあなたがその品物を気に入っているのであれば、「ほんもの」「にせもの」の判断はあなたの心の中にこそあるのではないだろうか。」
にも共感を覚えます。
かりに、そのものが一般的には「にせもの」に属するものであっても、自分の心の中では、自分が共感したものであり、自分の心の中では「ほんもの」ですものね。
ただ、そのものが、何時、何処で写されたものなのかを知る努力はしたいと思います。
まあ、その資力で本物を買えるはずがない、というごもっともな理由からでしょう(^^;
ごく最近、日本のあちこちの美術館に入っている絵画が、ヨーロッパの有名な贋作師の作ではないかと騒がれています。彼は、贋物を製作するにあたって、その名画が描かれた時代の世相、絵具、筆などを徹底的に調べるのだそうです。美術史家や学芸員がだまされるのも仕方がないのでしょう。
ましてや私たち素人は、自分の勘と感に頼るほかないですね(^.^)
この著者の真贋に対する考え方は、類書と少し異なるように思いました。共感できる部分が多いですね。それは、彼が品物の売買には直接関係しない学者であったためでしょう。同じようなスタンスは、先回紹介した『骨董にせもの雑学ノート』の著者にも感じられました。
「海のシルクロードを調べる辞典」も、著者は三杉隆敏です。
確かに、この「海のシルクロードを調べる辞典」は、「海のシルクロード」とは違い、陶磁器を中心としたものではなく、もっと広く、当時の船の種類とか構造なども扱っています。
>この著者の真贋に対する考え方は、類書と少し異なるように思いました。共感できる部分が多いですね。それは、彼が品物の売買には直接関係しない学者であったためでしょう。
品物の売買に直接関係していないので、客観的に物を見ることが出来るからなのでしょうね。
売買のどちらかにのめり込んでいると、どうしても、どちらかに肩入れしてしまいがちですものね(^_^)