遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

いけない志野香炉を肴に骨董屋の武勇伝を聞く

2022年09月21日 | 古陶磁ー全般

このところ、陶磁器の香炉を紹介してきました。それならと、在庫一掃セールの案配で、志野香炉の紹介です。

小型の三足香炉です。

90度ずつ、右回りに。

 

 

 

幅 8.2㎝、高 5.5㎝。桃山ー江戸初期 江戸後期。

全体(内側も)ぽってりとした志野釉が掛かっています。その下に、鉄釉で草花が描かれ、ぼんやりと浮かび上がります。

 

口元には、重ね焼きした跡がみられます。

内側までキッチリと施釉。

二つの耳は、左右の大さが違います。

ジカンが入り、ポツポツと孔があいた肌は、いかにも桃山の志野を思わせます。

肩には、桃山陶器でお馴染み擂座(るいざ:小さな丸い装飾)が6個(上の写真では、丸く光っている)あります。

底の造りもまあ良しとすべきでしょう。

 

で、勇んでいつもの骨董屋の親爺のもとへ。

「どう、これ?」

「アカン!」

「桃山は無理としても、江戸初期、志野織部くらいにもってけない?」

「欲が深すぎるわ!」

とまあ、長年の付き合いで掛け合い漫才のような調子で鑑定終了。

「ワシほど美濃モンを扱ってきた者はオラン」と日頃から豪語する親爺の言葉にしたがうほかはありませんでした(^.^)

黄瀬戸、志野、織部に代表される桃山時代の陶磁器は、日本の陶磁器の中でも特別の位置にあります。地元ではこれらの陶磁器に思い入れが強く、美濃モン一筋のコレクターがたくさんいます。私も美濃の人間ですが、美濃モンは数えるほどしか持っていません。その理由はただ一つ、財布が空になる(^^;

さて、件の貧乏骨董屋、美濃モンなどほとんど置いていません。親爺に「美濃モンは?」と聞くと、「右から左へすぐ捌ける」とのことでした。しかし、それで美濃モン専科と豪語できるんでしょうか?なおも聞いてみると、「今はもう品が動かん。納まる所へ納まってしまって。」との事。じゃあ、いつ頃が良かった?親爺の回顧録が始まりました。

今から、60年以上前、昭和30年代、高度成長期に入り、日本各地で大規模な開発が行われました。東濃、瀬戸地方の丘陵地、里山も開発の波を受け、数多くの窯跡が見つかり、空前の発掘ブームとなりました。件の親爺(当時は青年)は、毎日、ヘルメットにリュック姿で山へ入って行ったそうです。そこには、掘り屋がいて、窯跡を掘り下げて、埋もれた陶磁器を拾い上げていました。彼は、リュックに詰めるだけ詰めて運んだのです。昼過ぎになると、営林署の職員が、山の上方から石を投げて、彼らを追い払いに来たそうです。ヘルメットは、頭を守るために必要だったのですね。夕方近く、店に帰ると、コレクターたちが待ちかまえていて、リュックの中から奪い合うように発掘品をもっていったそうです。「あの頃程儲かったことはないな」「ありとあらゆる桃山陶器があった。不思議に、完品もあった」その頃の業者さんは、ほとんど鬼籍にはいられたそうです。

今からすると、夢のような時代ですね。

で、今回の香炉は、江戸後期頃に瀬戸で作られた物だろうという事になりました。

そういえば、全体にかたい。桃山の大らかさや温かみが感じられません。土も、美濃の土とは違う。

人面擂座が、「それでもボクは志野だモン」とつぶやいています(^.^)

コメント (10)
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