玉蘭齋(歌川)貞秀筆 浮世絵『川中嶋軍記能楽之図』です。
第四次川中島の戦いにおいて、妻女山に陣をはった上杉軍の能楽の様子を描いた浮世絵です。
妻女山での能楽の催しが史実かどうかは定かではありませんから、この浮世絵は能楽資料としては十分とはいえません。しかし、武田軍に挟まれた状況下で、上杉謙信が、小鼓や琵琶を鳴らしていたのは確かなようです。
また、江戸時代の能楽の絵は、歌舞伎と異なり、基本的に肉筆の注文品でしたから、能楽の浮世絵は非常に少なく、この点においても今回の品は興味深いと思います。
玉蘭齋(歌川)貞秀筆『川中嶋軍記能楽之図』 2枚続き(本来は、3枚続き、右一枚欠) 35.8 x 49.5㎝。幕末。
能の絵にしては珍しく、囃子に焦点があたっています。
小鼓、上杉輝虎入道謙信、大鼓、宇佐美駿河守貞行、笛、甘粕遠江守景時、太鼓、本庄越前守繁長。
上杉謙信よりも、むしろ宇佐美貞行を大きく描いています。宇佐美は、謙信の重臣にして軍師、越後一の勇士と言われました。川中島の戦いでは、武田信繁を討ち取っています。本庄繁長も、上杉家の重臣で、猛将として知られていました。甘粕景時は、川中島の戦いでは、しんがりをつとめ、武田軍別動隊と激戦をくりひろげました。
舞台中央で、石橋のシテを演じているのは、長尾越前守義景です。しかし、長尾義景は幼少で亡くなっています。長尾政景の誤りではないでしょうか。政景は、シテを演じるほど重用されていたのでしょう。
左端には、他の観客より上段の場所で、柿崎和泉守景家と直江大和守兼続が舞台を観ています。柿崎守景は上杉家の重臣で、川中島の戦いで先鋒をつとめました。直江兼続は、文武兼備の智将です。川中島の戦いでは、兵站を担いました。謙信の後継、上杉景勝を支え、後に米沢藩々主として、歴史に残る業績をあげた人物です。
この浮世絵は、戯作者、柳下亭種員の『繍像略傳史』の一部を描いたものです。上部に、そのくだりが書かれています。
さても武田信玄ハ越後勢
の後をかこミ、兵糧運送
の道を断、其身ハ海津の
城にあって敵の動静を
伺ふ内、武田家の籏下に
無双の智者ときこえし
佐名田一得斎幸隆、心
利たる忍びに命じ西
条山の砦の様子を見せ
しむれバ、諸軍ハ本国の通路を取り
切られ憂悶るさまなれ
ども、大将謙信ハ自若と
して我慮に寸も違ハず、
信玄法師がなしし事よ
存分の一線を遂るハ此
度に限るべし。アラ面白し
楽志も家門元老の人々
を集め能楽を催され、
自身小鼓を撃などし
てさも心地よき体なり
けり。忍びハ頓に立ち帰り
一得斎にかくと告ぐれバ、幸
隆早速午前にいでこれ
を委細に言上なすに、
流石の信玄も不審さらに
はれず、一度彼所の囲を開
き敵の進退を心見んと
越後街道に屯せし軍勢
を引き揚げれバ、自國の通路
を得たるを見て城兵は
喜ぶさまなれども、謙信
ハ獨愁然として我計事
齟齬したりと最不興に
ぞ見えたりける。信玄再
是をきき玉ひ、計りしら
れぬ謙信奴が胸中かな
然速に出馬せんと籾こそ
川中島に出陳なし、四海
に轟く大戦におよび
しことかや。
第四次川中島の戦いは、5回の信玄ー謙信対決の中で唯一両者が全面的に対決した戦いで、双方に数千人ずつの使者を出し、勝敗がはっきりしなほど激しいものでした。
永禄4(1561)年8月、越後から遠征してきた上杉軍は、妻女山に着陣しました。一方、武田軍は千曲川を挟んだ茶臼山に陣を敷き、武田軍の前線基地、海津城とから上杉軍を挟み撃みうちにする態勢をとり、両者のにらみ合いが続きました。そんな中で、退路を断たれたはずの謙信が悠然と能の会を催し、楽しんだというのが、この浮世絵です。
上杉謙信をはじめ、多くの武将が能を嗜んでいたことは確かです。しかし、妻女山に、こんな立派な能舞台があるはずはないし、甲冑を纏って囃子を打つのも無理です。しかし、謙信は琵琶の名手として知られていました。戦場へも名器「朝嵐」を持って行ったそうです。川中島の戦いで、武田軍に挟まれ、仲間に焦りがつのる中で、謙信は平然と琵琶をひき、時には、小鼓を打っていたといわれています。信玄の間者をあざむくにはうってつけです。息詰まるような神経戦ですが、謙信の側が一歩長じていたようです。あせる信玄の様子を察して、夜陰にまぎれて軍を動かし、千曲川岸に陣を張ったところまでが、川中島の戦いの神髄ではないでしょうか。
第四次川中島の戦い以降、両者は直接対決を避けました。
能楽を好んだ上杉謙信ですが、武田信玄も、能楽師をかかえていたと言います。当然、自身も能を嗜んだはずです。天才肌の謙信、一方は、苦労人の信玄、二人の能楽対決は、川中島の戦い以上に興味深いものではないでしょうか。