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大陸旅遊倶楽部的日記

三国志・水滸伝・史記の旅と中国茶のほかモロモロ…

2015春の旅

2015年05月18日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

大変ご無沙汰しております。
過去の更新も侭ならない状態ですが、ゴールデンウィーク前に
'86春に旅した一部の地域をほぼ30年ぶりに訪れてみましたので
忘れないうちに記録しておこうと思います!(笑)

記載予定は北京~襄陽~武漢、宜昌、荊州、岳陽~成都。

このうち約30年ぶりなのは襄陽と岳陽のみですが、北京、成都も
2001年以来なので、そりゃあまあ佇まいは変わりましたよ。

…でも住んでいる方々は相変わらず中国人然としているので
人民感満載でした。 

▲北京空港到着ロビー

▲空港リムジンバス

▲首都空港と東直門を結ぶ空港線ホーム入口
 左側の人の渋滞は荷物検査装置に手荷物を通しています。

▲空港線切符売り場、東直門まで25元(500円)

▲空港線列車内、第三ターミナルから東直門まで約30分


杭州~西湖に水滸 その二

2010年09月29日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

前述の通り、お茶リゾート…だったはずの今回の旅
お昼に杭州について、ホテルで一服した後、さあ西湖でのんびりだ~!!
っと、繰り出した瞬間ホテル対面の湧金門跡でいきなり発見しました…







知り合いにモデルか?と思うほど似ている方が…(笑)


杭州~西湖に水滸

2010年09月28日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

何故か西湖湖畔に水滸スポット増殖中
まあ、我々もいい歳なんだから、今回は趣味とは無関係なワンランク上の旅
のんびりリゾート、ゆったりお茶を楽しむ~なんて予定だったのに
初日から趣味の世界に引き戻されてしまった…

水滸伝で町おこし????…んな馬鹿な。
中国第四の経済都市にそんな必要はないはず…
中国人もやっとオタク心理が判ったのか(笑)

真っ赤な嘘、眉唾モノとわかっていても、あると云われれば行ってしまう
真偽のほどなどどうでも良いのがファン心理…
そこのあなた!これを見て杭州に行きたくなったでしょ(爆)


ちなみに武松墓の位置は西湖の北岸、孤山から西冷橋を渡り、杭州飯店に向かう途中。
伝説では武松の墓は六和塔付近にあるということですが、
1930年代に何故かここに建てられたそうで、その後60年代に破壊され、2004年に再建したそうな。


趙雲百態3

2009年09月23日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

これで趙雲は最後です。…多分ね。


'01覇陵橋脇 関帝廟の趙雲立像


'01覇陵橋脇 関帝廟の趙雲座像(左)…確か趙雲だったはず


'01開封 関帝廟の趙雲…やっぱ長坂坡だよねぇ


'01赤壁資料館の趙雲(左)…絵に気合が入ってないよね…


趙雲百態2

2009年09月22日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

趙雲の写真…まだ有ったので続きを。
こう見ると趙雲って結構どこにでも居るかも…といった感じですが。
商業の神様関羽は別格として、諸葛亮、張飛と変わらないかもしれないですねぇ。


'93年版 洛陽 関林の趙雲立像~'87年当時はまだ作られてなかったような
'88ごろお目見えだったはず…。


'98年版 無錫 三国城の趙雲…ちょっと偉そう(笑)


'01亳州(はくしゅう) 三国志テーマパークの趙雲マネキン
…何故か馬ごと落とし穴に嵌ってる。白い球体はオーブではなくレンズの汚れです(笑)


趙雲百態

2009年09月20日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

前回、趙雲のことを書いたついでに、我が家にある色々な彼をお目にかけます、ですよ。
データが古い順に(笑)。


'86当陽の市街の巨大趙雲…夕方撮影したのでシルエットになってますが…


'87 五丈原 武侯祠


'00 成都 武侯祠のご老体趙雲、ナイスなジジィっぷりが素敵


'00 綿陽 富楽堂の五虎将像(左は張飛…誰かに似てる)
この周りでは結婚間近のカップルが記念写真の撮影会をしている…


'01 武漢 三国公園…当陽長坂坡公園内の趙雲像に似てる


レッドクリフⅡ

2009年06月06日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

前回の更新からほぼ半年経過してしまいました

レッドクリフⅡはゴールデンウィーク前に見ていたのですが、
MASAさんと「Part2は是非ご一緒に~!!」なんて盛り上がっていた手前、
先に見に行ったとは言いづらく…(笑)、書きそびれてしまいました。

先日MASAさんが上京されたので、福島のOくんも交えて三国志ファン三人組で
夢の「レッドクリフⅡ」鑑賞会…いえ、鑑賞に行けたので、解禁です!!!

なんだかんだ言って、三人とも地元で既に鑑賞済みだったんですが(爆)。

やっぱり、こういうのは鑑賞後、ファン同志でワイワイ騒がないと、不完全燃焼なんですよねぇ。

三人とも孤独に鑑賞していたので言いたいことは山ほどあって、実際はそのシーンシーンで
言い合いたい訳です。
が、映画館ではそれも儘ならず、鑑賞後の食事会でも、いいたい事の半分も言えず(笑)…

結局、秋ごろ温泉にでも行って"レッドクリフ鑑賞大会"しようか、という話に落ち着いたりして。

そういえば、学生時代、よくビデオ大会とかいって一晩中ガンダム見たり、人形劇三国志見たり
してました。…懐かしいなぁ。
で、レッドクリフⅡの感想ですが、甘寧は殺したかったから名前を変えたのね~


レッドクリフ 其の六 ~孔明燈~

2008年12月21日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

早いもので、もう冬至。
というわけで、テンプレを冬バージョンに変えてみました。
一見「冬ソナ?」って感じですが、暖房なしの部屋で編集していると心底寒くなりそう。

見た目は冬ソナですが、今回もレッドクリフネタです(笑)。
云いたいことはまだまだあるので、当分レッドクリフです。
その後、韓国歴史ドラマになる予定…。

で、本題ですが、レッドクリフの予告編に孔明燈出てましたね。
夜空に浮かべてた無数の堤燈のような気球のような、あれです。

言い伝えに曰く、あの熱気球は諸葛亮の考案だそうで(笑)。

真偽のほどはともかく、今でも(20年前は…)雲南少数民族の何族か忘れましたが、
元宵節(正月15日)になると孔明燈を打ち上げて一年の幸せを願うらしいですよ。
雲南の奇祭としてずいぶん前にTVでも紹介されていたと記憶してますが
最初に知ったのは三国志関連の書籍で、はるか昔のこと。
今回これを書くにあたり、探してみたんですが、どの本の記載か見つかりませんでした。
(雲南+諸葛亮ネタなんで、私の三国志史跡巡りのコースから外してましたが、いつも正月に当たってたから
今考えると行っとけばよかったと後悔してたりして。)

行きやすい所では、台湾・平渓(台北近郊)の天燈ですかね。
これの別名も孔明燈。
台湾に移り住んだ漢民族が先住民の襲撃を報せる合図として使ったのが始まりだそうですよ。
今ではいろいろな願い事を燈篭(熱気球)に書いて、正月に上げるそうです。

そろそろどこかに行きたくなってきました。

台湾で美味しいお茶を買い込みつつ、孔明燈でも拝みたいと思う、今日このごろ。


レッドクリフ その五~曹洪と張遼、夏侯雋~

2008年12月20日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

再び云いますが、二回目の鑑賞はしっかり起きてました。

初回は居眠りしながら聞いていたので、「夏侯将軍」はすっかり「夏侯淵」だと思ってた訳ですよ。
夏侯淵に関してはちょこっと拘りがあるので、あんなインテリ感のない、
田舎のおっさんみたいなイメージはかなり幻滅だった訳です。

………ああ、きっと夏侯淵と思ったおじさんがショックで寝てしまったんだわ(苦笑)

しかし夏侯雋って誰????オリキャラ???

でもびっくりしましたね、だれだか不明の「夏侯雋」は、曹操の「あれは誰だ」という問いに
「趙子竜です」と答えてましたからね。

「趙雲」ではなく「趙子竜」ですよ。

獅子奮迅の趙雲に敬意を表したのか、元々趙雲に傾倒していたのか不明ですが、
趙雲に謙っちゃったわけです(深読みしすぎ(笑)?)。

………なんだぁ、田舎くさいおっさんだと思ってたけどイイ奴じゃん(笑)

曹操ファンのレッドクリフの見方といえば、ただひたすら

………曹操の後ろで控えている武将が誰なのか????

に尽きるわけですよ。

最後のタイトルロールに許褚、楽進、荀攸、程なんて出てると、もう血眼ですよ(徐晃は出てないのね…)。
今回はちゃんと見ていたので、曹洪と張遼(であるらしい人)は判った。

曹洪は許都で出陣する時、曹操の脇に陣取ってて、

しかも曹操に親しげに「開始吧」なんて微笑みかけられて
(この「開始吧」はカーク艦長の「Take us out」やピカード艦長の「Engage」に匹敵する名言ですよ。)

なんて羨ましい…、いや、この側近中の側近は誰だろう?なんて思っていたわけですよ。
彼も結構態度がでかいので、曹姓か夏侯姓だろうなぁ…なんて。

彼の最後のつぶやき「女のために軍を起こしたのか云々」で、「大哥(あにうえ)」って云ってたから、
曹洪という線は固いのではないかと…。
(最近中国語に自信がないのと、台詞の出だしで聞き取りにくかったので、違ってたらゴメンであります。)

張遼に関しては、長坂坡で劉備の旗を踏みしめながら、関羽に強く「跪下!」なんて
いってた彼っぽいんですが、どうなんでしょうか。
あの辺数人は同じような顔に見えるので自信はないんですけどね。

張遼には関羽に対して「跪け!」なんて云って欲しくなかった。
(…関羽を救いたいから、跪かせたかったという読みもできるんですけどね(苦笑)。)

関羽と張遼は個人的に親友関係希望なので、関羽にあんな態度(馬を突き飛ばして強奪)は
取って欲しくなかった。

突き飛ばすなら夏侯雋とか楽進とか曹洪とかほかにも大勢居るでしょうに。
張遼に劉備の旗なんて踏ませてはいけません。
踏ませるなら是非、夏侯雋に…(笑)。

文官の中の一番の年寄りが程かな。

許褚は目をつぶってるような黒髪のサンタクロースみたいなおじさんだろうか??

許褚というキャラを設定したにもかかわらず、曹操の寝所に侍らせなかったジョン・ウーは
魏についてはアマチュアなのね…。
結構正史ネタも盛り込んでいたのに、なんでそんなに魏に興味が無いの(笑)???


レッドクリフ その四 ~甘興~

2008年12月17日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

今回はちゃんと起きてました。

字幕も時々見てました!
主要人物の傍らに出る謎の、人物名が一致しない、将校を観察するのがかなり忙しかったので
どうしても字幕は二の次になってしまうわけです。

それでですよ、先読みの周瑜 (おまえはシャアか(笑)) が
開戦前から戦う気満々で築いていた赤壁要塞で、魯子敬の口から驚くべき台詞が…。

諸葛亮「こららは?」

魯粛「甘興将軍です…」

………えっ!甘興?????

最近韓流時代劇で韓国語(何を言ってるのかさっぱり判らないけど)ばっか聞いてるから、
聞き違いか?中国音が取れなくなってしまったのか~???
なんて、最後のテロップを待ち構えていたら間違いなく「甘興」。

………甘興っていったい誰?

他は甘将軍としか云われていなかったから、ずっと甘寧だと思っていたわけですよ。
多分初回は寝てて聞き逃したんだと思うんですけど(笑)
で、海賊上がりって説明もあったから、三国志知ってる人間はてっきり甘寧だと思うでしょ?

でも「甘興」

何で名前を変える必要があったのかわかりませんが…
この事実に気付いている三国志ファンはどれ位いるんだろうか…。

………気付かなかったのは私だけか(苦笑)?

おそまつ!


レッドクリフ その参 ~史上最強のストーカーと請用茶事件~

2008年12月15日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

………張豊毅(曹操役)いいじゃないですか!

割とスマートな感じだし、何より自信に満ちた笑顔が良い!!!(鑑賞中、5、6回殺されました。)
関羽至上主義の豪傑収集マニアなところも可愛い。趙雲にもちょっと浮気してましたけどね。
この貪欲な収集意欲に比肩するのは中国オタク族代表、清の乾隆帝位ですかね。

冗談はさておき、曹操ファンってのは結構被害妄想がすごい部分ありまして…。

今回もきっと演義寄りの悪役に描かれてるんだろうなぁ~、なんて思っていたので、
実際に見てみたらかなり安心したってのが本音ですね。ありがとう!ジョン・ウー!!!

で、MASAさんが言ってた「驪姫の扱い」(ここも前回ほぼ寝てた(苦笑))ですが、
同性として「あの扱いは無いよね~」というのに全く同感。
「あの扱いは無い」というのは「曹操の驪姫に対する態度はない」という、行為に対する批判と、
「現実主義者の曹操は絶対あんなまねはしないよね~」という、捏造された曹操像に対するダメ出しです。

「請用茶(お茶をどうぞ)事件」なんて、どこにダメ出しがあるのかよく判らない…。

孟くん(曹操の字、孟徳ね)、お茶のささげ方が気に入らなかったの?お母さんにいってごらん。

………現代だったら張り倒されてますぜ、丞相!!

………現代でなくても丁夫人だったら、「はぁ?」っとお茶をぶっかけられていたかもしれない(笑)

しかしまぁ、あれは驪姫にとっては酷い野郎で済むわけですが、小喬目線で見るととんでもないストーカー。
しかも勝手な思い込みで人格を捏造しているわけだから、実物を手に入れると妄想とのギャップに幻滅する
最悪のパターンですよ。

超絶権力者だから、驪姫を扱うみたいに小喬を妄想通りの型にはめようとするのかもしれない。

でもそこはそれ、婦女子の徳を兼ね備えた卞夫人がどうにかしてくれるだろう。

なんて妄想はおいといて…
手前勝手に捏造した人格に横恋慕するっていうのは、コミケに多いタイプ(私も含めて(笑))ですが、
一人または仲間内で、ただ妄想してほくそえんでる分にはノープロブレムなわけですよ。
自分が捏造している人物像に同意してくれる同志を得た日にゃあ、

………理解されるとは、かくも甘美なものであったかぁ~(感涙)!!!

ってな感じです。

ただ、これを現実と混同してしまうと超問題!!!

しかも金も権力も兵力もある、史上最強のストーカーときているから、性質が悪い…

でね、一般人が見るとこの映画の曹操は、傍迷惑なとんだサイコ野郎なんだけれど、でもですね、
曹操ファンからすると、「これが曹丞相」と提示されると許せてしまうわけですよ(笑)

曹操ファン(友達に云わせると究極(?)の曹操ファン)は【それが曹操なら】どんな描かれ方をしていても好きなわけで。
小事にいちいち拘っている様な心の狭い人間は真の(どこがだ?)曹操ファンにはなれないのです(爆)。
世界一打たれ強いファンは曹操ファンだと思う今日このごろ。

妄想の展開はこの辺にして、我らが曹丞相の名誉のために、一つ解説を…。

小喬の父、橋玄(正史だと「橋玄」、演義だと「喬玄」)は、太尉(国防相)まで勤めたお偉いさん。
橋大尉の趣味は人物鑑定で、結構当たると評判だったらしい。
その橋大尉が若き日の曹操の非凡な才を高く評価して、自分が死んだら家族を頼むとまで云ったそうですよ。
曹操に惚れこんじゃった橋玄ですからねぇ、娘が年頃になるまで中央で官職についていたら、
我が家の婿になんてことになったかもしれないですけどね。

こんな話があるんで曹操からしてみれば、橋家の姉妹は自分のものという意識があったんでしょうねぇ。
ちょっと図々しいですけどね。
でも、橋玄の「託す云々の話」があった時には娘たちはまだ赤ん坊だった訳で、
曹操も笑って聞き流した程度だったと思うわけですよ。
直接聞いたのか、人づてに聞いたのか知りませんけどね。

橋玄が中央の政治から身を引いた後は、曹操本人もそんなことはすっかり忘れててね。
姉妹がそれなりの容姿であれば問題なかったんでしょうが、これがちょっとした美人だった。
しかも江東の二大英雄孫策、周瑜の夫人に納まってるとくりゃあ、ちょっとの美人も尾ひれがついて
絶世の美女となる訳ですよ。

人口の比率でいったら圧倒的に曹操勢力下の方が美女は多いと思うんですが、
あんな時代ですから、なかなか人目に触れないんでしょうねぇ。
娘時代は深窓に隠されているので噂にはならない。
噂になるのは結婚して旦那の友人や親族にちょこっと顔を出すようになってからですよ。

話が前後しますが、今では曹操のキャッチフレーズとなっている

「治世の能臣、乱世の奸雄」

曹操を一瞥して↑こう評した許子将も、橋玄の人物鑑定仲間でね、当代随一の人相見だったそうですよ。
許氏は当時三公を排出している汝南の名家だから、その家出身の人物評定家が太鼓判を押した人物は
色々な意味で後押しがあって出世する。
もちろん本人の実力もあるんでしょうが、中には評判先行型の人も居たのではないかと思う次第。
この許子将に曹操を紹介したのが他ならぬ橋玄なんですね。

自分の見るところ君は当代随一の人物だから、人相見の第一人者にもっと詳しく見てもらえとか、
君の将来のために会っておいた方が良いとか、なんとかいったのか、
とにかく顔を売って来いと引き立ててくれたわけです。

この映画で曹洪が「たかが女のために軍を起こしたのか…」なんて呟くシーンがありますが、

違いますよぉ~、南征があって、その結果、オマケがついて来るんです

「あれは無いよねぇ~」なんて云いましたけどねぇ、この映画設定の「女のために暴走」する曹操も、
それはそれで良いわけです。

なんせ、曹操ファンですから。


レッドクリフ その弐 ~萌萌~

2008年12月14日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

本日は赤穂浪士の討ち入りですが、TOHOシネマズディで映画1000円だったので、一ヶ月ぶりに、レッドクリフ見てきました。

そして、びっくり…。

………初回の鑑賞時は…かなり寝ていたらしい

MASAさんのコメントの「八卦陣」ってそんなシーンあったっけ、なーんて思っていたんですが、途中の記憶が抜けてたのは居眠りしていたからなのねぇ(笑)。

でまぁ、そろそろ皆見ただろうってことで、判る人だけに解るネタを…。

前回友人談の小喬のネーミングセンス問題ですが、小喬じゃなくて周瑜の命名だった(笑)。

「荊州で生まれたから、荊州にちなんで萌萌(モンモン)」…どの辺が荊州に因んでるんでしょうか。

………荊(いばら)が萌え出ずる???

公瑾さまほど物事の知識がないのでその真意は判りかねますが、小喬よ!笑ってすまなかった。


レッドクリフ

2008年11月04日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

三連休に四半世紀付き合っている三国志仲間と、噂のレッドクリフ、見てきました。

三国志ファンには「レッドクリフ」といわれてもイマイチピンと来ない。
見に行くまでは、何故邦題を「赤壁」にしないのか???…と思っていたけど、
これは「赤壁」ではなく「レッドクリフ」だった(笑)。

周瑜と趙雲が宦官チックだったとか

曹操が献帝の前で小走りでなかったとか

長坂橋がオミットされちゃったとか

何故か関羽と張飛が徒歩でばっかり戦ってるとか
(おまけに張飛なんか蛇矛も持たず素手で戦ってる(爆))

小喬のネーミングセンスが理解できない(←友達談)とか

あの張飛が字を書いてる(しかもかなり達筆で周瑜に誉められちゃう)とか

諸葛亮と周瑜が仲良しだとか

東呉最高司令官の周瑜が自ら進んで白兵戦に参加しちゃうとか

周瑜が身を呈して趙雲を救っちゃうとか

曹軍の高級将校で顔と名前が一致したのは夏侯淵だけだったとか

何故か華佗が生きてて赤壁に従軍しているとか

周瑜が曹軍到着前から赤壁に陣構えしているとか

曹操の水軍は蜀から下ってきたのか?と思うような景観だったとか

孫権がかなり男前でびっくりしたとか

孫権が初登場シーンで分不相応な冠を被っていたとか
(皇帝でもないのに串玉付いてちゃマズイでしょう…冒頭で献帝が「討伐する理由が
ない」と抵抗していたけど、こんなの被ってるってチクられたら、これだけで討伐される理由になる(笑))

東呉の武将は甘寧しかいないのか???とか

………なんて無粋なことは言わないさ(笑)

 この映画を観て一つ判った。

………ジョン・ウーって周瑜ファンだったのね。

 すばらしい捏造っぷりで、正直な感想は同人誌ノリの周瑜ファンの妄想みたいな映画(笑)だった。
玄徳軍では趙雲が好きなんだろうな、きっと。

でもこういうノリは結構好きだったりして(笑)。

この映画見ると趙雲がすごく良い奴でカッコイイ(苦笑)と思ってしまうかも。
あんまり男前じゃないとこと笑顔のかわいいところがかなりタイプだった。

最近、韓国時代劇にハマってて中国史はご無沙汰だったけど
久々に三国志史跡めぐりをしに行こうかなぁ…なんて思いましたよ。

これからレッドクリフを観に行かれる方々は、心して見られよ(笑)!


武漢・三国志公園の孫権も結構男前


周瑜は顔に落書きされちゃってて可哀相


六和塔と銭塘江

2005年07月02日 | 三国志・水滸伝・史記の旅


六和塔と銭塘江

六和塔は銭塘江沿いの月輪山に建つ塔で、北宋代に呉越王の銭俶(せんしゅく)が、銭塘江の高潮を鎮める為に建立したそうです。当時の塔は九層で、高さ約170メートル(本当か?でも、中国のガイドブックにそう記述されている(笑)。白髪三千丈の世界かな…)、灯台の役目も果たしていたとか。
宣和3(1121)年に戦火で焼失し、現存の磚(煉瓦)の塔身は、南宋の紹興23(1153)年に再建されたもの。外側の木造の回廊は、清の光緒25(1899)年に改修されたもので、八角形、高さ60メートル弱。
水滸伝では、花和尚魯智深(かおしょうろちしん)が、この六和塔で海嘯(かいしょう)を聞き自分の死期を悟った。林冲(りんちゅう)もここで病没し、林冲を看病していた武松(ぶしょう)は、彼の死後も寺男としてここに残り、天寿を全うした。フィクションと判っていても、水滸伝ファンにとっては感慨深い場所なんだよねぇ。


海嘯を聞く魯智深/あまりにベタなポーズで見たときに、死にそうになった(笑)


武松さん

現在六和塔裏に、海嘯を聞いている魯智深像と、静かに佇む武松像があるので、行く機会があったら話のタネに見るのも一興です。それから、魯智深、武松像の上(月輪山斜面)には、中華古塔博覧苑があって、中国各地の名塔を縮小サイズで再現している。この中に昔、西湖南岸にあった雷峰塔がある。(塔の由来については、6/15分の記述を見てね。)ここに再現された雷峰塔は、崩壊する前の写真通りの出来だった。昔の雷峰塔がどんなだったのか知りたい人は、是非見てください。


三国志子孫の村2002~曹操の末裔の住む村~

2005年07月01日 | 三国志・水滸伝・史記の旅

瓜橋埠村から上村は、ほんの15分だった。思った通り、龍門鎮のガイドさんが場所を知っていた。



上村の集会所

住所は東図郷上村村(とうずきょうじょうそんそん)だ。

浙江省のみの大判地図でやっと、東図郷が載っている程度なので、手元の地図帳で上村を探そうということ自体が無謀だった(笑)。
見たところ、この村はまだ全く観光地化されていない。テレビに出ていた対聯のある集会所(?)は工事中で、カギが閉まっていた。小さな村なので、よそ者が観光に来たという噂は、直ぐに広まったらしく、近所のおじさん達が集まってきた。…懐かしい光景でちょっと笑った。昔は何処に行ってもそうだった。

「カギが閉まっているから、中は見られないよ」

「カギを開けて見せてやればいいじゃないか」

我々を囲んで、おじさん達の間で議論が湧き起こった。そうこうしているうちに、役人が鍵を持って現れ、「お待たせしましたね」と、中を見せてくれた。

………いい人たちだ。流石は曹家の子孫(笑)


内部は工事中で木材が無造作に置かれ、雑草が生えまくっていたが、テレビで見た通りの鄙びた佇まい。柱の対聯に「陳思」だ、「業」(業にはおおざと偏つき)だ、って字を見ると嬉しくなってしまうのが、曹操ファン。陳思は陳思王曹植で、業は官渡の戦い以後の本拠地。

ここの来歴を判っている人が皆無だった為、写真を撮りまくって撤収となる。

さあ、帰ろうとした矢先、おじさんの一人が、

「この石を撮って帰れ」

と、中央入口の舞台の下にある門石を指した。

「これって何か来歴があるんですか?」

「そういうことは判らないが、とにかく一番古いものだ」

龍門鎮の孫氏宗祠もそうだったが、この辺の村の集会所は、正門の左右の入口だけ使うようになっており、中央の入口は塞がれて、内側には舞台が設置してあった。まあ、どこも真中の入口は偉い人が出入りする時のみ使用するものだが、舞台でふさがれているのは初めて見た。小さな村ではこれが一般的なのだろうか?北方では見たことがないように思うが…。

最初は一日がかりの観光かと思っていたのだが、結局、昼過ぎには全部見終わってしまった。龍門鎮位なら、富陽からミニバスで来れると思うが、その先、瓜江埠、上村を回る場合は、タクシーを雇ってきた方が無難。脚に自信のある人なら、龍門鎮辺りに宿が取れれば、徒歩で二つの村を回る事もできるだろう。