ご主人、平和行動への参加は、2009に根室に行ってから3年ぶりです。今回は、6/23(土)から6/25(月)まで”2012平和行動 IN沖縄”ってことで一気に最南端の地へ行って来ました。
<初日>
●結団式
那覇市民会館大ホールに全国から多くの参加者が集まり、開会のセレモニーです。
「願う」平和から「叶える」平和へ。つながろうNIPPON!
その後、ご主人達の団体は、宿泊場所の都ホテルに移動して結団式です。
この後、カリスマスーパーバスガイドの崎原真弓さんによる沖縄戦の悲惨さを語った、「一人芝居」がありました。会場からは、その白熱の芝居に目頭を押さえる方も大勢居たようです。Bethは、今の平和な時代に生まれてとても幸せです。
<2日目>
●嘉手納基地周回行動
いよいよメインの嘉手納基地周回行動です。約17kmを炎天下の中歩いてシュプレキコールです。皆さん麦わら帽子を被り暑さ対策も万全です。
ご主人、日頃のトレーニングの成果が出て余裕の17kmでした。ところが上には上が居ますね。何とジョギングを趣味にしている若者が、この他に朝7km、夕10kmの17km。周回行動のウォーキング17kmと合わせて計34kmの周回行動をやってました。これには脱帽です。
この日の最後の行動は、平和記念公園にある「逓魂之塔」で献鶴を行いました。高知県からはご主人が代表して献鶴を行いました。
碑文
紺碧の潮騒に包まれるここ摩文仁ケ丘上に逓友426柱、その芳魂の永遠の臥床としてこの塔を建立する。諸霊は太平洋戦争最大の激戦を展開した郷土沖縄の戦闘において国土防衛のために銃をとりあるいはまた逓信人としての義務と責任を遂行するためにその未を犠牲にした。われわれはいま戦争の理非を超え諸霊の人間としての崇高至純なる行動に心からなる合掌を捧げ安らかな眠りを祈願するものである。この逓魂之塔の建立にあたって全琉の逓友は文字どおり一丸となった。しかもまた本土の郵政省、日本電信電話公社、国際電信電話株式会社、全逓信労働組合、全国電気通信労働組合、国際電信電話労働組合その他関係事業等もその真心と多大なる浄財を寄せられたこの塔に名を刻まれたなつかしい逓友たちよ生きながらえた逓友たちのせめてもの手向けを嘉たまえ 1965年
<3日目>
●戦跡、基地学習行動
ひめゆり平和祈念資料館
ここの資料館に展示してあった幼い彼女達の顔写真を一人一人じっくり見ているうちにご主人の胸に込み上げるものを覚えたようです。
平和祈念資料館
ご覧の様に素晴らしい資料館です。
ここの敷地にある「平和の礎」です。国籍を問わず、この戦争で犠牲になった方のお名前が刻まれているそうです。
糸数アブチラガマ
全長約270mの病院壕。当初陸軍壕や住民の避難壕として使用、戦況が激しくなるなか4月下旬より病院壕として使用されたそうで、1000名近くの傷病兵を収容していたそうです。どうやってそんな人数を収容していたのかご主人???
また、ガマ内では、自力では歩行できない傷病兵は毒薬を盛られ、叉は置き去りにされようです。その後、ガマに残った敗残兵や住民等の避難生活は8月下旬まで続きました。傷病兵の治療も薬品等の不足にてままならず、麻酔せずに手足を切り落とすこともあったとのこと。
戦況の趨勢が決したのちも、投降の呼びかけには応ぜず(応じれば敗残兵に殺害される)、米軍は火炎放射等にての攻撃を行った。現在も火炎放射の黒焦げの跡、及び爆風の跡等あり。
・締めくくりの「平和学習」講演
「沖縄における米軍基地について」 講師:屋良 朝博(フリーライター)
駐留している米軍の多くの部隊は、海兵隊であること。海兵隊は、6カ月毎にアメリカ本土の海兵隊とローテーションを組んでいること。しかも駐留の海兵隊は、その多くの機関近隣のアジア方面に展開して基地には、ほとんど居ない。・・・・・・・・だから「抑止力になっている」と言う根拠は嘘。
また、海兵隊の行動は、敵地に乗り込むのがその戦略。にもかかわらず海兵隊を搬送する船は、佐世保からやってくる。・・・・・・だから海兵隊を沖縄に置く必要性は見当たらない。
更に、アメリカは基地の移転先には柔軟に対応(検討)する旨の意思表示をしている。
問題は、受け入れる先が嫌がる現状があり、これに対して日本の政治決断がなされないのが真の問題であることがよく理解できました。
オスプレイは、本国アメリカでは、「未亡人製造機」と呼ばれているそうです。
●解団式
次の開催地、長崎へバトンタッチされ、全日程を終えました。現地、スタッフの皆さん準備、ガイド 等 大変だったと思います。どうもありがとうございました。