カロカンノート

へぼチェス日記

ピノー ジャック・マリー(かけはしアーカイブズ - 将棋を世界に広める会より転載)

2017年10月20日 | 気になるニュース

人物紹介コーナー(49号、2010年2月20日発行)
 今回は、Pineau Jacques-Marie (ピノー ジャック・マリー)氏を紹介します。と言いましてもピノー氏を知らないISPSの会員は、あまりいないのではないかと思います。本会発足以来、理事を務め られ、海外普及に大きく貢献されてきました。いつも近くにおられますが、実は、じっくりとピノー氏の想いを聞く機会はありませんでした。インタビューをし てみると、驚くことばかり。つくづくお聞きして良かったと思っています。(松岡信行)

ピノー氏と言えば、チェスの大家として誰でも知っていることでしょう。日本チャンピオンに輝くこと2回。羽生名人、森内元名人のチェスの先生。将棋も中々の指し手。このようなことは、以前から知ってはいたのですが、ある時、目隠し将棋ならぬ、目隠しチェスを6人相手にしているところに遭遇。しかも、次々と打ち負かしている。以前に、12人相手に指したことがあると聞いたときの驚きは、今も鮮明に蘇ります。今回は、池袋の椿屋珈琲店の一角を会場としました。
コーヒーの薫りの向こうに、いつもながらの優しいまなざしに迎えられ、席に着き、あいさつもそこそこに、早速、インタビューに入りました。
フランス、ツーレヌ出身、48歳。ツーレヌは大河、ロワール川のほとりの都市で、温暖な気候は歴代のフランス王にも愛され、ルネサンスの頃には、王自らが住んだそうです。歴史的建造物も多く、恵まれた環境だったと、透明な光の下で客観的な精神が培われたと、懐かしそうに語ります。
「24歳のころ日本に来ましたから、フランスと日本。丁度、同じ年月、住んだことになります」
「日本に来た切っ掛けは、どういうことだったのですか?」
「小学校の頃です。フランス人の父とベトナム人の母を持つ友達がいまして、家族ぐるみで、とても暖かく迎えられたのです。絶えず黒白を付けたがる北ヨーロッパの文化との違いを感じ、いつかアジアに、と思っていたのです。学生の時、妻に会い、日本に来ることを決めました」
何時、チェスの力を身につけたのかを尋ねた時です。
「中学生のときでした。国語の先生が、私の応答はどこかおかしいと、母に告げたのです」
全く違う話しが始まったのには驚きました。
「実は、先生の言っている事がよく分からなかったのです。原因を調べると、耳がよく聞こえていなかったことが分かりました。慢性の中耳炎だったのですね。2年ほど、夏休みを利用して、ピレーネ山脈にある療養所で集中的に治療を受けました。その時、一人の先生が私にチェスを教えてくれたのです。耳が駄目な分、目に頼ったのでしょうか、すっかりチェスに取り付かれました」
「直ぐに強くなったのですか」
「治療を受けている時、すでに教えてくれた先生とほぼ対等というか、弱点を見つけ、少し優位になっていたと思います。地元に戻ると、チェスクラブを見つけ入会しました。地方では一番強いクラブでしたが、一年もしないうちに、代表チームのメンバーとなり、翌年、地元のチャンピオンにチャレンジ。フランスのトップのジュニアになりました。ですが、高校、大学は、勉強が忙しく、数多くの大会に参加することはできませんでした」
 続いて、日本に来てからの、チェスとの関わりを尋ねました。
「ベルフォーレで行われた、世界ジュニアチャンピオンシップで知り合った小林さんに、日本チェス連盟を紹介され、権田さんと何度か対戦しました。初年度で、日本チャンピオンになったのですが、日本に来た大きな目標、『チェスを通じて、沢山の友人を』、との願いは中々進みませんでした。日本語の不足はどうしようもなかったのです。それでも、1988年、テサロニキでのオリンピック、1992年のマニラでのオリンピックで日本チームのメンバーとして貢献できたことは嬉しいことでした。やがて、自分が強くなることより、日本にチェスを普及する方が重要だと思えてきました。そこで、1989年に朝霞チェスクラブを立ち上げたのです。作家の湯川博士さんの協力を得て、随分と大きくすることができましたし、チェスの雑誌を発行できるようにもなりました。最大の目標はどうにか実現できました。今の夢は、国際大会で活躍する多くの日本人選手を誕生させる事です」
 「ところで」、と、前置きをして、「羽生先生、森内先生にチェスを教える切っ掛けは、どのようなことからですか?」と尋ねると、嬉しそうに次のように答えてくれました。
「15年ほど前のことです。朝霞のチェスクラブでは、メンバーはいつも30分ほど遅れて来るものですから、のんびりと準備をしていました。その日、ほぼ定刻に背の高い青年が尋ねてきたのです。慌てて用事を済ませ、対局しました。青年は、定跡は知らないものの集中力は素晴らしい。やがてメンバーが集まり始めました。皆の緊張の様子から、今、指している青年は特別な方だと分かりました。森内さんとの最初の出会いです。フランス人の私としては、森内さんは、とても尊敬できる方です。一つは、彼の謙虚な態度です。フランス人は謙虚さを大切にします。友人となった後、ご夫婦で、3度ほどフランスに尋ねてきてくれました。私としてこれほど嬉しいことはありません。
 羽生さんとの出会いは、少し後になります。羽生さんは熱心でよくいらっしゃいました。一ヶ月に何度も指すことがありましたが、しばらくはチェスと将棋の違いが分からなかったようです。でも、分かったとたんに私の域に達していました。1999年、女流ヨーロッパチャンピオンのアルミラ・ロティエさんに圧勝しています。羽生さんも森内さんも、数週間チェスに没頭できれば、強いIM(インターナショナル・マスター)に、数ヶ月行えば強いGM(グラン・マスター)レベルになると思います。ですが、世界チャンピオンは無理でしょう。チェス界はチェス界で、天才がいますし、天才が育つ環境を用意していますから。これはさておき、日本のチェス界にとっても、将棋の国際化にとっても、2人の存在が大きなことは確かです」
「チェスプレーヤから見て、将棋にはどんな印象がありますか」
「発祥は共通したゲームですが、育った文化的な土壌はかなり違っていますので、それが、二つのゲームに特性を与えています。北ヨーロッパの伝統である透明性を求める精神の影響で、駒にパワーを与え、最終的に綺麗に駒が消えて、局面の基本しか残らない唯一のゲームがチェスですし、日本の将棋は、仏教の影響か、無駄遣いを嫌う国民性か、取った駒が生き返ってくることに特徴があります。私は、島国である日本の感覚を表現したものだと思っています。強い人の棋譜を並べると、将棋は、海辺の、引いては打ち寄せる波のように見えます」
 最後の、『波のよう』との将棋に対する表現に、思わず「では、チェスはどのようなものですか」と聞いていました。『光のよう』だ、との答え。チェスが分からない私は、「もう少し詳しく」と迫ると、「透明で、残るのは線だけのような」感じだという。どうも明確にイメージできないのが残念ですが、一応、「打ち寄せる波と、吹き抜ける風の違い」と私なりに理解しました。
 最後に、ISPSのこれまでの活動の内容と、今後の方向性について聞きました。
「将棋を楽しむ多くの外国人は、日本の文化に興味があるか、チェスから少し離れて、違う味を楽しみたいと思って将棋に接触します。私の場合は、義理の父がチェス好きの私に将棋を教えてくれたことから始まります。しかしながら、私はあくまでもチェスプレーヤです。ISPSとは、1997年に眞田さんに出会ったことに始まります。1998年にフランスで行った日本年の前の年でした。私はこの大きなイベントのスタッフの一人として、日本将棋連盟やフランスチェス連盟との接触、羽生さんやロティエさんへの協力の要請、フランス大使館との協力関係などを図っていました。日本大使館は、凱旋門近くに大きな建物を手に入れていたのです。会場に一歩足を踏み入れた時の感動は今も忘れません。この時、眞田さんはじめ、鈴木さん、池谷さんたちが、全面的に協力してくれたのです。お蔭様で成功裏に終わることができました。改めて、感謝の意を表したいと思います。
 以後、理事のメンバーとして、1999年・フランス大使館、2002年・NECのチェス&将棋のイベント、カンヌの国際ゲームフェスティバルなどを通じ、日本の将棋とISPSの紹介に努めて来ました。その後、本間先生のヨーロッパへの将棋の普及活動のため、友人のエリック・シェイモルを紹介し、フランス将棋連盟へのコンタクトを図り、ドイツの総領事、丸尾氏を介してヨーロッパへの将棋の普及を行って来ました。今、将棋はヨーロッパに相当に広がっています。嬉しい限りです」
「今後の方向性としては、道具として、インターネットを活用すべきだと思います。外国人に将棋を紹介する。歴史、ゲームの基本や定跡、名人の試合へのコメントなどを、なるべく分かりやすく、それぞれのサイトを活用し、英語・中国語・ロシア語・スペイン語、そしてもちろんフランス語での伝達を行っていくべきだと思います。この際留意すべきは、ゲームのルール以外の難しさを減らすことだと思います。駒や形などで役割さえ分かれば良しとし、先ずは将棋の本質を伝えることに全力を上げるべきです。その後、漢字を学び、棋譜を読めばいいのです」
 一呼吸置いて、再び、ゆっくりと語り出しました。
「私は、チェスを通じて、違う文化に育ったもの同士が良い関係を創れるよう努力しています。きっと眞田さんも同じ気持ちでISPSを誕生させたのでしょう。戦争や争いは、相手の文化に対する不安や恐れが引き起こすのです。自分の文化を良く知るものは相手の文化を恐れませんし、相手の文化を知るものは不安に陥ることはありません。将棋を通じて外国人とコミュニケーションを取る、日本の文化を伝える。やがて不安や恐れの壁はどんどん低くなってくると思います」
 静かな語り口の中に、ほとばしる情熱が伝わってきます。
「私は、チェスを通じて文化を伝えようとしています。全く同じ基盤に立って将棋を通じて行おうとしている人々がいる。素晴らしいことです。哲学をなくしてはだめです。人間との関係を見失ってはならないのです。将棋は素晴らしい。将棋の本当の素晴らしさは、生まれながらに身近にあった人たちには判らないのかもしれません。世界に広める重要性を改めて確認して欲しいものです」。

 次第に強まる語気に、胸の奥が次第に熱くなって来るのを抑えることができなくなっていました。
いつも控えめに話すピノーさんの内にある、自己の役割、存在意義に対する確固とした支柱の一端に触れる場となったことの喜びと、皆に、うまく伝えられるかどうかの不安が交錯する心のままに、席を立ちました。

永遠のライバルしのび中原16世名人「寂しい」米長邦雄さん通夜

2012年12月24日 | 気になるニュース
18日に前立腺がんのため69歳で亡くなった日本将棋連盟会長の米長邦雄(よねなが・くにお)永世棋聖の通夜が23日、東京都目黒区の円融寺示真殿で営まれた。将棋連盟専務理事の谷川浩司九段、羽生善治3冠、佐藤康光王将ら棋界関係者、政界や芸能界から約1000人が参列した。

 米長氏と将棋史に残る死闘を演じた“永遠のライバル”中原誠16世名人は「同世代の棋士が亡くなるのはとても寂しい。思い出はいろいろありすぎて…今はお話しできません」と故人をしのんだ。森内俊之名人は「各方面からいろいろな方が来てくださり、あらためて功績の大きさを感じます」と話した。

 自民党の小泉進次郎衆院議員は「数年前に1度食事をしたことがあり、会うと背筋がピンと伸びる人だった。気さくな方でいつも頑張れと言ってくれていた」と語った。

 遺族からの和風でシンプルにしたいとの意向から、祭壇には白菊があしらわれ、本人が青色が好きだったことから遺影の周りにはブルーのデルフィニウムの花が囲んだ。関係者によると、遺影は1993年に49歳11カ月で念願の名人位を獲得した際に撮影された記念の一枚だという。

 米長門下生だった元女流名人の林葉直子さん(44)は姿を見せなかった。

 告別式は24日午前10時半から同所で営まれる。

 ≪萩本欽一 怒り方教わった≫30年来の付き合いがあるというタレントの萩本欽一(71)はかつて米長氏に「弟子を怒ることがあるんですか?」と聞いたことがあったエピソードを披露。「“怒る時には3日後に来いと言う。その場で怒ると言わなくてもいいことまで言ってしまう”と話していた。僕も若い弟子を怒る時は、米長さんのことを思い出す」と目を潤ませた。
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[ 2012年12月24日 06:00 ]

「あまりにも早すぎる人生の投了」 米長元名人の葬儀

2012年12月24日 | 気になるニュース
2012年12月24日 17時28分17秒 | チェス


 【村瀬信也】18日に亡くなった日本将棋連盟の米長邦雄会長(元名人、享年69)の葬儀が24日、東京都目黒区の円融寺示真殿であった。棋士や将棋ファンら約700人が、「さわやか流」の名で知られた故人をしのんだ。

 棋士会会長の佐藤康光王将は弔辞で「あまりにも早すぎる人生の投了に言葉を失った。病に対しても必ずや将棋のように巻き返すと信じていた」と惜しんだ。そして、「先生の将棋から勝負の厳しさを学んだ。ファンに対する気遣いを忘れなかった」と振り返った。

 葬儀委員長の谷川浩司九段は「大胆かつ柔軟な発想で将棋界を牽引(けんいん)された。いつも明るく、ユーモアあふれる方だった」と述べた

米国に逆らい結果を出したマクドナルド藤田田 儲けの原点「ユダヤ商法」と「超合理主義」

2011年01月27日 | 気になるニュース
米国に逆らい結果を出したマクドナルド藤田田 儲けの原点「ユダヤ商法」と「超合理主義」
MONEYzine 1月3日(月)16時0分配信


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■最初の1ヵ月で売上げの世界記録を更新した第1号店

 1971年、マクドナルドの第1号店が東京の銀座三越1階にオープンした。
2年越しで、米国本社のレイ・ブロックを説得して、日本における初進出の店舗である。本国の米国では、郊外のファミリーレストランとして成功してきたので、繁華街やダウンタウンでの出店は予想外で、またそれほど期待されていなかった。

 しかし開けてビックリとはこのことで、売上げの世界記録をつくってしまう。「郊外なんかダメ、やるなら日本一、人通りのよい日本の中心部がよい」といって、東京銀座に開店。日本法人の意向を貫き通した、社長藤田田の勝利だった。

 銀座三越店の1号店の開店には、3000万円の費用がかかったが、最初の月間売上げで4000万円を記録して、1ヵ月で開店費用を回収してしまうという快挙がおこった。

 その体験を元に1972年、藤田田の記した『ユダヤの商法―世界経済を動かす』は、出版されるやいなや、瞬く間に売れ行きベストテンに入り、販売部数104万部でミリオンセラーになった。しかし、その後、この本は市場から姿を消す。

 通常なら、ミリオンセラーは古本屋でいくらでも安価に手に入るのだが、現在の値段は、最低7000円前後で、高騰しており、ほとんど市場に出回っていない。

 なぜなら、この本には、元祖富裕層になった起業家の教えとして、商売と金儲けのコツがふんだんに書かれており、購入した人が大切に保管しているからだと、著者の藤田田氏本人が語っていた。

 確かに、藤田田は、日本で外食産業を根づかせた父として語り継がれており、そのカリスマ性は半端ではない。

 東大在学中に藤田商店を起こし、銀座にマクドナルドの1号店を出店。あっという間にハンバーガーブームを巻き起こし、億万長者になったビジネス巨人から、読者へのメッセージとして、今なお読み継がれているのである。ここでは、その本のエキスを抽出して紹介していきたい。

■あとがきに「お金の欲しい人が読んでください」

 まず、彼の成功の秘訣を探ってみよう。

 日本という「米」と「醤油」の国で、米国の象徴である「パン」と「ケチャップ」を売り込み、ファーストフードの先駆けとなった、大風呂敷商法の極意、そして大成功の源となった、世界中で異端視される「ユダヤの商法」とは、いったいどんなものなのだろうか? 

 藤田田は『ユダヤの商法』のあとがきで、「お金の欲しい人が読んでください」として、こう記している。

「どうすれば儲かるか――ということを公開するのは、はなはだ不本意だが、世の中を見渡すとどうも不景気色が強い。これまで他人に金儲けのコツを伝授するための苦労してきたわけではないが、国の将来のためにわたし一人が儲けるよりは、国民全体に儲けもらった方がプラスになりそうなので、あえて金儲けのコツの公開に踏み切った」

 何と太っ腹な経営者であろう。自分が億万長者になったヒケツをすべて公開しようというのである。これこそ究極の「ウィンウィン関係」(お互いにメリットのある関係)ではなかろうか。

 藤田式「ユダヤの商法」の基本は、「現金主義」である。ユダヤ人の教えでは、天変地異や人災から自分の命や生活を守るのは、現金以外には考えられないというものである。

 人間も社会も毎日、毎日変化する中で、銀行預金ですら、いつ破綻してゼロになるかわからないし、クレジットカードなど信販会社の信用がなくなれば、まったく価値のないものになってしまう。さらに、戦争が起これば、現金以外は通用しなくなる可能性も高いのだ。したがって、すべての評価は「いま現金をいくら持っているか」という概念に基づいて行われるわけだ。

■どんなビジネスも商売相手は「女」と「口」

 第二に、ユダヤの商法には、「商売の対象」は2つしか存在しない。それは「女」と「口」である。「女」とは、男が稼いだお金を女が使って生活を立てるわけだから、商売は女を狙うことが大事だという意味。古今東西、儲けるには「女」が欲する商売を行うことである。

「口」とは、レストランや居酒屋、バーなどの飲食店を始め、食品関連業などが対象で、口に入ったものは、身体の中で消化されて、次の商品が必要になるからだ。つまり永遠にリピートされる商品であるわけだ。したがって、ひとつ当たればロングセラーになり、大きな儲けが期待できる。

 第三に、「国際感覚」が必要であり、そのための必須条件は英語が話せること。グローバルビジネスで、通訳をはさんでいては、意思の疎通ももどかしく、即断即決の妨げになる。また、いろいろな国の人間と商売をすれば、それだけ広い視野から考えられるし、違った角度から物事が見られることにつながる。

 藤田田も学生時代に、GHQでアルバイトをして英語力を磨き、国際感覚を養っており、後に「銀座のユダヤ人」といわれるようになる。GHQ時代には英語力だけでなく、ユダヤの商法の原点になることも体験した。

 GHQに従事する軍人たちの中にはユダヤ人も多く、かれらは同僚に金を貸すサイドビジネスで儲けていた。相手が同僚でも一切手加減せずに、厳しくお金を取り立てていく姿は、藤田に衝撃を与える。お金=キャッシュの大切さや重要さを、ここで身につけることになる。

 ユダヤ人は、紀元前から自国を追われて難民となり、差別から土地の所有権や職人への弟子入りも許されなかったので、キリスト教ではご法度の金融業などを行い、大きな利益を稼いでいったのである。当然、お金のためには危ない橋も渡らなければならないわけで、これが「黒い錬金術師」の誕生であるといわれている。

■ビジネスは「もっとよこせ! 」が儲けの原点

もうひとつ藤田田のユダヤの商法で特長的なのは、「超合理主義」というヤツである。

 それをひとことで言いあらわすと「勝てば官軍」という言葉になる。そこで、彼は語る。

「勝負は勝たなければダメだし、商売は他人が腰を抜かすほど儲けて見せなければダメだ」
ビジネスの世界では、「敗者の美学」など存在せず、負ければ即倒産である。負けてから、いくら立派な理由をつけようとも何の意味もない。ビジネスは食うか食われるかの世界なのである。

 こうした徹底した精神こそ、日本では絶対に不可能といわれたハンバーガービジネスを大成功に導いた源なのである。

 藤田は「人間の本性は「悪」だ」といい、次のように語っている。
「日本人は基本的に性悪説ではなく性善説をとっている。それは、講談や浪花節でもわかるように、とにかく長い間、勧善懲悪というモラルに親しんできたからだ。(中略)

 しかし、ビジネスの世界ではそうはいかない。ここでは、相手も絶対に儲けようと思っているのだし、自分もそう思っている。自分が儲けるためには、相手をどん底に陥れる。そうしなければ自分がやられる。お互いに食うか食われるかの修羅場で戦っているのだ。」

 つまり、ビジネスは修羅場であり、そんな修羅場に性善説でのぞめば、あっという間に足をすくわれ、骨の髄までしゃぶりとられてしまうことは目に見えているのだ。

 日本人はよく「商売はギブ・アンド・テイクでいきましょう」というが、これはキリストが人を導くためにいった宗教上の言葉であり、ビジネスに応用するほうがおかしいのである。
その証拠に、ユダヤ人は

「テイク・アンド・アスク・フォー・モア」つまり「(取った上で)さらによこせ! 」
という。「ギブ」はなしで、取ってとって取りまくるという意味である。これなら、儲かること間違いなしである。

 実際「ギブ・アンド・テイク」では、最初に与えるわけだから、よくてイーブン、下手をすれば大損をしかねないのである。

■ソフトバンクの孫正義もユニクロの柳井正も師と仰ぐ

 お金に関連してもうひとつ付け加えると、お金に「きれい」とか「汚い」とかという表現は意味がないということだ。日本人はよく「きれいなお金」「汚いお金」という言葉を使いたがる。そのお金の出所、つまりどうやってその金を稼いだかを問題にする。

 しかし世界では、そんな考え方は通用しない。どんなお金でも価値は変わらないというわけだ。お金には倫理的な判断は必要ないとされている。

 米国には「ループホール」という言葉がある。「抜け穴」とか「例外」という意味だが、そこを狙えば儲かるということで、ループホール専門の弁護士がいて、「この法律にはこういうループホールがあるのでやりませんか」という儲け話を持ってくる。

 日本でいうと、そんな輩は「悪徳弁護士」になるのだろうが、こんなことは世界中で、日常茶飯事のように行われているのだ。

 藤田田はこういった考えから、企業と政治家の癒着という批判が起こりそうな政治献金も正々堂々と行い、政界からもいろいろな情報を得て、ビジネスに生かしていた。

 そんな藤田田を尊敬して、ソフトバンクの総帥・孫正義、そしてユニクロの創業者・柳井正も、彼の著作を読破し信奉して、その経営理念を受け継いでここまできたといっている。

 特に、孫氏は高校時代、藤田に直接面会して、「これからはコンピュータビジネスの時代」という薫陶を受け、起業し大成功につなげているのだ。

■競争相手を知りたければゴミ箱の中を調べればよい

 藤田田のビジネスのルーツは、米国マクドナルドの創業者レイ・クロックのとの出会いに始まる。初めてクロックに会ったとき、彼は自分の手を広げて見せてくれた。薬指の第一関節から先がなく、若い頃、工場でケガをして切断したという。

 そして彼は、藤田に手を見せろといい、「きみは指が全部揃っているから、大きくなるまで20年かかったわたしより、もっと早く日本マクドナルドを大きくできる」といった。

 クロックがマクドナルドの事業を立ち上げたのは52歳で、人生の黄昏時である。それから、30年間、粉骨砕身努力して、世界一のファーストフード企業に育て上げた。そのビジネスに対する情熱を述べた言葉に「成功はゴミ箱の中に」というものがある。
これは、クロックが競争相手に述べた言葉で、

「競争相手のすべてを知りたければゴミ箱の中を調べればよい。知りたいものは全部転がっている」
と語ったものである。続けて、

「わたしが深夜2時に競争相手のゴミ箱をあさって、前日に肉を何箱、パンをどれだけ消費したかを調べたことは一度や二度ではない」

とも語っている。そんな情熱家に気に入られて、日本でマクドナルドを創業した藤田田は、クロックが予想した以上に、瞬く間に年商3000億円の巨大産業に育て上げ、自らも『フォーブズ』誌に世界の長者として紹介されることになる。まさに、「ジャパニーズ・ドリーム」ナンバーワンの巨人といえるだろう。

参考資料:『ユダヤの商法』、『勝てば官軍』『頭の悪い奴は損をする』(以上、KKベストセラーズ)、『藤田田―金儲けのプロの教え』(アスペクト)など
(ビリオネア・リサーチ・グループ)


<海老名香葉子>林家三平の婚約会見を受けてコメント 国分佐智子を初めて見たとき「ピンと来た

2011年01月24日 | 気になるニュース
落語家の林家三平さん(40)が女優の国分佐智子さん(34)と婚約し23日、東京都内で婚約報告会見を開いた。会見後、三平さんの母、海老名香葉子さん(77)がコメントした。全文は以下の通り。(毎日新聞デジタル)

 --おめでとうございます。三平さんがご婚約されたということで今のお気持ちは?

 もうホッとしました。あの子はいつまでも赤ん坊のようでしたので。

 --国分さんとお会いになって。

 (会う前から)きれいな人だ、きれいな人だとさんざん聞かされてましたから。それにしてもきれいだなと思いました。(一同笑い)

 --初めて会われたときにこれは息子がお嫁さんを連れてきたと思いましたか。

 ピンと来ました。さっちゃん(国分さん)の目を見て分かりました。大きな瞳で何度も見ているの、せがれの目を。こんなに見つめるんだと思って(笑い)。

 --三平さんを愛おしそうに見つめてらっしゃいますもんね。

 そうなんですよ。あんなにお互いに見つめるもんですかねえ。(一同爆笑)

 --いつも今日の会見のように見つめ合っているんですか。

 そうなんですよ。おいしいねといいながら、お互いに。わが息子ながらもったいないと思いました。

 --どんな夫婦になりそうだなと思いますか。

 さっちゃんの方が(精神的に)ずっとお姉さんなのね、だからきっと(三平さんを)育ててくれると思います。

 --国分さんは「おかみさんにいろいろ教えていただいて」とおっしゃっていましたけど。その覚悟は感じられましたか?

 そうですね。本当にしっかりしているのでねえ。

 --おかみさんとしてどんなことを覚えてほしいですか。

 一門ですから、みんなが気持ちよく集まれる場所にしなさいよと。それには大変なのよ、お台所も大変だし、だけれどもみんなが泰ちゃん、三平君って来てもらえる家にしなさいよって。

 --おかみさんの目から見て合格点ですか。

 合格点というよりも、ああきれいだなあって。女優さんってやっぱりきれいですね。(一同爆笑)

 --お着物姿をご覧になってどうですか。

 私が作ったんですけど、手を通さなかったんですよ。機会がなくて。仕事ができて初めてのご褒美のもの。袖を通してもらってうれしかったなと思いました。(海老名の家紋がちゃんと入って)最初は地味だから嫌だとか言われるかなと思ったんですよ。振り袖を着るじゃないですか(こういうときは)、どなたもきれいにね。「実は私のこういう着物があるんだけどどう?」って見せたら、「あら、いいわあ」」って、そのとき妹さんも一緒だったんです。そうしたらすごく褒めてくださって。「あらいいわね」って。

 --国分さんは海外で過ごされたりしていた方ですけど、伝統芸能を受け継ぐ人のおかみさんで大丈夫かなとか、心配をされたりしませんでしたか。

 全然そんな感じしませんでした。もっとパッとしていて、英語ペラペラで、と思っていたら、礼儀正しくて、あいさつもきちんとできる人で。

 --国分さんは仕事をセーブしておかみさん業を習うとおっしゃってますが、それを聞いてどう思いました?

 愛しいし、可愛いですね。これまで、泰ちゃんも「ねえ、今日ね」って「話を聞いてくれる?」ってよく来てたんですけど、私のところに来る回数が少なくなりました。(一同笑い)。

 --ちょっと寂しくないですか?

 私忙しいですから(笑い)。

 --佐智子さんと知り合って、三平さんは変わりましたか?

 そうですね。決められるようになってきたかな。きっとさっちゃんとお話をしているんですね。

 --早くお孫さんの顔が見たいですね。

 だからね、結婚したら早く赤ちゃんを作って、二代目、三代目ち続くように頑張ってちょうだいよって頼んだんですけど。そうしたら(三平さんが)「お母さん、あんまりプレッシャーを掛けないで」って。言われましたけど、でも言い続けます。(一同笑い)

 --12月24日に初めてお会いになってから、何度か会っている?

 電話は何度も掛かってきますからね。何度も会ってます。

 --最初に会ったときから変化がありますか。

 最初はきれいな女優さんだなという感じでしたけどね。あとから、この人なら大丈夫だな、なんでも話せるなあというまでになれました。正蔵の家内は20歳でうちに来て28年、一緒にやっているんですけど、これが非常に出来がいいんです。非常にいいお嫁さんだと思います。だから「この子になんでも教わりなさいよ」と。年が近いですから。指輪を買いにいくのでも正蔵の家内が一緒に付いていったんです。

 --先代の好みのタイプだとか。

 お父さん、美人好みだったから。(一同爆笑)美人さんと結婚したかったのに、師匠さんに紹介されたんだからって押しつけられてお見合いさせられて、一緒になったんだよって(聞かされてたので、今の三平さんも)お父さんの理想のようにきれいな人をもらうって言ってたんですよ。

 --公約通りだった。こんなきれいな人を香葉子さんに紹介したのは初めてだったんですか?

 高校生のときからお友だちはいっぱいいました。よく家にも来てましたけど、結婚を意識した人はそんなにいません。40歳も近くなってね、まあどうしましょうって、まあ心配しましてね。どうしよう、どうしようって自分もね、焦りましたね。器量がよくてもね。心が優しくないと。

 --高座も見て勉強しているそうですよ。どんな家庭にしてほしいですか。

 この近くに住みたいと。家に部屋はあるんですけれど、まずは2人きりにさせてあげたいじゃないですか(笑い)。目と目をあんなに合わせてね。

 --皆さん落ち着かれて安心しました?

 安心しました! 一門みんなも、ね(笑い)。

 --あとは泰葉さんの再婚ですね。

 泰葉はいまちょっと……。今朝も電話で「皆さんで会ってご飯食べましょうね」って言ってました。かわいそうだったんですけど、今ちょっと風邪ぎみで、犬が調子が悪いとかって。

 --三平さんは佐智子さんが作ったショウガ焼きを食べられたそうですけど。

 私はまだなんですよ。でもショウガ焼きがうまいんですって(笑い)。私に言うんですよ。「さっちゃんのショウガ焼きはうまい」って。だから、ぜひ食べさせてねって。

 --佐智子さんの着物は今日初めて着られたということですか。

 今日初めてです。本(「ことしの牡丹はよい牡丹」)がベストセラーになって最初に作ったんですよ。

 --今の方が好みそうな柄ですね。

 全然考えてなかったんですけど。

 --ご家族が全員そろったことは?

 泰葉がまだ。一門の会などで、そろれば。


なぜカラオケでストレス解消してはいけないのか ---プレジデント社

2011年01月24日 | 気になるニュース

職場に潜む落とし穴

■人格を破壊する“カラオケリスク”


「歌わないの? 遠慮しないで。ハウンド・ドッグの『ff』とかどう」
 誰かれかまわず部下をカラオケに誘って、こんな命令をしていませんか? もし、していたら大変危険ですので、やめてください。
 忘年会などで一杯飲んで職場の人間とパーッとひと騒ぎ。まま、それはいいでしょう。しかし、心療内科で多くのウツとウツもどきの若い患者たちのカウンセリングをしている私に言わせれば、カラオケは人格を破壊してしまうリスクをはらみます。

「私、カラオケ、苦手なんです」ときっぱり宣言できればいいですが、職場の関係から曖昧な態度しかとれず、しつこく「歌え歌え」と迫られると、そこにいるのさえしんどくなる。
 実は、カラオケボックスの狭い個室ではみな無意識に演技をしています。必死にノリのよさを演じるのです。大音量と輝く光の助けも借りて、明るく、ポジティブなキャラを貫き通す。いい年をして、「AKB48よりモー娘。だろ」などとバカ騒ぎ。あるいは、それは現実逃避かもしれません。しかし懸念するのは、とても歌う気分ではないメランコリックな心境であっても、空気が読めないのは人間失格とばかりに場になじもうと頑張ってしまう人が多いことです。本当の自分を封印して、ノリノリ。その乖離が大きいと心は激しく葛藤し、疲弊します。カラオケのような「陽」の空間でのポジティブ・シンキングは心を強くするのではなく、ストレスは増します。

 メンタル的な疾患にかかっていなくても、人の気分というものは一日の中でも天気のように変わるものです。元気ハツラツのとき、安らいでリラックスしているとき、ブルーに沈んでいるとき……さまざまです。そこで大事なのは、その時々の気分に同調すること。調子がよくない、気分がすぐれない。そんな日は、無理に元気に振る舞わない。空回りして、妙に周囲から浮いてしまわないように。
 何か心に傷を負ったようなケースなら、なおさらです。その傷を少しでも短い時間で癒やしたいとカラオケに行くなどもってのほか。そんなときは、じっくりとその悲しさや辛い感情を深く掘り下げることを患者にすすめることもあります。名付けて、あえて自ら傷に粗塩を塗り込む、塩塗療法。いわば、「攻めのネガティブ・シンキング」です。

 元気がない部下がいると、とかく上司は得意の「飲んで歌って」コースに持ちこもうとします。でも、慣れないカラオケボックスという環境になじまねばと部下にかえって負荷がかかることも少なくない。そのため、曲の合間などに上司がつぶやいた、とっておきのアドバイスも心遣いも、相手の胸には届かない。また、部下に本音を吐露させる目論見も果たせないまま、ただの飲み会となるのです。
 これは学校生活で言えば、放課後にいつもの教室で担任の先生に言われたことは鮮明に覚えていても、職員室に呼び出されて学年主任に言われた内容は記憶にないといったことと一緒。部下への自分の語りに自信がないから、上司は安易に「場」を変えようとしがちです。
 けれど、いつもの仕事場で、部下の隣に座って静かに「自分はこんなにダメな人間」といった自虐ネタなどを披露するほうが、結果的には「心に染みる話」ができるものなのです。上司の命令が滅茶苦茶でも、なにも考えずに従うだけで済んだ時代は終わりました。いまや社会には草食系が増殖。わけもなく深く考えようとする迷える羊はすぐに心が折れるのです。


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臨床心理士 心理学者
植木理恵
一九七五年、大分県生まれ。日本教育心理学会「城戸奨励賞」「優秀論文賞」受賞。著書に『本当にわかる心理学』『ウツになりたいという病』など多数。


しゃべくり漫才・ご意見番…喜味こいしさん死去

2011年01月23日 | 気になるニュース
しゃべくり漫才・ご意見番…喜味こいしさん死去
読売新聞 1月23日(日)17時4分配信

 「いとこいさん」の愛称で親しまれ、兄の夢路いとしさんとのしゃべくり漫才で人気を集めた喜味こいし(きみ・こいし、本名・篠原勲=しのはら・いさお)さんが、23日午後1時38分、肺がんのため亡くなった。

 83歳だった。告別式は27日午前11時半、大阪市阿倍野区阿倍野筋4の19の115同市立葬祭場やすらぎ天空館。喪主は長男、敏昭氏。連絡先は大阪市北区野崎町3の2の和光プロダクション。

 埼玉県川越市生まれ。旅回り一座の家庭で、幼い頃から2歳上のいとしさんと舞台に。1937年、上方漫才の草分け、荒川芳丸に入門、荒川芳博・芳坊の名で子供漫才を始めた。戦争中は志願兵として陸軍に入り、爆心地に近い広島の兵舎で被爆、病院で終戦を迎えた。48年に漫才作家・秋田実の指導の下で、「夢路いとし・喜味こいし」と改名した。

 大阪弁の豊かな表現を生かし、庶民の暮らしを題材にしたネタで、ラジオやテレビ、舞台で活躍。飄々(ひょうひょう)としたいとしさんに対し、だみ声で鋭い突っ込みを入れる姿が人気を集めた。2003年に兄が亡くなった後も、上方漫才界の“ご意見番”としてテレビでコメンテーターを務めていた。

 関係者によると、昨年1月に肺がんを発症。抗がん剤治療を受けながら仕事を続け、同12月2日にはNHKの「上方演芸ホール」にゲストで出演。今月21日に容体が急変し、家族が見守る中、眠るように息を引き取ったという。

 1969年に上方漫才大賞、76年に上方お笑い大賞を、93年には芸術選奨・文部大臣賞、紫綬褒章を受けた。2003年には菊池寛賞も受賞した。

(^_^)(^_^)(^_^)

んー根っからの関西人と思ってました

「裁判で決着つけるべき」尖閣ビデオ事件の元保安官が検察を批判

2011年01月23日 | 気になるニュース
産経新聞 1月23日(日)0時50分配信

 沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突をめぐる映像流出事件で、国家公務員法(守秘義務)違反容疑で書類送検され、起訴猶予処分となった一色正春・元海上保安官(44)=依願退職=が22日放送のTBS系列の番組で単独インタビューに答え、「(映像は)秘密にあたらない。裁判で決着をつけるのが法治国家のあり方だが、(起訴猶予処分で)検察はその道を避けた」と批判した。

 また、映像流出発覚の翌日には妻に投稿を告白していたといい、「やるべきことはやった。後悔はない」と説明。「sengoku38」のハンドルネームの意味については「誰にも話していない。伏せておく」と述べた。


リビング・トゥゲザー・ロンリネス エリック・クリネンバーグ

2011年01月22日 | 気になるニュース
――日本では独居者(単身者)が増え、孤独死が深刻化しているが、米国ではどのような状況か?

ニューヨーク大学社会学部教授、同大学学報誌「パブリック・カルチャー」編集長を兼務。都市研究、リスクと災害、メディアと文化などが専門。早くから都市部の孤独死問題に取り組み、独居者の社会的孤立を防ぐセーフティネットの必要性を提言している。シカゴの独居高齢者の孤独死を調査分析した著書「Heat Wave: A Social Autopsy of Disaster in Chicago」(2003年)は6つの学術賞を受賞し、同名の演劇の原案ともなった。また、独居者の社交性や自己管理能力、自由や自立などポジティブな面を探った新刊「Solo」が2011年2月に発売される。カリフォルニア大学バークレー校で社会学の修士号・博士号を取得。
 独居者・単身世帯の増加は日本だけでなくほとんどの先進諸国で起きており、この50年間の世界における驚くべき社会的変化のひとつだ。米国も、もちろん例外ではなく、とくに独居高齢者が増えている。

 しかし、独り暮らしの人が必ずしも寂しい生活をし、社会的に孤立しているとは限らない。独り暮らしと寂しさ、孤立、自己疎外(自ら社会との関係を絶つ)などをはっきり区別して考える必要がある。

 米国では独居者の多くは社交的で友人や知人などと時間を過ごし、仕事もお金もさまざまなコミュニケーション手段もあり、深刻な問題とはなっていない。米国では社会的に孤立している独居者の割合はそれほど高くないと思う。

――しかし米国にも孤独死の問題はある。あなた自身、シカゴ地域の孤独死を調査分析し、2003年に出版した著書でそれを示した。

 1995年7月のある1週間にシカゴで亡くなった700人について調査・分析した結果、数百人が孤独死で、うちほとんどは高齢者だったことがわかった。

 シカゴといえばコミュニティの絆が強いことで有名だが、そのような都市で多くの高齢者が孤独死したことに私は衝撃を受けた。その原因は夏の暑さだけでなく、独居高齢者の支援ネットワークが不十分だったことも関係していたのではないかと本のなかで指摘した。

 しかし、これはシカゴだけの問題ではなく、今日の高度管理社会ではどこに住んでいても独居者は孤独死する可能性を秘めている。独居者や高齢者の増加現象は今や世界中に広がっており、とくに北欧など経済が発展して強い社会福祉をもつ国ほど独居者が増えている。米国では子供や親戚と同居したり、老人ホームなどに入るよりも独り暮らしを好む高齢者が多い。

 私たちはこの社会的変化にどう対応するかを真剣に考えなければならない。独居者のなかには寂しさを感じ、社会的に孤立してしまう人もいるからだ。

――日本では家族と同居を好む高齢者が多いが、じつは同居の高齢者の方が独居者より自殺率が高くなっている。この状況をどうみるか。

 それは私の主張とも共通する。つまり、独居高齢者が家族と同居しても問題の解決策にならないということだ。私たちはいまライフスタイルの大きな転換期にさしかかり、これに対応していくのは容易なことではない。

 重要なのは、これは日本だけの問題ではないということだ。それどころか日本は独居者急増と孤独死を深刻な社会問題として認識しているという点において、他の先進諸国より先を行っているのかもしれない。

 しかし、独り暮らしが増えるのは悪いことばかりではない。実際、米国では多くの人が独り暮らしを選択している。人々はそれだけの健康と経済力があれば、自由で自立した生活を維持できると考えるからだ。高齢者も本当に家族と同居する必要性がなければ独り暮らしを選ぶ。

 独居者の増加はある面で驚くべき社会的変化だが、それは同時に社会的孤立という問題も引き起こすということだ。自動車の開発も人々の生活を便利にしたが、一方で交通渋滞、大気汚染、地球温暖化、石油依存などの問題を引き起こした。

 世界中で独居者、とくに独居高齢者が増えている背景には寿命が延びたこともある。人々はかつてなく長生きするようになり、高齢になっても健康で経済力もあり自分の住む場所を確保できる人が増えているのだ。

――社会的孤立の問題に対応すれば独り暮らしも悪くないということか。

 その通りだ。これを良い機会にして、自分たちの住む町やコミュニティを創造的な方法でつくり変えることは可能だ。そうすれば独居者は家族やコミュニティとつながりながら、個々の自由や自立した生活を楽しむことができる。

たとえば、高齢者が利用できる公共の場所や施設を増やしたり、住宅地域・構造を改善して独居高齢者の住宅近くに家族の住宅をつくったり、あるいはあらゆる年齢層の独居者が住むアパートの1階に共同キッチンや食堂を設置し、居住者がいっしょに食事できるようにすることなどだ。

 私の住むニューヨークでは最近、若い独身専門職が多く住む集合住宅で居住者がいっしょにコーヒーを飲んだり、パーティをしたり、映画を観たりできるレクリエーションルームなどを設置するのが流行っている。

――日本の独居者はコミュニケーション能力が不足し、家族以外に人と会う頻度が先進国のなかで最低レベルにあり、社会的孤立が著しいとの調査も出ているが。

 それについてはよくわからない。もしかしたら日本の独居者は本当にコミュニケーション能力が不足していて、家族以外の人と会おうとしないのかもしれない。しかし、独居者の社会的孤立は日本に限ったことではなく、世界的な問題なのである。

――日本では独居者が誰にもみとられず死後半年も発見されない人もいるが。

 それは新聞で読んだことがある。現代の大都市で独り暮らしをしている人のなかには非常に孤立している人もいる。だからこそあらゆる手段を講じて、彼らを完全に孤立させないように支援しなければならない。最も孤立しやすいのは精神障害のある人や、自ら家族や社会との関係を断ち切ってしまった人たちである。

――孤独死した人が何カ月も発見されないようなケースを防ぐにはどうしたらよいか。

 米国ではいくつかのプログラムを実施している。郵便配達員が注意して個々の家を回り、郵便物がたまっている人がいたら社会サービス機関などに知らせる「郵便配達員警報」や、孤立するリスクの高い人を予め社会サービス機関などに届けて時々様子をみてもらうプログラムなどだ。

――米国人は伝統的に個人の自由や自立を大切にし、離婚が多く、高齢者も独り暮らしを好む傾向が強いが、その結果独居者が多いのではないか。

たしかにその傾向はあるが、それは少し誇張されすぎている気もする。たとえば米国の離婚率は高いが、再婚率は世界で最も高いのである。それに個人の自由や自立を大切にする傾向はもはや米国だけでなく、北欧諸国や日本を含め世界中に広がっているのではないか。

――あなたが新刊のなかで指摘した「リビング・トゥゲザー・ロンリネス(同居による寂しさ)」とは具体的にどういうことか。

 私は本の執筆のために約300人の独居者にインタビューしたが最も衝撃を受けたのは、多くの人が人生のなかで最も寂しいと感じるのは(夫婦)関係が破たんした人といっしょに住むことと答えていることだ。自分と合わない人と結婚生活を続けるほど寂しいことはない。だから米国では離婚が多いのである。

――日本では夫婦関係が破たんしても独り暮らしの寂しさや孤独死の不安を考えて離婚しない人もいるようだが。

 多くの人が孤独死を恐れるというのは理解できる。でも、自分と合わない人、関係が破たんした人と結婚生活を続けるというのは大変なことである。

 男性にしてみれば40代で離婚の危機を乗り切れば70代の高齢になって独居の寂しさを感じなくて済むと考えるかもしれないが、女性はそうはいかない。女性の平均寿命が男性よりかなり長いことを考えれば、妻は結婚生活を全うしても夫が先に亡くなり、最終的に独り暮らしをして亡くなることになる。

 それなら嫌な相手と結婚生活を続ける意味はない。実際、結婚生活を終わらせる(離婚を切り出す)のは圧倒的に男性より女性のほうが多いが、それは結婚生活を続けても高齢になってから社会支援などの面であまり得るものはないと感じるからかもしれない。


訃報:細川俊之さん70歳(中村晃子 あまい囁き Parole parole)

2011年01月15日 | 気になるニュース
中村晃子 あまい囁き Parole parole


訃報:細川俊之さん70歳=俳優
2011年1月14日 20時5分 更新:1月14日 20時12分


俳優の細川俊之さん ミュージカル「ショーガール」などで人気を集めた俳優の細川俊之(ほそかわ・としゆき)さんが14日午前5時24分、急性硬膜下血腫のため東京都内の病院で死去した。70歳。12日に自宅で転倒し、頭部を打ったという。葬儀は行わない。

 福岡県生まれ。学習院大政経学部を中退後、俳優座養成所を経て64年に文学座へ入団。若手の二枚目俳優として「シラノ・ド・ベルジュラック」のクリスチャン役や「かもめ」のトレープレフ役、「欲望という名の電車」のミッチェル役などで注目を集めた。

 71年に退団した後は、主な活躍の場をミュージカルに移し、ソフトな低音の美声を存分に生かした。「日曜はダメよ!」では越路吹雪と共演。木の実ナナさんとコンビを組んだ「ショーガール」(74~88年)は人気ロングラン作品となった。

 クールな二枚目役のほかに三枚目や悪役もこなし、「エロス+虐殺」「ラヂオの時間」などの映画やテレビドラマにも多数出演。また、ラジオ「ワールド・オブ・エレガンス」のDJを17年間務めた。04年からは大阪芸術大舞台芸術学科の教授を務めていた。