カロカンノート

へぼチェス日記

私説 米長邦雄が将棋名人になれたホントの理由

2009年12月04日 | 林葉直子
私説 米長邦雄が将棋名人になれたホントの理由
中原誠名人が不倫事件の引け目から4連敗
田中良太2009/05/23
 ◆49歳11カ月で獲得という最年長記録
 羽生善治対郷田真隆の将棋名人戦は後手番の勝ちばかりで2勝2敗という不思議な展開になっている。

 将棋はルールが分かるだけに近い私が、名人戦と深く関わったのは1993年だった。この年、私は毎日新聞学芸部長。当時の名人戦は毎日の主催だから、私は主催社の担当部門トップということになる。7番勝負は全国各地で行われるのだが、毎局必ず現場に行くのが仕事だった。

 93年の名人戦は中原誠に米長邦雄が挑戦したのだが、不思議なことに米長の4連勝で終わった。第4局が終わったのは5月21日。そのとき米長は49歳11カ月で、名人位を奪取した年齢としては史上最年長記録だ。

 そのころすでに将棋界は羽生の時代となっており、いまや若手優位は確立している。満50歳直前の名人奪取という記録は、今後も破られそうにない。

 余談だが「人生50年」はかつて現実だった。夏目漱石は慶応3(1867)年1月5日生まれ、大正5(1916)年12月9日死去。享年48歳11カ月だった。松尾芭蕉は正保元(1644)年生まれ、元禄7(1994)年10月12日没。誕生の月日は不明だが、寛永21年12月16日に改元が行われて正保元年となったのだから、死亡時の満年齢は49歳と確定できる。漱石も芭蕉も数多くの弟子を持ち、ともに「翁」の称号をつけられることもあるが、ともに米長が名人位を奪取した年齢のころは、鬼籍に入っていたのである。

 米長は73年に第22期棋聖戦で有吉道夫棋聖を破り初タイトル。85年には王将、棋聖、棋王、十段と史上3人目の4冠王となるなど超一流の戦績を誇っていた。しかし名人位だけは獲得できなかった。挑戦者決定リーグ戦で優勝して7番勝負に挑んだことはそれまで6回あったが、いずれも敗北に終わっていた。とくに中原との7番勝負の相性が悪かった。

 その中原に93年だけは、米長がストレート勝ちしたのは何故か? 当時誰からも納得のいく答えを聞いたことがない。名人戦7番勝負ともなると、控え室の検討に多数の棋士が集まるのだが、4番とも「いつの間にか米長さんが良くなっていますね」といった話しか聞けなかった。つまり決め手となる妙手や、逆に敗北を招いた失着は、誰も指摘できなかったのである。

 ◆不倫報道で、疑問が解けた
 その疑問は、5年後の98年4月末に解けた。「週刊文春」が、中原が女流棋士・林葉直子との不倫を報じたからだ。この「事件」は、当時30歳だった林葉が、女流将棋界の「王者」となれないまま棋士としての限界を感じ、週刊文春に売り込んだとも言われている。その後の林葉の行動から見ても、中原が「ヘンな女に引っかかった」という実態だったと思われる。

(女性一般を差別しているわけではないことにご了解を! 当然、世の中にはヘンな男がいて、ヘンな女もいるわけです)

 いずれにせよ93年の時点で、中原は林葉との不倫関係に陥っていたと見るべきだろう。林葉の師匠は米長である。弟子との間で不倫関係に陥っているという引け目が、中原の将棋に影響した、ということではないか。

 ◆中原の強さは「人格」説
 碁でも将棋でも、毎年のようにタイトル戦5番勝負・7番勝負といったところに登場する超一流の数人の間に、棋力の差はないと言われている。中原の場合、同じ高柳敏夫門下で兄弟子だった芹沢博文の方が、才能ならずっと優れていたと言われている。プロのタマゴである奨励会時代、中原は芹沢に稽古将棋を指してもらい、当然敗ける。負けても負けても「もう一番」と挑むのが中原だったという。つまり才能では芹沢に劣っていたというのが将棋界の常識である。

 その中原について
 三浦昇著「名人中原誠」(1980年10月、新潮文庫)
 など「半生の伝記」というべき本がある。私も読んだことがある(この本であるかどうかは定かでない)が、父親がたいへん優れた人格者であったらしい。戦前は教師をしていたが、1938(昭和13)年に創設された満蒙開拓青少年義勇軍の運動に参加、自ら教え子とともに満州に渡ったという。第2次大戦敗戦に伴い帰国する。

 終戦後暮らした宮城県塩釜市で「先生になってくれ」と何回も頼まれたが、「私は教え子たちを間違った道に誘い込んで、何人もの生命を奪ってしまった。教師の資格はない」と固辞し続けた。そして郵便配達の仕事で一生を終えた、という人だという。

 終戦後、中学校が義務教育となり、全国もれなく新設された。反面で、教師といえども召集され、多数が戦死した。このため小中学校の教員不足は深刻だった。田舎で育った私など、小学校時代は無資格教員に教えられていた期間の方が長いほどだ。その時代、有資格でありながら、教員となることを断るというのは、強い信念がなければ貫けない剛直な姿勢である。

 中原については、その父親に育てられた「人格」を誰もが強調する。棋力では差がない中原が大山康晴に次いで、一時代を画する棋士に成長したのは、その人格の故ということになる。

 その中原でさえ、不倫に誘い込まれるのだから、男女関係の世界は、まさに「魔界」ということであろうか。ともかく林葉の師匠、米長を前に、中原の強みである人格は消えてしまった。逆に弟子と不倫に陥っている引け目が中原の心を支配する。それが対米長ストレート負けという結果になった、というのが私見である。

 ◆弟子に学んで成長した米長
 米長は読売新聞の連載企画「時代の証言者]に登場した。08年1月のことだが、中原との名人戦勝利はその第15回(1月26日付朝刊)に登場する。この回のタイトルは「弟子に弟子入り 腕磨く」である。

 < 1990年(平成2年)、私が挑戦者になった第39期王将戦が転機になりました。

 当時20代半ばで指し盛りの南芳一王将に対し、40代半ばの私がどうすれば勝てるのか、四段の中川大輔に聞きました。プロになったばかりの弟子にタイトル戦の対策を聞くなど普通はあり得ないことですが、中川の研究熱心さは有名だったので、ものは試しと思いました。

 中川は「先生が得意技と思っている局面は私たちはすでに研究していて、そこはもうこちらの守備範囲です」と言います。具体的な局面をいくつか示し、そこから私が考えつきそうな手順を解説し、私の側が勝てないという結論を導き出します。こちらが勝ったつもりでいる局面から負かされるのですから、何も言えません。

 その後は中川のアパートに私が出向くことにしました。「先生、きょうもよろしくお願いします」と弟子にあいさつし、中川が「ご冗談は困ります」と答えるのが毎度の“定跡”でした(中略)。

 弟子の教えもあり、私は南王将を4勝3敗で破ることが出来ました。>

 <道場の開設から3年たった93年、私は第51期名人戦で中原誠名人に挑戦します。(中略)私はそれまで名人戦で6度挑戦者になりましたが、いずれも敗れています。

 第51期名人戦は私の4連勝で終わりました。多くのファンには意外に映ったでしょうが、30年に及ぶ棋士生活で培った経験に、若手とのぶつかり稽古から得た現代的な感覚がミックスされたものを持っている私は、それなりの自信がありました。

 最終局となった第4局はまさに若手に教わった局面で、私たちの世代が好形と感じる陣形を悪形と思える形に自ら組み替えてから攻めた将棋でした。その組み替えが本局では例外的に成立する指し方でした。新感覚を持つ若手から学ばなければ分からなかったでしょう。>

 という記述になっている。もちろん米長から見た勝因は、このとおりだろう。93年の時点でも米長は「中川に教えてもらってるんです。矢倉なら中川が一番強い」と言っていた。当時は冗談だと思っていたが、すでに「大家」となっていた米長が弟子に学んだというのは立派なことだ。

 しかし私があえて唱えたい異説もけっして間違ったものではないという自負はある。

 ◆将棋のプロと囲碁で真剣勝負
 学芸部長時代、碁将棋の棋士と多数付き合った。しかし親しくなったのは将棋のプロの方である。これは名人戦などに同行しているとき、ヒマを見つけては「碁を教えて下さい」と申し込んだからである。大山名人など特別な人を除けば、私と同クラスの棋力(もちろん碁の力のこと)の人が多い。

 そのうえプロの勝負師だから、何ごとでも負けを嫌う。私ごとき者と碁を打っても真剣勝負なのである。こんなことも楽しい思い出ではある。将棋は弱いが、将棋界は好きな私があえて唱える異説である。「こういうこともあるから将棋は面白い」「だから中原さんも、人間のウチなんだよ」と言いたいのである。けっして将棋界や中原をおとしめようという意図はないことをお断りしておく。