カロカンノート

へぼチェス日記

林葉直子さん、6日発売「婦人公論」でDV被害告

2010年11月06日 | 林葉直子
林葉直子さん、6日発売「婦人公論」でDV被害告白
 元女流棋士の林葉直子さん(42)が6日発売の「婦人公論」(中央公論新社)で、最近まで交際していた男性からDV(ドメスティック・バイオレンス)被害を受けていたことを告白している。

 同誌のインタビューによると、林葉さんは「中年のアジアの人」と昨年10月頃に交際を開始したが、今年1月頃から男性の様子に変化が表れ、関係が悪化。殴る蹴るの暴力を受けるようになったという。

 林葉さんは今年7月、15年ぶりのプロ棋戦となる日本女子プロ将棋協会(LPSA)公認棋戦「日レスインビテーションカップ」に出場。初戦で敗れたが、その時も男性の暴力から逃れながら対局に臨んだという。

 さらに、9月頃にも馬乗りで首を絞められるなどのDVを受けたため、男性宅を出たと説明している。

(2010年11月6日06時03分 スポーツ報知)



福岡チェスクラブだより 酔象  朝霞チェックメイト

2010年03月07日 | 林葉直子

 元将棋女流名人の林葉直子さんが当クラブを訪れ、私と公式レーティング戦を
指しました(彼女もJCA会員です)。
激しいメイティングアタックで迫られましたが、なんとか受けきれました。
はじめて会った林葉さんはとっても奇麗でした。

酔象 1998年3月15日

(・o・)

2010年01月26日 | 林葉直子
「日刊ゲンダイ」2006年11月10日号によると林葉直子さんが約6000万円の負債を抱えて自己破産していた。

官報の平成18年11月9日の17ページに林葉さんが破産手続きをしたことが載っている。1億2000万円の豪邸を父と共同名義で所有していたが、2005年2月に父が死去したため、約5000万円のローンを1人で抱え返済不可能となったらしい。

「日刊ゲンダイ」2006年11月15日「この人物のオモテとウラ」によると、「周囲の迷惑など一切考えず、エゲツない話題やグロテスクな裸を切り売りして食いつないできた女だからね。好き放題やってきて自己破産したんだから誰も同情などしませんよ」 と関係者は冷たいという。

「AERA」1991年7月2日号によると林葉直子さんは1968年生まれで福岡県出身である。5歳のときから警察官の父親に将棋を仕込まれる。小学5年生のとき週刊誌の企画で米長邦雄さんと対局したことがきっかけで米長さんの内弟子になった。高校は地元の私立福岡第一高校に進んだ。11歳で女流アマ名人戦に優勝、13歳で女流王将となると10期連続防衛と華々しい成績を残す。大学は第一薬科大学に進学するが2年生で中退する。1987年「ペントハウス」のグラビアにセミヌードを掲載し、将棋界の先輩方から批難された。このヌードを撮影を担当した編集者の紹介でライトノベルを書きはじめる。この時代から林葉さんの書く小説はエッチなところがある。1988年には南野陽子主演で小説とんでもポリスシリーズを映画化する企画もあった。1990年ごろは作家として3000万以上の収入があったようである。1993年には歌手デビューの話(1993年5月20日報知新聞「林葉5段歌手デビュー」)があり、「魔の刻の合わせ鏡」、「風があわない」が録音されたが日の目をみなかった。1994年6月に大局をすっぽかす失踪騒ぎを起こす。1995年8月24日には将棋連盟に退会届を提出し、同年写真集「CONFESSION 告白」(1995、竹書房)にてヘアヌードを発表した。1998年には中原誠永世十段との長期に渡る不倫が「週刊文春」に取り上げられ、妊娠・中絶の経験があることも明らかにした。中原誠さんは、電話に留守録で「(林葉の自宅に)突撃しま~す」というメッセージを吹き込んだ。「突撃しま~す」というフレーズは流行語にもなった。林葉さんも会見で「センセイに恋していたのか将棋に恋していたのか今はもうわからない」などと会見で発言した。

1998年ヘアヌード写真集「SCANDAL」(1998、テイアイエス)を発売した。また1998年には半自伝的小説である不倫短編集『アバンチュール』(1998、竹書房)を出すした。この作品では主人公は不倫をするし、父親には縄で縛られたり鞭でぶたれたりロウソクを垂らされたりして愛される。また『不倫旅行・夏』(1998、テイアイエス)という不倫小説も発表した。「罰」(2001年、モッツ出版)で豊胸術後の乳房をはじめ、大胆に肢体を露出させた。「罰」は性器が見えるというデマが流れて結構売れたらしい。2001年には、R-15指定作品の「秘宴」というVシネマで主演し、乱れた人妻を演じた。このころ「週刊宝石」に「林葉直子の肉感的人生相談ビショ濡れクリニック」という連載を持った。

2004年には六本木にインドカレー店「Woo Curry(ウーカレー)」をオープンしたが2005年10月に閉店した。『週刊新潮』2006年3月16日号の「今度は「タロット占い師」に転身「林葉直子」」によると、「ウーカレー」では店に将棋盤を置いたため客の回転がわるかったという。それでも店で作った赤字は400万ほどだった。タロット占いに初めて触れたのは12歳のときで、今では林葉さんのサイト「林葉直子の「お悩み晴らします」。」から占いの申し込みを受け付けている。また、将棋漫画「しおんの王」(ペンネーム「かとりまさる」)の原作もやっている。

林葉さんの父親の林葉恵男さんも、『娘の怒鳴り方―熱血オヤジの体当たり的教育論』(1994、ザマサダ)という本を出している。

このように書いていくと林葉直子さんは問題のある人だと思うかもしれないが、同情すべき点もあるように感じる。

林葉直子『ひとりぼっちの対局 だから青春!』(1983、ノラブックス)には次のような、記述がある。

 私の夢っていうと、将棋センターを建てることかな。

 女実業家ってカンジであんまリステキじゃないかしら。

 できればね、東京に建てたいの。福岡もまあまあ大きい街だけど、東京とはくらべものにならない。それだけ将棋人口も多いってことだもの。

ね、ここいらへんシッカリしているでしょう。

 そうね五階建てくらいのビルがいいな。三階くらいまでは将棋とレストランのフロアにして、四階、五階に家族が住むの。もちろん私の部屋はいちぱん上の五階。朝陽がさしこむような大きな窓があるといいな。(153ページ)



林葉さんが女流王将10年間維持して稼いだ金額がトータルで800万円だと証言している。これが事実なら女性棋士は賞金だけで生活することは不可能である。「スポーツ報知」2006年12月2日の記事によると、女流棋士は将棋連盟の正会員ではない。毎月の基本給料もなく、厚生年金の加入もない。また棋戦など自ら運営できず、待遇面で恵まれていない。男性のプロ棋士の平均年収は1000万円ほどと言われるのに、女流棋士は対局料だけでは年収100万円にも満たない人も多いと言う。これはジェンダーの問題だろう。林葉直子は作家としての収入もあったはずだがその管理は実家に任せていたという。これでは林葉さんの高校時代の夢が叶わないのも無理はない。

「日刊ゲンダイ」2006年11月15日の「この人物のオモテとウラ」によると、出版プロデューサー、芸能プロ、雑誌編集者、テレビディレクターといった連中が、金儲けのため寄ってたかって「スキャンダル女・林葉」をつくり上げたという事実があるという。中原誠さんとの不倫騒動のさいも、もともとは林葉と中原の不倫関係をつかんだフリーライターが雑誌社に持ち込み林葉さんに高額ギャラを払って、ののしり口調でとことん暴露させた。豊胸手術の一件でも、林葉さんのヘア写真集を普通に出したって売れないと考えて、一部スポーツ紙にうっすら性器が見えるといった情報を流して記事にしてもらい、写真集をあおった。最初、林葉は豊胸手術を拒否したが、何度も説得されて納得したらしい。

それに有名棋士には変な風聞もある。ヌードを披露したのは、将棋界で林葉さんだけではない。米長邦雄さんも「FOCUS」1985年11月1日号「米長邦雄十段のショーゲキヌード――将棋「十段」戦を前に、鳥取砂丘に遊ぶ」でヌードになっている。「噂の真相」1998年7月号「林葉直子・中原誠不倫騒動で分かった棋士の生態と将棋連盟を巡る暗闘」によると米長さんは宴席で性器をだしてしまうことも少なくないようである。屋敷伸之さんは競艇狂いで先崎学はギャンブル好きだという。また将棋の世界では男性棋士の女性棋士へのセクシャルハラスメントも少なくないという。また対戦は男性同士の場合5時間で2回だが、女性同士の場合2時間で2回、男女で対戦するときは5時間で2回である。女性は男性と対戦するときは時間の配分が変わるので男性と対戦するときの時間配分が難しいのではないだろうか。

将棋界がもう少し女性棋士にとって生きやすい環境だったら林葉さんの人生も違うものになっているのでは、と思った。林葉さんの自己破産を期に、将棋界のジェンダーの問題に関心を持つ人が増えてくれたら、と思う。

2008年10月30日九州だんじより(・_・)

2010年01月19日 | 林葉直子

今回のゲストは元棋士の林葉直子さん。女流棋士として実力は高く、女流王将戦を10連覇するなど抜群の活躍を見せた林葉さんは現在、作家やタレント、占い師としてマルチな活躍を続けています。そんな林葉さんは博多出身。バイタリティ溢れる人生を故郷の屋台で語ってもらいました。5歳の頃から始めた将棋は12歳でプロになり、その実力と持ち前の美貌であっという間に将棋界のアイドルになったそうです。将棋での最大の楽しい瞬間は「勝ったと思った時の相手の顔を見る瞬間」だとか。まさにプロの世界の誇りと意地のぶつかり合いが伺える名言です。そして、林葉さんは女性は負けることも大切とアドバイス。ピアニシモの女の子たちのお仕事にも共通する深~いお言葉でした。そしてトークは林葉さんの好みの男性のタイプへ移るとそこへ男性のお客様が来店。プチお見合いに発展!するかと思いきや、その男性の左手には指輪が…。
 トークは棋士のお給料の話へ展開。林葉さんの1局のギャラや羽生先生の1局のギャラなど普段は知り得ない棋士界のトークが盛りだくさん。そのギャラの少なさに驚き、本を執筆したことが作家デビューのきっかけになったそうです。ちなににペンネームは「かとりまさる」これは『「香」取り「勝」』という将棋から取ったペンネーム。林葉さんらしいペンネームです。これからもマルチな才能を発揮して、博多を盛り上げてくださいね。

 この秋に完成した番組のオリジナル焼酎「だんじ」のプレゼント決定!この「だんじ」という焼酎は福岡にある老舗酒造「清力酒造」に協力を得て作った究極の麦焼酎。フルーティーで爽やかな飲み心地でどんな飲み方でも美味しい大将自慢の銘酒です。お酒が苦手な方でも飲みやすいお酒ですよ

特集 暴露された米長邦雄元名人の「恥ずべき私生活」 「週刊新潮」1998年4月2日号

2010年01月04日 | 林葉直子
今期の名人戦順位戦で、二十六年間在位していたA級からの転落が決り、すわ引退かと報じられた米長邦雄元名人(五四)。ご当人は引退を否定したものの、「主催社の出場要請がなければ辞める」などとゴネ出したものだから、関係者は呆れるばかリ。が、元名人の身勝手さは今に始まったことではないという。仲間うちでは悪評紛々。中でも、かつての愛弟子が暴露したのは、とんでもない醜聞である。

「一般の人は何も知るないから、米長さんをいい人だと信じていますが、こんなに大嘘をつく人はいません。それこそ十分ごとに話すことがコロコロ変ってしまう。私は、米長さんの実像と、今回の引退騒動の裏にある本当の事情を語ろうと思います。それが今後の日本将棋連盟のためになると思うんです」

 そう語るのは、プロ棋士の桐谷広人六段(四八)である。

 この人は、元々は故・升田幸三氏の門下だったが、米長元名人に心酔し、二十年間にわたって公私ともに仕えてきた。元名人の著作の代筆も任され、将棋界の中では最も米長氏を知る、いわば愛弟子である。そんな人物が恩師を告発するというのだから穏やかではない。

 そのきっかけとなったのが、今回の引退騒動である。

 顛末を振り返れば――、「三月三日未明、米長さんのB級への陥落が決った後の打上げの席で、米長さんは観戦記音を前にして、確かに"来期の順位戦には参加しない" ”他の棋戦にも出ない”と言っていたんですよ。それで名人戦を主催している毎日新聞が"引退へ”と書いたんですがね」
 と、あるベテラン将棋記者はいう。

 ところが六日になって、米長元名人は、「引退はしない」と否定の記者会見。それだけならまだしも、「棋戦を主催する新聞社の社長、会長から要請があれば参加して将棋を指す。要請がなければこの世界を去る」
 と、目茶苦茶なことを言い出したものだから、関係者は唖然とした。というのも、「連盟に所属する棋士は、すべての棋戦に参加する義務があります。これは各主催社との契約であって、米長先生のように、直接要請がないと参加しないというのは契約違反になってしまいますし、それを認めれば他の棋士に対してしめしがつきません」(日本将棋連盟関係者)

 某中堅棋士はいう。「米長さんは、今期はA級の順位戦が始まる前から、"勝っても負けても辞める"と言ってたんですよ。そんなこと言わなきゃいいのに、前言を撤回した挙句に、身勝手なことを言い出すのだから、呆れるばかりですよ」
 とはいえ、連盟としても将棋界の功労者で人気棋士の米長元名人を切り捨てるわけにもいかず、ほとほと困り果てているというのが実情である。

 それだけに桐谷氏は、「今回の騒動は、米長さんの将棋連盟に対するいやがらせなんですよ」
 と断じるが、なるほど連盟と米長元名人との間には、確執があった。「米長さんは、棋士を引退して今夏の参議院選挙に出馬するともいっていました。みんなの前で、"三年前には自民党が名簿順位七位でどうかと言ってきたが、この夏には五位でどうかと言ってきた"と喋っていたんです。米長さんは、三年前にも参議院選挙には色気を見せていました。が、そのためには将棋連盟の全面的な応援がないと出られない。当然、米長さんはそうするように理事会に頼んだのですが、"将棋界は不偏不党だ"とアッサリ断られてしまった。なにしろ米長さんにはまるで人望がなかったんですよ」

 その決定は、元名人のプライドをいたく傷つけるものだった。

婚約者を奪われて…

 そこで米長元名人は、自ら日本将棋連盟の会長に就任することを目論んだという。
 昨年五月のことである。「会長は理事の互選によって選ばれるので、まず連盟所属の全棋士の直接投票によって選ばれる理事選に立候補したんですよ。が、明らかに現在の理事会に反発するものだったので、これに反対する人達が、急遽(きゅうきょ)、米長さんに対抗馬を立てて当選を阻止したんです。ところが、その後に連盟を誹謗する怪文書が流れました。誰が書いたのかはわかりませんが、内容は米長さんしか知りえないような情報か満載されていたんです」(桐谷氏)

 名人位を極めたほどの実力者か落選するなど前代未聞。「それだけ米長先生に人徳がなかった」
 と、中立派の棋士もいうが、この理事選を機に、米長氏と理事会との対立の根は深くなる。「米長さんは、理事選に破れた後、"今後は理事会に協力しない"と言い出した。まるで子供です。その頃、国際棋戦の企画が広告代理店と連盟との間で進んでいたのです。ところが有カスポンサーが途中で下りてしまい、挫折してしまったんですよ。企画した当時は米長さんが、"有力スポンサーの会長とは友人なので、話をしてやる"と言っていたのですが、理事になれなかったから、途端に邪魔したと連盟内ではいわれているんです」(桐谷氏)
 そうした対立の延長線上に、今回の引退騒動があったというのである。

 ところが桐谷氏の暴露はそれだけにとどまらない。彼が公然と米長氏に反旗を翻した裏には、とんでもない醜聞が隠されていた――。「私が米長さんと袂(たもと)を分つようになったのは、私事で手ひどく裏切られたことでした。米長さんの女癖の悪いことは身近にいてイヤというほど知っていたのですが、特に人の女に手を出す悪い癖はもう病気です。私もその犠牲になったのです」
と、桐谷氏は打ち明ける。「以前、私は郷里に近い尾道の女性と付き合っていたのですが、ほとんどが文通だった。が、いつの間にか、二人の間には結婚してもいいという了解ができて、彼女が上京してきたのです。そのことを米長さんに言ったら、"おれに会わせろ"という。当然、会わせますよ。そしたらその場では、"結婚したら私や本妻、愛人とも仲良くやってくれ"なんて彼女に言うんです。ところが彼女が尾道に帰った途端、"お前たちは結婚できない"と言い出した。それから私の目を盗んでは尾道に行き、彼女を口説いてついに関係を結んでしまったのです。そのことは、後に、平成四年頃だったと思いますが、彼女から"私があなたと結婚できなくなったのも、米長先生に口説かれ、愛人になってしまったからなのよ"と告白されてわかったことなんです」

 さらにその直後に起った女流棋士の林葉直子さんの失踪騒動で、桐谷氏は米長氏に愛想か尽きたという。退会届を出してロンドンに逃避行した林葉さんは、スッタモンダの末に除名処分。
 桐谷氏は林葉さんから相談を受けていたというが、「理事会はとりあえず一年間の休養にするという処遇を決めて、本来ならこれで済んでいたんですよ。ところが米長さんが元師匠として連盟に乗り込んだことから事態がおかしくなった。彼女は近親相姦だったとか、あることないことを理事会に吹き込んで、騒ぎを大きくしてしまった。そのおかげで林葉は追放される羽目になったんです。その一連の動きを知って、私は米長さんの元を去ることにしたんです」

「俺は千人の女を知っている」

米長氏は、自身の女性関係についてマスコミにもフランクに喋ってはいるが、いや、その実像は聞きしに勝る。「米長さんと愛人との連絡係などはしょっ中でしたし、彼のアリバイ作りに大汗をかかされたことも何度となくありました。そのくらい私は身近にいたのです」
と、桐谷氏は振り返る。「愛人の数は常に複数だったが、本命は、ある月刊誌の元編集者。十年くらい付き合っていたが、"女房と別れて一緒になる"という約束を反故にされ、米長さんと別れてアメリカに渡ってしまいました。米長さんは、"おれは千人の女を知っているが、君は千一人目だ。これからは他の女とは絶対にセックスしない"と言って口説いたんです。彼女は米長さんと付き合っている間、いつも私に連絡をしてきてデートの時間を決めていた。そのために私も彼女のマンションで手料理をご馳走になったことがあるんです」

「かつて将棋専門誌に勤務していた女性には、"俺の観戦記を書くのなら、俺が原稿を見てやるからこっちに来い"と地方の対局場に呼び出し、そこでモノにしてしまったのです。しばらく付き合っていましたが、彼女の方から逃げ出すと、"あの女は貧乏おそその持主だ。おかげで、俺はタイトルを失った"などと皆に言いふらしてしまったんですよ。彼女はそれで将棋専門誌では働けなくなりました」

その一方で、有名女優とも浮名を流す。おまけに、「女流棋士に、"おれの愛人になれ"と言い寄るのは、日常的なことでした。それを断ると、彼は連盟の職員に"あの女は嫌いだから、今度の仕事を外せ"などと圧力をかける。それで一年間も連盟のイベントなどの仕事から外された女流棋士は、私が相談に乗っただけでも三人以上はいます。もう、すごいセクハラです。本当に棋士としての米長さんが好きで、肉体関係を持ってしまった女流もいます。でも、本人は、"おれは女流に手を出すほど女に困っていない"と蠣(うそぶ)いていますがね」
 刹那的な勝負の世界に生きるプロの将棋指しにとって、破天荒な生活は付き物である。米長氏の度外れた女性への執着は、彼が一流棋士であることの証拠(あかし)だったのか。
 米長氏本人に代って、夫人は、「米長は放っておきなさい、と言っていますが、桐谷さんの言うことはでたらめばかりです。確かに米長はモテるので、彼女がいるとは思いますが…」
と意にも介していない。が、今回の騒動で米長氏は四面楚歌。そのうえ、身内から「恥ずべき私生活」まで暴露されるようでは、元名人もとんだ悪手を指してしまったようである。

私説 米長邦雄が将棋名人になれたホントの理由

2009年12月04日 | 林葉直子
私説 米長邦雄が将棋名人になれたホントの理由
中原誠名人が不倫事件の引け目から4連敗
田中良太2009/05/23
 ◆49歳11カ月で獲得という最年長記録
 羽生善治対郷田真隆の将棋名人戦は後手番の勝ちばかりで2勝2敗という不思議な展開になっている。

 将棋はルールが分かるだけに近い私が、名人戦と深く関わったのは1993年だった。この年、私は毎日新聞学芸部長。当時の名人戦は毎日の主催だから、私は主催社の担当部門トップということになる。7番勝負は全国各地で行われるのだが、毎局必ず現場に行くのが仕事だった。

 93年の名人戦は中原誠に米長邦雄が挑戦したのだが、不思議なことに米長の4連勝で終わった。第4局が終わったのは5月21日。そのとき米長は49歳11カ月で、名人位を奪取した年齢としては史上最年長記録だ。

 そのころすでに将棋界は羽生の時代となっており、いまや若手優位は確立している。満50歳直前の名人奪取という記録は、今後も破られそうにない。

 余談だが「人生50年」はかつて現実だった。夏目漱石は慶応3(1867)年1月5日生まれ、大正5(1916)年12月9日死去。享年48歳11カ月だった。松尾芭蕉は正保元(1644)年生まれ、元禄7(1994)年10月12日没。誕生の月日は不明だが、寛永21年12月16日に改元が行われて正保元年となったのだから、死亡時の満年齢は49歳と確定できる。漱石も芭蕉も数多くの弟子を持ち、ともに「翁」の称号をつけられることもあるが、ともに米長が名人位を奪取した年齢のころは、鬼籍に入っていたのである。

 米長は73年に第22期棋聖戦で有吉道夫棋聖を破り初タイトル。85年には王将、棋聖、棋王、十段と史上3人目の4冠王となるなど超一流の戦績を誇っていた。しかし名人位だけは獲得できなかった。挑戦者決定リーグ戦で優勝して7番勝負に挑んだことはそれまで6回あったが、いずれも敗北に終わっていた。とくに中原との7番勝負の相性が悪かった。

 その中原に93年だけは、米長がストレート勝ちしたのは何故か? 当時誰からも納得のいく答えを聞いたことがない。名人戦7番勝負ともなると、控え室の検討に多数の棋士が集まるのだが、4番とも「いつの間にか米長さんが良くなっていますね」といった話しか聞けなかった。つまり決め手となる妙手や、逆に敗北を招いた失着は、誰も指摘できなかったのである。

 ◆不倫報道で、疑問が解けた
 その疑問は、5年後の98年4月末に解けた。「週刊文春」が、中原が女流棋士・林葉直子との不倫を報じたからだ。この「事件」は、当時30歳だった林葉が、女流将棋界の「王者」となれないまま棋士としての限界を感じ、週刊文春に売り込んだとも言われている。その後の林葉の行動から見ても、中原が「ヘンな女に引っかかった」という実態だったと思われる。

(女性一般を差別しているわけではないことにご了解を! 当然、世の中にはヘンな男がいて、ヘンな女もいるわけです)

 いずれにせよ93年の時点で、中原は林葉との不倫関係に陥っていたと見るべきだろう。林葉の師匠は米長である。弟子との間で不倫関係に陥っているという引け目が、中原の将棋に影響した、ということではないか。

 ◆中原の強さは「人格」説
 碁でも将棋でも、毎年のようにタイトル戦5番勝負・7番勝負といったところに登場する超一流の数人の間に、棋力の差はないと言われている。中原の場合、同じ高柳敏夫門下で兄弟子だった芹沢博文の方が、才能ならずっと優れていたと言われている。プロのタマゴである奨励会時代、中原は芹沢に稽古将棋を指してもらい、当然敗ける。負けても負けても「もう一番」と挑むのが中原だったという。つまり才能では芹沢に劣っていたというのが将棋界の常識である。

 その中原について
 三浦昇著「名人中原誠」(1980年10月、新潮文庫)
 など「半生の伝記」というべき本がある。私も読んだことがある(この本であるかどうかは定かでない)が、父親がたいへん優れた人格者であったらしい。戦前は教師をしていたが、1938(昭和13)年に創設された満蒙開拓青少年義勇軍の運動に参加、自ら教え子とともに満州に渡ったという。第2次大戦敗戦に伴い帰国する。

 終戦後暮らした宮城県塩釜市で「先生になってくれ」と何回も頼まれたが、「私は教え子たちを間違った道に誘い込んで、何人もの生命を奪ってしまった。教師の資格はない」と固辞し続けた。そして郵便配達の仕事で一生を終えた、という人だという。

 終戦後、中学校が義務教育となり、全国もれなく新設された。反面で、教師といえども召集され、多数が戦死した。このため小中学校の教員不足は深刻だった。田舎で育った私など、小学校時代は無資格教員に教えられていた期間の方が長いほどだ。その時代、有資格でありながら、教員となることを断るというのは、強い信念がなければ貫けない剛直な姿勢である。

 中原については、その父親に育てられた「人格」を誰もが強調する。棋力では差がない中原が大山康晴に次いで、一時代を画する棋士に成長したのは、その人格の故ということになる。

 その中原でさえ、不倫に誘い込まれるのだから、男女関係の世界は、まさに「魔界」ということであろうか。ともかく林葉の師匠、米長を前に、中原の強みである人格は消えてしまった。逆に弟子と不倫に陥っている引け目が中原の心を支配する。それが対米長ストレート負けという結果になった、というのが私見である。

 ◆弟子に学んで成長した米長
 米長は読売新聞の連載企画「時代の証言者]に登場した。08年1月のことだが、中原との名人戦勝利はその第15回(1月26日付朝刊)に登場する。この回のタイトルは「弟子に弟子入り 腕磨く」である。

 < 1990年(平成2年)、私が挑戦者になった第39期王将戦が転機になりました。

 当時20代半ばで指し盛りの南芳一王将に対し、40代半ばの私がどうすれば勝てるのか、四段の中川大輔に聞きました。プロになったばかりの弟子にタイトル戦の対策を聞くなど普通はあり得ないことですが、中川の研究熱心さは有名だったので、ものは試しと思いました。

 中川は「先生が得意技と思っている局面は私たちはすでに研究していて、そこはもうこちらの守備範囲です」と言います。具体的な局面をいくつか示し、そこから私が考えつきそうな手順を解説し、私の側が勝てないという結論を導き出します。こちらが勝ったつもりでいる局面から負かされるのですから、何も言えません。

 その後は中川のアパートに私が出向くことにしました。「先生、きょうもよろしくお願いします」と弟子にあいさつし、中川が「ご冗談は困ります」と答えるのが毎度の“定跡”でした(中略)。

 弟子の教えもあり、私は南王将を4勝3敗で破ることが出来ました。>

 <道場の開設から3年たった93年、私は第51期名人戦で中原誠名人に挑戦します。(中略)私はそれまで名人戦で6度挑戦者になりましたが、いずれも敗れています。

 第51期名人戦は私の4連勝で終わりました。多くのファンには意外に映ったでしょうが、30年に及ぶ棋士生活で培った経験に、若手とのぶつかり稽古から得た現代的な感覚がミックスされたものを持っている私は、それなりの自信がありました。

 最終局となった第4局はまさに若手に教わった局面で、私たちの世代が好形と感じる陣形を悪形と思える形に自ら組み替えてから攻めた将棋でした。その組み替えが本局では例外的に成立する指し方でした。新感覚を持つ若手から学ばなければ分からなかったでしょう。>

 という記述になっている。もちろん米長から見た勝因は、このとおりだろう。93年の時点でも米長は「中川に教えてもらってるんです。矢倉なら中川が一番強い」と言っていた。当時は冗談だと思っていたが、すでに「大家」となっていた米長が弟子に学んだというのは立派なことだ。

 しかし私があえて唱えたい異説もけっして間違ったものではないという自負はある。

 ◆将棋のプロと囲碁で真剣勝負
 学芸部長時代、碁将棋の棋士と多数付き合った。しかし親しくなったのは将棋のプロの方である。これは名人戦などに同行しているとき、ヒマを見つけては「碁を教えて下さい」と申し込んだからである。大山名人など特別な人を除けば、私と同クラスの棋力(もちろん碁の力のこと)の人が多い。

 そのうえプロの勝負師だから、何ごとでも負けを嫌う。私ごとき者と碁を打っても真剣勝負なのである。こんなことも楽しい思い出ではある。将棋は弱いが、将棋界は好きな私があえて唱える異説である。「こういうこともあるから将棋は面白い」「だから中原さんも、人間のウチなんだよ」と言いたいのである。けっして将棋界や中原をおとしめようという意図はないことをお断りしておく。

失踪の林葉直子、釈明会見で“ドロドロ不倫”語らず

2009年07月26日 | 林葉直子
94年7月20日】失踪の林葉直子、釈明会見で“ドロドロ不倫”語らず
 女流棋士・林葉直子(当時26歳)が日本将棋連盟に「休養届」を提出して行方をくらましたのは5月中旬のこと。約50日間の失踪騒動を経て、報道陣の前に姿を現した林葉は「まさかこんな騒ぎになっているなんて…」と困惑した表情を浮かべた。

 この日、東京・千駄ケ谷の将棋会館で行われた緊急会見では「海外で将棋を広めたいと思っていた」と英国に“潜伏”していた理由を説明。背景には棋士としての不振、講演、執筆活動などの忙しさから来るストレスがあったとし「このまま仕事を続ければお金も入るし将棋も適当にやって勝てる。そんな自分に何か新しいものを見つけたかった」と涙を浮かべた。

 失踪中は父親との不仲、金銭問題、英国人青年との恋愛、35歳の医師との逃避行など、さまざまな憶測が飛び交ったが、林葉はこうした噂を完全否定。「父親との男女の関係説もあるが?」との際どい質問には、硬い表情で「そんなこと書かれて、私が結婚できなくなったらどうしてくれるんですか!」と声を荒らげた。

 渡英後、将棋連盟への連絡すらしなかった態度に「手順不足では?」「大人げないのでは?」など詰め寄られると「引退覚悟」の決断だったことを強調。「辞表を出すつもりだったが“友人”の助言で休養届にしましたが、全部捨てても自分の夢を追いかけたかった」と告白した。

 この日の会見に関して、林葉の“打ち回し”は見事だったと言うほかない。時には涙目、時には笑顔を浮かべて、肝心なことには口をつぐんだ。女流棋士の頂点に立った“勝負師”としての実力をいかんなく発揮した一局だった。

 真実が明らかになったのは98年の4月。既に棋士を引退していた林葉は週刊誌で中原誠永世十段との5年間に渡る不倫関係を暴露した。「これから林葉邸、突撃しま~す!」。林葉が報道陣に公開した留守電の声の主は、まぎれもなく中原だった。

 不倫関係は1992年8月にスタート。中原にあこがれて棋士になったという林葉のラブコールで、二人は男と女の関係になった。「中原さんは会うたびに体を求めるタイプ。避妊もしなかった」。林葉は間もなく妊娠したが、中原に相談することなく中絶。失踪したのはこうした心労が重なったのためだったという。英国から帰国してからは、不倫関係の解消を決意したが、なし崩し的に関係が続いた。別れ話が進むと、中原は嫌がらせの電話を林葉の自宅に掛け、ストーカー行為をエスカレートさせるようになった。

 自宅で会見を開いた中原は不倫について「はい、認めます」とキッパリ。林葉の失踪中は「毎日ひやひやしてました。自分の名前が出たら自殺しようと思った」と話し、滞在先の英国にも極秘で1週間訪れていたことを明かした。「(ずっと不倫関係が)続くのかと思ったら何の連絡もなくなった。(交際は)続けたいと思っていた」と未練たらたら。林葉から無心され約1000万円の金銭を渡していたことも明らかになり、世間からは失笑を買うだけだった。

 一方、林葉は中原に「もう会うことはありません。陰ながら応援させていただきます」と、あてつけるように激励メッセージを送り、「これで肩の荷が降りました」と安どの表情。一連の騒動については「将棋ファンの皆さんには、ちょっと汚い部分が見えてしまったかも。でもそれが勝負の世界ですから」。さらりと人ごとのように言い放った。