移民人数(webより)
青少年義勇軍を含む満州開拓移民の総数は、27万人とも32万人ともされるが実数は把握されていない。
都道府県別 満蒙開拓移民人数 (ある記録)
開拓団 | 青少年義勇軍 | 合計 | |
長 野 | 31,264 | 6,595 | 37,859 |
山 形 | 13,252 | 3,925 | 17,177 |
熊 本 | 9,979 | 2,701 | 12,680 |
福 島 | 9,576 | 3,097 | 12,673 |
新 潟 | 9,361 | 3,290 | 12,651 |
宮 城 | 10,180 | 2,239 | 12,419 |
岐 阜 | 9,494 | 2,596 | 12,090 |
広 島 | 6,345 | 4,827 | 11,172 |
東 京 | 9,166 | 1,995 | 11,161 |
高 知 | 9,151 | 1,331 | 10,482 |
秋 田 | 7,814 | 1,638 | 9,452 |
静 岡 | 6,147 | 3,059 | 9,206 |
群 馬 | 6,957 | 1,818 | 8,775 |
青 森 | 6,510 | 1,855 | 8,365 |
香 川 | 5,506 | 2,379 | 7,885 |
石 川 | 4,463 | 2,808 | 7,271 |
山 口 | 3,763 | 2,745 | 6,508 |
岩 手 | 4,443 | 1,993 | 6,436 |
岡 山 | 2,898 | 2,888 | 5,786 |
鹿児島 | 3,432 | 2,268 | 5,700 |
奈 良 | 3,945 | 1,298 | 5,243 |
富 山 | 3,755 | 1,425 | 5,180 |
福 井 | 3,057 | 2,079 | 5,136 |
山 梨 | 3,166 | 1,939 | 5,105 |
愛 媛 | 2,200 | 2,325 | 4,525 |
兵 庫 | 2,170 | 2,230 | 4,400 |
埼 玉 | 2,900 | 1,968 | 4,868 |
佐 賀 | 2,800 | 1,500 | 4,300 |
栃 木 | 1,429 | 2,802 | 4,231 |
大 阪 | 2,030 | 2,125 | 4,155 |
三 重 | 2,753 | 1,309 | 4,062 |
鳥 取 | 1,339 | 2,287 | 3,626 |
茨 城 | 1,551 | 2,022 | 3,573 |
宮 崎 | 1,769 | 1,613 | 3,382 |
京 都 | 1,418 | 1,952 | 3,370 |
徳 島 | 1,243 | 2,082 | 3,325 |
和歌山 | 1,272 | 1,877 | 3,149 |
北海道 | 2,002 | 1,127 | 3,129 |
福 岡 | 1,669 | 1,445 | 3,114 |
鳥 取 | 1,507 | 1,528 | 3,035 |
沖 縄 | 2,350 | 644 | 2,994 |
大 分 | 735 | 1,836 | 2,571 |
愛 知 | 634 | 1,724 | 2,358 |
長 崎 | 747 | 1,403 | 2,150 |
千 葉 | 1,037 | 1,111 | 2,148 |
神奈川 | 1,013 | 575 | 1,588 |
滋 賀 | 93 | 1,354 | 1,447 |
合 計 | 220,285 | 101,627 | 321,912 |
昭和11年満州事変以降、日本は清の最後の皇帝である愛新覚羅溥儀を擁立して満州国を建国された,当時、昭和恐慌により日本農村地域は疲弊と困窮をきわめており、
戦前に進められていた北米・ブラジル等への日本人の入植移民数に段階的制限が加えられる等、当時の日本の地方農村地域は、世界恐慌と飢饉発生で打撃を受け疲弊と困窮を極めていた事等から、農業従事者らの強い移民志向もあり、政府はこの難局を海外移民策
で乗り切ろうして日本から満州国への移民計画が本格化した。
満州開拓移民に長野からの移民者がダントツで何故ですか?
たまたま手元にある資料と、多少の想像を混ぜてお答えします。
戦前・戦中の日本といえば、限られた地区を除けば、ほとんどの道府県は農業主体の地域でした。
その中で長野県は、山岳地帯がほとんどと言うこともあり、耕作地も少なく、林業や養蚕業に依存する率の高い、いわば貧しい県であったと言われています。一時長野県の義務教育の学業達成率が全国一位を占めたのも、産業に頼るべきものがないため頭脳で世に貢献することを奨励したためといわれています。
手元に「富士見村(現在の長野県諏訪郡富士見町)」の1937年の経済資料がありますが、この年の村の農家の平均年収は473円でした。現在の貨幣価値に換算すれば今とあまり変わりないようですが、当時の他県などと比べるとかなり低いようです。
また、平均的な借金が734円あったことも記載されています。
ところが政府が「満蒙開拓義勇軍」を募る際に、奨励金として1個当たりに保証した金額は1000円です。しかも満州に入植すれば20町歩の畑が支給されるという訳です。
「満蒙開拓義勇軍」は世帯を挙げて入植することですが(後の青少年義勇軍は別です)、とにかく満州に渡ることを決意すれば、借金は全額返済できて、手元に266円の資金が残り、満州では20町歩の地主となれるわけですから、ここに「王道楽土」などと言うキャッチフレーズまで出来てしまったのです。
その年、農林省は「富士見村」を「経済更正指定村」らに指定し、翌年村議会は分村移民を決定しました。このことによって満州に渡った世帯は全戸860世帯のうち、173世帯に及んでいます。実に2割です。
このような状況が、中部地域・南部地域ではあちこちで見られたようです。
やはり、経済的な要因がもっとも多かったのだと思われます。このことが基礎となって、後の「満蒙開拓青少年義勇軍」の募集にも長野県からの応募が突出しているようです。
戦後生まれなもので、以上のような簡略な説明しか出来ませんがよろしいでしょうか。