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近況報告 since 2012(H24.6.16)

トヨタ・コロナ

2014年09月27日 21時19分19秒 | 写真

17号線で発見

 

【以下】ウイキより。

初代 T1#型(1957年 - 1960年)[編集]

トヨペット・コロナ(初代)
T1#型
4ドアセダン
Toyopet Corona (first) 001.jpg
販売期間 1957年7月 - 1960年4月
乗車定員 4人
ボディタイプ 4ドアセダン
2ドアバン
エンジン S型 0.995L 直4
P型 0.997L 直4
変速機 3速MT
駆動方式 FR
サスペンション 前:ダブルウイッシュボーンコイル
後:リジッド半楕円リーフ
全長 3,912mm
全幅 1,470mm
全高 1,555mm
ホイールベース 2,400mm
車両重量 960kg
ブレーキ 4輪ドラム
最高速度 90km/h(初期型)
-自動車のスペック表-

1950年代半ば以降、日本の乗用車市場ではトヨタ自動車がクラウンで中型タクシー市場を、日産自動車がダットサン・110/210で小型タクシー市場をそれぞれ押さえるという構図が出来上がっていたが、日本の二大メーカーである両社は、それぞれ相手の領域に食い込もうと新型車開発を続けていた。
コロナはこうした状況で誕生したトヨタの対ダットサン対抗馬である。しかし、本格的な商品として企画されていたのは 2代目のT20系であり、初代T10系はそれまでのつなぎとしての企画であった。
この背景には、当時 乗用車の設計に強い発言力を有していたタクシー業界が20系の完成を待てず、開発・発売を急がせたという事情があったという[1]。すなわち、T10系は クラウンの信頼性の高さが立証されて存在価値が薄まり1956年に生産を中止されていたクラウンのタクシー用姉妹車 トヨペット・マスター(前輪固定懸架)の車体中心部ボディプレス、クラウンの足回り、そして1940年代末から使用され 既に時代遅れになっていたサイドバルブ式のトヨタ・S型エンジン(最高出力33PS/4500回転、最大トルク6.5kgm/2800回転(グロス値))などといった 既存のコンポーネンツを寄せ集めて急遽開発された車であった。ただし 唯一画期的であったのは、トヨタが1950年代前半から研究を続けてきたモノコック構造が トヨタ乗用車として初採用されたことであった。このため、車両重量はようやく1000kgの大台を割っている。

2代目 T2#型(1960年 - 1964年)[編集]

トヨペット・コロナ(2代目)
T2#型
4ドアセダン
1960 Toyopet Corona 01.jpg
コロナライン
1962 Toyopet CoronaLine 01.jpg
販売期間 1960年4月 - 1964年9月
乗車定員 5人
ボディタイプ 4ドアセダン
2ドアバン
トラック
エンジン P型 1.0L 直4
R型 1.5L 直4
変速機 2速AT / 3速MT
駆動方式 FR
サスペンション 前:ダブルウイッシュボーンコイル
後:トレーリングアームコイルリーフ
全長 3,990mm
全幅 1,490mm
全高 1,440mm
ホイールベース 2,400mm
車両重量 940kg
ブレーキ 4輪ドラム
最高速度 110km/h
1000 3速MT(前期型)
-自動車のスペック表-
  • 1960年4月 - フルモデルチェンジ。トヨタが総力を挙げてダットサン(1959年ダットサン・ブルーバード(310系)にモデルチェンジ)打倒を目指して開発された本格的な小型乗用車であった。当時のオペル・レコルトを彷彿とさせるデザインは当時の国産車の水準を越えた流麗もので、当時増加傾向にあった女性ドライバーには特に好評であった。車体は先代同様4ドアセダンのみで、ライトバンおよびシングル/ダブルピックアップは引き続きコロナラインとして別シリーズであった。販売キャンペーンも新しい方式が取られ、発表に先立ち1960年2月頃から新聞紙上に車体デザインの輪郭や一部分を露出して人気を煽る「ティザーキャンペーン」が日本で初めて実施された。設計上最大の特徴は1枚リーフコイルの組み合わせによるカンチレバー式のリアサスペンションであった。優れた操縦性と乗り心地を実現したが、当時未舗装が多かった地方の道路でタクシーとして酷使されると、耐久性不足が露呈された。また、ピラーが細くスマートなボディも強度不足が指摘された。[2] こうして主にタクシー業界で不評が広がり、当初好調に立ち上がった販売も1960年末頃には伸び悩むようになり、小型車市場でのダットサン・ブルーバードの優位は、T10系の時代と変わらず続き、トヨタは乗用車メーカーとして国内2位の座に甘んじることになった。トヨタは状況を回復すべく必死で対策を講じた。
  • 1961年3月 - 小型タクシー枠が拡大されたことを受けて、クラウンと同じ新規格一杯のR型1,453cc60馬力を搭載した「コロナ・1500」(RT20系)を投入、同様に1,200cc版を投入したブルーバードに対しパワー競争で差をつけた。更に10月には「コロナ・1500デラックス」(RT20D系)を追加し、自家用車向け販売を強化した。また、特に女性ドライバーに人気があることからイージードライブ装置付きモデルに早くから力を入れ、2速オートマチックトランスミッションの「トヨグライド」(トルクコンバーター付きだがLとDの変速は手動であった)、自動クラッチの「サキソマット」(通常の3速MTのクラッチ操作のみ自動化、トヨグライドより性能ロスが少ない)が追加された。また、1500登場と同時に問題のリヤサスペンションをコンベンショナルなリジッド半楕円リーフスプリングに変更した。
  • 1962年 - 日本で最初のカラーCMとなる「コロナ・1500デラックス」のテレビCM放映。「スタント・ドライブシリーズ」[3]の1つとして制作されたもので、内容は色とりどりのドラム缶の上を走行したり、砂塵を上げながら蹴散らすというものだった。
  • 1963年4月 - オーストラリアビクトリア州ポート・メルボルンにあった自動車組み立て会社オーストラリアン・モーター・インダストリーズにてトヨタ・ティアラ (Tiara)として生産が開始され、これが日本国外で生産された初めてのトヨタ車となった。なおオーストラリアン・モーター・インダストリーズは後にトヨタが買収し、1985年トヨタ・オーストラリアとなる。
  • 1963年5月 - 第1回日本グランプリ、ツーリングカー1300 - 1600クラス「C-5」に出場し、1位から3位までを独占した。宿敵ブルーバード・1200は別クラスになったことも幸いしていたが、コロナが丈夫で高性能であることをアピールする好機として、トヨタは盛んにこの戦果を宣伝した[4]。T20系はまた、対米輸出の戦略車種としても位置づけられ、こちらでも「トヨタ・ティアラ」(クラウンの『王冠』と意味を重ねたネーミング)として1,900ccエンジンを搭載して輸出されたが、1960年にビッグスリーが相次いでコンパクトカーを発売して輸入車に反撃を開始したこともあって、トヨタの期待に反して販売は伸び悩み、アメリカ市場から一時撤退することとなる。

 

3代目 T4#/5#型(1964年 - 1970年)[編集]

トヨペット・コロナ(3代目)
T4#/5#型
4ドアセダン(前期型)
1964年9月 - 1966年6月
1964 Toyopet Corona 01.jpg
2ドアハードトップ(中期型)
1966年6月 - 1967年6月
1965 Toyopet Corona 01.jpg
4ドアセダン(後期型)
1967年6月 - 1970年2月
Toyota Corona RT40 02.jpg
販売期間 1964年9月 - 1970年2月
乗車定員 5人
ボディタイプ 2ドアハードトップ
4 / 5ドアセダン
3 / 5ドアバン
ピックアップトラック
エンジン 2R型 1,490cc OHV
2P型 1,198cc OHV
4R型 1,587cc OHV
3P型 1,350cc OHV
7R型 1,591cc SOHC
7R-B型 1,591cc SOHC
変速機 2速AT / 3速MT
駆動方式 FR
サスペンション 前:ダブルウイッシュボーンコイル
後:リジッド半楕円リーフ
全長 4,110mm
全幅 1,550mm
全高 1,420mm
ホイールベース 2,420mm
車両重量 945kg
ブレーキ 4輪ドラム
最高速度 140km/h
4ドアセダンDX 3速MT(前期型)
-自動車のスペック表-
  • 1964年9月 - フルモデルチェンジ。「アローライン」と呼ばれた傾斜したフロントノーズのデザインが特徴であった。開通して間もない名神高速道路にて、発表早々に「10万キロ連続高速走行公開テスト」を実施し、高速性能と耐久性をアピールして先代との違いを際立たせたことから人気が急上昇。ダットサン・ブルーバードとの熾烈な販売競争、いわゆる「BC戦争」において、1965年1月に初めてブルーバードを販売台数で追い抜き、国内販売台数第1位を達成した。その後しばらく抜きつ抜かれつの状況が続いたが、1965年末頃からは第1位の座を磐石なものにした。コロナの首位は、1968年カローラに譲り渡されるまで続いた。当初のボディバリエーションは、4ドアセダンと、この代からコロナの名に統一された2/4ドアバン(バンはこの代よりバックドアがハッチバックのバックドアとなり実質3 / 5ドアバンに)とシングル/ダブルピックアップであった。ステアリングギヤがウォーム&セクター・ローラーから、リサーキュレーティング・ボール(ボールナット)へ変更、主にタクシー向けのスタンダードのエンジンが1,200cc2P型から1,350cc3P型に変更、そしてトヨグライドが完全自動式となったことが挙げられる。旧型コロナに比べて約60kg軽くなり、エンジンの改良と合わせて、高性能、最高速度(140km/h)、加速性能(SS1/4マイル19.7秒)を達成した。通称、「バリカンコロナ」。
  • 1965年4月 - SSやSSSなどスポーティモデルを充実させるブルーバードに対抗して「1600S」を追加、エンジンは4R型(OHV1,587cc・SUツインキャブレター・90馬力)で、コロナ初の前輪ディスクブレーキ、4速フロアシフトを採用し、内装にはタコメーター、フルリクライニングのバケットシートを採用した。同年7月には、日本車初のピラーレス構造の2ドアハードトップ(T50系)を追加、11月にはこれも日本車初となる5ドアハッチバックセダンを追加、ルノー・16など、欧州で人気が出始めていた5ドアをいち早く取り入れた。ハードトップはその後のスペシャルティカーの先駆けとして好評であったが、5ドアセダンは人気が出ず、少数販売にとどまった。しかしトヨタは6代目になってこれを復活させ、以後もこのボディ形式を日本に根付かせようとその後も努力を続ける。欧米への輸出もトヨタ・コロナとして行われたが、日本国外でも好評をもって迎えられ、T40系の輸出台数は1964年に8,734台、65年23,096台、66年60,864台と急拡大し、1967年10月には80,058台と、日本車の単一車種輸出台数の新記録を更新、T40系の成功で、輸出においてもトヨタは日本一の座を獲得した[5]
  • 1966年6月 - マイナーチェンジを受け中期型となる。ホーンリングの変更やフロントグリルが格子状になる。
  • 1967年2月 - ニュージーランドクライストチャーチのSteel Brothers' Motor Assembliesにて生産が開始される。
  • 1967年6月 - マイナーチェンジ。フロントマスクの再変更、バンパー位置のかさ上げ(米国安全基準対応)、リアコンビネーションランプの形状変更(ワンテール化)が行われた。
  • 1967年9月 - トヨタ自動車が月産8万台を達成した際、そのうち3万台を40系コロナが占める、[6]ほどの主力車種であった。1966年のT40系の生産台数はバンを含め252,492台で、これは単一車種の生産規模としてはVWビートル(1,295,834台)には大差を付けられているもの、フォード・コーティナの243,384台を上回る第2位であった。また、大韓民国の新進自動車(現:韓国GM)でもノックダウン生産された。[1]
  • 1967年8月 - 派生車種として、2ドアハードトップのボディを用いてDOHC1,600ccエンジンを搭載した「トヨタ・1600GT」が登場。
  • 1968年4月 - 「ゴールデンシリーズ」が登場、コロナ初のSOHC・1,600cc(「7R」シングルキャブレター・85PS/「7R-B」SUツインキャブレター・100ps)エンジンが搭載されたが、これは同年9月に上級車種として登場するコロナ・マークII用エンジンの先行投入であった。
  • 1968年9月 - コロナマークII発売に伴い通常のコロナは2R型1,500ccエンジン搭載のセダン(スタンダード・デラックス)とバンのみに車種整理され、5ドアセダンは廃止。あわせて大幅値下げが行われた。ハードトップや1600、そしてシングル/ダブルピックアップはマークIIシリーズに移行した。

わら焼きに消防車出動

2014年09月27日 20時59分00秒 | 写真

夕方サイレンが消防車が2台到着、わら焼きの煙りで通報か?

 消防署員が田んぼの中に5名入り何かを聞いてる模様

  当方(200m遠方の土手から)・・以下わら焼きを検索、hpよりコピーさせて頂く。

わら焼き
  

 秋。今年もしっかりお米が実り、一安心。
なんだかうれしくなりますね。
 秋は遠足の季節でもありますよね。
先日もリュックを背負った小さい子ども達が、稲刈りが終わった田んぼの
道を並んで歩いていました。お弁当は、おにぎりかなぁ?
 でも、その姿がわら焼きの煙でかすんでいて、ちょっとかわいそうで、心配になりました。

『わら焼き』は、青森県だけのことなのでしょうか・・・。
 雪の少ない太平洋側では、稲わらを畜産などに利用することが多いそうです。日本海側でも、他県では9割以上の稲わらが田んぼにすき込まれているとか。どうやら、『わら焼き』は、青森県それも津軽地方特有の現象となりつつあるようです。

 

なぜ津軽地方では『わら焼き』が多いんでしょう。
 以前は、農家の方々が,稲刈り後急いで出稼ぎに行かなければならなかった事情から『わら焼き』が行われました。
 近年は、農家の後継者が少なくなり、高齢化、労働力の不足により稲わらの収集や運搬が難しくなったことから、悪いと思いながらも『わら焼き』するしかない、という現状があるようです。

 

わら焼きの煙って、なんだか体に悪そうな気がしませんか。
 わずかながら発がん性や喘息などの呼吸器疾患の原因になるような物質が含まれるそうです。
でも、さらに大気中で薄められますので、神経質になる必要はないようです。
 でも、苦しんでいる人がいるのも事実ですよね。特に妊婦さんや子ども達は大変でしょう。

 

いったい、稲わらをどうしたらいいんでしょう。
 行政では、『わら焼き』面積を前年度より30%削減を目標とし、具体策を検討・実施しているそうです例えば、堆肥作りと水田へのすき込み徹底を呼びかけたり・・・。
「稲わらふりーでん」や「稲わらフリーマーケット」の実施を予定している地域もあります。
        「稲わらふりーでん」:青森市・弘前市・五所川原市・鯵ヶ沢・板柳町・鶴田町・中泊町
        「稲わらフリーマーケット」:五所川原市・板柳町・鶴田町・中泊町
 「稲わらふりーでん」ののぼりが立っている田んぼの稲わらは無料で自由にもらえます。
ガーデニングを趣味とされている方々、稲わらを利用してはどうでしょう。
 春になってスイカやメロンを植える時、敷きわらに利用できますよね。夏場の乾燥防止として、秋にイチゴの苗を植えた後にも稲わらを敷くといいようです。

 

 一人の使う稲わらは少なくても、みんなで協力したら・・・。
また、もし農業に夢を持てたら、田んぼの道を遠足で歩いていた子ども達の誰かが農業を仕事にして稲わらをうまく活用するかもしれませんよね。
 みんなで知恵を出し合って、『わら焼き』が昔話になるといいですね。

 


こんにゃく、かんてんせんべい4味160袋到着

2014年09月27日 20時34分05秒 | 写真

2014.9.18(注文)

2014.9.26(到着)

【経費】10.602+11.250=21.852/160・・140円

カルシウム不足が気になる方に

カルシウム不足が気になるおじいちゃん、おばあちゃんのお茶うけや行楽のお共に。また、育ち盛りのお子様のおやつに。こんにゃくをスナック風に仕上げた「こんにゃくせんべい」と、ヘルシーな寒天をサクサク食感に仕上げた「かんてんせんべい」の4味40袋セットをご紹介。現代人に不足しがちなカルシウムと食物繊維が含まれていますので、牛乳が苦手な方、野菜不足の方にもおすすめです。

<こんにゃくせんべい>
1袋あたり、板こんにゃく約1枚分(約200g)を使用し、カラッと揚げた、だし風味のサクサクせんべいです。

<こんにゃくせんべい(梅しそ) >
1袋あたり、板こんにゃく約1枚分(約200g)を使用し、カラッと揚げた、香り豊かな梅しそ味のせんべいです。

<かんてんせんべい(カレー)>
ヘルシーな寒天をスナック風に仕上げた、スパイシーなカレー味のせんべいです。

<かんてんせんべい(黒ごま) >
ヘルシーな寒天をスナック風に仕上げた香ばしい黒ごませんべいです。


 「武田鉄矢・今朝の三枚おろし」 紹介書籍

2014年09月24日 21時43分07秒 | 写真

『そして最後にヒトが残った―ネアンデルタール人と私たちの50万年史』
  クライブ・フィンレイソン(白揚社)

   「武田鉄矢・今朝の三枚おろし」 紹介書籍

そして最後にヒトが残った [著]クライブ・フィンレイソン

[評者]角幡唯介(ノンフィクション作家・探検家)  [掲載]2013年12月22日   [ジャンル]科学・生物 

■もうひとつの人類、なぜ絶滅したのか

 ネアンデルタール人と聞くだけで心が動かされるのはなぜだろう。たぶん気づかないうちに想像してしまうのだ。我々の他に高い知能をもつ人類が生きていた、その時代の、その風景のことを。
 本書は千万年前に始まる人類の歴史を包括的にたどったもので、特にネアンデルタール人の絶滅と現生人類の拡散に焦点が絞られている。これまではネアンデルタール人が絶滅したのは現生人類の干渉や侵略を受けたためだと考えられがちだったが、しかし著者によると、それは我々が知性や情緒において彼らに勝っていたという固定観念の裏返しにすぎず、さほど根拠のある話ではないらしい。そのかわり著者が用いたのが気候変動と環境変化というより大きなダイナミズムだ。
 森林に暮らしていたネアンデルタール人は筋骨を発達させ、大型動物を狩るのに適した体型になっていった。ところが当時の地球は寒冷乾燥化が進み、平原が広がり始め、彼らの居住域である森林が狭くなっていった。しかしその変化が逆に現生人類にはプラスに作用する。我々の体はしなやかで持久力に富んでいたため、平原での狩猟にも対応できたという。
 著者の主張は明快だ。つまりある生物種が生き残れるかどうかは適正な時に適正な場所にいたかどうかにかかっている。その意味でネアンデルタール人は誕生の時点で絶滅を宣告されていたようなもので不運だった。しかし考えてみると現生人類が身の程もわきまえず現在の地球で支配者然としていられるのも、単に運がよかったからともいえる。状況によっては今頃、筋骨が逞(たくま)しく脳容量の大きな人たちが、もう少し節度ある文明を築いていたかもしれないのだ。
 気になるのは両者の間に接点があったのかどうかだ。現生人類が登場した時点ですでにネアンデルタール人は後退を余儀なくされていたのだから、大きな接触はなかったというのが著者の見方だ。だが巻末の解説によると、両者の間には遺伝的変異が共有されていることが最新のゲノム研究から明らかになっており、交雑していた可能性が高いらしい。
 交雑! つまり我々の体には、ほんの少しネアンデルタール人の血が流れているのだ。思い浮かぶではないか。広い平原のどこかで我々は自分たちとは異なる身体をした人々を遠くで見かけていたのだ。その時、お互いに何を思ったのだろう。危険を感じて森の中に隠れたのか。遠巻きに見つめただけか。それとも何か友好的なやり取りがあったのだろうか。
 地球には我々以外に複数の人類が暮らす多様な世界が広がっていた。そこに想像力の翼がはばたくだけでも一読の価値はある。
     ◇
 上原直子訳、白揚社・2730円/Clive Finlayson 55年生まれ。ジブラルタル博物館館長。長年にわたってジブラルタルにあるゴーラム洞窟の調査を続けているネアンデルタール人研究の第一人者。