17号線で発見
【以下】ウイキより。
初代 T1#型(1957年 - 1960年)[編集]
トヨペット・コロナ(初代) T1#型 | |
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4ドアセダン
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販売期間 | 1957年7月 - 1960年4月 |
乗車定員 | 4人 |
ボディタイプ | 4ドアセダン 2ドアバン |
エンジン | S型 0.995L 直4 P型 0.997L 直4 |
変速機 | 3速MT |
駆動方式 | FR |
サスペンション | 前:ダブルウイッシュボーンコイル 後:リジッド半楕円リーフ |
全長 | 3,912mm |
全幅 | 1,470mm |
全高 | 1,555mm |
ホイールベース | 2,400mm |
車両重量 | 960kg |
ブレーキ | 4輪ドラム |
最高速度 | 90km/h(初期型) |
-自動車のスペック表- |
1950年代半ば以降、日本の乗用車市場ではトヨタ自動車がクラウンで中型タクシー市場を、日産自動車がダットサン・110/210で小型タクシー市場をそれぞれ押さえるという構図が出来上がっていたが、日本の二大メーカーである両社は、それぞれ相手の領域に食い込もうと新型車開発を続けていた。
コロナはこうした状況で誕生したトヨタの対ダットサン対抗馬である。しかし、本格的な商品として企画されていたのは 2代目のT20系であり、初代T10系はそれまでのつなぎとしての企画であった。
この背景には、当時 乗用車の設計に強い発言力を有していたタクシー業界が20系の完成を待てず、開発・発売を急がせたという事情があったという[1]。すなわち、T10系は クラウンの信頼性の高さが立証されて存在価値が薄まり1956年に生産を中止されていたクラウンのタクシー用姉妹車 トヨペット・マスター(前輪固定懸架)の車体中心部ボディプレス、クラウンの足回り、そして1940年代末から使用され 既に時代遅れになっていたサイドバルブ式のトヨタ・S型エンジン(最高出力33PS/4500回転、最大トルク6.5kgm/2800回転(グロス値))などといった 既存のコンポーネンツを寄せ集めて急遽開発された車であった。ただし 唯一画期的であったのは、トヨタが1950年代前半から研究を続けてきたモノコック構造が トヨタ乗用車として初採用されたことであった。このため、車両重量はようやく1000kgの大台を割っている。
2代目 T2#型(1960年 - 1964年)[編集]
トヨペット・コロナ(2代目) T2#型 | |
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4ドアセダン
コロナライン
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販売期間 | 1960年4月 - 1964年9月 |
乗車定員 | 5人 |
ボディタイプ | 4ドアセダン 2ドアバン トラック |
エンジン | P型 1.0L 直4 R型 1.5L 直4 |
変速機 | 2速AT / 3速MT |
駆動方式 | FR |
サスペンション | 前:ダブルウイッシュボーンコイル 後:トレーリングアームコイルリーフ |
全長 | 3,990mm |
全幅 | 1,490mm |
全高 | 1,440mm |
ホイールベース | 2,400mm |
車両重量 | 940kg |
ブレーキ | 4輪ドラム |
最高速度 | 110km/h 1000 3速MT(前期型) |
-自動車のスペック表- |
- 1960年4月 - フルモデルチェンジ。トヨタが総力を挙げてダットサン(1959年にダットサン・ブルーバード(310系)にモデルチェンジ)打倒を目指して開発された本格的な小型乗用車であった。当時のオペル・レコルトを彷彿とさせるデザインは当時の国産車の水準を越えた流麗もので、当時増加傾向にあった女性ドライバーには特に好評であった。車体は先代同様4ドアセダンのみで、ライトバンおよびシングル/ダブルピックアップは引き続きコロナラインとして別シリーズであった。販売キャンペーンも新しい方式が取られ、発表に先立ち1960年2月頃から新聞紙上に車体デザインの輪郭や一部分を露出して人気を煽る「ティザーキャンペーン」が日本で初めて実施された。設計上最大の特徴は1枚リーフとコイルの組み合わせによるカンチレバー式のリアサスペンションであった。優れた操縦性と乗り心地を実現したが、当時未舗装が多かった地方の道路でタクシーとして酷使されると、耐久性不足が露呈された。また、ピラーが細くスマートなボディも強度不足が指摘された。[2] こうして主にタクシー業界で不評が広がり、当初好調に立ち上がった販売も1960年末頃には伸び悩むようになり、小型車市場でのダットサン・ブルーバードの優位は、T10系の時代と変わらず続き、トヨタは乗用車メーカーとして国内2位の座に甘んじることになった。トヨタは状況を回復すべく必死で対策を講じた。
- 1961年3月 - 小型タクシー枠が拡大されたことを受けて、クラウンと同じ新規格一杯のR型1,453cc60馬力を搭載した「コロナ・1500」(RT20系)を投入、同様に1,200cc版を投入したブルーバードに対しパワー競争で差をつけた。更に10月には「コロナ・1500デラックス」(RT20D系)を追加し、自家用車向け販売を強化した。また、特に女性ドライバーに人気があることからイージードライブ装置付きモデルに早くから力を入れ、2速オートマチックトランスミッションの「トヨグライド」(トルクコンバーター付きだがLとDの変速は手動であった)、自動クラッチの「サキソマット」(通常の3速MTのクラッチ操作のみ自動化、トヨグライドより性能ロスが少ない)が追加された。また、1500登場と同時に問題のリヤサスペンションをコンベンショナルなリジッド半楕円リーフスプリングに変更した。
- 1962年 - 日本で最初のカラーCMとなる「コロナ・1500デラックス」のテレビCM放映。「スタント・ドライブシリーズ」[3]の1つとして制作されたもので、内容は色とりどりのドラム缶の上を走行したり、砂塵を上げながら蹴散らすというものだった。
- 1963年4月 - オーストラリア・ビクトリア州・ポート・メルボルンにあった自動車組み立て会社オーストラリアン・モーター・インダストリーズにてトヨタ・ティアラ (Tiara)として生産が開始され、これが日本国外で生産された初めてのトヨタ車となった。なおオーストラリアン・モーター・インダストリーズは後にトヨタが買収し、1985年にトヨタ・オーストラリアとなる。
- 1963年5月 - 第1回日本グランプリ、ツーリングカー1300 - 1600クラス「C-5」に出場し、1位から3位までを独占した。宿敵ブルーバード・1200は別クラスになったことも幸いしていたが、コロナが丈夫で高性能であることをアピールする好機として、トヨタは盛んにこの戦果を宣伝した[4]。T20系はまた、対米輸出の戦略車種としても位置づけられ、こちらでも「トヨタ・ティアラ」(クラウンの『王冠』と意味を重ねたネーミング)として1,900ccエンジンを搭載して輸出されたが、1960年にビッグスリーが相次いでコンパクトカーを発売して輸入車に反撃を開始したこともあって、トヨタの期待に反して販売は伸び悩み、アメリカ市場から一時撤退することとなる。
3代目 T4#/5#型(1964年 - 1970年)[編集]
トヨペット・コロナ(3代目) T4#/5#型 | |
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4ドアセダン(前期型)
1964年9月 - 1966年6月 2ドアハードトップ(中期型)
1966年6月 - 1967年6月 4ドアセダン(後期型)
1967年6月 - 1970年2月 |
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販売期間 | 1964年9月 - 1970年2月 |
乗車定員 | 5人 |
ボディタイプ | 2ドアハードトップ 4 / 5ドアセダン 3 / 5ドアバン ピックアップトラック |
エンジン | 2R型 1,490cc OHV 2P型 1,198cc OHV 4R型 1,587cc OHV 3P型 1,350cc OHV 7R型 1,591cc SOHC 7R-B型 1,591cc SOHC |
変速機 | 2速AT / 3速MT |
駆動方式 | FR |
サスペンション | 前:ダブルウイッシュボーンコイル 後:リジッド半楕円リーフ |
全長 | 4,110mm |
全幅 | 1,550mm |
全高 | 1,420mm |
ホイールベース | 2,420mm |
車両重量 | 945kg |
ブレーキ | 4輪ドラム |
最高速度 | 140km/h 4ドアセダンDX 3速MT(前期型) |
-自動車のスペック表- |
- 1964年9月 - フルモデルチェンジ。「アローライン」と呼ばれた傾斜したフロントノーズのデザインが特徴であった。開通して間もない名神高速道路にて、発表早々に「10万キロ連続高速走行公開テスト」を実施し、高速性能と耐久性をアピールして先代との違いを際立たせたことから人気が急上昇。ダットサン・ブルーバードとの熾烈な販売競争、いわゆる「BC戦争」において、1965年1月に初めてブルーバードを販売台数で追い抜き、国内販売台数第1位を達成した。その後しばらく抜きつ抜かれつの状況が続いたが、1965年末頃からは第1位の座を磐石なものにした。コロナの首位は、1968年にカローラに譲り渡されるまで続いた。当初のボディバリエーションは、4ドアセダンと、この代からコロナの名に統一された2/4ドアバン(バンはこの代よりバックドアがハッチバックのバックドアとなり実質3 / 5ドアバンに)とシングル/ダブルピックアップであった。ステアリングギヤがウォーム&セクター・ローラーから、リサーキュレーティング・ボール(ボールナット)へ変更、主にタクシー向けのスタンダードのエンジンが1,200cc2P型から1,350cc3P型に変更、そしてトヨグライドが完全自動式となったことが挙げられる。旧型コロナに比べて約60kg軽くなり、エンジンの改良と合わせて、高性能、最高速度(140km/h)、加速性能(SS1/4マイル19.7秒)を達成した。通称、「バリカンコロナ」。
- 1965年4月 - SSやSSSなどスポーティモデルを充実させるブルーバードに対抗して「1600S」を追加、エンジンは4R型(OHV1,587cc・SUツインキャブレター・90馬力)で、コロナ初の前輪ディスクブレーキ、4速フロアシフトを採用し、内装にはタコメーター、フルリクライニングのバケットシートを採用した。同年7月には、日本車初のピラーレス構造の2ドアハードトップ(T50系)を追加、11月にはこれも日本車初となる5ドアハッチバックセダンを追加、ルノー・16など、欧州で人気が出始めていた5ドアをいち早く取り入れた。ハードトップはその後のスペシャルティカーの先駆けとして好評であったが、5ドアセダンは人気が出ず、少数販売にとどまった。しかしトヨタは6代目になってこれを復活させ、以後もこのボディ形式を日本に根付かせようとその後も努力を続ける。欧米への輸出もトヨタ・コロナとして行われたが、日本国外でも好評をもって迎えられ、T40系の輸出台数は1964年に8,734台、65年23,096台、66年60,864台と急拡大し、1967年10月には80,058台と、日本車の単一車種輸出台数の新記録を更新、T40系の成功で、輸出においてもトヨタは日本一の座を獲得した[5]。
- 1966年6月 - マイナーチェンジを受け中期型となる。ホーンリングの変更やフロントグリルが格子状になる。
- 1967年2月 - ニュージーランド・クライストチャーチのSteel Brothers' Motor Assembliesにて生産が開始される。
- 1967年6月 - マイナーチェンジ。フロントマスクの再変更、バンパー位置のかさ上げ(米国安全基準対応)、リアコンビネーションランプの形状変更(ワンテール化)が行われた。
- 1967年9月 - トヨタ自動車が月産8万台を達成した際、そのうち3万台を40系コロナが占める、[6]ほどの主力車種であった。1966年のT40系の生産台数はバンを含め252,492台で、これは単一車種の生産規模としてはVWビートル(1,295,834台)には大差を付けられているもの、フォード・コーティナの243,384台を上回る第2位であった。また、大韓民国の新進自動車(現:韓国GM)でもノックダウン生産された。[1]
- 1967年8月 - 派生車種として、2ドアハードトップのボディを用いてDOHC1,600ccエンジンを搭載した「トヨタ・1600GT」が登場。
- 1968年4月 - 「ゴールデンシリーズ」が登場、コロナ初のSOHC・1,600cc(「7R」シングルキャブレター・85PS/「7R-B」SUツインキャブレター・100ps)エンジンが搭載されたが、これは同年9月に上級車種として登場するコロナ・マークII用エンジンの先行投入であった。
- 1968年9月 - コロナマークII発売に伴い通常のコロナは2R型1,500ccエンジン搭載のセダン(スタンダード・デラックス)とバンのみに車種整理され、5ドアセダンは廃止。あわせて大幅値下げが行われた。ハードトップや1600、そしてシングル/ダブルピックアップはマークIIシリーズに移行した。