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(私達のお巡りさん)警視庁

2015年07月26日 21時06分32秒 | 写真

警視庁 (内務省)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
鍛冶橋第一次庁舎(旧津山藩江戸藩邸)。1874年(明治7年)1月15日から1882年(明治15年)12月4日まで使用。
 
1877年(明治10年)1月11日から1881年(明治14年)1月14日まで、内務省警視局「東京警視本署」に改編された。庁舎はそのまま使用。
 
鍛冶橋第二次庁舎。1882年(明治15年)12月4日から1911年(明治44年)3月30日まで使用。
 
日比谷赤煉瓦庁舎。1911年(明治44年)3月30日から1923年(大正12年)9月1日まで使用。
 
関東大震災による火災で炎上する日比谷赤煉瓦庁舎。1923年(大正12年)9月1日。
 
関東大震災後の仮庁舎。1930年(昭和5年)。
 
昭和前期の庁舎

警視庁(けいしちょう)は、1874年明治7年)から1947年昭和22年)まで存在した東京府(後に東京都)の警察を管轄する内務省の地方官庁である。自治体警察になる前の「東京警視庁」とも呼ばれた組織である。

 東京警視本署[編集]

警視庁発足時から各地で士族反乱が発生し、地方の警察力では対処できなかった。政府は全国の警察を一元化するため、1877年(明治10年)1月11日に警視庁を廃止し、内務省直轄の東京警視本署へと改編した。(庁舎はそのまま使用された)

川路利良大警視は内務省に対し兵器の貯蔵を上申し、東京警視本署は陸軍省から7000挺の小銃を借用して、陸軍士官の派遣を受け、軍事訓練を行った。1877年(明治10年)、最大の士族反乱となった西南戦争警視隊(9500名)を編成して従軍し、陸軍を支援した。

西南戦争終戦後、国内の治安が安定すると、武断的な警察に批判が高まり、1881年(明治14年)1月14日に警視庁が再設置され、本来の警察業務に戻った。

警視総監の地位[編集]

警視総監東京府知事と同じ勅任官であったが、俸給は府知事よりも多く(内務次官陸海軍中将と同額)、警視総監の方が格上とみなされていた。後に東京都制が施行され、親任官東京都長官(俸給は国務大臣相当の待遇であり、また、昭和20年8月23日の閣議了解で、必要に応じ閣議への参加も認められた)が置かれたことで逆転した。

また、警視総監は府県知事の「府県令」と同様の「警視庁令」という命令を発することができた。

沿革[編集]

組織[編集]

 
武術世話掛1888年(明治21年)頃
 
検閲課による検閲の様子。1938年(昭和13年)
 
消防課の救急車戦前