最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育てジャンプ(7月4日)(2)

2009-07-04 08:41:47 | 日記





 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(313)

●思考回路

 東京へ行くことになった。そこで私がまずしたことは、JRの浜松駅に電話をして、発車時刻を調べること。が、なかなか電話はつながらない。が、そのとき気がついた。今では電話などしなくても、インターネットを使えば、発車時刻など即座にわかる。思考回路というのはそういうもので、一度、できると、それを改めるのは容易ではない。私は昔から、電車の発車時刻は、電話をして確かめていた。それが今になっても、つづいている?

 実のところ、思考回路には、便利な面もある。人間の行動をパターン化することにより、行動そのものをスムーズにする。たとえばテーブルの上に置かれた湯飲み茶碗を手にするとき、右手でとろうか、左手でとろうかなどと考えてからとる人は、いない。自然に右手が出て、そしていつものように茶碗をもちあげる。しかしその思考回路にハマりすぎると、それ以外の考え方ができなくなってしまう。そういうとき思考回路は、かえって思考のじゃまになる。

 が、思考回路があることが問題ではない。問題は、その思考回路が、柔軟なものかどうかということ。たとえば子どもたちの行動パターンを観察すると、おもしろい連続性を発見することがある。たとえばポケモンカードがある。年齢的には小学校の低学年児に人気がある。それが中学年になると遊戯王になり、高学年になると、マジックザギャザリング(通称「マジギャザ」)になる。より複雑なゲームになるというよりは、子どもたち自身が、ひとつの思考回路にハマっているといったほうが正しい。

友人関係にせよ、遊び仲間にせよ、さらにはごく日常的な会話にせよ、全体としてひとつの思考回路となっているから、途中で、それを変えるのは容易なことではない。仮にカードゲームから離れて、趣味が読書に向かうとしたら、それまでの環境すべてを変えなければならない。

 ……と書いて、実はこれはおとなの問題でもある。思考回路というのは、歳をとればとるほど柔軟性をなくす。冒頭にあげた例がそのひとつ。そこで問題は、いかにして思考回路の柔軟性を確保するかということ。いろいろな刺激を与えればよいことは、私にもわかるが、体そのものが新しい刺激を受けつけないということもある。日常的な行動そのものがパターン化されている現状で、どうすれば新しい刺激を自分に与えることができるのか。

もっとも私のばあいは、たとえば旅行で、たとえば読書でと、そういったところで刺激を受けるようにしている。が、本当の問題は、このことでもない。本当の問題は、いかにすれば固定した思考回路をつくらないですむか、だ。あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書いている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。

自分の中にひとつの思考回路を感じたら、その思考回路そのものと戦う。そしてそれをつくらないようにする。そういうのを自由といい、進歩という。行動面はともかくも、思想面では、思考回路は、思考そのものの障害となることもある。そういう視点で自分の思考回路をながめる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(314)

●あなたは裁判官

(ケース)Aさん(40歳女性)は、Bさん(45歳女性)を、「いやな人だ」と言う。理由を聞くと、こう言った。AさんがBさんの家に遊びに行ったときのこと。Bさんの夫が、「食事をしていきなさい」と誘ったという。そこでAさんが、「食べてきたところです」と言って断ったところ、Bさんの夫がBさんに向かって、「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったという。それに対して、Bさんが夫に対して、家の奥のほうで、「今、食べてきたと言っておられるじゃない!」と反論したという。それを聞いて、AさんはBさんに対して不愉快に思ったというのだ。

(考察)まずAさんの言い分。「私の聞こえるところで、Bさんはあんなこと言うべきではない」「Bさんは、夫に従うべきだ」と。Bさんの言い分は聞いていないので、わからないが、Bさんは正直な人だ。自分を飾ったり、偽ったしないタイプの人だ。だからストレートにAさんの言葉を受けとめた。

一方、Bさんの夫は、昔からの飛騨人。飛騨地方では、「食事をしていかないか?」があいさつ言葉になっている。しかしそれはあくまでもあいさつ。本気で食事に誘うわけではない。相手が断るのを前提に、そう言って、食事に誘う。そのとき大切なことは、誘われたほうは、あいまいな断り方をしてはいけない。あいまいな断り方をすると、かえって誘ったほうが困ってしまう。飛騨地方には昔から、「飛騨の昼茶漬け」という言葉がある。昼食は簡単にすますという習慣である。

恐らくAさんは食事を断ったにせよ、どこかあいまいな言い方をしたに違いない。「出してもらえるなら、食べてもいい」というような言い方だったかもしれない。それでそういう事件になった?

(判断)このケースを聞いて、まず私が「?」と思ったことは、Bさんの夫が、Bさんに向かって、「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったところ。そういう習慣のある家庭では何でもない会話のように聞こえるかもしれないが、少なくとも私はそういう言い方はしない。私ならまず女房に、相談する。そしてその上で、「食事を出してやってくれないか」と聞く。

あるいはどうしてもということであれば、私は自分で用意する。いきなり「すぐ食事の用意をしろ」は、ない。つぎに気になったのは、言葉どおりとったBさんに対して、Aさんが不愉快に思ったところ。Aさんは「妻は夫に従うべきだ」と言う。つまり女性であるAさんが、自ら、「男尊女卑思想」を受け入れてしまっている! 本来ならそういう傲慢な「男」に対して、女性の立場から反発しなければならないAさんが、むしろBさんを責めている! 女性は夫の奴隷ではない!

 私はAさんの話を聞きながら、「うんうん」と返事するだけで精一杯だった。内心では反発を覚えながらも、Aさんを説得するのは、不可能だとさえ感じた。基本的な部分で、思想の違いを感じたからだ。さて、あなたならこのケースをどう考えるだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(315)

●心をゆがめる子ども

 これはあくまでも教える側からの見方だが、心をゆがめ始める子どもには、いくつかの特徴がある。その中でも最大の特徴は、(1)心がつかめなくなるということ。もう少し具体的には、何を考えているかわからない子どもといった感じになる。

よい子ぶったり、見た目にはよくできた子といった印象を与えることが多い。静かで従順、何を言いつけても、それに黙って従ったりする。この段階で、多くの先生は、「いい子」というレッテルを張ってしまい、子どものもつ問題を見落としてしまう。そしてある日突然、それが大きな問題になり、「えっ!」と驚く……。不登校がその一例。あとになって「そう言えば……」と思い当たることもあるにはあるが、それまではたいていの教師はその前兆にすら気づかない。

 つぎに(2)「すなおさ」が消える。幼児教育の世界で、「すなおな子ども」というときには、二つの意味がある。一つは、心の状態と表情が一致していること。悲しいときには悲しそうな顔をする。うれしいときにはうれしそうな顔をする、など。が、それが一致しなくなると、いわゆる心と表情の「遊離」が始まる。不愉快に思っているはずなのに、ニコニコと笑ったりするなど。

 もう一つは、「心のゆがみ」がないこと。いじける、ひがむ、つっぱる、ひねくれるなどの心のゆがみがない子どもを、すなおな子どもという。心がいつもオープンになっていて、やさしくしてあげたり、親切にしてあげると、それがそのままスーッと子どもの心の中にしみこんできくのがわかる。が、心がゆがんでくると、どこかでそのやさしさや親切がねじまげられてしまう。私「このお菓子、食べる?」、子、「どうせ宿題をさせたいのでしょう」と。

 家庭でも、こうした症状が見られたら、子どもをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方をかなり真剣に反省する。そしてここが重要だが、子どもの中に心のゆがみを感じたら、「今の状態をより悪くしないこと」だけを考え、1年単位でその推移を見守ること。あせればあせるほど、逆効果で、一度(何かをする)→(ますます症状が悪化する)の悪循環に入ると、あとは底無しのドロ沼に落ちてしまう。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(316)

●心を開かない子ども

 心を開かない子ども……と、書いて、実はあなた自身のこと。あなたはだれかに対して、一人だけでもよいが、心を開くことができるだろうか。あるいはそういう人がいるだろうか。「心を開く」ということは、そういう意味でもたいへんむずかしい。

実のところ、この私にしても、「この人だけになら心を開くことができる」と思える人は、ほとんどいない。どうしても自分をさらけ出すことができない。そのためどうしても自分を作ってしまう。

 そこで「本当の自分」とは何かを考えてみる。……この間、10数分の時間が過ぎたが、本当の自分と言われると、そこでまたハタと困ってしまう。本当の私は、小心者で、小ずるく、無責任で、冷酷で、自分勝手。そういう自分がつぎつぎと浮かんでくる。しかしそういう自分をさらけ出すことはできない。だれかと接するときは、どこかでそういう自分と戦わねばならない。ありのままの自分をさらけ出したら、相手もびっくりするだろう。

 ここから先はたいへん不謹慎な話になるが、異性と、裸になってセックスをするときは、ひょっとしたら、心を開いた状態なのかもしれない。肉体や感情や、それに欲望をさらけ出していると、ついでに心までさらけ出すことになる。もっともその前提として、互いに愛しあっていなければならない。自分の欲望を満たすために、心を偽るようでは、心をさらけ出したことにはならない。「私はどうなってもいい」という思いの中で、自分をさらけ出してこそはじめて、心を開いたことになる。

 ……と、書いて、子どもの話にもどる。親子だから、互いに心を開きあっているとは限らない。親のほうはともかくも、子どものほうが心を閉ざすケースはいくらでもある。「親がこわかった」「親の前にすわると緊張する」「親に会うと疲れる」「実家には帰りたくない」「何か言われると、反発してしまう」など。

若い母親でも、約3~4割の人が、そういう悩みをかかえている。子どもの立場でみて、親にどうしても心を開くことができないというのだ。そこでさらに問題を掘りさげて、あなたという親と、あなたの子どもの関係はどうかということ。あなたは子どもに心を開いているだろうか。反対にあなたの子どもはあなたに心を開いているだろうか。こういう質問をすると、たいていの人は、「うちはだいじょうぶ」と言うが、だいじょうぶでないことは、実はあなた自身が一番よく知っている。それともあなたは、あなたの親に対して、全幅の心を開いていると自信をもって言えるだろうか。

 「心を開く」ということは、そんな簡単な問題ではない。またそんなふうに簡単に考えてもらっては困る。私の経験では、生涯、心を開くことができる相手というのは、ほんの数人ではないかと思う。あるいはもっと少ない……? こちらが心を開いても、相手が開かないとか、その反対のこともある。なかなかうまくいかないのが人間関係だが、それはそのまま親子についても言える。はたしてあなたは本当にだいじょうぶか?





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(317)

●西郷隆盛が理想の教育者?

 ある教育雑誌に、ある県会議員の教育改革論(?)が載っていた。いわく「西郷隆盛(明治維新の元勲)こそが、私の尊敬する人物。彼の思想にこそ、これからの教育の指針が隠されている」(雑誌「K」)と。

いろいろ理由は書かれていたが、私はこういう意見を読むと、生理的な嫌悪感を覚える。イギリス人がトラファルガーの海戦(1805年)で勝利を収めた、ネルソン提督をあがめるようなものだ。気持ちはわからないでもないが、どうしてものの考え方が、こうもうしろ向きなのだろうとさえ思ってしまう。

西郷隆盛が西郷隆盛であったのは、あの時代の人物だったからにほかならない。西郷隆盛をたたえるということは、あの時代を肯定することにもなる。もちろん歴史は歴史だし、歴史上の人物は、それなりに評価しなければならない。しかし西郷隆盛に教育論を求めるとは……? 彼は、大久保利通、木戸孝允らと並んで、明治維新の三傑とは言われたが、少なくとも民主主義のために戦った人物ではない。平和や自由や平等のために戦った人物でもない。わかりやすく言えば、武士階級の権威や権力の温存を求めて戦った人物である。

……というような反論をしても、この日本では意味がない。私のほうが異端児になってしまう。先日も、「あなたは日本の歴史を否定するのか。それでもあなたは日本人か」と言ってきた人がいた。

しかし私は何も日本の歴史を否定しているのではない。それに私は上から下まで、完全な日本人だ。日本の文化や風土、民族はこの上なく愛している。しかしそのことと体制を愛するということは別のことである。西郷隆盛にしても、明治から大正、昭和における歴史の教科書の中で、そのときどきの体制につごうがよいように美化された偉人(?)にすぎない。その結果が、あの軍国主義であり、さらにその結果があの戦争である。だととするなら、なぜ今、西郷隆盛なのかという疑問を私がもったところで、それは当然のことではないのか。

こうした復古主義は、社会の世相が混乱するたびに姿を現す。今がそうだが、こうした復古主義がはびこればはびこるほど、「進歩」が停滞する。しかし私たちがすべきことは、「新しい家庭観」の創設であって、決して復古主義的な家庭観ではない。改革の思想は、いつも混乱の中から生まれる。混乱を恐れてはいけない。混乱の中から何かを生み出すという姿勢が、この混乱を抜け出る唯一の方法である。

……何とも、カタイ話になってしまったが、読者のみなさんも、こうした復古主義にだけはじゅうぶん、注意してほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(318)

●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう40年も前のことだが、私がメルボルン大学に留学していたときのこと。当時、正規の日本人留学生は私一人だけ。(もう一人Mという女子学生がいたが、彼女は、もともとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、一通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。私が喜んで、「外交官ではないか! おめでとう」と言うと、その友人は何を思ったか、その手紙を丸めてポイと捨てた。「アメリカやイギリスなら行きたいが、99%の国は、行きたくない」と。考えてみればオーストラリアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日本人のそれとはまったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本へ帰ったら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ入らないのか」と、やんやの非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コースということになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼくは日本へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言っていた。が、ある日、一番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなことを言うのはよせ。日本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパイズ(軽蔑する)」という言葉を使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社マンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかなかった。この友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなたの夫はどのような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこれだけは言える。

こうした職業観というのは、決して絶対的なものではないということ。時代によって、それぞれの国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるということ。大切なことは、そういうものを通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があるということ。私の母は、私が幼稚園教師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまった。「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア~」と。

母は母の時代の常識にそってそう言っただけだが、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。しかしあなたとあなたの子どもの間では、こういうことはあってはならない。これからは、もうそういう時代ではない。あってはならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(319)

●ホームスクール

 アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年一五%前後の割合でふえ、2001年度末には200万人に達しただろうと言われている。それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。

地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくない。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(320)

●二番目の子は、親と疎遠?

 「3人兄弟の第2子は、両親に電話する回数が少なく、疎遠になりやすいことが東京大学大学院のアンケート調査でわかった」(読売新聞02年5月)という。

 同大学院認知行動科学研究所が、全国の3人兄弟の大学生男女129人に、1か月に何回、両親に電話するかを聞いたところ、

 長子…… 6・9回
 第二子……4・6回
 末子…… 5・9回と、第二子は明らかに少なかった。

男女別に分けても、傾向は同じだったという。さらにその報告によれば、「出生順位と親子関係について、1998年にカナダで行われた研究でも、長子や末子にくらべて、中間の子どもは両親をあまり親しい人物と考えていないという結果が出ている」という。

理由として、「長子は両親が子育てにかける手間を独占できる期間があり、末子も、その後に弟妹がいないので、親が世話をしやすいため」と分析している。そして「一方、じゅうぶんに手をかけてもらっていない中間の子どもは、両親への親密度を減らす」とも。

 ……もっとも、こんなことは私たちの世界では常識で、何も「大学院のアンケート調査によれば」と断らなければならないほど、おおげさなものではない。私もすでにあちこちの本の中で、そう書いてきた。が、問題はその先。

 嫉妬による愛情飢餓の状態が、長くつづくと、子どもの心はゆがんでくる。表面的には、愛想がよくなり、人なつこくなる。しかしその反面、自分の心を防衛する(飾る)ようになり、仮面をかぶるようになる。よい子ぶったり、優等生になっておとなの関心を自分に引こうとする。

が、さらにその状態が長くつづくと、心の状態と顔の表情が遊離し始め、親から見ても、何を考えているかわからない子どもといった感じになる。この段階になると、ひがみやすくなる、いじけやすくなる、ひねくれやすくなる、つっぱりやすくなるなどの、「ゆがみ」が出てくるようになる。タイプとしては、(1)暴力的、攻撃的になるプラス型と、(2)ジクジクと内へこもるマイナス型に分けることができる。大切なことはそういう状態になる前に、子ども自身が今、どう状態なのかを親側が知ることである。ここにも書いたように、それが長くつづけばつづくほど、子どもの心はゆがむ。

 さて、読売新聞はこう結論づけている。「東大とカナダの調査結果は、(中間の子は、両親への親密度を減らすという)学説を裏づけるデータと言えそうだ。同研究室は、『中間の子だけに特有の性格があることは興味深い。電話以外の行動も調べてみたい』としている」と。

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