最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育てジャンプ(7月4日)(1)

2009-07-04 08:43:11 | 日記





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(308)

●意識の違い

 意識は脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、仮に自分の意識がズレていても、それに気づくことは、まずない。とくに教育の世界では、そうだ。

 今から30年前、私はオーストラリアの大学で学んでいたときのことだが、向こうの教授たちは平気で机の上に座っていた。机に足をかけて座っている教授すらいた。今でこそ笑い話だが、こうした光景は当時の日本の常識では考えられないことだった。

さらにその少し前、東京オリンピックがあった(1964年)。その入場式のときのこと。日本の選手団は一糸乱れぬ入場行進をして、高い評価(?)を受けた。当時ですら、アメリカの選手団はバラバラだった。私はそのとき高校生だったが、「アメリカの選手たちはだらしない」と思った。しかし……。

 一方、10年ほど前だが、こんなこともあった。アメリカ人の女性が私に、「ヒロシ、不気味だった」と言って、こんな話をしてくれた。何でもその女性が海で泳いでいたときのこと。どこかの女子高校生の一団が、海水浴にきたというのだ。「どうして?」と聞くと、その女性は、「みんな、ブルーの水着を着ていた!」と。

つまりその女性は、日本の高校生たちがみな、おそろいのブルーの水着を着ていたことが、不気味だったというのだ。が、私には、その女性の意識が理解できなかった。「日本ではあたりまえのことだ」とさえ思った。思って、「では、アメリカではどうなのか」と聞くと、こう言った。「アメリカでは、みんなバラバラの水着を着ている」と。

 このアメリカ人の女性の意識については、それからしばらくしてから、理解できるようになった。ある日のこと、当時のマスコミをにぎわしていたO教団という宗教団体があった。その教団の信者たちが、どこかふつうでない白い衣装を身にまとい、頭にこれまたふつうでない装置(?)をつけて、道を歩いていた。その様子がテレビで報道されたときのこと。私にはそれがぞっとするほど不気味に見えた。と、同時に、「ああ、あのときあのアメリカ人の女性が感じた不気味さというのは、これだったのだ」と思った。

 意識というのは、そういうものだ。人にはそれぞれに意識があり、その意識を基準にしてものを考える。しかしその意識というのは、決して絶対的なものではない。その人の意識というのは、常に変わるものであり、またそういう前提で自分の意識をとらえる。今、おかしいと思っていることでも、意識が変わると、おかしくなくなる。

反対に、今、おかしくないことでも、意識が変わると、おかしくなる。たとえば今、北朝鮮の人たちが、一糸乱れぬマスゲームをしているのを見たりすると、それを美しいと思う前に、心のどこかで違和感を覚えてしまう。が、もし30年前の私なら、それを美しいと思うかもしれないのだが……、などなど。

 進歩するということは、いつも自分の意識を疑ってみることではないか。言いかえると、自分の意識を疑わない人には、進歩はない。とくに教育の世界では、そうだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(309)

●固い粘土は伸びない

 伸びる子どもと伸び悩む子どもの違いといえば、「頭のやわらかさ」。頭のやわらかい子どもは伸びる。そうでない子どもは伸び悩む。たとえば頭のやわらかい子どもは、多芸多才。趣味も特技も幅広く、そのつどそれぞれの分野で、自分を楽しませることができる。子どもにいたずらはつきものだが、そのいたずらも、どこかほのぼのとした子どもらしさを覚えるものが多い。食パンをくりぬいて、トンネルごっこ。スリッパをつなげて、電車ごっこなど。

 一方伸び悩む子どもは、融通がきかない。ある子どもとこんな会話をしたことがある。子、「まちがえたところはどうするのですか?」、私、「なおせばいい」、子「消しゴムで消すのですか」、私「そうだ」、子「きれいに消すのですか」、私「そうだ」と。実際、小学三年生の子どもとした会話である。

 簡単な見分け方としては、ひとりで遊ばせてみるとよい。頭のやわらかい子どもは、身の回りからつぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。そうでない子どもは、「退屈ウ~」とか、「もうおうちに帰ろウ~」とか言ったりする。遊びそのものが限定されている。また同じいたずらでも、知恵の発達が遅れ気味の子どもは、とんでもないいたずらをすることが多い。
先生のコップに殺虫剤を入れた中学生や、うとうとと居眠りしている先生の顔の下に、シャープペンシルを突きたてた中学生などがいた。その先生はそのため、あやうく失明するところだった。幼児でも、コンセントに粘土をつめたり、溶かした絵の具をほかの子どもの頭にかけたりする子どもがいる。常識によるブレーキが働かないという意味で、心配な子どもということになる。

 頭をやわらかくするためには、意外性を大切にする。子どもの側からみて、「あれっ」と思うような環境をいつも用意する。私も最近、こんな経験をしたことがある。オーストラリア人の夫婦を、ホームステイさせたときのこと。彼らは朝食に、白いご飯にチョコレートをかけて食べていた。

それを見たとき、私の頭の中で「知恵の火花」がバチバチと飛ぶのを感じた。それがここでいう意外性ということになる。言いかえると、単調で変化のない生活は、子どもの知能の大敵と考える。生活の中に、いつも新しい刺激を用意するのは、子どもを伸ばす秘訣であると同時に、親の大切な役目ということになる。

 



ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(310)

●世間体

 Yさん(84歳女性)という女性がいる。近所では「仏様」と呼ばれている。そのYさんについて、娘のKさん(60歳)が、こう話してくれた。「いまだにサイフの中には札束を入れて歩くのですよ」と。つまりその札束を、そのつど、これ見よがしに人に見せつけるのだという。「スーパーのレジの女の子にさえそれをするから、お母さん、もうそんなことをやめなさいと言うのですが、もうそれがわかる年齢でもないようです」と。世間体をとりつくろう人は、そこまで神経をつかう。

 ちょうどこの話を聞いたとき、北朝鮮では「アリラン」という祭典が催された(02年春)。ずいぶんと盛大な祭典だったようだ。その祭典について、読売新聞社の記者が、こんな記事を書いている(同年5月2日)。

「(D百貨店では)、記者団の到着とともに明かりがともり、エレベータが動き出した」「取材日程に組み込まれた庶民用のD百貨店も、衣類、電化製品、缶詰、調味料など品数と種類は多かったが、ただ購入している人はほとんどみかけなかった」「一方、ピョンヤンのアパートが立ち並ぶ一角の食料品店で陳列棚にあったのは、惣菜類入っているらしい金属製の容器3つだけだった」などなど。読売新聞社の記事だから、それ以上のことは書いてなかったが、世間体をとりつくろう(国)は、そこまで神経をつかう。

 世間体を気にする人というのは、それだけ自分のない人とみてよい。しかも世間体と自分は、反比例する。世間体を気にすればするほど、自分がなくなる。先のYさんだが、家計は火の車だが、冠婚葬祭にだけは惜しみなくお金を使う。法事にしても、たいてい近くの料亭を借りきって催している。が、それだけではない。

本当の悲劇は、世間体を気にする人は、自分がない分だけ、他人に心を許さない。他人どころか、身内にすら心を許さない。つまりそれだけ心のさみしい人とみる。たとえば娘のKさんが、Yさんを旅行に連れていったとする。そのときYさんにとって大切なのは、「娘が旅行に連れていってくれた」という事実なのだ。自分の仲間たちの間で、「息子や娘の親孝行ぶり」を、自慢するためである。こう書くと、信じられない人には信じられない話かもしれないが、もともと意識そのものがズレているから、このタイプの人はそう考える。もっというと、世間体を気にする人は、そこまで神経をつかう。

 さてあの北朝鮮。結局は犠牲になっているのは、その国民だと思うのだが、ある女子工員(縫製工場従業員の一人)はこう言っている。「もっと生産性をあげ、将軍様(金正日総書記)に喜びを与えたい(と話した)」(読売新聞)と。これについては、私もコメントを書くわけにはいかないので、読者の皆さんで考えてみてほしい。人間は教育(?)によって、ここまでつくられる!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(311)

●心の貧しい人たち

 金持ちでも心の豊かな人。金持ちでも心の貧しい人。貧乏でも心の豊かな人がいる。最高級車を乗り回しながら、ゴミを窓の外にポイと捨てる人は、金持ちでも心の貧しい人。清貧を大切にしながら、近所の清掃をしている人は、貧乏でも心の豊かな人ということになる。しかし問題は、貧乏で、心の貧しい人だ。そういう人はいくらでもいる。

 ただここで誤解しないでほしいのは、人はすべてここでいう4つのタイプに分けられるというのではない。人は、そのつど、いろいろなタイプに変化するということ。あなたや私にしても、心が豊かな面もあれば、貧しい面もあるということ。さらに金持ちかどうかは、あくまでも相対的なものでしかない。いくら貧乏といっても、50年ほど前の日本人のような貧乏な人は少ないし、どこかの貧しい国の人よりは、はるかによい生活をしている人はいくらでもいる。

 で、そういう前提で、心の貧しい人を考えるが、そういう人は、実のところ、いくらでもいる。見栄、メンツ、世間体にこだわる人というのは、それだけで心の貧しい人と言ってよい。このタイプの人は、いつも他人の目の中で生きているから、ものの価値観や幸福感も、相対的なものでしかない。自分より不幸な境遇にいる人をさがしだしてきては、そういった人を見くだすことによって、自分の立場を守ろうとする。だから会話も独特のものとなる。

「あの家の息子さんは、引きこもりなんですってねえ。先生の息子さんでも、そうなるのですねえ」「あの家は昔からの財産家だったのですが、今は見る影もないですねえ」とか。他人の不幸や失敗が、いつも話のタネとなる。中には一見、同情するフリをしながら、ことさらそれを笑う人もいる。「かわいそうなものですねえ。人間はああも落ちぶれたくはないものです」と。こういう人を心の貧しい人という。

 つまるところ自分自身や自分の生きざまに、いかに誇りをもつかということだが、心の貧しい人は、他人の不幸を笑った分だけ、今度は、自分で自分のクビをしめることになる。ある女性(80歳)は、老人ホームへ入ることを、最後の最後までこばんでいた。理由は簡単だ。その女性はそれまで、老人ホームへ入る仲間をさんざん笑ってきた。人生の落伍者であるかのようにさえ言ったこともある。「あわれなもんだ、あわれなもんだ」と。

 学歴や地位、名誉、さらには家柄にこだわるということは、それだけでも自分を小さくする。が、それだけではすまない。こだわりすぎると、心を貧しくする。「形」を整えようとするあまり、自分を見失う。B氏(60歳、現在退職中)は、ある日私にこう言った。「ぼくは努力によって、ここまでの人間になったが、君は実力で、ここまでの人間になったのだねえ」と。自分のことを、「ここまでの人間」という愚かな人は少ない。B氏は過去の学歴におぼれるあまり、自分を見失っていた。

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