最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●マガジン(2-26)先取り版(2)

2010-01-26 07:31:55 | 日記


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自分への怒り

++++++++++++++++++

少し前だが、学生時代の友人が、がんで
他界した。
その少し前のこと。
そのときすでに末期だったということになる。
街で偶然出会い、話しかけてみたが、会話が
まったくかみ合わなかった。
よそよそしいというか、上の空というか・・・。
「いっしょに店でも、回ってみるか?」と声も
かけた。
が、どこか迷惑そうな顔をしてみせた。

その様子からそのとき私は、「何かぼくは失礼な
ことでもしたのだろうか」と、何度も自問してみた。
が、思い当たることはなかった。

+++++++++++++++++

●自分への怒り

 何かの本で読んだことがある。
人は、自分の内部で勝手に増殖するがんのような病気にかかると、自分を怒る、と。
もちろん他人を責めても意味はない。
そこでその(怒り)は、自分自身へと向かう。

 が、そのときどういう心境になるかは、やはり、その人と同じ状況に立たされてみない
とわからない。
「やりきれないだろうな」というところまでなら、私にもわかる。
他人に蹴られたとか、殴られたのではない。
自分で、自分の中に、がん細胞を作る・・・。

●あるドラ娘

 あるところに、どうしようもないドラ娘がいた。
自分勝手でわがまま。
家事はいっさい、手伝わない。
ときどきボーフレンドを家に連れてきて、母親に食事の用意までさせていた。
その母親も、同じようなことを言っていた。

 「娘に対する怒りというより、そういう娘にしてしまった自分への怒りを覚えました」
と。

 さらに似たような話だが、ワイフの友人(女性、60歳くらい)が、ワイフにこう言っ
たという。
「ときどき息子が嫁さんを連れて、家に帰ってきますが、今どきの嫁さんは、家事をまっ
たく手伝ってくれません」と。
食事の世話から、寝支度の世話まで、すべてその友人がしているという。
「息子も、共働きなので、強くは言えないようです」と。
ワイフの友人も、自分に対する怒りを覚えていた。

●ニヒリズム

 他人を怒るのは、避けた方がよい。
避けられるものなら、避けた方がよい。
しかし自分に対して怒るのは、その人を強くする。
苦しい闘いだが、その(苦しさ)が、精神をたくましくする。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●無私の愛(Unconditional Love)

++++++++++++++++

無私の愛。
損得の勘定を捨てきった愛。
英語では、「unconditional love(無条件の愛)」という。
しかし無私の愛などというものは、それを求めようとして、
求められるものではない。
無私の愛などいうものは、裏切られ、さらに裏切られ、
その上さらに裏切られ、「どうにでもなれ」という状況
になってはじめて、それがそこにあることを知る。
あるいは苦しみや悲しみの果てでもよい。
苦しんで、苦しんで、悲しんで、悲しんで、
その果てに、それがそこにあることを知る。

が、あくまでも結果。
その結果として、「無私の愛」を知る。
「知る」というよりは、そういう状況に追い込まれる。
否応なしに、追い込まれる。
追い込まれたあと、「無私の愛」がそこにあることを知る。
そこに、最後の救いを見出す。
しがみつく。

+++++++++++++++++

●本能的な愛

 「私は子どもを愛しています」などと、平気で言う人がいる。
結構なことである。
すばらしいことである。
しかしその実、「愛」が何であるか、そういう人たちは、まったくわかっていない。
「愛」という言葉に酔っているだけ(失礼!)。

 というのも本能的な部分で、親は子どもを愛する(?)ようにできている。
一方、子どもは、本能的な部分で、親に愛されるようにできている。
最近の研究によれば、そうした心のメカニズムを、「mutual attachment(相互アタッチメ
ント)」という言葉を使って、説明する。
たとえばあの赤ん坊が、オギャーオギャーと泣いたとする。
が、そうして泣くのも、計算づく。
母性愛や父性愛をくすぐるために、赤ん坊は、自分の脳にインプットされた、プログラム
に従って泣く。
つまり赤ん坊が、親を操る。
親の心を操る。
それが別の形で現れるのが、「赤ちゃん返り」ということになる。

 下の子どもが生まれたりして、愛情飢餓の状態になると、子どもはもう一度、赤ちゃん
に戻り、親の関心を自分に引き寄せようとする。
おもらしをしたり、ネチネチした言い方をするなど。
本能的な部分で起こる現象のため、子どもを叱ったり、説教したりしても意味はない。
また、それでどうこうなるような問題ではない。

 こうした愛(?)を、私は、「本能的な愛」と呼んでいる。
もちろん先に書いた、「無私の愛」とは、まったく異質のものである。

●絶望感

 時として親は、子育てをしながら、はげしい絶望感を覚える。
挫折感、失望感・・・、何でもよい。
が、そこは自分の子ども。
自分の子どもから、逃れるわけにはいかない。
いかにはげしく葛藤しても、最終的には、受け入れるしかない。

 というのも人間の心というのは、不安定な状態には、たいへんもろい。
それから生まれる緊張感には、相当なものがある。
長くは持ちこたえられない。
そのため、一気に、どちらかの側にころぼうとする。
(拒絶)か、さもなければ(受容)か、と。
夫婦のばあいは、(拒絶)=(離婚)という方法もあるが、相手が自分の子どもでは、そう
はいかない。
親は、とことん、袋小路に追い詰められる。

 もっとも(拒絶)が、まったくないかというと、そうでもない。
本気で子どもを見捨ててしまう親も、少なくない。
家庭騒動、経済問題、夫婦不和などが、原因となることもある。
が、ごくふつうの家庭でも、(見た目には、まったくふつうの家庭でも)、(拒絶)が起こる
ことがある。

 援助交際を繰り返していた中学2年生の女子を、警察官が家の母親に電話をしたところ、
その母親は、こう言った。
「私には関係ないことですから、(娘を)勝手にしてください」と。
そして娘には、「2度と、家には帰ってこないでよ」(某テレビ局の突撃番組)と。
(中学2年生の娘に、だぞ!)
現実には、そういう家庭もある。

コメントを投稿