最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●9月7日(2)

2009-09-07 07:11:21 | 日記


●解放

 しかし……。
私は、うれしい。
刻一刻と、その日が近づいてきているのが、実感としてわかる。
それがうれしい。
ルンルン気分とまではいかないが、ワクワクしている。
実家を売れば、たいした額ではないが、お金が入ってくる。
そのお金で、ワイフと温泉につかってくるつもり。

 そう、結婚する前から、私は実家に、収入の約半分を送ってきた。
その負担感……金銭的負担感というより、社会的負担感には、相当なものがあった。
あるときから、それは重圧感に変わった。
「親だから……」「子だから……」「兄弟だから……」「大学まで出してもらったのだ
から……」「男だから……」と。
『ダカラ論』だけが、先行した。
それは真綿で首をしめられるような、苦しみだった。
ジワジワと……。
いつ晴れるともなく……。
だれが、というわけではないが、そういう雰囲気の中で、私は生まれ、育った。

 私は母にお金を仕送る。
母は母で、母の実家に、お金を仕送る。
こんな生活が、30年以上もつづいた。
だから私はそのつど、叫んだ。
「もう、いいかげんにしてくれ!」と。

 そう、そう叫ぶのも、これでおしまい。
私は、解放される!

●2人だけ

 だから昨夜、ワイフにはこう言った。
「もうこれからは、2人だけだね。
仲よくしようね」と。

 故郷から決別するということは、同時に、最後の糸を断ち切ることを意味する。
「ひょっとしたら、故郷は助けてくれるかもしれない」「暖かく私を包んでくれるかも
しれない」という糸である。

 しかしそれは、もう、ない。
期待もしていない。
いくら細くても、一本ぐらい、糸を残しておいたほうがよいという考え方もある。
何も自分のほうから断ち切ることもないではないか、と。

 それもそうかもしれないが、しかしそれは私の生き方ではない。
どうせスッキリするなら、何もかも打ち棄てて、心の中を整理したい。
私も、もう62歳。
人生も終盤期に入った。
モヤモヤとした過去にしばられ、立ち止まっている暇は、もうない。
残り少ない時間だからこそ、一瞬一秒を大切に、前に向かって進んでいきたい。

●あとは野となれ、山となれ

 さあ、決別するぞ。
心から消すぞ。
あとのことは、知ったことではない。
野となれ、山となれ。
ははは。

 世の中には、いろいろな家族がある。
家庭環境も、みな、ちがう。
事情も、みな、ちがう。
私は私。
あなたの考え方と、いくらちがっていても、私は私。
私の考え方が、まちがっていると言ってほしくない。
それに私がこういう考え方をするようになったからといって、私の責任ではない。
私の中にも、私自身の意思で作った部分もあれば、私の意思とは無関係に作られた
部分もある。

 ただ覚えておいてほしいのは、世の中には、私のような人間もいるということ。
けっして、少数派ではないということ。
今まで、みな、口に出して言わなかっただけ。
安易な『ダカラ論』に押されて、遠慮していただけ。

 ♪「さらば、ふるさと、さらば、ふるさと、ふるさと、さらばア~」と。

 私はこの歌を、明るくさわやかに歌って、あのM町を去る。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●毒殺?

 昨日、2羽のスズメが、庭先で死んでいた。
ワイフがそう言った。
しかしそういうことはありえない。
スズメが、庭先で死ぬなどということは、ありえない。

 で、この話とは別に、最近、気になっていることがひとつ、ある。

私はスズメたちに餌を与えるようになって、もう15年以上になる。
が、ここ1、2年、そのスズメの数が、急激に少なくなった。
10年ほど前には、毎日、数十羽のスズメが、いつも庭で遊んでいた。
が、今は、いても、10~15羽前後。
閑散としている。

 どこかでスズメを駆除しているらしい。
で、近くの農協に電話をしてみた。
「スズメに困っていますが、何か、いい方法はありませんか?」と。

 すると電話口に出た若い男は、こう言った。
「Y農協で、そういった指導をしていますから、そちらへ電話をしてみてください」と。

 で、Y農協に電話をしてみた。
が、はっきりとしたことは言わない。
どうも歯切れが悪い。
「指導会がありますから、また連絡してほしい」とか、何とか。
「どういう指導会ですか」と聞いても、「ええ、指導会です」と。
私はその返事を聞いて、ピンときた。
「毒薬を使っているな……」と。

 もちろん庭先で死んでいたスズメが、毒薬によるものと言っているのではない。
ひょっとしたら、鳥インフルエンザで死んだのかもしれない。
その可能性もないわけではない。
しかしそれにしても、急激に少なくなった。

 おかしいぞ!
 へんだぞ!

 昔から、スズメは、春には益鳥だが、秋には害鳥になるという。
米の収穫期には、米を食べる。
それはわかるが、しかし……。

 ここに書いたことは、あくまでも、私の憶測によるもの。
本当に毒殺しているかどうかは、知らない。
私が、そう疑っているだけという話である。

 が、もし本当にそういうことをしているなら、それだけはしてはいけない。
スズメと同じ餌を食べている野鳥は多い。
ドバトも、そうだ。
(そう言えば、ドバトも少なくなったぞ!)

 一度、この問題を本気で取り上げてみたい。
近く、この問題について、調べてみたい。

(補記)

 そのスズメたち。
数日前に、芝生の種をまいたのだが、あろうことか、私への恩を忘れて、
その種を食べてしまった!

 今朝見たら、種がすべて、もみ殻になっていた。
(「もみ殻」というのは、米の殻のことをいうが……。)

 今度まくときは、浅く掘って、土の中にまく。
ワイフも、そう言っている。
被害額は、1200円あまり。

 しかしこうして(自然)相手に、知恵比べをするのは、楽しい。
相手がスズメでは、怒る気は起きない。

(補記)

 同じ被害の話だが、今度は、猿の話。

 山荘のほうでは、最近、猿害に困っている。
季節になると、そのつど山荘へやってきて、悪さをする。
その(悪さ)が、スズメのそれとは、質的にちがう。
猿のほうは、(やらなくてもよいようなこと)をする。

 たとえば餌を食べるのに、わざわざ大屋根に上って食べる。
そのとき、雨どいを壊す、テレビのアンテナを壊す。
電話線を切る、など。

 山から下りてくるときも、一度、どういうわけか、山荘の屋根を
経由する。
(山)→(山荘の屋根)→(栗の木や柿の木)、と。
山から、直接、栗の木や柿の木に行けばよいと思うが、そこへ猿は、猿的な
遊びをはさむ。
(山荘の屋根)から、電話線や電線を伝って、行く、など。
それだけに、憎たらしい。

 新聞の報道によれば、そのあたりでも、今度、「猿の駆除」を始めたそうだ。
どういうことをするのか、詳しくは書いてなかったが、「駆除」というときは、
ふつうハンターに依頼しての銃殺を意味する。
抵抗を感じないわけではないが、それだけ農家の被害も大きいということか。
もとはと言えば、第二東名高速道路の工事。
その工事で追い出されて、そのあたりまでやってくるようになった。

 言うなれば、白人の開拓団に追われた、アメリカ・インディアンのようなもの。
(インディアンが「猿」というのではない。「立場」が似ているという意味。
誤解のないように!)

猿にも、いろいろ言い分はあるだろう。
(人権)もない。
(言葉)ももっていない。
それだけに、「かわいそうだな」とは思うが、どうしようもない。
何か、よい方法はないものか。
猿は頭がよいだけに、対策もむずかしい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

【人生論】(What is the Life for us?)

●今日の言葉(イギリスのBLOGより)

Life is an unfoldment, and the further we travel the more truth we can comprehend. To
understand the things that are at our door is the best preparation for understanding
those that lie beyond
- Hypatia,  In Religion

人生というのは、開いていくもの。先へ行けば行くほど、より多くの真理を理解できるよ
うになる。ドアの近くにあるものを理解することは、遠くにあるものを理解するのに、も
っとも役立つ。

●真理

 同じようなことを、私も以前、書いたことがある。
その原稿を探してみた。
「03年」とあるから、6年前の原稿ということになる。

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●豊かさとは、何か?

 生活の豊かさを測る尺度は、決して、一つではない。

 もちろん収入は、多ければ、多いほどよい。お金の嫌いな人はいない。私も嫌いではな
い。

 しかし収入だけで、豊かさは、測れない。

 自由な時間は、どれだけあるか?
 家族と過ごせる時間は、どれだけあるか?
 住んでいる環境は、どうだ?
 友だちの数はどうだ?
 人間関係は、どうだ、など。

 健康の度合いも、豊かさの一つということになる。しかし本当の豊かさは、「心」で決ま
る。

 心が平穏であるか。満足しているか。やさしく、思いやりがあるか。過去を悔やむこと
もなければ、未来を不安に思うこともない。夢や希望があり、目標もある。毎日、前向き
に生き生きと、過ごすことができる。そういった状態を、心の豊かさという。

 もちろん、心の貧しい人もいる。このときも、収入とは、関係ない。億万長者でも、心
の貧しい人は、いくらでもいる。もちろんお金がなければ、苦労する。不幸になることも
ある。しかしお金で、豊かさは買えない。

 中学生たちに聞いてみた。「君たちの夢は何か?」と。多くの中学生は、「お金持ちにな
りたい」「有名になりたい」と言う。

 しかしそのお金で、何をするか。その未来像が、見えてこない。また有名になるとして
も、それはあくまでも結果。そこに至る、現実が見えてこない。

 手っ取り早く、豊かになるためには、自分の住む世界を、ぐんと小さくすればよい。あ
るいは何かの宗教に身を寄せ、その世界に安住するという方法もある。この世界、広く生
きようと思えば思うほど、人との摩擦(まさつ)も大きくなる。ひとりで生きようと思え
ば思うほど、障害も大きくなる。

そこで私は、気がついた。豊かさは、求めるものではなく、その人の生きザマの中から、
結果として生まれるもの、と。少し話が、飛躍してしまったかもしれないが、こういうこ
とだ。

 私の知人に、長野県の山奥で、床屋を営んでいる人がいる。今年、六〇歳を超えた。彼
は父親の仕事を引き継いで、床屋を始めたわけだが、もし人生の成功者という人がいると
するなら、彼のような人をいうのではないか。

 釣り名人で、そのあたりでは、「釣り聖」と呼ばれている。床屋という職業もあって、村
長も、助役も、村の有力者たちも、みな、彼の前では、頭をさげる。もちろん村一番の情
報通。もし彼を敵に回したら、村議会の議員にすら、なれない。

 今は、その人は、日本画にこっていて、毎日、その日本画に没頭している。「個展を開い
たら……」とすすめると、うれしそうに笑っていた。

 一方、過去の肩書きや地位にぶらさがり、その亡霊から、逃れられない人もいる。退職
したあとも、プリプリといばっている。「仕事がない」と言うから、「貿易の知識を利用し
て、中国の物産でも売ってみたら」と提案すると、こう言った。「そんな恥ずかしいことは、
できない」と。(商売することを、「恥ずかしい」と言うのだ!)

 私のまわりには、いろいろな人がいる。みな、違った方法で、豊かさを求め、幸福にな
ろうとしている。もちろん、私も、そうだ。しかし豊かさというのは、求めたところで、
向こうからやってくるものではない。しかし生きザマさえ、しっかりしていれば、向こう
からやってくる。

 大切なことは、その生きザマを、どう確立するかということ。が、ここで誤解してはい
けないのは、その豊かさというのは、虹のかなたの、その向こうにあるのではないという
こと。あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて待ってい
る。

 土地を売って大金を手に入れたからとか、あるいは大企業の部長になったからとか、著
名なタレントになったからとか、そういうことで、ここでいう「豊かさ」を手に入れるこ
とは、ない。豊かさというのは、あくまでも、「心」の問題。名誉、地位、財産、肩書きと
は、まったく、関係がない。

 大切なことは、できるだけ早い時期にそれに気づき、そうしたものに、心が毒されない
ようにすること。毒されれば毒されるほど、心の豊かさは、あなたから遠ざかる。

 ……と、大上段に構えて、「豊かさ」について、書いてみた。「何を偉そうに……」と思
う人も、いるかもしれない。もしそうなら、許してほしい。私自身も、こうして自分なり
に、結論らしきものを出しておかないと、前に進めない。頭のてっぺんから、足の爪の先
まで、現代社会がもつ矛盾に、毒されている。

このつづきは、一度頭を冷やしたあとに、考えてみたい。
(031030)

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