最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●最前線の子育て論byはやし浩司(11-27号)

2009-11-27 06:17:13 | 日記




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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 27日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもを伸ばすために】

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子どもを伸ばすには、どうしたらよいか。
それについて書いてみたい。

(まとまりのない文章で、すみません。)

++++++++++++++++++

●八つ当たり

脳みそというのは、器用なようであって、器用でない。
基本的には、不器用。
「自分ではこうしたい」と思っていても、脳のほうが、勝手に反応してしまうことがある。
その一つの例が、八つ当たり。

何かのことでいやなことがあったとする。
ムシャクシャする。
するとそのはけ口を、ほかのものや、人に向ける。

向けられた人こそ、えらい迷惑。
そういう心理状態を、心理学では、「置き換え」という言葉を使って説明する。

しかしそれも道理。
一度、ある種のホルモン、たとえばサイトカインなどが分泌されると、
それは脳内全体に作用する。
部分的に、ここだけに作用して……というわけには、いかない。

だから一度、サイトカインが分泌されると、いや~な気分は、脳全体に影響を与える。
それが八つ当たりの原因ということになる。

が、その八つ当たりをコントロールするのが、理性。
つまり前頭連合野の働きということになる。
が、この前頭連合野の働きは、あまりアテにならない。
個人差も大きい。

つまり本能的な脳の働きの前では、理性の力といっても、風の中で揺れる
ローソクの光のようなもの。
とくに私のばあいは、そうである。
何かにつけて、すぐ八つ当たりしてしまう。

では、どうすればよいのか。

●アクセルとブレーキ

 少し話が脱線するが、許してほしい。

 心理的反応の大きさは、脳に刻み込まれたトラウマ(心的外傷)の大きさによる。
トラウマが大きければ大きいほど、心理的反応は、大きくなる。

 私のばあいも、ふつうの人にとっては何でもないことでも、あること(人)になると、
反応が過剰になることがある。
たとえば「酒」。

 私は酒のにおいが、嫌い。
酒臭い人も、嫌い。
ふつうの人にとっては、何でもないにおいでも、私にとっては、そうでない。
理由は、わかっている。
私の父は、酒癖が悪く、酒を飲むたびに、家の中で暴れたり、大声を出して叫んだ。
それがトラウマになっている。
若いときほどではないが、いまだに、その残像が残っている。

 そういう自分を観察してみて、気がついたことがある。
「置き換え」も、そのときの気分によって、左右される、と。

 たとえば親しい友人が、酒を飲んだとする。
そういうときは、ほとんど気にならない。
ワイフの酒も気にならない。
しかし電車に乗り込んできたような人が、酒臭かったりすると、ムッとする。
あるいは日ごろ、不愉快に思っている人が、酒臭かったりする。
そういうときも、ムッとする。

 条件反射論で考えるなら、こういうことはないはず。
どの人に対しても、反応は平等に起きるはず。
つまり条件反射も、別の何かによって、影響を受けることになる。
なぜだろう?

 そこで自分を観察してみる。
同じ条件反射なのに、強弱はどうして起こるのか、と。

 このことは、少し汚い話で恐縮だが、「便」で考えてみるとわかる。
あのソクラテスは、「自分の糞(おならではない)は、いいにおい」と言った。
しかし便というのは、みな、同じようなもの。
同じように、においも、人によってそれほど、違わない。
が、どうしてか、自分のおなら(便ではない)は、よいにおいがする。
他人のは、そうでない。

 そういうとき、頭の中でこんな反応が起きるのが、わかる。
一度は、臭いと思うが、それを発展的に(?)、「臭い」と思うときもあれば、
「臭くない」と、否定的に(?)、思うときがある。

 他人のものであれば、発展的に、「臭い」と思う。
自分のものであれば、(ワイフのも、そうだが)、「臭くない」と思う。
つまりアクセルを踏むか、ブレーキを踏むかのちがいが、起きる。
その作用が、そのあとの心理作用に、影響を与える(?)。
脳のどこかに、そういうメカニズムがあるらしい。

●潜在意識

 児童心理学の世界には、「好子」「嫌子」という言葉がある。
同じことなのに、それを前向きにする子どもがいる。
一方、それをいやがり、逃げ腰になる子どもも、いる。
こうした現象を、「好子」「嫌子」という言葉を使って説明する。

 これもアクセルとブレーキに似ている。
可能性として考えられるのは、表の意識が、裏の意識、つまり潜在意識に
操られているということ。
そのことによいイメージをもっていると、そのイメージが、アクセルとなって働く。
悪いイメージをもっていると、ブレーキとなって働く。

 たまたま今日も、年中児の男の子に、簡単な文章を読ませようとした。
そのときのこと。
その子どもは、その文章から目をそらし、悲しそうな目つきで、私の顔をじっと見つめた。
明らかに拒否反応である。
文字に対して、どこかで悪いイメージをもってしまったらしい。
それがブレーキとなって働いた。

 そこで何とかその子どもに、その文章を読ませた。
少しずつ私が読み、それを復唱させた。
文字などはスラスラと書くので、その程度の文章が読めないということはない。
で、読んだあと、みなの前でほめ、そしてみなに、手を叩かせた。
とたん、表情がぱっと輝いた。

 で、もう一度、レッスンの終わるころ、その男の子に同じ文章を読ませた。
今度は、大きな声で読んだ。
今度は、アクセルが働いた。

●イメージ・トレーニング

 こうして考えてみると、条件反射をコントロールするのは、実は理性(=前頭
連合野)ではなく、潜在意識ということになる。
あるいは潜在意識のほうが、パワー的には、前頭連合野より強力ということになる。

 こうして生まれた指導法が、イメージ・トレーニング法ということになる。
これは航空大学校に通っていたころの三男から学んだ方法である。
パイロットの卵というのは、訓練の過程で、いつもイメージ・トレーニング法を
使うという。

簡単な例では、たとえば頭の中に飛行機を思い浮かべ、その飛行機が横風を
受けて、流されていく様子など。
そういうイメージを描きながら、自分はどう飛ぶべきかを、頭の中でトレーニング
する。

 私も幼児教室で、このイメージ・トレーニン法を多用している。
たとえば、私が何を言っても、「やりたい!」と子どもたちに言わせる。
大声で言わせるのが、コツ。

「お手伝いをしたいか」「やりたい!」
「ひらがなの勉強をしたいか」「やりたい!」
「お母さんを助けたいか」「やりたい!」と。

(「YES!」「NO!」と言わせるときもある。
「いやだア!」と大声で連呼させるときもある。)

反対に、「いやだ!」と言わせるときは、こうする。

「ゴキブリの天ぷらを食べたいか」「いやだア!」
「ミミズのラーメンを食べたいか」「いやだア!」
「ねずみのウンチのから揚げを食べたいか」「いやだア!」と。

こうしてはずみをつけたあと、少しずつ、内容を現実に近づけていく。

「タバコを吸ってみるか」「いやだア!」
「ちょっとおじさんと、遊びに行かないか」「いやだア!」
「いいところへ連れていってやるから、車に乗ってよ」「いやだア!」と。

(実際の指導風景は、YOUTUBEのところどころに、収録してある。
興味のある人は、そちらを見てほしい※。)

●トラウマつぶし

 こうして子どもたちの脳の中に、前向きな潜在意識を作っていく。
同時に、それを自分自身に応用してみる。

 何かのトラウマがあったとしても、(もちろんそれが何であるかを、先に
知らなければならないが……)、そのトラウマをつぶす。
これを私は勝手に、「トラウマつぶし」と呼んでいる。

 たとえば私は、幼稚園に勤め始めたころ、できの悪い子どもが苦手だった。
そういう子どもに接すると、そばにいるだけでイライラしたこともある。
しかしそれでは仕事にならない。
数か月や半年は、ごまかすことはできても、そこまで。
そのうち子どものほうが、「林先生は嫌い」とか、「幼稚園へ行きたくない」とか
言い出す。
そこで私は、(実のところ、5~7年もたってから、それに気づいたのだが)、
初対面のとき、「この子はいい子だ」と、自分をだますようにした。
「この子はすばらしい」「この子は伸びる」と。

 それ以後、見違えるほど、子どもたちの表情が明るくなったのを覚えている。
教えるのも楽になった。
で、今でも、そうだ。
……というより、今は、自然な形でそれができる。
だから私が教えている子どもは、例外なく、どの子どもも、表情が明るい。
(表情が明るい子どもにするのが目的だから、当然のことだが……。)
その様子も、YOUTUBEに収録してあるので、ぜひ、見てほしい。

 反対に、その子どもの中に、何らかのトラウマを見つけたら、この方法で
つぶす。

先に、文字に対して拒否反応を示した子どもについて書いた。
レッスンが終わったとき、母親には、こう言って指導した。
「あとは、家で、おおげさにほめてあげてください。
じょうずに読めたね。
お母さんが、うれしかったと言うだけで、効果があります。
お父さんの前でそれを言うと、もっと効果的です」と。

 子どもを伸ばす、本当の力は、子ども自身の内部にある。
その内部を、教育する。
「それが幼児教育」とまでは断言できないが、ここに書いたことはまちがっていない。
あとは、子ども自身が本来的にもつ力で、伸びていく。

 「子どもを伸ばすには」というテーマで書いたつもりだが、何ともまとまりのない
原稿になってしまった。
切り口をまちがえた。
八つ当たりから、話を始めたのが、まずかった。
ボツにしようかと考えたが、このまま発表する。
ごめんなさい!

(注※:YOUTUBEへは、私のHPのトップページより、「BW公開教室」へ。)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●映画『沈まぬ太陽』

 静岡県では、今日、参議院議員の補欠選挙がある。
その投票に行く途中で、この文章を書いている。
(もちろん車の中で……。)

 が、道路が、日曜日ということもあって、大渋滞。
少しイライラしていたら、ワイフが、「このまま映画に行かない?」と。
こういうとき、夫は、妻に従うのがよいそうだ。
先日買った雑誌(「プレジデント」)に、そう書いてあった。
熟年離婚の危機はかろうじてかわしたが、安全圏に入ったわけではない。

 「時間的には、『沈まぬ太陽』がいいわ」ということで、そのまま劇場へ。
投票は、劇場からの帰りにすますことにした。

●日本映画

 日本映画のつまらない点は、自然ぽさがないところ。
役者の個性を利用するというよりは、無理な役作りをするところにある。
知性の感じさせないような人が、科学者の役をしたり、スケベそうな男が、
正義を説いたり……。
その(無理)が、映画を、つまらないものにする。

 先日も、「火TENの城」というのを見てきたが、途中で出てきてしまった。
ああいう(できすぎた映画)を見ていると、かえって不愉快になる。
何もかも、頭の中で先に予想ができてしまう。
「このつぎは、こうなるぞ」と。
そのとおりに、役者が演じ、ストーリーが運ぶ。
だからおもしろくない。

(この間、『沈まぬ太陽』を見た。長い映画だった。)

●『沈まぬ太陽』

 主演の渡辺腱(父親役)と、名前は知らないが、息子役の男優。
この2人の演技が、きわだって光った。
よかった。
あとの俳優は、率直に言って、見るに耐えないというか、「これが演技です」
というような演技。
つまらなかった。
たぶん、監督の演技指導のままに演技していたのだろう。
語り方はもちろん、視線のはずし方まで、みな、同じだった。

 映画を見れば、どこの航空会社がモデルになっているかは、一目瞭然。
「よく、あの会社が、こんな映画を許可したね」と、何度も、ワイフと言いあう。
最後の結末がさわやかだったからよかったが、もし醜いまま終わっていたら、
訴訟問題になっていたかも。
時期が時期だけに、あの会社にとっては、たいへんまずい。
現在、経営再建中。

 内容的には、シリアスな社会派映画を見た感じ。
私も若いとき、M物産という会社にいた。
そういう立場で言うと、「現場は、あんなものではない」というのが、私の感想。
もっと生々しく、毒々しい。

それに日本の映画は、どうしてこうまでお説教がましいのだろう?
お金を出して、劇場まで足を運ぶのだから、もう少しサービス精神を旺盛にしてほしい。
つまり私たちを、楽しませてほしい。
ときに安っぽい論理で、人生観を語られたりすると、その場でシラケてしまう。

 見終わったとき、ワイフに私も、こう言った。
「早く、M物産をやめて、よかった」と。
もしあのままあの会社で働いていたら、今ごろは、死んでいるか、身も心も、
ズタズタにされ、私は廃人になっていたはず。

 同時に、以前書いた原稿を思い出した。
『休息を求めて、疲れる』(イギリスの格言)という原稿である。
いくつか書いたので、そのまま掲載する。

+++++++++++++++++++++

●休息を求めて疲れる(ロマンを求めて)

 いまだに悪夢と言えば、修学旅行のときのものだ。集合時刻が近づく。私は大部屋で寝
ている。皆はすでにカバンを整理して外へ出ようとしている。私は自分の靴がどこにある
かもわからない。トイレはどこだ。まだ朝食も食べていない……。記憶にはないが、多分
私は子どものころ、旅行でそういう思いをしたのだろう。いや、それ以上に私たち団塊の
世代は、どんなことでも、乗り遅れるのを何よりも恐れていた。

 前年までのクラスは五クラス。しかし私たちの学年からは、一一クラス。しかも一クラ
ス、五五人平均。粗製濫造とはまさにこのことで、私はサッカーにしても、一チーム、二
五人で戦うものだとばかり思っていた。

 確かに私たちの世代は、いつもうしろから何かに押されていた。立ち止まっただけで、
言いようのない不安感に襲われた。はげしい競争。そしてまた競争。こうしてあの会社人
間、仕事人間は生まれたが、そうであってはいけないと思っていても、休暇で一週間も休
みが続いたりすると、それだけで申し訳ない気持ちになる。

私が見る悪夢は、その延長線上にあるにすぎない。「日本は資源のない国だ」「貿易で国を
支えるしかない」「欧米に追いつけ、追い越せ」「立派な社会人となれ」などなど。私たち
はこういう言葉を、毎日のように、それこそ耳が痛くなるほど聞かされた。結果、今のよ
うな日本がなったが、そこでまたふと立ち止まってみると、やはり言いようのない不安感
に襲われてしまう。

 そうそうイギリスの格言に、「休息を求めて疲れる」というのがある。「いつか楽になろ
う、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という
意味だが、イギリスでは、愚かな生きかたの代名詞にもなっている。オーストラリアの友
人も、何かのことで私があせっていると、「ヒロシ、気楽にせよ。休息を求めて疲れるな」
と、よく言ってくれた。しかし今になっても、その「休息」はどこにもない。なぜだろう
か。

 貯金といっても、底が知れている。退職金などもちろんないが、年金にしても、本当に
もらえるかどうかわからなくなってきた。息子たちにしても、私が世話をすることはあっ
ても、その反対は、まず期待できない。期待もしていない。私はこうして死ぬまで働くし
かない。

 話は変わるが私の友人の弟は、四二歳の若さで会社勤めをやめ、退職金をもってマレー
シアへ渡った。そしてそこで中古のヨットを買って、航海に出たという。「今ごろね、あい
つね、マレーシアで知り合ったフランス人女性と二人で、インド洋を航海しているはずで
す」と。その友人は笑って話してくれたが、私には夢のような話だ。いや、夢ではない。
私にだってできる。いつかはできる。それをしなければ、いつまでたっても、あの悪夢か
ら解放されることはない。

 今回は私たち団塊の世代の、挫折とロマンを聞いてもらいたくて筆をとった。この中に
一つの教育論を感じとっていただければ幸いである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、
結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはい
けません」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がいる。
同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入るため。
そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここで
いう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自
分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になってい
るから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。

「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽ら
ずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高
校生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置に
ある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あな
たの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未
来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」
の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。

子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子
ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」と
いうことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、その
つどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。
それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に
追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。
 
同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子ど
もに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」
と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。

ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違い
を感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないので
はないか……と、私は心配する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「休息を求めて疲れる」。

イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言でもある。
「いつか楽になろう、なろうと思っているうちに、歳をとってしまい、結局は何もできな
くなる」という意味である。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。

 ところでこんな人がいる。
もうすぐ定年退職なのだが、退職をしたらひとりで、四国八八か所を巡礼をしてみたい、
と。
そういう話を聞くと、私はすぐこう思う。「ならば、なぜ今、しないのか?」と。

私はこの世界に入ってからずっと、したいことはすぐしたし、したくないことはしなかっ
た。
名誉や地位、それに肩書きとは無縁の世界だったが、そんなものにどれほどの意味がある
というのか。
私たちは生きるために稼ぐ。稼ぐために働く。これが原点だ。

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