最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

(1)

2009-11-27 06:16:45 | 日記


だから○○部長の名前で稼いだ100万円も、幼稚園の講師で稼いだ100万円も、100
万円は100万円。
問題は、そのお金でどう生きるか、だ。
サラリーマンの人には悪いが、どうしてそうまで会社という組織に、義理立てをしなけれ
ばならないのか。

未来のためにいつも「今」を犠牲にする。
そういう生き方をしていると、いつまでたっても自分の時間をつかめない。
たとえばそれは子どもの世界を見ればわかる。
幼稚園は小学校の入学のため、小学校は中学校や高校への進学のため、またその先の大学
は就職のため……と。社会へ出てからも、そうだ。
子どものときからそういう生活のパターンになっているから、それを途中で変えることは
できない。
いつまでたっても「今」をつかめない。つかめないまま、人生を終わる。

 あえて言えば、私にもこんな経験がある。
学生時代、テスト週間になるとよくこう思った。「試験が終わったら、ひとりで映画を見に
行こう」と。
しかし実際そのテストが終わると、その気力も消えてしまった。
どこか抑圧された緊張感の中では、「あれをしたい、これをしたい」という願望が生まれる
ものだが、それから解放されたとたん、その願望も消える。

先の「四国八八か所を巡礼してみたい」と言った人には悪いが、退職後本当にそれをした
ら、その人はよほど意思の強い人とみてよい。
私の経験では、多分、その人は四国八八か所めぐりはしないと思う。退職したとたん、そ
の気力は消えうせる……?

 大切なことは、「今」をどう生きるか、だ。
「今」というときをいかに充実させるか、だ。明日という結果は明日になればやってくる。
そのためにも、「休息を求めて疲れる」ような生き方だけはしてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 沈まぬ太陽 映画「沈まぬ太陽」 休息を求めて疲
れる 休息を求めて、疲れる 今を生きる子育て論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□



●パソコン

パソコンの世界では、つぎつぎと新製品が発売になる。
そのたびに、機能は向上し、デザインもよくなる。
そのたびに、新しいのが欲しくなる。
 
こういうのをビョーキという。
ドーパミンの分泌がさかんになる。
線条体で条件反射が起きる。
自分でもそれがよくわかっている。
わかっているが、それがなくなったら、私もおしまい。
つまり「欲しい」と思ううちが、花。

たとえばこの2か月ほど、政治に関して、興味をなくしてしまった。
どうでもよくなってしまった。
とくに先の衆議院議員選挙以来、気が抜けてしまった。
が、これではいけない。

……というより、あちこちのサイトを見ていたら、私の原稿が、
いくつかの政治団体で、紹介されているのを知った。
羽田空港問題、成田空港問題について書いた原稿も、それぞれのサイトで、
紹介されているのを知った。
(ついでに旅行記も、紹介されていた。)

それがよい刺激になった。
久しぶりに、政治問題を考えたくなった。

で、最近の話題は、何と言っても、鳩山首相の「東アジア共同体構想」。
ASEANの各国を、日本のワクの中に取り込もうという構想である。
しかしこんな構想は、最初から、うまくいくはずがない。
失敗するに決まっている。

だいたい、「ASEANプラス3」って、何?
「3」というのは、「日本、中国、韓国」の3か国をいう。
3か国といっても、呉越同舟というか、水と油と砂が混ざっているようなもの。
中国を連れていったら、まとまる話もまとまらなくなる。
もともとASEANというのは、中国の脅威に対抗して始まったもの。
韓国だって、どんな下心をもっているか、わかったものではない。

……とまあ、政治問題について書くときは、かなりの(怒りのエネルギー)を
要する。
そのエネルギーがないと、書いていても、つづかない。
途中で、どうでもよくなってしまう。

しかしこのところ、気力が弱くなった。
(怒りのエネルギー)が、あまりわいてこない。
平和というか、平穏というか……。
たとえて言うなら、おいしいごちそうを、腹いっぱい食べたあとのような感じ。
そこで、あえて(怒りのエネルギー)を奮い立たせる。

カーッ!

あのね、鳩山首相。
アメリカを日本から離反させるのは、まずい。

なぜ、この時期に、脱・アメリカ追従外交なの?
一方、どうして今、日本は中国に擦り寄らなければならないの?
日本は、自由主義貿易陣営の一員ではなかったの?
いろいろと問題はあるが、だからといって今、社会主義体制を求めているわけではない。
それになぜ、鳩山首相は、こうも急ぐの?
こうした日本の命運を左右するような外交問題は、じっくりと基盤を固めてからする。
それが常識。
政権を奪ったとたん、「東アジア共同体構想」は、ない。

今、鳩山首相、あなたがすべきことは、官僚政治をつぶすこと。
やりたい放題のことをしている官僚たちに、ストップをかけること。
民主主義を、国民の手に戻すこと。
その本命を忘れて、大きなアドバルーンばかりあげて、どうするの?
こんな稚拙な外交を繰り返していると、自民党が喜ぶだけ。
ついでに中国や韓国が喜ぶだけ。
K国だって、喜ぶ。

怒る前に、何だか、日本の政治が心配になってきた。
もう少しすると、あのASO前首相が、「それ、見たことか!」と、声をあげ始めるかも。


●10月25日の終わりに……

いろいろ考える。

(どう生きるか?)vs(どう死ぬか?)。
この2つが、交互に私の心の中で闘う。
(まだがんばれる)vs(だいじょうぶだろうか?)。
この2つが、交互に私の心の中で闘う。
(年齢など気にしない)vs(あと10年かな?)。
この2つが、交互の私の心の中で闘う。

おとといの夜も、深夜劇場へ行く途中、足の不自由な人を見かけた。
年齢は私より少し若かった。
50代の半ばごろの人か。
背も高く、ほっそりとした人だった。
脳卒中?
懸命に一本杖で身を支えながら、ゆっくりと歩いていた。
私はその人をよけながら、エレベーターの中に身を隠した。

「明日はわが身?」。
明日はだいじょうぶでも、あさってはわからない。
あさってはだいじょうぶでも、そのつぎの日は、わからない。
1年の命を10年に延ばして、何になる?
10年の命を20年に延ばして、何になる?
明日は明日。
明日は、確実に、そこにやってくる。

たまたまその男の人は、そこにいる。
たまたま私は、ここにいる。
ちがいなど、どこにもない。
ゆいいつのちがいは、私は私の目を通して、その男の人を見ていること。
その男の人は、その男の人の目を通して、私を見ていること。
私がその男の人で、その男の人が私であっても、何も不思議でない。
しかし……。

私は、その苦痛に耐えられるだろうか。
その男の人の目を通して、私を見る私に、耐えられるだろうか。
その自信は、まったくない。

今日の健康など、明日は、あてにならない。
明日はよくても、あさっては、あてにならない。
そう思いながら、ウォーキング・マシーンの上で、歯をくいしばる。
「あと、10分……、あと5分……」と。
私にあるのは、「たぶん、明日もだいじょうぶだろう」という小さな希望だけ。
その希望に、自分をつなげて、今日という1日を終える。

(少し、今夜は暗いかな……?)

みなさん、今日も、楽しい1日をありがとう!
今日は、朝、8時まで寝ていました。
午後に、山荘へ行き、昼寝。
帰りに、パソコンショップで、WINDOW7を見て、
それから書斎へ。
夕食まで、1時間ほど、YOUTUBEで音楽を聴きました。
明日もがんばります!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

【寿命論】

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●労働寿命

「平均寿命」という言葉がある。
「健康寿命」という言葉もある。
健康寿命というのは、健康でいられる年齢をいう。
ふつう(平均寿命)-10年が、健康寿命
と言われている。
だれしも、ポックリと死ぬわけではない。
晩年の10年は、病気との闘いということになる。

それに対して、「労働寿命」という言葉を
私は考えた。
仕事ができる年齢をいう。

これには個人差があるが、おおよそ(健康寿命)-
5年が、ひとつの目安になる。
これで計算すると、現在、男性の平均寿命は、
79歳、女性は86歳(厚生労働省)
だから……、

(健康寿命)…男性、69歳、女性、76歳
(労働寿命)…男性、64歳、女性、71歳
ということになる。

●記憶寿命

が、最近、私は、こんなことを考えるようになった。

人は死ねば、うまくいけば、墓石になれる。
最近は、墓石すらも作らない人が、ふえている。
が、問題は、そのあと。

先日も、車で郊外を走っていたら、小さな墓地を
見つけた。
田舎へ行けば行くほど、立派な墓地が目につく。
が、そこはちがった。
墓石も風化し、文字も読めないほどになっていた。
それを見たときのこと、ふと、こう思った。
「人は、いつまでみなの記憶に残ることができるか」と。

私たちは、死ねば、やがて忘れ去られる。
私の祖父母にしても、私たちの代の者が死ねば、
もうその名前を語られることすら、ないだろう。
父や母にしても、そうだ。

仏事の世界には、33回忌というのがある。
50回忌、100回忌というのも、ある。
しかしそこまでしてもらえる人は、例外中の例外。
ふつう、3回忌を最後に、死んだ人は、急速に
人々の記憶から消える。

そこで私が考えたのが、「記憶寿命」。

●消えていく私たち

たとえば私はこうして、文章にして日々の(思い)
を書いている。
書籍(本)にしても、寿命は、10年前後。
インターネットだったら、もっと短い(?)。
教育の世界で、昔、一世を風靡した人に、
「吉岡たすく」という人がいた。
10年ほど前に、亡くなった。
が、すでに今の若い母親たちは、その名前すら知らない。
ネットで検索してみたが、現在では、1万1000件。

今でも生きていたら、検索件数は、100万件を軽く
超えていただろう。
それくらい知名度の高い人だった。

が、やがて消えていく。
もちろん、私も、あなたも消えていく。
その寿命が、「記憶寿命」ということになる。

●寿命を延ばす

私たちは死んだあと、息子たちや孫たちも含めて、
何年ほど、彼らの記憶に残るだろうか。
残れることができるだろうか。
私自身の経験から言えば、50年を超えることは
まずない。
残ったとしても、ほんの一部の子孫にすぎない。
あとは痕跡もなく、消えていく。
ちょうど、私が見た、あの墓石のように。

で、自分がしていることを振り返る。
何か作品のようなものがあれば、記憶寿命は延びる
かもしれない。
作家や画家などは、そうして記憶寿命を延ばす
ことができる。
しかしそれにしても、あくまでも(結果)。
結果として残るだけ。

私にしても、「今を生きるために」、ものを書いている。
死んだ後のことは、ほとんど考えていない。
人々に支持されれば、記憶寿命は延びる。
支持されなければ、そのまま消える。

私のHPにしても、「金の切れ目が縁の切れ目」。
プロバイダーへの更新料を払わなければ、そのまま消える。
無料のHPサービス会社にしても、「~~か月、更新が
なければ、削除します」というのが、多い。
長くて、1年。
10年を超えることは、まず、ない。
今、こうして書いている文章にしても、私が死ねば、
1年足らずで消える。
(残さなければならないような文章でもないが……。)

だれかが引用してくれれば、その人のHPや、BLOG
で生き残ることはできるかもしれない。
しかしその人も、私と同じ運命をたどる。

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