最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育てジャンプ(7月4日)

2009-07-04 08:43:35 | 日記
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(301)

●会話でわかるママ診断

(過干渉ママの会話)私、子ども(年中児)に向かって、「きのうは、どこへ行ったの?」、母、会話をさえぎりながら、「きのうは、おじいちゃんの家に行ったわよね。そうでしょ」、再び私、子どもに向かって、「そう、楽しかった?」、母、再び会話をさえぎりながら、「楽しかったわね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

(親意識過剰ママの会話)母、子ども(四歳)に向かって、「楽チィワネエ~、ママとイッチョで、楽チィワネエ~」「おいチィー、おいチィー、このアイチュ、おいチィーネー」と。
(溺愛ママの会話)私、子ども(年長男児)に向かって、「あなたは大きくなったら、何になりたいのかな?」、母、子どもに向かって、「○○は、おとなになっても、ズ~と、ママのそばにいるわよねエ。どこへも行かないわよねエ~」と。

(過関心ママの会話)母、近所の女性に、「今度英会話教室の先生が、今まではイギリス人だったのですが、アイルランド人に変わったというではありませんか。ヘンなアクセントが身につくのではと、心配です」と。

(権威主義ママの会話)母、子どもに向かって、「親に向かって、何てこと、言うの! 私はあなたの親よ!」と。

(子ども不信ママの会話)子どもの話になると顔を曇らせて、「もう五歳になるのですがねエ~。こんなことでだいじょうぶですかネ~?」と。……などなど。

 会話を聞いていると、その親の子育て観が何となくわかるときがある。もっともここに書いたような会話をしたからといって、問題があるというわけではない。人はそれぞれだし、私はもともとこういうスパイ的な行為は好きではない。ただ職業柄、気になることはたしかだ。(だから電車などに乗っても、前に親子連れが座ったりすると、席をかわるようにしている。ホント!) 

 英語国では、親はいつも「あなたは私に何をしてほしいの?」とか、「あなたは何をしたいの?」とか、子どもに聞いている。こうした会話の違いは、日本を出てみるとよくわかる。どちらがどうということはないが、率直に言えば、日本人の子育て観は、きわめて発展途上国的である。教育はともかくも、こと子育てについては、原始的なままと言ってもよい。家庭教育の充実が叫ばれているが、そもそも家庭教育が何であるか、それすらよくわかっていないのでは……? 旧態依然の親子観が崩壊し、今、日本は、新しい家庭教育を求めて模索し始めている段階と言ってもよい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(302)

●家庭教育の過渡期

 家庭における教育力が低下したとは、よく言われる。しかし実際には低下などしていない。30年前とくらべても、親子のふれあいの密度は、むしろ濃くなっている。教育力が低下したのは、教育力そのものが低下したと考えるのではなく、価値観の変動により、家庭教育そのものが混乱しているためと考えるほうが正しい。

 昔は、親の権力は絶対で、子どもは問答無用式にそれに従った。つまり昔は、そういうのを「教育力」(?)と言った。しかし権威の崩壊とともに、親の権力も失墜した。と、同時に、家庭の中の教育力は低下し、その分、混乱した。しかし混乱した本当の原因は、実のところ親の権威の失墜でもない。混乱した本当の原因は、それにかわる新しい家庭教育観を組み立てられなかった日本人自身にある。家庭における教育力の低下は、あくまでもその症状のひとつにすぎない。

そこで教育力そのものの低下にどう対処するかだが、それには二つの考え方がある。ひとつは、だからこそ、旧来の家庭観を取り戻そうという考え方。「親の威厳は必要だ」「父親は権威だ」「父親にとって大切なのは、家庭における存在感だ」と説くのが、それ。もうひとつは、「新しい家庭観、新しい教育観をつくろう」という考え方。どちらが正しいとか正しくないとかいう前に、こうした混乱は、価値観の転換期によく見られる現象である。たとえば一九七〇年前後のアメリカ。

 戦後、アメリカは、戦勝国という立場で未曾有の経済発展を遂げた。まさにアメリカンドリームの時代だった。が、そのアメリカは、あのベトナム戦争で、手痛いつまずきを経験する。そのころアメリカにはヒッピーを中心とする、反戦運動が台頭し、これがアメリカ社会を混乱させた。旧世代と新世代の対立もそこから生まれた。その状態は、今の日本にたいへんよく似ている。

たとえば私たちが学生時代のころは、安保闘争に代表されるような「反権力」が、いつも大きなテーマであった。それが、尾崎豊や長渕剛らの時代になると、いつしか若者たちのエネルギーは、「反世代」へとすりかえられていった。この日本でも世代間の闘争がはげしくなった。わかりやすく言えば、若者たちは古い世代の価値観を一方的に否定したものの、新しい価値観をつくりだすことができなかった。まただれもそれを提示することができなかった。ここに「混乱」の最大の原因がある。

 今は、たしかに混乱しているが、新しい家庭教育を確立する前の、その過渡期にあるとみてよい。あのアメリカでは、こうした混乱は一巡し、いろいろな統計をみても、アメリカの親子は、日本よりはるかによい関係を築いている。ただひとつ注意したい点は、さきにも書いたように、こうした混乱を利用して、復古主義的な家庭教育観も一方で力をもち始めているということ。

中には封建時代の武士道や、さらには戦前の教育勅語までもちだす人がいる。しかし私たちがめざすべきは、混乱の先にある、新しい価値観の創設であって、決して復古主義的な価値観ではない。前に進んでこそ、道は開ける。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(303)

●数は生活力

 計算力は訓練で伸びる。訓練すればするほど、速くなる。同じように、「教科書的な算数」は、学習によってできるようになる。しかしこれらが本当に「力」なのかということになると、疑わしい。疑わしいことは、きわめてすぐれた子どもに出会うと、わかる。

 O君(小3)という子どもがいた。もちろん彼は方程式などというものは知らない。知らないが、中学で学ぶ一次方程式や連立方程式を使って解くような問題を、自分流のやり方で解いてしまった。たとえば「仕入れ値の30%ましの定価をつけたが、売れなかったので、定価の2割引で売った。が、それでも80円の利益があった。仕入れ値はいくらか」という問題など。それこそあっという間に解いてしまった。こういう子どもを「力」のある子どもという。

 が、一方、そうでない子どもも多い。同じ小学三年生についていうなら、「10個ずつミカンの入った箱が、3箱ある。これらのミカンを、6人で分けると、1人分は何個ですか」という問題でも、解けない子どもは、解けない。かなり説明すれば解けるようにはなるが、少し内容を変えると、もう解けなくなってしまう。

「力」がないというよりは、問題を切り刻んでいく思考力そのものが弱い。「そんな問題、どうでもいい」というような様子を見せて、考えることそのものから逃げてしまう。そんなわけで私は、いつしか、「数は生活力」と思うようになった。「減った、ふえた」「取った、取られた」「得をした、損をした」という、ごく日常的な体験があって、子どもははじめて「数の力」を伸ばすことができる、と。こうした体験がないまま、別のところでいくら計算力をみがいても、また教科書を学んでも、ムダとは言わないが、子どもの「力」にはほとんどならない。

 ……と書いたが、こんなことはいわば常識だが、こうした常識をねじ曲げた上で、現在の教育が成り立っているところに、日本の悲劇がある。教育が教育だけでひとり歩きしすぎている。子どもたちが望みもしないうちから、「ほら、1次方程式だ、2次法手式だ」とやりだすから、話がおかしくなる。もっといえば、基本的な生活力そのものがないまま、子どもに勉強を押しつける……。

ちなみに東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、こんな興味ある調査結果を公表している。小学6年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、2000年度に30%を超えた(1977年は13%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子どもは、年々低下し、2000年度には35%弱しかいないそうだ。原因はいろいろあるのだろうが、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。

むずかしい話はさておき、子どもの「算数の力」を考えたら、どこかで子どもの生活力を考えたらよい。それがやがて子どもを伸ばす、原動力になる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(304)

●風邪薬は予防薬にはならない

 風邪薬をいくらのんでも風邪の予防にはならない。同じように、テストをいくらしても、頭がよくなるということはない。(テストを受ける要領がうまくなり、見かけの点数があがることはある。)子どもの「力」は、生活の場で、実体験をともなってはじめて、伸びる。言いかえると、生活の場で、実体験のともなわない知識教育は、ほとんど意味がない。まったくないとは言わないが、しかし苦労の割には身につかない。あまりよいたとえではないかもしれないが、たとえば英語教育がある。

 私は高校生のとき、英語の教師から、「pass(過ぎる)とpurse(サイフ)は発音が違う。よく覚えておけ」と、教えられたことがある。教師の発音では、どこがどう違うかわからなかった。だからテスト勉強では、「passは、パース、purseもパース、発音が違う」などと覚えた。今から思うと、何ともイイカゲンな勉強法だが、当時はそれが当たり前だった。で、英語のテストの点はよかったが、私の話す英語など、まったく役にたたなかった。

 こうした「イイカゲン性」は、ほとんどあらゆる勉強に見られる。そのサエたるものが、受験勉強。先日も中学生(中3男子)が、「長野の高原野菜、浜名湖のウナギ、富山のチューリップ……」と声を出して覚えていた。そこで私が「高原野菜って、何?」と聞くと、「知らない」と。ついでに私が、「今では浜名湖のウナギはいないぞ。ぜんぶ養殖だし、それにほとんどが中国から輸入されている」「富山のチューリップより、袋井市にある『ユリの園』のユリのほうが、よっぽどきれいだ」と言うと、その中学生は吐き捨てるようにこう言った。「いちいちうるさいナ~。いいの、これで!」と。

 ともすれば私たちは子どもに勉強を教えながら、その風邪薬のようなことをしてしまう。またそれをもって教育と思いこんでしまう。しかししょせん、風邪薬は風邪薬。たくさんのんだからといって、風邪の予防にはならない。もちろん健康にもならない。あなたの子どもの勉強も、一度同じような視点から見つめなおしてみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(305)

●受験の神様?

 日本のどこかに「受験の神様」というのが祭ってあるという。その季節になると、多くの親や受験生が、その神社を訪れるらしい。しかし……。

 だいたいにおいて、信者に個人的な利益をもたらす神や仏がいるとしたら、インチキと考えてよい。いわんやそれで信者を金持ちにしたり、受験に合格させたりしたら、ますますインチキと考えてよい。

 実のところ私も若いころは結構、信仰深い(?)ところがあった。しかしあるとき、『原爆の少女・サダコ』を読んだときから、自分のために祈ることをやめた。「私より何千倍も真剣に祈った人がいる。私より何千倍も神や仏の力を必要とした人がいる」と、そんなふうに考えたら、もう祈れなくなってしまった。「私の願いをかなえてくれるくらいなら、私はいいから、サダコのような女性の願いをかなえてやってほしい」とも。

 私は「信仰」を否定するものではない。ないが、信仰するとしたら、それは他人のためにするものだと思っている。自分のためではない。あくまでも他人のためだ。言いかえると、自分のために信仰している間は、それは本当の信仰ではない。それがわからなければ、神や仏の立場になってみればよい。

……いや、実のところ、教育というのは、宗教と紙一重のところがある。私は神や仏は、もともとは教師ではなかったかと思うときがよくあるが、たとえばあなたのところへ一人の受験生がやってきて、「先生、どうか○○大学に合格させてください」と言ったとしたら、あなたは何と答えるだろうか。あるいは「先生、毎晩、あなたの家に向かって、真剣に祈っていますから、どうか願いをかなえてください」と言ったとしたら、あなたは何と答えるだろうか。きっとあなたはこう言うにちがいない。「バカなことはやめなさい。自分のことは自分でしなさい」と。

もしあなたがその神や仏で、そんなことで受験生の願いをかなえてやったとしたら、その受験生は、かえってダメになってしまうかもしれない。人間的に堕落してしまうかもしれない。しかしもしあなたのところへ一人の受験生がやってきて、「ぼくはいいから、不幸な○○さんをどうか合格させてやってください」と祈ったとしたら、あなたは少しは心を動かされるかもしれない。

 そこで「他人のために祈る」ということになる。が、結局のところ、だれのために祈ったらよいのか、私にはわからない。わからないから、祈りようがない。つまり私は祈らない。たとえ私に生死をさまような大病がふりかかったとしても、私は祈らない。もしそれで私の病気を神や仏がなおしてくれたとしたら、私は反対にその神や仏をうらむ。「そんな力があるなら、どうしてサダコを救ってやらなかったのだ!」と。

 要するに「受験の神様」など、インチキだということ。あんなのに祈っても、気休めにもならない。「信仰」という名前すら、泣く。こうしてエッセイにするのもバカらしいが、一度は書いておかねばならない問題なので、こうして書くことにした。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(306)

●善人と悪人

 人間もどん底に叩き落とされると、そこで二種類に分かれる。善人と悪人だ。そういう意味で善人も悪人も紙一重。大きく違うようで、それほど違わない。私のばあいも、幼稚園で講師になったとき、すべてをなくした。母にさえ、「あんたは道を誤ったア~」と泣きつかれるしまつ。

私は毎晩、自分のアパートへ帰るとき、「浩司、死んではダメだ」と自分に言ってきかせねばならなかった。ただ私のばあいは、そのときから、自分でもおかしいと思うほど、クソまじめな生き方をするようになった。酒もタバコもやめた。女遊びもやめた。

 もし運命というものがあるなら、私はあると思う。しかしその運命は、いかに自分と正直に立ち向かうかで決まる。さらに最後の最後で、その運命と立ち向かうのは、運命ではない。自分自身だ。それを決めるのは自分の意思だ。だから今、そういった自分を振り返ってみると、自分にはたしかに運命はあった。しかしその運命というのは、あらかじめ決められたものではなく、そのつど運命は、私自身で決めてきた。自分で決めながら、自分の運命をつくってきた。が、しかし本当にそう言いきってよいものか。

 もしあのとき、私がもうひとつ別の、つまり悪人の道を歩んでいたとしたら……。今もその運命の中に自分はいることになる。多分私のことだから、かなりの悪人になっていたことだろう。自分ではコントロールできないもっと大きな流れの中で、今ごろの私は悪事に悪事を重ねているに違いない。が、そのときですら、やはり今と同じことを言うかもしれない。「そのつど私は私の運命を、自分で決めてきた」と。……となると、またわからなくなる。果たして今の私は、本当に私なのか、と。

 今も、世間をにぎわすような偉人もいれば、悪人もいる。しかしそういう人とて、自分で偉人になったとか、悪人になったとかいうことではなく、もっと別の大きな力に動かされるまま、偉人は偉人になり、悪人は悪人になったのではないか。

たとえば私は今、こうして懸命に考え、懸命にものを書いている。しかしそれとて考えてみれば、結局は自分の中にあるもうひとつの運命と戦うためではないのか。ふと油断すれば、そのままスーッと、悪人の道に入ってしまいそうな、そんな自分がそこにいる。つまりそういう運命に吸い込まれていくのがいやだからこそ、こうしてものを書きながら、自分と戦う。……戦っている。

 私はときどき、善人も悪人もわからなくなる。どこかどう違うのかさえわからなくなる。みな、ちょっとした運命のいたずらで、善人は善人になり、悪人は悪人になる。今、善人ぶっているあなただって、悪人でないとは言い切れないし、また明日になると、あなたもその悪人になっているかもしれない。そういうのを運命というのなら、たしかに運命というのはある。何ともわかりにくい話をしたが、「?」と思う人は、どうかこのエッセイは無視してほしい。このつづきは、別のところで考えてみることにする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(307)

●教育と医学

 たとえば一人の子どもがいる。彼は「○○症」と言われる子どもである。そういうとき、つまりその子どもを見る目は、教育と医学ではまったく違う。まず第一に、教育では子どもを診断し、ついで診断名をくだすことはしない。またしてはならない。だから「そうではないか?」と思いつつも、あるいは知っていても知らぬフリをして教育を進める。一方、医学では、まず診断名を確立し、その上で、「治療」を開始する。

 また指導という段階でも、教育と医学とではまったく違うとらえ方をする。たとえばその子どもが何かと問題を起こして、クラスを混乱させたとしても、教育ではいつも「全体の問題」として、それを考える。クラスが混乱したら、「混乱したクラス」を問題にする。が、医学では当然のことながら、個人を対象に治療をすすめる。

 さらに教育では、いつも親や子どもに希望を与えることを大切にする。仮に「たいへんなおりにくい問題」とわかっていても、「何とかしましょう」と言って、指導を開始する。医学では「治す」ことを考えるが、教育では、「よりよくする」ことだけを考える。またそれでよしとする。

 こうした教育と医学の違いは、そのつど教師ならだれでも経験することである。が、それが原因で、教師自身が大きなジレンマに陥ることがある。たとえば「先天的な問題」をもった子どもがいる。しかしいくらそうでも、教師は、「先天的」という言葉を使わない。「先天的」という言葉を使うこと自体、教育の放棄、つまり敗北と考える。が、それを親のほうから指摘してくることがある。

「うちの子の問題は、先天的なもので、私の育て方の問題ではありません」と。親としては、精一杯、自分の育て方についての責任を回避する意味でそう言うのだろうが、しかしそう言われてしまうと、教師としてはつぎに打つ手がなくなってしまう

さらに知識だけはやたらと豊富で、「遺伝子レベルで、この問題は解明されつつあります」とあれこれ説明してくれるが、それで終わらない。つづけてこう言う。「親に責任があるという世間に偏見の中で苦しんでいる親も多いはず」と。だれも親の責任など追及していないのだが、そう言う。

 教育と医学は、基本的な部分で違う。しかしそれを混同すると、教育そのものが成り立たなくなる。教育と医学は、いつも分けて考えなければならない。
 

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