最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育てジャンプ(3)

2009-07-15 09:24:28 | 日記
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(413)

●子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそんな年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子の腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息子が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネクタイをしめてやったとき。そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのことだ。

二男が毎晩、ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教えてくれた。「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体力がないため、落とされそうだから」と。その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。いや、それ以後は二男を、子どもというよりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わってみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いやられる。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾けてやればよかった」と、悔やむこともある。

そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。そしていつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときのこと。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからなかった。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。うしろから女房が、「Sよ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、「臭い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男は、そういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。そのときはわからなかった。

その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは! 子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいなあ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。

レストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子たちも、ああだったなあ」と。問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれが皆、何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、その時代が人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労しているなら、やがてくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(414)

●子どもの心が不安定になるとき

 子どもの心をキズつけるものに、恐怖、嫉妬、不安の三つがある。言いかえると、この三つは、家庭教育ではタブー。

 はげしい家庭騒動、夫婦げんか、叱責は、そのまま子どもにとっては恐怖体験となる。また子どもというのは、絶対的な安心感のある家庭環境で、心をはぐくむことができる。「絶対的」というのは、疑いをいだかないという意味。しかしその安心感がゆらぐと、子どもの心はゆがむ。すねる、いじける、ひねくれる、つっぱるなど。

その一つに赤ちゃんがえりと言われる、よく知られた現象がある。下の子どもが生まれたことなどにより、上の子どもが、赤ちゃんぽくなったりすることをいう。しかしたいていのケースでは、その程度ではすまない。すまないことは、たとえばあなたの夫に愛人ができた状態を想像してみればわかる。あなたは平静でいられるだろうか。もっともおとなのばあいは、理性の範囲で処理できるが、子どものばあいは、それが本能の領域まで影響を与える。赤ちゃんがえりがこじれると、精神状態そのものがおかしくなることがある。

 叱責も、ある一定の範囲、つまり親子のきずながしっかりしていて、その範囲でなされるなら問題はない。しかしその範囲を超えると、子どもの心に深刻な影響を与える。ある女の子(ニ歳児)は、母親に強く叱られたのが原因で、一人二役の、ひとり言を言うようになってしまった。母親は「気持ちが悪い」と言ったが、一度こういう症状を示すと、なおすのは容易ではない。ほかにやはり強く叱られたため、自閉傾向(意味もなく、ニヤニヤと笑うなど)を示すようになった男の子(年中児)もいた。

 とくに〇歳から少年少女期へ移行する満五歳前後までは、この三つについては、慎重でなければならない。心豊かで、おだやかな家庭環境を大切にする。とくにここにあげたような恐怖体験は、冒頭にタブーと書いたが、タブー中のタブーと心得る。

 さらに万が一キズつけてしまったら、つぎの二つに注意する。ひとつは、同じようなキズを繰り返しつけないこと。繰り返せば繰り返すほど、キズは深くなり、長く残る。もう一つはキズのことを気にしないこと。このタイプのキズは、遠ざかること(できるだけ忘れること)で、対処する。そのほうが立なおりを促す。親が気にすればするほど、やはりキズは深くなり、長く残る。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(415)

●子はかすがい?

 コの字型の大型のクギを、かすがいという。夫婦の間を、ちょうどそのかすがいのように子どもがつなぎとめるので、「子はかすがい」という。しかし本当にそうか? 中には、子どもがいるため、離婚したくても離婚できず、悶々と苦しんでいる夫婦がいる。

こういうケースでは、子はかすがいどころか、子は足かせということになる。つまり「子はかすがい」は、「夫婦は別れるものではない」が、前提になっている。しかし「夫婦だって別れることもある」が、前提になると、「子はかすがい」説は吹っ飛んでしまう。多少ニュアンスは違うが、日本には、「子は三界の首かせ」ということわざもある。「親というのは、子どもを思う心で、一生の自由を奪われるものだ」(事典)という意味だ。

 どちらにせよ、こうした言い方をすることにより、人はものの本質を見誤る。とくに人と人の関係は、安易なことわざや、格言で決めてかかってはいけない。日本人はどうしても、ものごとを「型」にはめて考える傾向が強い。そのほうが考えることを省略できるからだ。便利といえば便利だが、その便利さに溺れるあまり。自分を見失う。

たとえば年配の女性が、わかったようなフリをして、「子はかすがいだからねえ」と言ったりする。あなたもそう言われたことがあるだろう。しかし実のところ、その女性は何もわかっていない。何も考えていない。こうした例は、ほかにもある。

 「親なら子どもを愛しているはず」「子を思わない親はいない」「親子の縁など、切れるものではない」「子が親のめんどうをみるのは当たり前」などなど。こうした言い方は、それなりの家庭にいる人がよく使う。しかしみながみな、それなりの家庭にいるとはかぎらない。たとえば今、人知れず、わが子を愛することができず苦しんでいる母親は、七~一〇%はいる。

はっきりとした統計があるわけではないが、「子どもなんてうんざり」「わが子でも、もう顔もみたくない」と思っている親も、同じくらいはいる。さらに「子が親のめんどうをみるのは当たり前」という常識(?)に甘えて、それを暗に子どもに強制している親となると、いくらでもいる。あるいは子ども自身がその常識にがんじがらめになって、苦しんでいる人も多い。

 日本人は今、旧来の家庭観から急速に脱皮しようとしている。しかしそのとき、こうした旧来の常識(?)が、まさに足かせになることが多い。その一例として、ここでは「子はかすがい」ということわざを取りあげたが、新しい家庭観をもつということは、こうした旧来の家庭観がもつクサリを、ひとつひとつ、ほぐしていくことでもある。それをしないと、結局は、流れそのものが、そのつど、せき止められてしまう。

「子はかずがいではない」、また「かすがいであってはならない」。つまりそういうふうに子どもを利用するのは、子どもに対して、失礼というもの。あなたの子どもだって、それを望まないだろう。ものごとは、あくまでも本質をみて、考える。判断する。

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