最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育てジャンプ(2)

2009-07-15 09:22:59 | 日記
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(409)

●Nさんの相談より(5)

 アメリカでは、読書指導が、学校での教育のひとつの大きな「柱」になっている。どこの小学校を訪れても、図書室が学校の中心部、あるいは玄関のすぐ奥にある。図書室には、専門の司書(ライブラリアン)がいて、子どもたちは週に一度の、読書指導が義務づけられている。

私が「コンパルサリー(義務教育)ですか?」と聞くと、担当の先生は、「そうです」(アーカンソー州)と笑った。ふつうの教師は大学卒の学位をもった人でもできるが、司書は、大学院を出たマスターディグリー(修士号)をもった先生があたるとのこと。つまり「それだけ重要」というわけである。

 日本でも最近、読み聞かせや、読書指導に力を入れる学校がふえてきた。日本独自の姿勢というよりは、「外国の教育との、あまりの違い」の差をうめるために、そうなりつつあると考えるほうが正しい。

しかしよい傾向であることには、違いない。言うまでもなく、文字にはふたつの美しさがある。ひとつは、「形」としての美しさ。もうひとつは、「文」としての美しさ。しかし「形」としての美しさは、その道の書道家に任せればよいことであって、「文」としての美しさと比べれば、かぎりなくマイナーな部分である。現に今、私はこうして文章を書いているが、一〇〇%、パソコンを使って書いている。「形」と「文」は、まったく異質のものである。

ある程度は「形」も尊重しなければならない。しかしそれはあくまでも「ある程度」。文字が文字であり、言葉が言葉であるのは、「形」ではなく、「文」であるからにほかならない。
 で、問題は、いかにすれば、子どもを読書好きにさせることができるか、である。これについてはいくつかのコツがある。

(1) 子どもの方向性をみる……子どもの好きな分野の本を与えるということ。子どもがサッカーが好きなら、サッカーの本で、よい。よく「夏休みの推薦図書」などという名前にだまされて(失礼!)、どこか文学もどきの本を、「それがいい本」と錯覚して子どもに与える親がいる。しかし実際、自分で読んでみることだ。おもしろいか、おもしろくないかということになれば、あれほどおもしろくない本もない。

(2) レベルをさげる……子どもに与える本は、思い切って一、二年レベルをさげる。もともとレベルなどというものはないはずだが、おかしなことに、この日本にはある。「うちの子は読書が苦手」と感じたら、レベルをさげる。自分の子どもが小学三年生であったりすると、親は「小学四年」と書かれた本に手が届くが、そういうちょっとした無理が、子どもを本嫌いにする。

(3) 読書を楽しむ……ここが一番重要だが、読書の楽しさを子どもといっしょに味わう。しかし実際には、今、年中児(四歳)でも、「名前を書いてごらん」と指示すると、体をこわばらせる子どもが、二〇%はいる。泣き出す子どもすらいる。家庭での無理な指導が、明らかに子どもを文字嫌いにしていると考えられる。





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●Nさんの相談より(6)

 中学生になって国語嫌いが表面化すると、その影響は理科、社会、さらには英語という科目にまで影響する。漢字にしても、理科では、「細胞」を、「さいぼう」とひらがなで書いても、一応「丸(○)」ということになっているが、誤字で書かれていたりすると、その丸をつけることもできない。

さらに英語となると、「私は走る」と、「私は走っている」の意味の違いがわからないと、進行形を教えることすらできなくなってしまう。最近では「I  AM  RUNNING.」を「私、走っているのよ」と訳してもよいではないかという意見もある。

しかし感覚的でもよいから、「走る」(事実)と、「走っている」(進行中)の意味の違いがわかっていてそういう訳をつけるのと、意味の違いがわからないままそういう訳をつけるというのでは、中身はまったく違う。先へ進めば進むほど、子どもは混乱する。少なくとも、現在の受験英語では、混乱する。

 そこで私は一度こういう症状が子どもに見られたら、もう一度、読書指導をすることにしている。方法としては、毎週一冊、文庫本を読ませるという方法がある。その時期は早ければ早いほど、よい。たとえばこの静岡県では、高校入試が受験競争の関門になっているので、遅くとも中学一年前後にはそれを始める。二年、三年になれば、読書だけをしているというわけにはいかない。

しかも実際には、仮に子どもの同意があったとしても、そうはうまくはいかない。読書を好きにさせるということよりも、その前に、子どもの心をがんじがらめに取り巻いている「嫌い」のヒモを、一本ずつ解きほぐさねばならない。その作業が、これまたたいへんである。やり方をまちがえると、子どもをますます国語嫌いに追いやってしまう。

 が、一つ、望みがないわけではない。実のところ私の二男も三男も、私が「書き順など、どうでいい」という考え方をしていたこともあり、大の国語嫌いになってしまった。そのため国語のみならず、社会、理科、さらには英語でも苦しんだが、しかしそれも高校へ入ると、消えた。

(そういう意味では高校はおおらかなところで、三男などは、「口」という漢字にしても、左下から上方向へ、そこから右へと四角を書いていたが、だれもとがめなかった。今でもほとんどの文字を、我流で書いている。)それからは自由に、文を読んだり、書いたりするのを楽しむようになった。

そういう意味で、「国語嫌い」は一時的なものと考えてよい。それより大切なことは、こまかいことを、うるさく言い過ぎて、その土台まで崩してしまわないこと。「だれでも苦手なところはある」というような言い方でカバーしてあげることではないのか。たとえそれが、あらゆる科目に影響を与える国語力であっても、だ。そういうおおらかさがあると、子どもは自分で立ちなおることができる。

 何とも実務的な話になってしまったが、(私はこういう話はあまり好きではない)、大学受験を最終的な目標とするなら、そういうことになる。





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●最後の受験指導

 ある日ふと見ると、三男がさみしそうにパソコンをいじっていた。どこかうわの空という感じだった。そこで私が「大学なんてものはね、行ける大学へ行けばいいのだよ」と声をかけると、三男はしばらく黙ったあと、こう言った。「パパ、ぼくを、中学三年のときのように、しぼってよ」と。

 三男は市内でも一番という進学高校へは入ったものの、ほとんど勉強しなかった。部活に生徒会活動、そんなことばかりしていた。そのときも高校の文化祭の実行委員長をして、ちょうどそれが終わったときだった。部活も山岳部に属し、その部長を務めていた。

中学の終わりまでは私も三男の成績を知っていたが、高校へ入ってからは成績表すら見たことがなかった。女房の話では、「英語以外は、クラスでもビリよ」ということだった。三男が苦しんでいる姿が私にもよくわかった。三男がこれから高校三年生になるという三月のはじめのことだった。

 私は「わかった。しかし明日からではない。これからだよ」と言うと、三男は元気よくうなずいた。私は受験指導に関しては自信があった。恐らく私の右に出る教師はいないと思っている。英語にしても、数学にしても、予習なしで高校三年生を教えられる教師は、そんなにいない。が、私はできた。ポイントもコツも知り尽くしている。しかしそれをさかのぼる一〇年ほど前、大学の受験指導とは縁を切った。むなしい稼業だった。

 私はその夜、三男の勉強を四時間みた。つぎつぎとプリントをつくり、それを三男につぎつぎとさせるという指導法である。私が本気で指導するときは、いつもこの方法をつかう。しかし五〇歳を過ぎた私には決して楽な指導法ではない。一、二時間もこれをすると、ヘトヘトに疲れる。が、私は私よりも、三男の様子が気になった。黙々と従う姿を見ながら、私は私で懸命にプリントを作った。

が、予定の四時間が終わると、三男はそれまで見せたことがないすがすがしさを私に見せた。「明日も四時間するよ」と私が言うと、三男はうれしそうにうなずいた。





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●三男の受験勉強(2)

 それから一か月、私はかかさず毎晩四~五時間、三男の受験勉強をみた。土日は、七~八時間になることもあった。最初の数週間は英語だけ。それから少しずつ数学へと範囲を広げていった。「得意な科目からすればいい」と私は言った。

「まず英語をかたづけよう」と。で、英語は高校三年の教科書は、二週間程度で終わった。つづく数一、数二Bもつぎの数週間で終わった。山のようになったプリントを見ながら、三男はうれしそうだった。毎晩勉強が終わると、プリントの枚数を札束でも数えるかのように一枚一枚数えていた。

しかしさすがの私も体力の限界を感じ始めていた。三男は私が仕事から帰るのを待ちながら、それまで自分のベッドで眠った。そんなわけで三男の受験勉強を始めるのは、午後一〇時ごろということになった。そして朝方の二時、三時前後までつづく。三男はともかくも、私も頭を使うため、脳が覚醒してしまい、眠られない日がつづいた。三か月目に入ると、勉強時間はさらに五時間から六時間へとふえた。私も最後の気力をふりしぼって、三男と対峙した。「これが最後の受験指導だ」と。

 そのころになると高校での模擬試験にも、少しずつだが効果が見え始めた。志望校はY大の工学部建設学科。三男はいつしか宇宙工学をしたいと言っていた。しかしそれまでの模擬試験の結果はEランク。Aランクが合格圏、Bランクが合格可能圏。Cランクは努力圏。D、Eランクは番外で、「とても無理」という状態だった。

 が、三男は、私がギブアップしてからも、つまり私は四か月目に入るとき、「とてもつきあいきれない」と、三男から離れたあとも、ひとりで受験勉強をつづけた。それは私から見ても、ものすごいがんばり方だった。学校の帰りに、ひとりで予備校の自習室へしのび込み、そこで毎晩夜一一時まで勉強した。時間数にすれば、毎晩七時間ということになる。あとになって三男はこう言った。「毎晩、頭が熱くなりすぎて、気がヘンになりそうだった」と。

 で、夏休みが終わるころには、Cランクになり、Bランクに入るようになった。さらにセンター試験を受けるころにはAランクになった。その結果だが、三男は、Y大の工学部へ、センター試験の結果では、学部二位の成績で合格した。東大の工学部へも楽に入れる成績だった。しかしそれが私の最後の受験指導の終わりでもあった。

 三男が合格発表を受けたとき、私は女房にこう言った。「これでぼくは、父親としてやりのこしたことはない」と。うれしかったというより、親としての満足感のほうが強かった。

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