最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●マガジン(8-30)より、金権教(1)

2010-08-30 08:09:22 | 日記




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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      8月   30日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【金権教からの脱出】(Is Money Everything?)

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教育と営利行為は共存しうるか。
医療と営利行為は共存しうるか。
芸術と営利行為は共存しうるか。
宗教と営利行為は共存しうるか。

答は、どれも「NO!」のはず。
強欲さの追求と、「心」の追求は
両立しえない。
営利行為を捨て去ったところに、
教育、医療、宗教は存在する。
が、現代社会では、それが奇妙に
共存している。
つまり矛盾が矛盾とわからないまま、
共存している。

営利行為でなくてもよい。
名声、名誉、地位、肩書き……。
本来、共存しえないものが、共存
している。

まずそのおかしさに気づく。
それが私やあなたの「心」を守る、
第一歩!
「心の豊かさ」を守る、第一歩。

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●つぶれる心

受験競争を経験させると、子どもの心は確実につぶれる。
ものの考え方が、功利的、打算的になり、ドライになる。
心の余裕をなくす。
もっと平たく言えば、人間が本来もっている温もりをなくす。
割り切り方がすばやくなり、一度割り切ると、そのまま心は、氷のように冷たくなる。

理由は簡単。

 子どもは親の「心」を、そのまま受け継ぐ。
親自身が、受験競争というものはそういうものと、考えている。
その底流では、ドロドロとした醜い欲得が、渦を巻いている。
それがそのまま親の心となり、子どもの心となる。
つまり親が子どもの心をつぶす。
つぶしながら、つぶしているという意識さえない。
ほとんどの親は、「子どものため」と考えている。
一方、子どもは、やりたくもない受験競争を強いられる。
被害者意識をもつ。

 受験競争でうまくいく子どもは、全体の何割もいない。
大半は、その過程で傷つき、脱落していく。

●親の不安や心配につけこんだ、金儲け

だからいくら親ががんばっても、子どもは、感謝などしない。
ぜったいにしない。
仮に目的の(?)学校へ進学できたとしても、感謝などしない。
「お父さん、お母さんが励ましてくれたから、合格できた」などとは、ぜったいに
思わない。
親にもしないが、ついでに、進学塾にもしない。
進学塾の講師にもしない。
当然と言えば、当然。

 「教育」とは名ばかり。
親の不安や心配につけこんだ、金儲け。
それが進学塾の実態。
そんなことは、小学生にだってわかる。

●「二度としたくない」

ある進学塾の講師は、こう言った。
その道、35年のベテランである。
「私など、ただの一度も元生徒の結婚式に呼ばれたことはありません」と。
苦笑いしながら、「苦労に苦労を重ねた生徒ですら、去るときは、ハイ、サヨナラです」と。

また別の男性は、45歳くらいまで予備校の講師をしていた。
45歳のとき、ベンチャー企業を興し、その経営者になった。
その男性も、その直後、こう言っていた。
「予備校の講師など、二度としたくないね」と。
道に唾(つば)を吐きかけんばかりの言い方だった。

で、私の話になる。

●進学塾の講師

私も予備校や補習塾で、講師をした経験がある。
20代から30代のはじめにかけてのころのことである。
幼稚園での仕事が終わると、夜遅くまで、講師として働いた。

ひとつの予備校の経営者は、いつもこう言っていた。
「親を信じてはいけない」と。
つまり割り切って仕事をしろ、と。
それが口癖だった。

そのときはその意味が、よくわからなかった。
が、今は、よくわかる。
この世界、お人好しは、通用しない。
善意も通用しない。
ただいつも一方的に裏切られるだけ。
たとえばX補習塾で働いていたころ、こんなことがあった。

●A子さん(中2)の例

 その補習塾では、とくにがんばった子どもや、経済的な理由のある子どものばあい、
月謝を、程度に応じて免除していた。
(当時は、月謝という形で、毎月現金で受領していた。)

 A子さん(中2女子)も、そんな生徒の1人だった。
塾長のはからいで、その生徒の月謝は、4分の1になっていた。
そのA子さんが、ある日、どこかの進学塾の宿題をもってきた。
私が「それは何?」と聞くと、「Y塾の宿題!」と。

 私は驚いた。
A子さんの親には、とてもそんな余裕はないはず。
そこで少し遠回りな言い方で、話を聞いてみた。
A子さんは、こう言った。
「ここでの月謝が浮いた分で、Y塾にも通えるようになった」と。

●塾経営

 塾が自動販売機にたとえられる時代があった。
今は、ファースト・フード店にたとえられる。
大規模になり、チェーン化した。
送迎時のあいさつの仕方、三者面談の内容、仕方、
話の進め方など、すべてがマニュアル化されている。
「塾は掃除!」と説く塾長もいる。
「塾は清潔で明るくしろ」と。

 外観が美しい分だけ、中身は醜いということか。
それとも中身の醜さをごまかすため、外観を美しくするのか。
どうであれこんな世界で、思春期前夜、思春期を過ごす子どもたちこそ、あわれ。
悲劇。
プラス残酷!

受験競争を通して、人生の骨格を組みあげてしまう。
冒頭に書いたように心をつぶされながらも、それを意識することもない。 
たとえばこの時期、親の希望には際限がない。
よい例が不登校。

●際限のない親の希望

 子どもがやっとのことで、午前中だけ学校に通えるようになったとする。
しかもほんの1、2時間。
しかしそこまで子どもをもってくるのが、たいへん。
長い時間がかかる。
が、すぐ親は、こう言い出す。
「何とか給食だけでも・・・」と。
あるいは「午後の勉強も・・・」と。

 進学校にしてもそうだ。
何とかC中学に入れそうになると、親は、「せめてB中学に・・・」と言い出す。
そのB中学が射程圏に入ってくると、今度は「何とかA中学に・・・」となる。

 それに塾教師が振り回される。
が、ひとつだけ忘れてはいけない。
「子どもこそ、被害者」と。
それに振り回される子どもこそ、被害者。

 子どもの心は無視。
子どもの希望も無視。
親はそれを正しいことと信じて、子どもに押しつける。
「学歴信仰」というのは、立派なカルト。
学校神話に基づく、立派なカルト。
子どもは子どもで、それを客観的に判断する経験もない。
抵抗する力もない。
だまって親に従う。
従いながら、心をつぶす。

●心と近代化

 「人の心」と「近代化」は、反比例の関係にある。
それとも人の心が、そこまで金(マネー)に毒されてしまったと考えるべきなのか。
さらに言えば、経済は発展した。
経済学も発展した。
しかし経済と「人の心」の関係について、それを論じた人はいない。
(私は論じているぞ!)
いないばかりか、経済を論ずる人ですら、毒されてしまっている。
脳のCPU(中央演算装置)の問題。

・・・話が大きく脱線した。
しかしこうした変化は、子どもたちを成長段階を追いながら観察してみるとよくわかる。
小学校の低学年のときは、心のやさしかった子どもでも、受験競争を経験したとたん、
人が変わる。
夏休みの間の特訓教室のようなものに通っただけで、大きく変化する子どももいる。
親は「やっと自覚ができたようです」と喜ぶ。
しかしその一方で、もっと大切なものを子どもは失う。
親は、それに気づかない。
それもそのはず。
親自身も、子どものころ、その大切なものを失っている。

●日本のビジネスマン

もう少しわかりやすい例をあげよう。
こんなことがあった。

 オーストラリアで学生だったときのこと。
私はことあるごとに、日本へ帰ったら商社マンとして働くことを自慢していた。
それしか自慢するものがなかった。
が、ある日のこと。
仲がよくなり始めていたオーストラリア人の友人が、私にこう言った。
「ヒロシ、そんなこと、自慢するのをよせ」と。
理由を聞くと、「君は知らないかもしれないが、日本の商社マン(ビジネスマン)は、
オーストラリアでは軽蔑されている」と。

 はっきりと「despised(軽蔑されている)」という言葉を使った。
この言葉は、かなりきつい響きをもつ。
で、理由を聞くと、こう話してくれた。

●何でも「金(マネー)」

 ある日、日本の商社マンがその友人の家に招かれて、やってきたときのこと。
オーストラリアでは少し親しくなると、たがいに食事に招待しあうという習慣がある。
(欧米では、どこでもそうだが……。)
その食事が終わったとき。
商社マンはおもむろにカバンの中から、何かを取り出して、「これを買わないか?」と、
言い出した。
そのものは忘れたが、繊維製品か何かだった。
が、その友人の父親はそれには興味を示さなかった。
そこで「NO!」と答えると、商社マンは今度はべつのものを取り出したという。
今度はカメラか何かだった。
が、それが何であるかどうかは、この際、どうでもよい。
それを買わないかと、言い出したという。

 友人の父親はすっかり不愉快になった。
ひとつのものをいらないと言うと、別のものを出す。
それもいらないと言うと、さらに別のものを出す。
そういう日本の商社マンの態度が許せなかった。

 が、私はこの話を聞いたとき、「どうして?」と思ってしまった。
日本の商社マンとして、その商社マンは当然のことをしただけ。
日本からわざわざ50万円近い旅費をかけて、やってきた。
当時の水準からすると、大卒の初任給の10か月分の給料である。
「ごちそうさま」で帰るわけにはいかない。

 私がその商社マンだったら、同じことをしただろう。
だから「どうして?」と。
そのときは、ごく自然に、私はそう考えた。

●それから30年後

 それから30年あまり。
今度は私が逆の体験をすることになった。

 ある日のこと。
高校時代の友人から、突然、電話がかかってきた。
「ぜひ、一度、会いたい」と。
高校時代には、それほど親しくはなかった。
しかし私には高校時代の友人に、「友人」と呼べるような友人は、ほかにいない。
そのこともあって、ていねいにその友人を招いた。

 が、1夜、私の家に泊まった朝のこと。
居間にいるとその友人は、かばんから、10個くらいの瓶を取り出した。
サプリメント商品、つまり健康食品の入った瓶だった。
「これを買わないか?」「仲間に入らないか?」と。
話を聞くと、ネズミ講方式で利益がふえるという。
私はそれを聞いて、心底がっかりした。
がっかりして、「君は、最初からこれが目的で、ぼくに近づいてきたのか」と聞いた。
彼は強くそれを否定した。
しかし彼の意図は見え見えだった。

●無数の意識

 私はそのとき、オーストラリアの友人の父親の気持ちが、はじめて理解できた。
なぜあのとき、友人の父親は不愉快になったか。
それが理解できた。
つまりそれが「意識の差」ということになる。

 お金に毒されているときは、脳そのものが毒されているから、それに気づくことはない。
しかし一歩退いて、別の世界からそれをのぞいてみると、それに気づくことができる。

 これはほんの一例だが、こうした無数のこまかい「意識」が集合して、「毒される」
という状態になる。
が、何度も書くが、毒された人は、それに気づくことはない。
脳のCPU(中央演算装置)そのものが毒されている。

 よい例が、C国製品。

●目覚まし時計

 ところで私は最近、小型ビデオカメラ付きの目覚まし時計を買った。
あのC国製。
パソコン雑誌に紹介されていたので、信用して買った。
しかしこれがとんでもない粗悪品。

SDカードを挿入することになっているが、それがうまく入らない。
セットがむずかしい。
うまくいかない。
電源を入れなおすたびに、時刻が初期設定に戻ってしまう。
おまけに説明書の日本語が、めちゃめちゃ。

 が、外から見た「形」だけは、それらしくできている。
どこかの国でできた目覚まし時計のデザインを、そのまま使っている?
私はその目覚まし時計を見ながら、こう考えた。
「C国の人たちは、こんな製品を輸出して、自分たちに恥じないのだろうか」と。
もっとも国全体がそうなっているから、それに気づくことはない。
もちろん恥じることもない。
「無数のこまかい意識が集合されている」というのは、そういうことをいう。
 
●日本の俳優

 もうひとつ話が少し脱線する。

 私とワイフはよく映画を観に行く。
「東宝シネマ」という映画館で、洋画と邦画を、半々くらいの割合で上映している。
邦画はほとんど見ないが、予告編はよく見る。
その邦画。
ひとつの特徴がある。

 邦画に出てくる若い俳優たちが、どの人も、頭はキレるが、人間的な深みがない。
またそういう演技をするのが、「映画」とでも思っているかのようでもある。
自然ぽさがないのはしかたないとしても、日本の俳優たちがもつあの独特の(冷たさ)は、
いったい、どこから来るのか?

 もちろん『送り人』のような、すばらしい映画もある。
が、その『送り人』にしても、私はどこかにあの独特の(冷たさ)を感ずる。
田舎の人たちの温もりを描いているはずなのに、スクリーンのすぐ向こうに、受験生的な、
あの独特の(冷たさ)を感ずる。

 おそらく俳優自身はそれに気づいていないだろう。
ここでいう「受験生的」というのは、「他人をかき分けて競争に勝ち抜いた」という意味。そう解釈してもらってよい。


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