最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

(2)

2010-04-28 08:24:04 | 日記


●フェムト秒

 ある科学の研究者(田丸謙二先生のこと)から、こんなメールが届いた(02年9月)。
いわく……

「今週(今日ですと先週と言うのでしょうか)は葉山の山の上にある国際村センターで日独
のジョイントセミナーがありました。私の昔からの親しい友人(前にジャパンプライズを受
けたノーベル賞級の人)が来ると言うので、近くでもあるし、出させてもらいました。 今
は固体表面に吸着した分子一個一個を直接見ながら、それにエネルギーを加えて反応を起
こさせたり、フェムト秒単位(一秒を10で15回繰り返して割った短い時間)でその挙
動を追っかけたり、大変な技術が発達してきました」と。

 このメールによれば、(1)固体表面に吸着した分子を直接見ることができる。(2)フ
ェムト秒単位で、その分子の動きを観察できる、ということらしい。それにしても、驚い
た。

ただ、(1)の分子を見ることについては、もう二〇年前から技術的に可能という話は、そ
の研究者から聞いていたので、「へえ」という驚きでしかなかった。しかし「フェムト秒単
位の観察」というのには驚いた。

わかりやすく言うと、つまり計算上では、1フェムト秒というのは、10の15乗倍して、
やっと1秒になるという時間である。反対に言えば、1000兆分の1秒ということにな
る。さらにかみくだいて言えば、1000兆秒というのは、この地球上の3100万年分
に相当する。計算するだけでも、わけがわからなくなるが、1フェムト秒というのは、そ
ういう時間をいう。

こういう時間があるということ自体驚きである。もっともこれは理論上の時間で、人間が
観察できる時間ではない。しかしこういう話を聞くと、「では、時間とは何か」という問題
を、考えざるをえなくなってしまう。もし人間が、1フェムト秒を、1秒にして生きるこ
とができたら、そのたった1秒で、3100万年分の人生を生きることになる! ギョッ!

 昔、こんなSF小説を読んだことがある。だれの作品かは忘れたが、こういう内容だっ
た。

 ある惑星の知的生物は、珪素(けいそ)主体の生物だった。わかりやすく言えば、体中
がガチガチの岩石でできた生物である。だからその生物が、自分の指を少し動かすだけで
も、地球の人間の時間で、数千年から数万年もかかる。一歩歩くだけでも、数十万年から
数百万年もかかる。

しかし動きというのは相対的なもので、その珪素主体の生物にしてみれば、自分たちがゆ
っくりと動いている感覚はない。地球上の人間が動いているように、自分たちも、ごく自
然に動いていると思っている。

 ただ、もしその珪素主体の生物が、反対に人間の世界を望遠鏡か何かで観察したとして
も、あまりに動きが速すぎて、何も見えないだろうということ。彼らが一回咳払いする間
に、地球上の人間は、数万年の時を経て、発生、進化の過程を経て、すでに絶滅している
かもしれない!

 ……こう考えてくると、ますます「時間とは何か」わからなくなってくる。たとえば私
は今、カチカチカチと、時計の秒針に合わせて、声を出すことができる。私にとっては短
い時間だが、もしフェムト秒単位で生きている生物がいるとしたら、そのカチからカチま
での間に、3100万年を過ごしたことになる。となると、また問題。このカチからカチ
までを一秒と、だれが、いつ、どのようにして決めたか。

 アインシュタインの相対性理論から始まって、今では第11次元の世界まで存在するこ
とがわかっているという。(直線の世界が一次元、平面の世界が二次元、立体の世界が三次
元、そしてそれに時間が加わって、四次元。残念ながら、私にはここまでしか理解できな
い。)ここでいう時間という概念も、そうした次元論と結びついているのだろう。

たとえば空間にしても、宇宙の辺縁に向かえば向かうほど、相対的に時間が長くなれば、(反
対に、カチからカチまで、速くなる。)宇宙は、永遠に無限ということになる。たとえばロ
ケットに乗って、宇宙の果てに向かって進んだとする。

しかしその宇宙の果てに近づけば近づくほど、時間が長くなる。そうなると、そのロケッ
トに乗っている人の動きは、(たとえば地球から望遠鏡で見ていたとすると)、ますますめ
まぐるしくなる。地球の人間が、一回咳払いする間に、ロケットの中の人間は、数百回も
世代を繰り返す……、あるいは数千回も世代を繰り返す……、つまりいつまでたっても、
ロケットの中の人間は、地球から見れば、ほんのすぐそばまで来ていながら、宇宙の果て
にはたどりつけないということになる。

 こういう話を、まったくの素人の私が論じても意味はない。しかし私はその科学者から
メールを受け取って、しばらく考え込んでしまった。「時間とは何か」と。

私のような素人でもわかることは、時間といえども、絶対的な尺度はないということ。こ
れを人間にあてはめてみると、よくわかる。たとえばたった数秒を、ふつうの人が数年分
過ごすのと同じくらい、密度の濃い人生にすることができる人がいる。

反対に一〇年生きても、ただただ無益に過ごす人もいる。もう少しわかりやすく言うと、
不治の病で、「余命、残りあと一年」と宣告されたからといって、その一年を、ほかの人の
三〇年分、四〇年分に生きることも可能だということ。反対に、「平均寿命まで、あと三〇
年。あと三〇年は生きられる」と言われながらも、その三〇年を、ほかの人の数日分にし
か生きられない人もいるということ。どうも時間というのは、そういうものらしい。

いや、願わくば、私も1フェムト秒単位で生きて、1秒、1秒で、それぞれ3100万年
分の人生を送ることができたらと思う。もちろんそれは不可能だが、しかし1秒、1秒を
長くすることはできる。仮にもしこの1秒を、たったの2倍だけ長く生きることができた
としたら、私は自分の人生を、(平均寿命まであと30年と計算して)、あと60年、生き
ることができることになる。

 ……とまあ、何とも理屈っぽいエッセーになってしまったが、しかしこれだけは言える。
幼児が過ごす時間を観察してみると、幼児のもつ時間の単位と、40歳代、50歳代の人
がもつ時間の単位とはちがうということ。

当然のことながら、幼児のもつ時間帯のほうが長い。彼らが感ずる1秒は、私たちの感ず
る1秒の数倍以上はあるとみてよい。もっとわかりやすく言えば、私たちにとっては、た
った1日でも、幼児は、その1日で、私たちの数日分は生きているということ。あるいは
もっとかもしれない。

つまり幼児は、日常的にフェムト秒単位で生活している! これは幼児の世界をよりよく
理解するためには、とても大切なことだと思う。あくまでも参考までに。
(02-9-17)※


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●1秒は、1秒なのか?(One second for mice is equivalent to 100 seconds for men)

●クロック数(クロック周波数)について(2009年6月の原稿より)

++++++++++++++++++++

今日の夕刊(4月30日、中日新聞)に、
こんな興味ある記事が、載っていた。
『人とマウス、行動似てる』というタイトルの
ものだった。
『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。
大阪バイオサイエンス研究所(大阪府吹田市)と
東京大学の研究チームによる、研究結果である。
記事には、『生物の行動の背後に、種を超えた基本法則
が存在する可能性を示すもの』(同)ともあった。

+++++++++++++++++++++

●庭のスズメ

たとえば庭に遊ぶスズメたちを見てみよう。
小枝から小枝へと、小刻みなリズムで、飛び回っている。
少し前、私は、それを見ながら、こんなことを考えた。
「もし人間が、同じ行動をしようとしたら、
スズメの何倍の時間がかかるだろうか?」と。
スズメたちは、数秒単位で、枝から枝へと、
ピョンピョンと飛び回る。

で、同じような枝を、パイプが何かでつくり、
人間に同じ行動をさせたら、どうだろう?
オリンピックに出るような体操選手ですら、
その10倍の時間は、かかるかもしれない。
またつぎにこんなことを考えたこともある。
一匹の蚊を頭の中で、想像してみてほしい。

その蚊が、人間の足の高さから、頭の高さまで
あがるのに、何秒くらいかかるか、と。
正確に計測したことはないのでわからないが、
ブーンと飛べば、3~4秒もかからないのでは
ないか?

そこで蚊の体長を、5ミリとして計算すると、人間の
170センチの身長は、蚊の体長の340倍の高さという
ことになる。

そこで身長が1・7メートルの人間の高さに換算すると、
1・7メートルx340=578で、約580メートル
の高さということになる。

つまり蚊は、人間にしてみれば約580メートルの
山を、3~4秒で登ったり、おりたりすることが
できるということになる。
3~4秒である。
が、これで驚いてはいけない。

●ハエは、音速の3倍以上!

ときどき家の中を、体長1センチ前後の、大きな
ハエが飛び回ることがある。
私たちが「クソバエ」と呼んでいる、黒いハエである。
あのハエは、7~8メートル四方の部屋を、
ビュンビュンと飛び回る。

そのハエについても、正確に計測したことがないので
わからないが、やはりブ~ンと飛べば、7~8メートルの
部屋を横切るのに、1秒もかからないのではないか。
そこでこれらの数字をもとにして、ハエの速度を計算してみると、
秒速7メートルとして、同じように170倍すると、
秒速1190メートルということになる。
さらにこの数字を、60x60=3600倍すると、
時速になる。

その時速は、何と、4284万000メートル。
キロメートルになおすると、4284キロメートル。
つまりあのハエは、人間の大きさで考えると、
時速4000キロ以上のスピードで、部屋の中を飛び回って
いることになる!
時速4000キロだぞ!

この数字を疑う人は、一度、自分で計算してみるとよい。
つまり音速の約3倍!
こうして考えてみると、スズメにせよ、蚊にせよ、
はたまたあのハエにせよ、私たちとはちがった(時間)を
もっているのがわかる。

前にも書いたが、もしハエが今のまま進化し、
時計を作ったとしたら、秒針のほかに、1秒で1周する
もう一本の針を考えるかもしれない。
つまりスズメにせよ、蚊にせよ、はたまたハエにせよ、
私たち人間がいうところの「1秒」を、10秒とか、
100秒で生きていることになる。

●マウスは、人間の100倍!

・・・というようなことを、今回、大阪バイオサイエンス
研究所というところが、はからずも証明した?
もう一度、新聞記事を読みなおしてみよう。
そこには、こうある。

『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。

もう少し専門的に言えば、「体内のリズムをつくる
時計遺伝子の働きは、マウスのばあい、人間の
それより100倍も速い」ということになる。
だから単純に、「マウスは人間の100倍の
速さで生きている」というふうに考えることは
できないとしても、「少なくともマウスは、
人間とはちがった時間の尺度をもっている」ということだけは
確かである。

同じ1秒を、人間は、それを1秒として生きている。
が、マウスにしてみれば、100秒にして生きている
かもしれない。

だからたとえば、マウスの寿命を仮に1年としても、
それを「短い」と思ってはいけない。
マウス自身が感ずる1年は、ひょっとしたら人間の
100年分に相当するかもしれない。

●幼児の世界でも

実は、私は、このことは幼児を指導している
ときにも、よく感ずる。
私の教室では、常にテンポの速いレッスンに心がけて
いる。
そうでもしないと、子どものほうが、飽きてしまう。
レッスンに乗ってこない。

で、そういうとき、私はよくこう思う。
幼児のもつ体内時計は、おとなのもつ体内時計より、
数倍は速い、と。
わかりやすく言えば、幼児にとっての1分は、
おとなに3~4分に相当する。
おとなが3~4分ですることを、幼児は、1分でする、と
言いかえてもよい。

「アウ~、それでエ~、エ~ト・・・」などというような、
どこか間の抜けたようなレッスンをしていたら、
それだけで教室はザワついてしまう。
収拾がつかなくなってしまう。

反対に、老人ホームにいる老人たちを見てみると、
このことがさらによくわかる。
そこにいる老人たちは、1日中、何かをするでもなし、
しないでもなしといった状態で、その日、その日を
過ごしている。

そこにいる老人たちは、明らかに私たちとは、ちがった
体内時計をもっている。
ひょっとしたら、1日を、私たちがいう、1時間、
あるいはそれよりも短く感じながら生きている
かもしれない。

長い前置きになってしまったが、結論を急ぐと、こういう
ことになる。
私たちが感じている1秒、1分、1時間は、
けっして絶対的なものではないということ。
過ごし方によっては、1秒を1時間にして生きることもできる。
反対に、1日を、1分のようにして過ごしてしまう
かもしれない。

つまり(時の長さ)というのは、時計的にはみな、同じでも、
過ごし方によっては、何倍もにして生きることもできる。
反対に、数分の1にして生きることもあるということ。
もっと言えば(時の長さ)には、絶対的な尺度はないということ。
要は、その人の過ごし方、ということになる。
それにしても、『人の動きを100倍の速さで早回しすれば、
マウスと同じになることがわかった』とは!
100倍だぞ!

この「100倍」という数字を読んだとき、私は
改めて、(時間とは何か)、さらには、(生きるとは何か)、
それを考えさせられた。

余計なことかもしれないが、日々を、野球中継だけを見ながら過ごすのも
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
日々を、パチンコだけをしながら過ごすのも、
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
あるいは日々を、魚釣りだけをしながら過ごすのも、
これまた人生かもしれない。が、それではあまりにももったいない。
・・・というのが、このエッセーの結論ということになる。

コメントを投稿