最前線の子育て論byはやし浩司(2)

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●記憶の時効

2009-11-17 07:52:27 | 日記
最前線の子育て論byはやし浩司(091116)

【記憶の時効】

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記憶にも時効がある。
と言っても、忘れるまでの時間をいうのではない。
私が言う「記憶の時効」というのは、何かの経験をして、
それを自己開示できるまでの時間をいう。

たとえばあなたにも、いろいろな過去がある。
その過去の中でも、(人に話せる話)と、(人には話したくない話)がある。
そのうちの(人に話したくない話)を、人に話せるようになるまでには、
ある程度の時間が必要である。
(もちろん相手にもよるが……。)
その(ある程度の時間)のことを、「記憶の時効」(はやし浩司)という。

……これだけではよくわからないという人も、いるかもしれない。
もう少し具体的に説明するから、どうか短気を起こさないでほしい。

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●私の過去

 私は若いころ、こう考えていた。
「実家の恥になるような話や、親の悪口などといったものは、人に言うべきものではない。
ましてや文にして書くべきものではない」と。
ワイフにすら、そう思っていた。
だから結婚してからも、私は実家の話や、親の話は、ほとんどしなかった。
話せば、どうしても悪口になってしまう。

 その私が実家の話や、親の悪口(?)を書くようになったのは、私が45歳を
過ぎてからのことではなかったか。
それまでは、それを口にすることさえなかった。
とくに他人に対しては、そうだった。
が、45歳も過ぎるころから、心境に変化が生じ始めた。

 たとえば私は父を恨んでいた。
私が子どものころは、数日おきに酒を飲み、家の中で暴れた。
私の父親というのは、そういう父だった。

 が、45歳を過ぎるころから、父が感じていたであろう、孤独感や苦しみが
理解できるようになった。
それが少しずつ私の心を、溶かし始めた。
そして同じように少しずつだが、私は父について書くようになった。
といっても、それにはかなりの勇気が必要だった。
崖から下へ飛び込むような勇気だった。
昔の人は、「清水の舞台から飛びおりる」と言った。

 けっして大げさなことを書いているのではない。
ほとんどの人は、自分のことですら、匿名で書いている。
ひょっとしたら、この文を読んでいるあなただって、そうかもしれない。
BLOGにせよ、HPにせよ、実名を名乗って書いている人は、少ない。
いわんや、(家の恥)、(家族の恥)となるような話となると、大きな抵抗感を
覚える。

 が、書き始めると、意外と楽に書けることを知った。
心の中にあるモヤモヤが、少しずつ晴れていくように感じた。
それからは、自由に、私は、実家や家族のことを書くようになった。

 つまり、これが私の言う、「記憶の時効」である。

●崖から飛び降りる

 (話したくない話)でも、ある程度時間がたつと、(話してもいい話)になる。
それまでは、(話したくない話)は、ずっと心の中にとどまったまま。
が、ある程度時間がたつと、(話したくない)という気持ちが薄れてくる。
つまり(話したくない話)が、(話してもいい話)に変化するまでに時間が、
「記憶の時効」ということになる。

 「この話は、もう時効になったから、他人に話してもいい」と。

 そこでこんな実験をしてみる。

 実は、この話は、まだ時効になっていない。
ごく最近というか、まだ1年ほどしか、たっていない。
それにこの話は、私にとっては、たいへん恥ずかしい。
が、思い切って、ここに書いてみる。
「崖」とは言わないが、二階屋根から飛び降りるような心境である。

●腸内ガス

 センナという薬草がある。
便秘薬として、使われている。
私は便秘症ではないが、腸がはれぼったいと、気になってしかたない。
そこでときどき、強制的に、腸内を空にする。
そのとき、センナという薬草を、煎じてのむ。

 そのセンナをのむと、半日もすると、独特のにおいの腸内ガスが出る。
どう独特かというと、つまり独特。
それに強烈。
センナをのんだことがある人なら、みな、知っている。
しかも腸内ガスが、排便が近づくと、ブーッ、ブーッと気持ちよく出る。

 で、ある日のこと。
生徒たちが来るのを待って、私はコタツの中に座っていた。
寒い冬の日だった。
私はコタツの中で、それをしてしまった。
「まだ時間がある」と思っていた。
が、そこへ親たちが、子どもを連れてやってきた。
ドヤドヤと、階下から階段をのぼってくる足音が聞こえてきた。

「しまった!」と思ったが、遅かった。

 そこであたりをみると、香水の入った瓶と殺虫剤が目に入った。
私はこたつのふとんの中めがけて、香水を吹きかけた。
同時に、殺虫剤をまいた。

 数分もたたないうちに、子どもたちが入ってきた。
親たちも入ってきた。
親といっても、若くて美しい母親たちである。
その母親たちがいつものように、まっすぐ、コタツのほうに向かっていった。

 あああ……。

 私はそ知らぬ顔をして、教室の反対側に立った。
そのときのこと。
母親たちが、(正確には3人いたが)、たがいに「何のにおい?」「何かしら?」と、
話している声が聞こえた。
ひとりはこたつのふとんの中に、クンクンと、顔までつっこんでいた。
私は生きた心地がしなかった。

●恥ずかしい話

 この話は、実は、ワイフにすらしていない。
まだ「記憶の時効」になっていない。
こうして書くこと自体、本当のところ、時期尚早。
あと数年は、隠しておきたかった。

 というのも、現在の今も、その母親と子どもは、私の教室に通っている。
もしこのエッセーを読んだら、……それを想像することすら、恐ろしい!
つまりこれが「記憶の時効」ということになる。

 人は、自己開示をすることによって、自分を見つめなおすことができる。
そういう点では、(さらけ出し)は、悪くない。
フロイトが説いた、「肛門期」というのが、それ。
何かの秘密(?)をもつと、それを外へ吐き出したくなる。
そういう衝動にかられることは多い。
しかしそれには、「記憶の時効」が働く。

 たとえば私は、自分たちの性生活については、ほとんど書いたことがない。
私がそれについて書けば、「老人の性」というタイトルがつくだろう。
若い人たちも、それについて興味をもっているかもしれない。
私と同じ世代の人たちも、興味をもっているかもしれない。
しかし私は、書けない。
書かない。

 恥ずかしいというより、(確かに恥ずかしいが……)、息子たちの前で、
それについて語るのは、昔からタブーにしてきた。
それにそれは私が専門とする分野ではない。
言い換えると、まだ「記憶の時効」になっていない。
今、それについて書くとなったら、私は、それこそ「清水の舞台から……」となる。

●私というより、1人の人間

 (書きたい)と思っていることと、(書いてもいい)と思っていることの間には、
距離がある。
時間的距離である。

 が、その時間的距離は、時間がたてばたつほど、短くなっていく。
それには、理由がある。

 「私」という人間は、私であって私でない。
「私といっても、広く、人間の1人である」と思うようになる。
そういう「私」が、加齢とともに、よくわかってくるようになる。
あるいは「私の経験していることは、だれでも経験していること」と思うようになる。

 たとえば私が、性的な夢想にふけったとしよう。
若い女性と、性的行為を楽しむような夢想でよい。
しかしそうした夢想というのは、だれしも経験するものである。
またそれは私であって私でない部分が、勝手に私にそうさせるもの。
平たく言えば、本能。
その本能に応じて、ホルモンが分泌され、それに応じて脳が勝手に反応する。
これには、教師も、聖職者も、僧侶もない。
校長だって、副校長だって、同じ。
そういうことが、自分でもわかってくる。

 となると、私が性的な夢想をするのは、ごく自然な行為ということになる。
恥ずかしく思わなければならないようなことではない。
隠さなければならないようなことでもない。

 だったら、それをすなおに書けばよい。
私のこととしてではなく、人間のこととして書けばよい。
……ということがわかってくるようになる。
それがわかってくれば、それについて書くことについては、時効が成立した
ということになる。

●自己開示

 話はそれるが、自己開示についても一言、触れておきたい。

 もともと自己開示というのは、相手との親密性を知るバロメータとして
利用される。
浅い身の上話から、深い身の上話まで、いろいろある。
深い身の上話までできるということは、あなたはその人と、親密度が高いという
ことになる。

 結婚当初、私はワイフにすら、実家の話や、親の悪口などは話さなかった。
つまり自己開示できなかった。
わかりやすく言えば、私はワイフにすら、心を閉じていた。

 が、やがて、私はワイフに実家のことや、親のことを話すようになった。
私の心には、無数の傷がついていた。
それについては前にも書いたので、ここでは省略するが、それを話すようになったのも、
結婚してから数年後のことである。

●傷(トラウマ)

 私は若いころから、そして今に至るまで、実家の問題がからんでくると、精神状態
がたいへん不安定になる。
心が緊張し、ささいなことで、カッとキレやすくなる。
おまけにいじけやすく、ひねくれたものの考え方をするようになる。
子どもじみた行動に出ることもある。
家を出て、そのあたりを徘徊したりする。

 が、ありのままをワイフの語ることによって、そうした症状は、かなり軽くなった。
つまり自己開示するということには、そういう意味も含まれる。

●暴露

 こうした記憶の時効は、そのつど、いつも感ずる。
(この話は書くべきでない)と思うことは、しばしばある。
あるいは迷う。
「まだ時効になっていないぞ」と。
しかしそのとき、別の心が働く。
「今しか、書くときがないぞ」と。
そして同時に、こうも思う。
「お前は、お前であって、お前ではない部分がある。
どうしてそれを書くのに、ためらうのか」と。

 さらに言えば、自己開示をすればするほど、その先に、自分の姿が、より
鮮明に見えてくることがある。
が、抵抗がないわけではない。

 先日も1人、こう言った人がいた。
「自分のことをそこまで暴露して、抵抗はありませんか?」と。
私の立場で言うなら、「そこまで暴露して、何になるのか?」ということになる。
中には興味本位で読んでいる人もいるだろう。
また私の内情を探るために読んでいる人もいるだろう。
それにみながみな、私に対して、好意的とはかぎらない。
私の文章を読みながら、「このヤロー!」と怒っている人もいるはず。

 私が書いたことで、実際、「どうして私のことを書いたか!」と抗議してきた人も
いる。
(それはその人のまったくの誤解だったが……。)
怒ってくる人はまだよいほう。
そのまま私から黙って去っていく人もいる。

 どんどんと自己開示してくと、どうしてもそこに私の近親者たちが登場する。
いろいろな技法を用いるが、読む人によっては、その人のこととわかってしまう。
それが壁となって、私の前に立ちはだかる。

 が、自己開示を重ねるたびに、私はその(上)に出るような気分も、これまた
否定しがたい。
それはちょうど山登りに似ている。
下から見ると低いと思われるような山でも、登ってみると、意外と視野が広い。
遠くまで見える。

 その歓びが、私をして、またつぎの自己開示へと結びつけていく。

●記憶の時効

 刑法の世界には、時効というのがある。
正式には、公訴時効という。
刑期の長さによって、時効の期間が異なる。
死刑にあたるような罪では、25年。
無期懲役または禁錮にあたるような罪では、15年。
軽い、拘留または科料にあたるような罪では、1年などなど。

 記憶にも、同じような時効がある。
(人に話したくない話)でも、そのときが来れば、自然と話せるようになる。
そしてその時効は、加齢とともに、ますます短くなっていく。
今の私がそうだ。
本来の時効など待っていたら、それこそその前に、私の人生が終わってしまう。
私は私。
私はありのままの「私」を書く。
理由は、簡単。
私は私であって、私ではない。
1人の人間。
「私」のことをありのままさらけ出すということは、「人間」をさらけ出すこと。

そういう私をまちがっているというのなら、それを言う人のほうが、まちがっている。
仮にまちがっているとしても、それは「私」ではない。
「人間」がまちがっているということになる。

 それともあなたは、思わぬところで腸内ガスを出し、あたふたしたという経験が
ないとでも言うのだろうか。

 ……ということで、「記憶の時効」について書いてみた。
とくに私のように、どこか心の開けないような人は、思い切って何でも人に
話してみるとよい。
書いてみるとよい。
それによって心をがんじがらめにしているクサリを解き放つことができる。
そういう効果もある。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 自己開示 記憶の時効)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

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