最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●損得論(1)

2009-09-12 11:16:28 | 日記
【損得論】

●損と得

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60歳をすぎて、「損と得」についての考え方が、大きく変わってきた。
「損とは何か」「得とは何か」と。
それをしみじみと(?)、心の中で思いやりながら、
「老人になるというのは、こういうことなのか」と思う。
「老人」といっても、使い古された、老いぼれた人のことではない。
少し照れくさいが、「円熟した人」をいう。

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●何が損か

 この世の中で、「損かどうか」を考えること自体、バカげている。
どんなにあがいても、「死」というもので、私たちは、すべてを失う。
この宇宙もろとも、すべてを失う。
「死」を考えたら、それほどまでの「大きな損」はない。
たとえばあなたが地球上の、ありとあらゆる土地を自分のものにしたとする。
北極から南極まで。
一坪残らず、だ。
が、死んだとたん、すべてを失う。
つまり「死」にまさる(?)、損はない。

 これには、自分の死も、相手の死もない。
そのため「死」をそこに感ずるようになると、日常的に
経験する損など、何でもない。
損とは感じなくなる。

●「金で命は買えん」

 たとえば私の友人の中には、数か月で、数億円も稼いだ人がいた。
その友人は、数年前、死んだ。
莫大な財産を残したが、死んだとたん、「彼の人生は何だったのか?」
となってしまった。

私の母ですら、死ぬ直前、こう言っていた。
「金(=マネー)で命は、買えん」と。
あれほどまで、お金に執着していた母ですら、そう言った。

●得

 一方、「得」と思うことも多くなった。
昨日も、秋の空を見たときも、そう思った。
澄んだ水色の空で、白い筋雲が、幾重にも重なって流れていた。
それを見て、「ああ、生きていてよかった」と思った。

 ただ「損」とちがって、「得」という感覚は、実感しにくい。
大きな青い空を見たからといって、大きく得をしたとは思わない。
反対に、小さな花を見たからといって、大きな青い空を見たときに感ずるそれに、
劣るということはない。

 もちろん私も、金権教にかなり毒されている面もあるから、お金は嫌いではない。
たいていのばあい、金銭的な価値に置き換えて、ものの損得を考える。
たとえば予定外の収入があったりすると、「得した」と思う。
しかし同時に、そこにある種の虚しさを覚えるようになったのも事実。
「だから、それがどうしたの?」と。

●長生き

 では、長生きはどうか?
長生きをすればするほど、得なのか、と。
が、これについても、最近は、こう考える。
「それが無駄な生き方なら、長生きしても、意味はない」と。

 「生きることが無駄」と言っているのではない。
「どうせ生きるなら、最後の最後まで、意味のある生き方をしたい」と
いう意味で、そう言う。
もちろん、できれば、長生きしたい。
たった一度しかない人生だから、それは当然のこと。
問題は、どうしたら、意味のある人生にすることができるか、ということ。

●今のままで、よいのか

 未来は現在の延長線上にある。
とするなら、今の生き方が、未来の生き方になる。
となると、「今のままでいいのか」となる。
今、意味のある人生を送っていない私が、この先、意味のある人生を
送れるようになるということは、ありえない。

 言い換えると、今の生き方そのものが、大切ということになる。
「今日」という「今」ではなく、「この瞬間」における「今」ということになる。
「私は、この瞬間において、意味のある生き方をしているのか」と。

●命の換算

 この話は前にも書いたので恐縮だが、テレビでこんな人を紹介していた。
ある男性だが、何かの病気で、2年近い闘病生活のあと亡くなった。
その男性について、妻である女性が、こう言った。

 「がんばって生きてくれたおかげで、娘の家が建ちました」と。

 つまり夫であるその男性が、死の病床にありながらも、がんばって生きて
くれたので、その年金で、娘のための家を建てることができた、と。

 私はその話を聞いたとき、「夫の命まで、金銭的な価値に置き換えて
考える人もいるのだなあ」と驚いた。
まあ、本音を言えば、だれだってそう考えるときがある。
私もあるとき、ふと、こう思ったことがある。

「1年、長生きをして、1年、仕事がつづけられたら、○○○万円、
得をすることになる」と。
しかしこの考え方は、まちがっている。
もしこんな考え方が正しいというなら、私は自分の命すら、金銭的な
価値に置き換えてしまっていることになる。

 仕事ができること自体が、喜びなのだ。
収入があるとすれば、それはあとからついてくるもの。
生きる目的として、収入があるわけではない。

●奇跡

 さらに言えば、アインシュタインも言っているように、「この世に生まれた
ことだけでも、奇跡」ということになる。
(あなた)という人間が生まれるについても、そのとき1億個以上の精子が1個の
卵子にたどりつけず、死んでいる。

 もしそのとき、隣の1個の精子が、あなたにかわって卵子にたどりついていたら、
あなたという人間は、この世には存在しない。
そのことは、二卵性双生児(一卵性双生児でもよいが)を見れば、わかる。
外の世界から見れば、(あなた)かもしれないが、それはけっして、(あなた)
ではない。
他人が見れば、(あなた)そっくりの(あなた)かもしれないが、けっして、
(あなた)ではない。

 つまり私たちは、この世にいるということだけ、この大宇宙を手にしたのと
同じくらい、大きな得をしたことになる。

●統合性の確立

 若いときは、生きること自体に、ある種の義務感を覚えた。
子育ての最中は、とくにそうだった。
働くことによって収入を得る。
その収入で、家族を支える。

 しかし今は、それがない。
どこか気が抜けたビールのようになってしまった。
生きる目的というか、ハリが、なくなってしまった。
「がんばって生きる」とは言っても、何のためにがんばればよいのか。

 そこで登場するのが、「統合性」ということになる。
(自分がすべきこと)と、(現実のしていること)を一致させていく。
それを「統合性の確立」というが、この確立に失敗すると、老後も、みじめで
あわれなものになる。
くだらない世間話にうつつを抜かし、自分を見失ってしまう。
そんなオジチャン、オバチャンなら、いくらでもいる。
あるいは明日も今日と同じという人生を繰り返しながら、時間そのものを無駄に
してしまう。

 が、その統合性の確立には、ひとつの条件がある。
無私、無欲でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は霧散する。
こんな話を、ある小学校の校長から聞いた。

●植物観察会

 ある男性(80歳くらい)は、長い間、高校で理科の教師をしていた。
その男性が、今は、毎月、植物観察会を開いている。
もちろん無料。

 で、雨の日でも集合場所にやってきて、だれかが来るのを待っているという。
そしてだれも来ないとわかると、そのまま、また家に帰っていくという。

 その男性にとっては、植物観察会が生きがいになっている。
参加者が多くても、またゼロでも構わない。
大切なことは、その(生きがい)を絶やさないこと。

 が、もしその男性が、有料で植物観察会をしていたら、どうだろうか。
月謝を計算し、収入をあてにしていたら、どうだろうか。
生徒数がふえることばかり考えていたら、どうだろうか。
同じ植物観察会も、内容のちがったものになっているにちがいない。
つまり、無私、無欲でしているから、その男性の行動には意味がある。
「統合性の確立」というのは、それをいう。

●変化

 損か、得か?
それを考えるとき、これだけは忘れてはいけない。
今、ここに生きていること自体、たいへんな得をしているということ。
それを基本に考えれば、日常生活で起こるさまざまな損など、損の中に入らない。

 そして損ということになれば、「死」ほど、大きな損はない。
それを基本に考えれば、日常生活で起こるさまざまな損など、損の中に入らない。

 つまり生まれたこと自体、大きな得。
死ぬこと自体、大きな損。
私たちは、その得と損の間の世界で、ささいな損得に惑わされながら生きている・

 ・・・というようなふうに、このところ考えることが多くなった。
私自身が「死」に近づいたせいなのか。
それとも「生」の意味が少しはわかるようになったせいなのか。
どうであるにせよ、「損と得」について、私の考え方が大きく変わってきた。
この先のことはわからないが、人は老人になると、みな、そう考えるようになるのか。
それとも、私だけのことなのか。
どうであるにせよ、今は、自分の中で起こりつつある変化を、静かに見守りたい。

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Hiroshi Hayashi++++++++Sep・09++++++++++はやし浩司


●理性vs欲望

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子どもの世界では、よく柔軟性が問題になる。
「頭のやわらかい子」「頭のかたい子」というような表現の仕方をする。
頭のやわらかい子どもは、融通性があり、機転がきく。
一方、頭のかたい子どもは、融通性がなく、機転がきかない。
「カタブツ人間」(「心理学用語がわかる本」渋谷昌三)
になると言われている。

頭のやわらかい子どものほうが、よいように思える。
が、柔軟性が強すぎてもよくない。
行動が衝動的になったり、ときに人格そのものが
支離滅裂になる。

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●柔軟性

 人は常に無意識の世界に支配されながら、考え、行動する。
その無意識の世界を分類すると、(イド)(自我)(超自我)ということに
なる(フロイト学説)。

 「イドとは、無意識的、衝動的な側面で、心のエネルギーの貯蔵庫」(同書)。
「自我とは、パーソナリティの中の意識的な側面」(同書)という(以上、フロイト学説)。

 つまり人は、イドと自我の間で、バランスを取りながら、自分をコントロールする。
イドが強すぎると、欲望に支配され、享楽的な生き方になる。
自我が強すぎると、融通がきかなくなる。
さらに「超自我」(「一般的に道徳心とか良心とよばれるもの」(同書))が強すぎると、
「柔軟性の欠けたカタブツ人間」(同書)になる。

●思考の柔軟性

 子どもの柔軟性(=思考の柔軟性)は、2つに分けられる。

(1) 思考の柔軟性
(2) 行動の柔軟性

 思考の柔軟性は、たとえば、ジョークを話したときなどに判断できる。
思考が柔軟な分だけ、おとなのジョークもよく理解する。
思考が柔軟でない子どもは、「カタブツ」という言葉で表現される。
言葉を額面通り、受け取ってしまう。
たとえばアスペルガー児などは、この思考の柔軟性が極端に失われた状態の
子どもと考えるとわかりやすい。

 また行動の柔軟性は、たとえば、「がんこ」という言葉で表現される。
「青いズボンでないと、幼稚園へ行かない」とがんばったりする。
一方、行動に柔軟性のある子どもは、その場、その場で、臨機応変に行動を変える。
「これがだめなら、あれが、だめ。あれもだめなら、それにする」と。

 一般的には、思考にせよ、行動にせよ、柔軟性のある子どものほうが、あとあと伸びる。

●自律期

 3~4歳の「自律期」(エリクソン)においては、一時期、子どもは、柔軟性に欠ける
ようになる。
おとなや先生が言ったことを、かたくなに守ろうとする。
この時期をうまくとらえて指導をすると、しつけがうまくいく。
またこの時期の子育てに失敗すると、子どもは、いわゆるドラ息子、ドラ娘になる。
わがままで自分勝手。
享楽的で、ルールを守れないなど。

 で、その時期を過ぎると、今度は、「自立期」(エリクソン)へと入ってくる。
この時期に、思考が柔軟な子どもほど、あとあと伸びる。
好奇心が旺盛で、触角が四方八方に向いている。
天衣無縫というか、遊びにしても、自分でつぎからつぎへと発明していく。

 反対に、いつも遊びは同じとか、遊び友だちは同じという生活は、子どもには、
好ましくない。
とくに変化の少ない、単調な生活は、子どもの知育の発育の大敵と思うこと。
ほどよい刺激を子どもの周辺に用意するのは、親の務めと考えてよい。

●「超自我」

 超自我・・・いわゆる「理性」ということになる。
脳科学の世界では、人間の理性をコントロールするのは、大脳の中でも前頭前野という
ことになっている。
部位的には、額の部分。
額の奥に、前頭前野がある。
この部分が、人の心や行動をコントロールする。

 しかし万能かというと、そうでもない。
たとえば思春期になると、子どものもつ性的エネルギー(フロイト)は、きわめて
強力になる。
大脳生理学的には、視床下部あたりの働きが活発になり、ドーパミンの分泌が旺盛に
なる。
ドーパミンというのは、欲望と快楽をつかさどる脳内ホルモンをいう。

 こうした働きを、前頭前野だけで、コントロールするのはむずかしい。
むずかしいというより、不可能。
似たような反応に、アルコール中毒症やニコチン中毒症がある。
酒のにおいをかいだり、タバコのコマーシャルを見ただけで、酒を飲みたく
なったり、タバコを吸いたくなったりする。
これは条件反射反応といわれるものだが、意思の力で、それをコントロール
するのは、むずかしい。

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