最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育てポイント(4)

2009-07-23 07:13:29 | 日記
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(545)

●宗教について(2)

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがある。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。
(宗教について(3)へつづく)





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●宗教について(3)

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。

こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになった。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。

だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解できる。さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。

たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。人間全体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。





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●宗教について(4)
 
 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子ども(小三男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。

そこで私はこう言った。「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。そこで「真理というのは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者だった。





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●宗教について(5)

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許されない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のドラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、それだけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰している。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうとき「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。霊魂や幽霊についても、そうだ。

ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」ということで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったということも、あとから母に言われて、はじめて知った。





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●孤独

 孤独であることは、まさに地獄。無間地獄。だれにも心を許さない。だれからも心を許されない。だれにも心を開かない。だれからも心を開かれない。だれも愛さない。だれからも愛されない。……あなたは、そんな孤独を知っているか? 

もし今、あなたが孤独なら、ほんの少しだけ、自分の心に、耳を傾けてみよう。あなたは何をしたいか。どうしてもらいたいか。それがわかれば、あなたはその無間地獄から、抜け出ることができる。

 人を許そうとか、人に心を開こうとか、人を愛しようとか、そんなふうに気負うことはない。あなたの中のあなた自身を信ずればよい。あなたはあなただし、すでにあなたの中には、数一〇万年を生きてきた、常識が備わっている。その常識を知り、その常識に従えばよい。

 ほかの人にやさしくすれば、心地よい響きがする。ほかの人に親切にすれば、心地よい響きがする。すでにあなたはそれを知っている。もしそれがわからなければ、自分の心に誠実に、どこまでも誠実に生きる。ウソをつかない。飾らない。虚勢をはらない。あるがままを外に出してみる。あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通り過ぎるのを感ずるはずだ。

 ほかの人に意地悪をすれば、いやな響きがする。ほかの人を裏切ったりすれば、いやな響きがする。すでにあなたはそれを知っている。もしそれがわからなければ、自分に誠実に、どこまでも誠実に生きてみる。人を助けてみる。人にものを与えてみる。聞かれたら正直に言ってみる。あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通りすぎるのを感ずるはずだ。

 生きている以上、私たちは、この孤独から逃れることはできない。が、もし、あなたが進んで心を開き、ほかの人を許せば、あなたのやさしい心が、あなたの周囲の人を温かく、心豊かにする。一方、あなたが心を閉ざし、かたくなになればなるほど、あなたの「孤独」が、周囲の人を冷たくし、邪悪にする。だから思い切って、心を解き放ってみよう。むずかしいことではない。静かに自分の心に耳を傾け、あなたがしたいと思うことをすればよい。言いたいと思うことを言えばよい。ただただひたすら、あなたの中にある常識に従って……。それであなたは今の孤独から、逃れることができる。





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●常識をみがく

 おかしいものは、おかしいと思う。おかしいものは、おかしいと言う。たったこれだけのことで、あなたはあなたの常識をみがくことができる。大切なことは、「おかしい」と思うことを、自分の心の中で決してねじ曲げないこと。押しつぶさないこと。

 手始めに、空を見てみよう。あたりの木々を見てみよう。行きかう人々を見てみよう。そして今何をしたいかを、静かに、あなたの心に問いかけてみよう。つっぱることはない。いじけることはない。すねたり、ひがんだりすることはない。すなおに自分の心に耳を傾け、あとはその心に従えばよい。

 私も少し前、ワイフと口論して、家を飛び出したことがある。そのときは、「今夜は家には戻らない」と、そう思った。しかし電車に飛び乗り、遠くまできたとき、ふと、自分の心に問いかけてみた。「お前は、ひとりで寝たいのか? ホテルの一室で、ひとりで寝たいのか?」と。すると本当の私がこう答えた。「ノー。ぼくは、家に帰って、いつものふとんで、いつものようにワイフと寝たい」と。

 そこで家に帰った。帰って、ワイフに、「いっしょに寝たい」と言った。それは勇気のいることだった。自分のプライド(?)をねじまげることでもあった。しかし私がそうして心を開いたとき、ワイフも心を開いた。と、同時にワイフとのわだかまりは、氷解した。

 仲よくしたかったら、「仲よくしたい」と言えばよい。さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。一緒にいたかったら、「一緒にいたい」と言えばよい。あなたの心に、がまんすることはない。ごまかすことはない。勇気を出して、自分の心を開く。あなたが心を開かないで、どうして相手があなたに心を開くことができるのか。

 本当に勇気のある人というのは、自分の心に正直に生きる人をいう。みなは、それができないから、苦しんだり、悩んだりする。本当に勇気のある人というのは、負けを認め、欠点を認め、自分が弱いことを認める人をいう。みなは、それができないから、無理をしたり、虚勢をはったりする。

おかしいものは、おかしいと思う。おかしいものは、おかしいと言う。一見、何でもないことのように見えるかもしれないが、そういうすなおな気持ちが、孤独という無間地獄から抜け出る、最初の一歩となる。





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●耐性のない子どもたち

一人の生徒(小四)が、レッスンの途中でトイレに行った。が、すぐ帰ってきてしまった。理由を聞くと、「ゴキブリがいたから」と。

 あるいは別の日。私の家に遊びに来ていた中学生(中二女子)が、突然タクシーを呼んでくれと言った。理由を聞いても言わない。しかたないので、タクシーを呼んだ。で、それからしばらくしてから母親に理由を聞くと、こう話してくれた。「あの子は、便座型のトイレだと、よそのトイレが使えないのです」と。

 私が小学生のころは、ボットン便所が当たり前だった。トイレットペーパーすらなかった。学校のトイレでは、新聞紙をノート大に切った紙がヒモでぶらさげてあって、それを使った。もっとも、そのままでは使えない。使う前に、一度、手でもんで、ほぐさなければならない。だからトイレでは、その新聞紙をクシャクシャとほぐす音が、いつも聞こえていた。

 私が経験したような貧しい時代が、よい時代とは思っていない。しかし今の子どもたちよりは、生活に対して、はるかに耐性があった。が、問題は耐性がなくなったことではない。今のような豊かな生活が維持できれば、それでよし。しかし生活がマイナス方向に進みはじめたとき、果たして今の子どもに、それを乗り切る力があるかということ。仮に明日から、「トイレはボットン便所にします」と宣言したら、子どもたちはパニック状態になってしまうかもしれない。もっともこれは極端なケースだが、しかし便利さに溺れるあまり、自分を見失っている子どもは多い。

 もう一〇年も前だが、高校生たちと旅行をしたことがある。が、帰るときになると、みな、手ぶらである。驚いて「荷物はどうしたの?」と聞くと、「宅急便に預けた」と。で、このことを当時、ある雑誌のコラムに書こうとしたら、編集長がこう言った。「林さん、知らなかったのですか。今では、それが常識ですよ」と。

 夏になると、青い顔をして、苦しそうにハーハーとあえいでいる子どもは、いくらでもいる。「クーラーがないと、何もできない」のだそうだ。皆さんはご存知ないかもしれないが、今では、小さなハエが一匹教室に入ってきただけで、クラスはパニック状態になる。いわんやゴキブリとなると、大騒動! 私はそういう状態をみるたびに、「これでいいのか」と思ってしまう。いうまでもなく、子どもたちには、山を登る力はある。しかし山をくだる力はない。いかにして山をくだるかを教えていくかも、教育の大切な役目ではないのか。





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●山をくだる力

 教育というと、山を登ることばかり教える。たとえば少し前まで、「勉強して、いい大学へ入れ」と教える親や先生は、いくらでもいたが、子どもがすべったときの、心のケアまで考える親や教師はいなかった。みながみな、合格することだけを考えて、子どもの尻を叩いた。しかし山の登り方に劣らず大切なことは、山の下り方である。こんな女の子(中学生)がいた。

 何でも「ここ一番!」というときになると、自ら手を引いてしまうのである。「私は、どうせダメだもん」と。そこで「どうして」と聞くと、こう話してくれた。「だって、私はA小学校の入試に落ちたモン」と。その子どもは、六年以上も前に、A小学校の入試に失敗したことを、気にしていた。しかしこういうことは本来、あってはならない。

 子どもに向かって、「伸びろ!」とハッパをかけるのは、簡単なことだ。しかしその過程で、挫折し、キズつく子どもがいる。そういう子どもはどうすればよいのか。もっと言えば、日本人は、目が上ばかり向いているから、弱者のことは考えない。

ひところ昔までは、たとえば大学入試についても、「落ちたら落ちた生徒が悪い。あとは自分で考えろ」というのが、ごく一般的な考え方だった。成功者をワーワーともてはやす一方、失敗者を容赦なく切り捨てた。……今も、切り捨てている。中には自分が弱者であるにもかかわらず、その弱者であることを忘れてしまっている人がいる。

 私の母がそうだった。昔、「おしん」というテレビドラマがあった。貧しい家の少女が、全国チェーンにまで、自分の店を育てるというドラマである。数年前に倒産した、ヤオハンジャパンの社長の、Kさんがモデルと言われている。そのヤオハングループのスーパーが、私の家の近くにでき、そのため私の家は閉店に近い状態に追い込まれた。しかし当時の母は、毎日、涙をこぼしながら、「おしん」を見ていた!

 こうした日本人独特の「おめでたさ」というのは、結局は体制側によってつくられたものと考えてよい。なかんずく教育そのものが、そうなっている。山に登ることばかり教えるから、目が上ばかり向くようになる。下を見ない。下がわからない。さらに自分自身が弱者であるにもかかわらず、その弱者であることすら忘れて、強者をたたえてしまう。

 山をくだる教育がどういうものかは、それからゆっくり考えることにして、これはまさに、日本の教育がもつ最大の欠陥といってもよい。今でも、「勉強ができないのは、できない子どもが悪い」と平気で言う人は、いくらでもいる。しかしこうした教育観は、基本的な部分で、まちがっている!

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