最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●7月8日(1)

2009-07-08 06:02:03 | 日記
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 7月 8日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●1秒は、1秒なのか?(One second for mice is equivalent to 100 seconds for men)

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今日の夕刊(4月30日、中日新聞)に、
こんな興味ある記事が、載っていた。

『人とマウス、行動似てる』というタイトルの
ものだった。

『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。

大阪バイオサイエンス研究所(大阪府吹田市)と
東京大学の研究チームによる、研究結果である。

記事には、『生物の行動の背後に、種を超えた基本法則
が存在する可能性を示すもの』(同)ともあった。

+++++++++++++++++++++

●庭のスズメ

たとえば庭に遊ぶスズメたちを見てみよう。
小枝から小枝へと、小刻みなリズムで、飛び回っている。

少し前、私は、それを見ながら、こんなことを考えた。

「もし人間が、同じ行動をしようとしたら、
スズメの何倍の時間がかかるだろうか?」と。

スズメたちは、数秒単位で、枝から枝へと、
ピョンピョンと飛び回る。

で、同じような枝を、パイプが何かでつくり、
人間に同じ行動をさせたら、どうだろう?

オリンピックに出るような体操選手ですら、
その10倍の時間は、かかるかもしれない。

またつぎにこんなことを考えたこともある。

一匹の蚊を頭の中で、想像してみてほしい。
その蚊が、人間の足の高さから、頭の高さまで
あがるのに、何秒くらいかかるか、と。

正確に計測したことはないのでわからないが、
ブーンと飛べば、3~4秒もかからないのでは
ないか?

そこで蚊の体長を、5ミリとして計算すると、人間の
170センチの身長は、蚊の体長の340倍の高さという
ことになる。

そこで身長が1・7メートルの人間の高さに換算すると、
1・7メートルx340=578で、約580メートル
の高さということになる。

つまり蚊は、人間にしてみれば約580メートルの
山を、3~4秒で登ったり、おりたりすることが
できるということになる。

3~4秒である。

が、これで驚いてはいけない。

●ハエは、音速の3倍以上!

ときどき家の中を、体長1センチ前後の、大きな
ハエが飛び回ることがある。
私たちが「クソバエ」と呼んでいる、黒いハエである。

あのハエは、7~8メートル四方の部屋を、
ビュンビュンと飛び回る。

そのハエについても、正確に計測したことがないので
わからないが、やはりブ~ンと飛べば、7~8メートルの
部屋を横切るのに、1秒もかからないのではないか。

そこでこれらの数字をもとにして、ハエの速度を計算してみると、
秒速7メートルとして、同じように170倍すると、
秒速1190メートルということになる。
さらにこの数字を、60x60=3600倍すると、
時速になる。
その時速は、何と、4284万000メートル。
キロメートルになおすると、4284キロメートル。

つまりあのハエは、人間の大きさで考えると、
時速4000キロ以上のスピードで、部屋の中を飛び回って
いることになる!

時速4000キロだぞ!

この数字を疑う人は、一度、自分で計算してみるとよい。
つまり音速の約3倍!

こうして考えてみると、スズメにせよ、蚊にせよ、
はたまたあのハエにせよ、私たちとはちがった(時間)を
もっているのがわかる。

前にも書いたが、もしハエが今のまま進化し、
時計を作ったとしたら、秒針のほかに、1秒で1周する
もう一本の針を考えるかもしれない。

つまりスズメにせよ、蚊にせよ、はたまたハエにせよ、
私たち人間がいうところの「1秒」を、10秒とか、
100秒で生きていることになる。

●マウスは、人間の100倍!

・・・というようなことを、今回、大阪バイオサイエンス
研究所というところが、はからずも証明した?

もう一度、新聞記事を読みなおしてみよう。
そこには、こうある。

『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。

もう少し専門的に言えば、「体内のリズムをつくる
時計遺伝子の働きは、マウスのばあい、人間の
それより100倍も速い」ということになる。

だから単純に、「マウスは人間の100倍の
速さで生きている」というふうに考えることは
できないとしても、「少なくともマウスは、
人間とはちがった時間の尺度をもっている」ということだけは
確かである。

同じ1秒を、人間は、それを1秒として生きている。
が、マウスにしてみれば、100秒にして生きている
かもしれない。

だからたとえば、マウスの寿命を仮に1年としても、
それを「短い」と思ってはいけない。
マウス自身が感ずる1年は、ひょっとしたら人間の
100年分に相当するかもしれない。

●幼児の世界でも

実は、私は、このことは幼児を指導している
ときにも、よく感ずる。

私の教室では、常にテンポの速いレッスンに心がけて
いる。
そうでもしないと、子どものほうが、飽きてしまう。
レッスンに乗ってこない。
で、そういうとき、私はよくこう思う。

幼児のもつ体内時計は、おとなのもつ体内時計より、
数倍は速い、と。
わかりやすく言えば、幼児にとっての1分は、
おとなに3~4分に相当する。
おとなが3~4分ですることを、幼児は、1分でする、と
言いかえてもよい。

「アウ~、それでエ~、エ~ト・・・」などというような、
どこか間の抜けたようなレッスンをしていたら、
それだけで教室はザワついてしまう。
収拾がつかなくなってしまう。

反対に、老人ホームにいる老人たちを見てみると、
このことがさらによくわかる。

そこにいる老人たちは、1日中、何かをするでもなし、
しないでもなしといった状態で、その日、その日を
過ごしている。
そこにいる老人たちは、明らかに私たちとは、ちがった
体内時計をもっている。

ひょっとしたら、1日を、私たちがいう、1時間、
あるいはそれよりも短く感じながら生きている
かもしれない。

長い前置きになってしまったが、結論を急ぐと、こういう
ことになる。

私たちが感じている1秒、1分、1時間は、
けっして絶対的なものではないということ。
過ごし方によっては、1秒を1時間にして生きることもできる。
反対に、1日を、1分のようにして過ごしてしまう
かもしれない。

つまり(時の長さ)というのは、時計的にはみな、同じでも、
過ごし方によっては、何倍もにして生きることもできる。
反対に、数分の1にして生きることもあるということ。

もっと言えば(時の長さ)には、絶対的な尺度はないということ。
要は、その人の過ごし方、ということになる。

それにしても、『人の動きを100倍の速さで早回しすれば、
マウスと同じになることがわかった』とは!

100倍だぞ!

この「100倍」という数字を読んだとき、私は
改めて、(時間とは何か)、さらには、(生きるとは何か)、
それを考えさせられた。

余計なことかもしれないが、日々を、野球中継だけを見ながら過ごすのも
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
日々を、パチンコだけをしながら過ごすのも、
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
あるいは日々を、魚釣りだけをしながら過ごすのも、
これまた人生かもしれない。が、それではあまりにももったいない。

・・・というのが、このエッセーの結論ということになる。

●脳みそのクロック数

ついでに……。

宇宙には、私たちがいう「1秒」の間に、人間の世界でいう数100年、
あるいは数1000年分の人生を生きる生物がいるかもしれない。

あるいは反対に、私たちがいう「1万年」が、寿命という生物も
いるかもしれない。

そういう生物(?)は、指を1本、動かすのに、20年とか、
30年もかかる。
岩石のようなものでできた生物を想像してみればよい。

・・・という話は、どこか荒唐無稽な感じがしないでもない。
しかしこんなことは言える。

脳みそにも、コンピュータでいうところの「クロック数」の
ようなものがあるのではないか、ということ。

たとえばワイフは、8年前に買ったパソコンを使っている。
私は、昨年(07年)に買ったパソコンを使っている。
ワープロとして使っている間は、それほどの(差)を
感じない。
が、画像を表示したり、ゲームをしたりするときには、
はっきりとした(差)となって、ちがいが出てくる。

情報を処理するための基本的な速度、つまりクロック数そのものが
ちがう。

俗な言い方をすれば、(頭の回転の速さ)ということになる。
子どもにしても、頭の回転の速い子どもは、速い。
そうでない子どもは、そうでない。
反応も鈍い。

仮に脳みそのクロック数が、2倍ちがうとすると、クロック数が
2倍速い子どもは、そうでない子どもの、2倍長く時間を使う
ことができるということになる。
全体に、クロック数が速いから、当然、計算するのも速い。
文章を書くのも、速い。
思考する力も、速い。

だからクロック数が2倍速い子どもにとっては、同じ「1秒」でも、
そうでない子どもの、「2秒分」の時間に相当する。
同じ「1年」でも、「2年分」の時間に相当する。

ただし誤解しないでほしいのは、クロック数が速いからといって、
時間を有効に使っているということにはならないということ。

(時間を長く使う)ということと、(時間を有効に使う)という
ことは、まったく別のことである。
そのことは、冒頭に書いたスズメの話を思い出してもらえば、わかる。
庭に遊ぶスズメたちは、目まぐるしく、活動している。
しかし、それだけのこと。
わかりやすく言えば、(中身のない人生)を、忙しそうに
繰りかえしているだけ。

恩師の田丸謙二先生は、いつも口癖のように、こう言っている。
「せっかく、いい頭をお持ちなのですから・・・」と。
私に対して、そう言っているのではない。
東大という大学に入ってくる学生たちに、いつもそう言っている。

先生がいう、「・・・なのですから・・・」というのは、
「もっと自分の頭で考えなさい」という意味だが、
先生の言葉をもう少し、自分なりに解釈すると、こうなる。
「せっかく速いクロック数の頭をもっているのだから、
脳みそを有効に使いなさい」と。

●最後に・・・

脳梗塞のようなダメージを受けないかぎり、実際には、
脳みそのクロック数などというものは、みな、それほどちがわない。
ちがっても、2倍とか3倍とかいうものではなく、
1・1倍とか、1・2倍とかいう範囲の、わずかなものかもしれない。

しかもそのクロック数というのは、訓練によって、速くすることができる。
このことも、子どもの世界を見れば、よくわかる。
言いかえると、同じ人生でも、それを長くして生きるか、
それとも、短くして生きるかは、その人、個人の問題ということ。

そのためにも、頭は使って使って、使いまくる。
そうでなくても、脳みそのクロック数は、加齢とともに、落ちてくる。
老人ホームにいる老人たちにしても、ある日、突然、ああなったのではない。
ある時期から、徐々に、そして少しずつ、長い時間をかけて、
ああなった。

今の私やあなたがそうかもしれない。
クロック数というのは、そういうもの。
全体に脳みその機能が低下していくため、その人自身が、それに気づくと
いうことは、まずない。
知らぬ間に、クロック数は低下し、また低下しながらも、低下したこともわからない。

だから歳をとったら、なおさら、頭は使う。
使って使って、使いまくる。

それがとりもなおさず、私たちの人生を、より長くすることになる。

(付記)

実は、昨日(4月30日)、私は携帯電話を、W社の携帯端末機から、
E社携帯端末機に変更した。
この世界では、「スマートフォン」と呼ぶ。

携帯電話にパソコン機能がついた機種である。

で、そのとき、言いようのない不安感が私を襲った。
「私に使いこなせるだろうか」という不安感である。

この3~4年の間に、スマートフォンの世界も、格段に進化した。
今度のは、無線LAN、BLUETOOTH、さらにGPS付き!
どこか分厚い説明書を手にしたとき、多量のアドレナリンが、
脳内で分泌されるのを感じた。

が、そのとき、こうも思った。

「同じ人間が作ったもの。私にできないはずはない」と。

それから家に帰って、悪戦苦闘すること、1、2時間。
が、そのうちEメールの送受信まで、何とかできるようになった。

で、そのとき、こんなことに気づいた。
精神状態が、きわめて不安定になっていた。
これは、おそらくそれまで使ったことのない脳みそを使ったために起きた
現象ではないか。
脳みその神経細胞から、新しいシナプスが伸びるときに起きる現象とも
考えられる。

子どもでも、まったく新しい分野の問題を与えたとき、
同じような反応を示す子どもがいる。

問題を解くとき、イライラした様子をして見せる。
中にはピリピリして、一触即発のような状態になる子どももいる。

私も、同じような状態になった。
と、同時に、こうも思った。
「こういうのも、ボケ防止にはよいのでは」と。

E社のスマートフォンは、この3月に新発売になったばかりのもの。
少し高い出費になったが、ボケ防止のためと思えば、安い(?)。
そう思って、自分を納得させた。
プラス、楽しかった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW BW教 幼児のクロック数 子どものクロック数)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【復古主義】

●加齢とともに……

++++++++++++++++++

歳を取ればとるほど、過去がどんどんと
自分に近づいてくる。
向うの方から、近づいてくる。
若いときには遠い昔に思えた、あの江戸時代ですら、
すぐそこに感ずるようになる。
ほんの一昔前のように、である。
これはおもしろい現象と考えてよい。
が、それには、ちゃんとした理由がある。

++++++++++++++++++

●たったの2倍!

 たとえば江戸時代という時代を見てみよう。
あの江戸時代は、大政奉還によって、終わる。
1867年11月9日のことである。

 その江戸時代というと、若い人たちは、遠い昔のことのように思うかもしれない。
1867年……ねえ?、と。
「そんな時代は遠い昔の話で、とっくに終わった」と。
実は、私も、若いころは、そう考えていた。

 そこで、こんな計算をしてみる。
現在は2009年だから、1867年というと、142年前ということになる。
その142年という年数だが、つぎのように計算できる。

20歳の人……142÷20=約7
40歳の人……142÷40=約3・6
60歳の人……142÷60=約2・4
80歳の人……142÷80=約1・8、と。

つまり142年という年数を、それぞれの年代の人の年齢で割ってみた。
そうすることによって、江戸時代という時代が、自分の年齢の、何倍、昔のこと
かがわかる。

この計算によれば、現在20歳の人には、江戸時代というと、自分の人生の7倍も
遠い昔の過去ということになる。
しかし60歳の私には、たったの2倍と少し。
さらの現在80歳の人には、さらにたったの1・8倍!
2倍としても、自分の人生の2倍程度の昔ということになる。
(たったの2倍というところに注意してほしい。)

 そこで自分の人生を振り返ってみる。
私は現在満61歳だが、この61年間を振り返ってみると、いろいろあった。
あったが、その61年間は、あっという間に過ぎた。
その61年間をさらに振り返りながら、江戸時代といっても、私の人生の
たった2倍の昔のことでしかないことを知る。
つまり子どものころは、遠い昔に覚えたあの江戸時代が、加齢ともに、どんどんと
現在の自分に近づいてくる。
向うの方から、近づいてくる。

●そこにも、ここにも、江戸時代

 60年生きたからといって、人生観が、それほど変わるわけではない。
何か特別の努力をした人は別として、そうでなければそうでない。
たいていの人は、満18歳前後までに自分の常識を完成させる(アインシュタイン)。
それがそのまま、その人の常識となって、一生を支配する。

 いや、そうであるなら、まだよいほう。
さらにたいていの人は、加齢とともに、ますます愚かになっていく(失礼!)。
脳みその底に穴があいたようになり、そこから知恵や知識が、外にこぼれ出ていく。
つまり私が言いたいのは、60年と言っても、それほど大きな変化は期待できない
ということ。
そしてそういう(私)が無数に集まって、大きな流れとなる。
その流れ、とくにその民族がもつ意識というのは、それほど変化しない。
変化しないまま、つぎの世代へとバトンタッチされていく。

 で、それが2倍の120年になったからといって、それほど変化するものでは
ない。
あの時代はあの時代のまま。
あそこやここに、私の子ども時代が残っているように、江戸時代も、あそこや
ここに、そのまま残っている。
それが実感として、わかるようになる。

現に私の祖父は明治生まれの人だったが、今から思うと、江戸時代そのものを、
背負っていたように思う。
身分意識、家父長意識、男尊女卑思想、上下意識などなど。

 その祖父は私が25、6歳のときに他界したが、当然のことながら、私はその
祖父の影響を大きく受けた。
受けたまま、現在に至っている。

 ずいぶんと回りくどい書き方をしたが、私の年齢になると、あの江戸時代ですら、
まるで昨日のように、そこに見えてくるようになる。
少なくとも若い人たちが感じているように、「遠い昔」ではない。

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