最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育てジャンプ(3)

2009-07-08 15:38:00 | 日記



ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(365)

●アメリカ論

 よく私の「家族主義」について、つぎのように攻撃してくる人がいる。「林君は、家族主義を口にするが、アメリカのほうが離婚率が高いではないか」「アメリカでは、夫婦でも裁判ザタになっているケースが、日本とは比較にならないほど、多いではないか」と。

 これについて反論。離婚率が高いから、家族が破壊されているとはかぎらない。低いから家族がしっかりしているということにもならない。たまたま日本の離婚率が低いのは、それだけ女性ががまんしているからにほかならない。社会的、経済的地位も、まだ低い。男尊女卑思想もまだ残っている。たとえばオーストラリアあたりで、夫が妻に、「おい、お茶!」などと言おうものなら、それだけで即、離婚。実際にはそういう会話をする夫はいない。ウソだと思ったら、近くにいるオーストラリア人に聞いてみることだ。

 つぎに裁判だが、たしかに多い。しかしそれは日本とアメリカの制度の違いによる。アメリカには、それこそ地区ごとに、「コートハウス」と呼ばれる仲裁裁判所がある。人口数万の小さな町にさえ、ある。そんなわけで、近隣で何かもめごとがあると、彼らはすぐ「では、判事に判断してもらおうではないか」と、裁判所へでかけていく。こういう気安さ、気軽さがベースになっているから、夫婦であっても、裁判所へ出向く率は日本より、はるかに高い。

 さらにアメリカから伝えられる凶悪事件を例にあげて、アメリカ社会は崩壊していると主張している人もいる。しかしアメリカと言っても広い。あのテキサス州だけでも、日本の2倍の広さがある。カルフォニア州だけでも、ほぼ日本の広さがある。一方、アメリカ人の目から見ると、日本も東南アジアも区別できない。区別されない。インドネシアで暴動が起きると、アメリカ人は、日本もそれに巻き込まれていると思う。

同じようにカルフォニア州の一都市で何か事件が起きたとしても、決して、アメリカ全土で起きているわけではない。先日もアメリカへ行ったら、知人のF氏(アメリカ人)はこう言った。「日本人はハリウッドをアメリカだと思い込んでいるのでは」と。そして「ハリウッド映画だけを見て、それがアメリカと思ってほしくない」とも。

 たしかにアメリカも多くの問題をかかえている。それは事実だが、しかしこれだけは忘れてはいけない。アメリカには「アメリカ人」と呼ばれるアメリカ人はいないということ。それは東京には「東京人」と呼ばれる東京人はいないのと同じ。

先のテキサス州では、人口の40%がヒスパニックが占めている。もちろん中国系、日系などのアジア人も多い。白人ばかりがアメリカ人ではないことは、常識だ。そういう他民族が集合して、「アメリカ人」というアメリカ人をつくっている。単一民族しか知らない日本人とでは、そもそも「国民」意識そのものがちがう。言いかえると、日本人対アメリカ人というように、そもそも対等に考えることすら正しくない。

 冒頭の問題は、そういう前提で考えなければならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(366)

●「日本の教育はバカげている」・日本の常識、世界の標準?

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごすということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。しかし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」と。欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」ということになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あたかも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教えるのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。

日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいたかったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(367)

●家族のつながりを守る法

2000年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約3年間、アメリカ国務省のスポークスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけに、退任を決意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。

 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われた」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(53歳)だ。いわく「東京から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざまな苦痛を受けた」と。単身赴任は、6年間も続いた。

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめられた部分も多い。今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくらでもいる。その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、周囲にいた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、である。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言った。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてルービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカでは学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親はそのほうが子どものためになると判断する。

が、日本ではそうではない。軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(368)

●事例(1)……心を解き放て!

 今どき「先祖だ」「家だ」などと言っている人の気がしれない。……と書くのは、簡単だ。またこう書いたからといって、その先祖や家にしばられて苦しんでいる人には、みじんも助けにならない。Yさん(45歳女性)がそうだ。盆になると、位牌だけでも300個近く並ぶ旧家にYさんは嫁いだ。何でも後醍醐天皇の時代からの旧家だそうだ。で、今は、70歳になる祖父母、Yさん夫婦、それに一男一女の三世代同居。正確には同じ敷地内に、別棟をもうけて同居している。が、そのことが問題ではない。

 祖母はともかくも、祖父とYさん夫婦との間にはほとんど会話がない。Yさんはこう言う。「同居といっても形だけ。私たち夫婦は、共働きで外に出ています」と。しかし問題はこのことではない。「毎月、しきたり、しきたりで、その行事ばかりに追われています。手を抜くと祖父の機嫌が悪くなるし、そうかといって家計を考えると、祖父の言うとおりにはできないのです」と。

しかしこれも問題ではない。Yさんにとって最大の問題は、そういう家系だから、「嫁」というのは家政婦。「孫」というのとは、跡取り程度にしか考えてもらえないということらしい。「盆暮れになると、叔父、叔母、それに甥や姪、さらにはその子どもたちまでやってきて、我が家はてんやわんやになります。私など、その間、横になって休むこともできません」と。たまたま息子(中3)のできがよかったからよいようなものの、祖父はいつもYさんにこう言っているそうだ。「うちは本家だから、孫にはA高校以上の学校に入ってもらわねば困る」と。

 Yさんは、努めて家にはいないようにしているという。何か会合があると、何だかんだと口実をつくってはでかけているという。それについても祖父はあれこれ言うらしい。しかし「そういうことでもしなければ、気がヘンになります」とYさんは言う。

一度、たまたま祖父だけが家に残り、そのときYさんが食事の用意をするのを忘れてしまったという事件があった。「事件」というのもおおげさに聞こえるかもしれないが、それはまさに事件だった。激怒した祖父は、Yさんの夫を電話で呼びつけ、夫に電気釜を投げつけたという。「お前ら、先祖を、何だと思っている!」と。

 こういう話を聞いていると、こちらまで何かしら気がヘンになる。無数のクサリが体中に巻きついてくるような不快感だ。話を聞いている私ですらそうなのだから、Yさんの苦痛は相当なものだ。で、私はこう思う。日本はその経済力で、たしかに先進国の仲間入りはしたが、その中身は、アフリカかどこかの地方の、○○民族とそれほど違わないのでは、と。

もちろん伝統や文化はあるだろう。それはそれとして大切にしなければならないが、しかし今はもう、そういうものを個人に押しつける時代ではない。「こういう伝統がある」と話すのは、その人の勝手だが、それを受け継ぐかどうかは、あくまでもつぎの世代の問題ということになる。私たちはその世界まで、立ち入ることはできない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(368)

●事例(2)……心を解き放て!

 今、人知れず、家庭内宗教戦争を繰り返している家庭は多い。たいていは夫が知らない間に、妻がどこかのカルト教団に入信してしまうというケース。しかし一度こうなると、夫婦関係は崩壊する。価値観の衝突というのはそういうもので、互いに妥協しない。実際、妻に向かって「お前はだれの女房だ!」と叫んだ夫すらいた。その妻が明けても暮れても、「K先生、K先生」と言い出したからだ。夫(41歳)はこう言う。

「ふだんはいい女房だと思うのですが、基本的なところではわかりあえません。人生論や哲学的な話になると、『何を言ってるの』というような態度をして、私を無視します」と。では、どうするか?

 宗教にもいろいろある。しかしその中でも、カルトと呼ばれる宗教には、いくつかの特徴がある。

排他性(他の思想を否定する)、情報の遮断性(他の思想を遮断する)、組織信仰化(個人よりも組織の力を重要視する)、迷信性(外から見ると?と思うようなことを信ずる)、利益論とバチ論(信ずれば得をし、離れるとバチが当ると教える)など。巨大視化(自説を正当化するため、ささいな事例をことさらおおげさにとらえる)を指摘する学者もいる。

 信仰のし方としては、催眠性(呪文を繰り返させ、思考能力を奪う)、反復性(皆がよってたかって同じことを口にする)、隔離性(ほかの世界から隔離する)、布教の義務化(布教すればするほど利益があると教える)、献金の奨励(結局は金儲け?)、妄想性と攻撃性(自分たちを批判する人や団体をことさらおおげさに取りあげ、攻撃する)など。

その結果、カルトやその信者は、一般社会から遊離し、ときに反社会的な行動をとることがある。極端なケースでは、ミイラ化した死体を、「まだ生きている」と主張した団体、毒ガスや毒薬を製造していた団体、さらに足の裏をみて、その人の運命や健康状態がわかると主張した団体などがあった。

 人はそれぞれ、何かを求めて信仰する。しかしここで大切なことは、いくらその信仰を否定しても、その信仰とともに生きてきた人たち、なかんずくそのドラマまでは否定してはいけないということ。みな、それぞぞれの立場で、懸命に生きている。その懸命さを少しでも感じたら、それについては謙虚でなければならない。「あなたはまちがっている」と言う必要はないし、また言ってはならない。私たちがせいぜいできることといえば、その人の立場になって、その人の悲しみや苦しみを共有することでしかない。

 冒頭のケースでも、妻が何かの宗教団体に身を寄せたからといって、その妻を責めても意味はない。なぜ、妻がその宗教に身を寄せねばならなかったのかというところまで考えてはじめて、この問題は解決する。「妻が勝手に入信したことにより、夫婦関係が破壊された」と言う人もいるが、妻が入信したとき、すでにそのとき夫婦は崩壊状態にあったとみる。そんなわけで夫が信仰に反対すればするほど、夫婦関係はさらに崩壊する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(370)

●後手、後手の日本の教育改革

 約60%の中学生は、「勉強で苦労するくらいなら、部活を一生懸命して、推薦で高校へ入ったほうが楽」と考えている。また同じく約60%の中学生は、「進学校へ入ると勉強でしぼられるので、進学校ではない高校に入り、のんびりと好きなことをしたい」と考えている。(静岡県では高校入試が、入試選抜の要になっている。これらの数字は、中学校の校長たちのほぼ一致した見方と考えてよい。)

 こうした傾向は進学高校でもみられる。以前は勉強がよくでき、テストの点が高い子どもほど、周囲のものに尊敬され、クラスのリーダーになった。が、今は、ちがう。ある日私が中間層にいる子どもたちに、「君たちもがんばって、(そういう成績優秀な連中を)負かしてみろ」と言ったときのこと。全員(7人)がこう言った。「ぼくらはあんなヘンなヤツとはちがう」と。勉強がよくできる子どもを、「ヘンなヤツ」というのだ。

 夢があるとかないとかいうことになれば、今の中高校生たちは、本当に夢がない。また別の日、中学生たち(7人)に、「君たちもがんばって宇宙飛行士になってみろ。宇宙飛行士のMさんも、そう言っているぞ」と言うと、とたん、みながこう言った。「どうせ、なれないもんネ~」と。

 こうした現実を、一体今の親たちは、どれだけ知っているだろうか。いや、すでに親たち自身も同じように考えているのかもしれない。こうした傾向はすでに20年以上も前からみられたことであり、今に始まったことではない。ひょっとしたら中学生や高校生をもつ親の何割かも、ここにあげた中高校生のように考えているかもしれない。「どうせ勉強なんかしてもムダ」とか、「勉強ができたところで、それがどうなのか」と。さらに今の親たちの世代は、長渕剛や尾崎豊の世代。「学校」に対するアレルギー反応が強い世代とみてよい。「学校」と聞いただけで、拒絶反応を示す親はいくらでもいる。

 問題は、なぜ日本がこうなってしまったかということよりも、こうした変化に、日本の教育が対応しきれていないということ。いまだに旧態依然の教育制度と教育観を背負ったまま、それを親や子どもたちに押しつけようとしている。「改革」といっても、マイナーチェンジばかり。とても抜本的とはいいがたいものばかり。すべてが後手、後手に回って、教育そのものがあたふたとしているといった感じになっている。

 こうした問題に対処するには、私は教育の自由化しかない。たとえば基礎的な学習は学校で、それ以外の学習はクラブで、というように分業する。学校は午前中で終わり、午後はそれぞれの子どもはクラブに通う。学校内部にクラブがあっても、かまわない。先生がクラブの指導をしても、かまわない。各種スポーツクラブのほか、釣りクラブ、演劇クラブなど、さまざまなクラブが考えられる。月謝はドイツ並みに、1000円程度にする。方法はいくらでもある。

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