最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●「子どもは不要」

2009-12-11 07:09:43 | 日記
●「子どもは必要ない」(追記)

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先日、「子どもは必要ない」と考えている若い人たちへの
意見を書いた。
今では、50~60%の若い人たちが、20~30代の
人たちを中心に、「子どもは必要ない」と考えているという(内閣府)。

いろいろな意味に解釈できる。
「結婚しても、子どもは必要ない」と考えている。
「結婚そのものも、しない」と考えている。

後者の中には、「結婚しなくても、子どもだけほしい」という人も含まれる。
そうして生まれた子どもを「婚外子」というのに対して、「嫡出子」という。

ともかくも、私は、「子どもは必要ない」と考えるのは、おかしいと自分のBLOGに
書いた。
が、それに対して、いろいろな書き込みがあった。

「生き方の問題ではなく、現実に、結婚したい相手が見つからない」
「地球温暖化など、子どもの将来に不安を感ずるから」
「出産と同時に、70%の女性が職場を余儀なく、離れさせられている」など。
つまり私が考えているほど、単純な問題ではない、と。

「年収が200万円以下の男性は、結婚する率が、極端に低くなる」という
説もある。

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●山鳩の世界

 今年の春から、一羽の山鳩が、私の家の庭に住みついた。
たぶん雄だと思う。
ときどきやってくる別の山鳩に、ちょっかいを出すのだが、相手にされなかった。
理由はわからない。
山鳩には、山鳩なりの見方、考え方があるらしい。

で、その山鳩は、ずっとチョンガ(=独身)だった。
ときどき2羽でやってくる山鳩がいた。
その奥さんのほうに手を出そうとしたこともある。
しかしやはり相手にされなかった。
(山鳩というのは、想像以上に夫婦の絆が強い。)

その山鳩は、12月に入った今も、チョンガ。
そういう世界を見ていると、山鳩の世界も、人間の世界と同じだなあと思う。
あるいは、その反対でもよい。

●現実論

 つまり結婚したくても、相手がいなければ、どうしようもない。
子どもを作るとなると、なおさらである。
そういう相手が見つからない人たちが、「子どもは必要ない」と考えるようになったところで、何もおかしくない。

 生き方の多様性の問題というよりは、「現実論」の問題ということになる。
つまり現実を冷静にみていくと、必然的結果として、(結婚できない)。
そのため(子どもをつくることができない)。
それを合理化するために、「子どもは必要ない」と考える。

 またこうした傾向は、何も日本だけにあるわけではない。
世界的にみても、(1)晩婚化、(2)女性の社会への進出、(3)婚外子の増加は進んでいる。

 そこでここでは話を一歩進めてみる。
というのも、この問題は、多くの人たちがすでに論じているし、雑誌などでもたびたび取り上げられている。
何を書いても、私のばあい、二番煎じになってしまう。

●「孫は必要ない」

 「子どもは必要ない」の先にあるのが、「孫は必要ない」である。
これについてなら、私にも書ける。
二番煎じでもない。

 で、祖父母の立場で言うなら、ほとんどの人は、「子育ては一度で、こりごり」と考えている。
祖父母の世界には、『来て、うれし。帰って、うれし』という格言すら、ある。
「孫が来てくれると、うれしいが、そこまで。
帰ってくれると、ほっとして、それもうれしい」と。

中には、孫を目の中に入れても痛くないという人もいるが、これは当初から同居しているばあい。
しかしそうでなければ、そうでない。
つまりこれが祖父母の本音ではないか。

 子育てというのはぞれ自体、重労働である。
で、やっとその重労働から解放されたと思ったら、そこに孫がいる。
若い人たちは、「ジーチャン、バーチャンは、孫をかわいいはず」と思い込んでいる。
私もそうだった。
しかし孫といえども、人間関係。
ある日いきなり孫を押しつけられ、「かわいいだろ」と言われても困る。
私のばあいが、そうだった。

 私が自分の孫を「かわいい」と感じたのは、孫に会ってから、1週間目のことだった。
それまでは、「どうしてこんな孫がかわいいのか?」と、何度も自問した。

●「孫は必要かどうか」

 そこでこんなふうに考えてみる。
「孫は必要かどうか」と。

 私のばあい、たぶん不幸なことに、最初の2人の孫は、現在、アメリカに住んでいる。
会えるといっても、1~2年に1回。
息子のBLOGには、こうあった。
「高い旅費を払ってまで、日本へ帰る必要はあるのか?」と。
それを読んだとき、正直言って、私はがく然とした。
それを読んで以来、私は「日本へおいで」とは、言えなくなってしまった。

 もちろん孫たちに会いたいという気持ちは、強い。
しかしその気持ちを支えるの、これまたたいへん。
いろいろ努力はしているが、『去るもの、日々に疎(うと)し』という格言もある。
孫への気持ちが、年々、薄らいでいくのが、自分でもよくわかる。
恐らくあと数年もすれば、上の孫にしても、親離れを始めるだろう。
そうなれば、当然、私の姿も、孫の中から消える。

●私のばあい

 そのかわり……というと語弊があるかもしれない。
しかし私のばあい、そのかわり、生徒たちがいる。
年齢的には、4歳前後から高校生まで。
最近は、そうした子どもで、孫への思いを代償的に消化している。
たまらないほどの、「いとおしさ」を感ずることもある。

 これは若いころ経験しなかった感情である。
だからもし、私が今の仕事から、身を引いてしまったら、仕事から去るという(さみしさ)のほかに、それこそ身を引きちぎられるような(さみしさ)も覚えるにちがいない。

 一方、孫たちのほうは、どうか。

 少し前だが、こんな調査をしてみたことがある。

 私の教室に通っている、幼児、小学生の子どもたちに、こう聞いてみた。
「おじいちゃん、おばあちゃんが死んで、悲しく思った人はいるか?」と。
すると、ほぼ全員、こう答えた。
「何ともなかった」と。
1人だけ、「悲しかった」と答えた子どもがいたが、彼は(おじいちゃん子)で、しかも小学6年生だった。

 子どもたちは、老人の私たちを、「死にゆく者」と考えている。
「死んで当然」とまではいかないにしても、それに近い。
そういうふうに考えている。

●問題は別のところに

 こう考えていくと、「子どもは必要ない」と考える若い人たちを、一概に、まちがっているとも言えなくなる。
つまりその結果、子育てのもつすばらしさがわからなくても、また最終的に人類が滅亡することになっても、それはそれ。
しかたのないこと。
それについて、とやかく言う方が、おかしい(?)。
それぞれの人は、それぞれの考えに基づいて、人生を選択している。
言うなれば、あとは多数決の問題ということになる。

 ただ、これだけはまちがえないでほしい。

 だからといって、この日本や社会がかかえる問題を、放置しておいてよいということではない。
この日本では、子育てが、ますますしにくくなってきている。
少子化の問題も、その(結果)でしかない。
そういった問題については、積極的に考えていかなければならない。
それはそれ。

 ……ということで、この問題は、またの機会に、もう少し頭を冷やしてから考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 少子化 婚外子 嫡出子 子どもは必要ない 内閣府)


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