最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●ワンポイント(2)

2010-01-03 23:07:00 | 日記
●思考回路というレール
________________________________________

夢や希望をもち、さらには目標(目的)をもち、その目標に向かって努力する。その道筋を、思考回路という。大切なのは、その思考回路。というのも、夢や希望というのは、そのつど変化する。変化して当然。幼児のころは、「お花屋さんになりたい」と言っていた子どもでも、小学生になると、「パン屋さんになりたい」「ケーキ屋さんになりたい」と言うかもしれない。中身は何であれ、思考回路にできている子どもは、その思考回路の上に夢や希望を乗せて、前向きに進んでいくことができる。 ※

●子どもに育てられる
________________________________________

親は、子育てをしながら、子どもに否応(いやおう)なしに育てられる。はじめて子どもを幼稚園へ連れてきたような母親は、たしかに若くて美しいが、中身がない。そんな母親でも、子育てで苦労をするうち、やがて姿勢が低くなる。幼稚園を卒園するころになると、みなに、深々と頭をさげるようになる。中身ができてくる。つまり親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。子どもに育てられることを、恐れてはいけない。

●熟成される「善」
________________________________________

西洋では、「善と悪は、神の左手と右手である」という。しかし善と悪は、決して、平等ではない。善人ぶることは簡単なこと。しかし自分の体の中から、悪を抜くのは、容易なことではない。しかもその善と悪は、長い時間をかけて、心の中で熟成される。とくに善は、10年とか、20年とか、長い年月を経て熟成される。いつか、あなたも、親ではなく、1人の人間として、子どもに評価されるときがやってくる。その評価に耐えうる人間になれるかどうか。それは子育てにおける、大きなテーマのひとつと考えてよい。

●すなおな子ども
________________________________________

親や教師の言うことに従順で、それに静かに従う子どもを、すなおな子どもというのではない。すなおな子どもというときは、(1)心の状態(=情意)が、そのまま表情となって表れる子ども、(2)心のゆがみ(いじける、つっぱる、ひねくれるなど)のない子どもをいう。イヤだったら、「イヤ!」と言う。何でもないことかもしれないが、それが自然な形でできる子どもを、すなおな子どもという。

●至上の愛
________________________________________

ある母親は、自分の子どもが死ぬか、生きるかの大病を繰りかえしたとき、天に向かって、こう言って祈ったという。「私の命は、どうなってもいい。私の命と交換してでもいいから、子どもの命を救ってエ!」と。こうした(自分の命すら惜しくない)という、まさに至上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。子どもを、ただの子どもと思ってはいけない。あなたの子どもは、あなたに何かを教えるために、そこにいる。

●シャドウに警戒する
________________________________________

人は善人ぶることによって、自分の中に潜む(邪悪な部分)を、どこかへ押し込める。これをユングという学者は、「シャドウ」と呼んだ。そのシャドウを、子どもはうしろから見ていて、そっくりそのまま、引き継いでしまう。ときとして、牧師や僧侶など、聖職者と呼ばれる人の子どもが、凶悪犯罪人になるプロセスは、こうして説明される。善人ぶるとしても、それを仮面(ペルソナ)として、意識すること。仮面を脱ぎ忘れてはいけない。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/++++++++++++++++はやし浩司

●自立したよき家庭人
________________________________________

アメリカでもオーストラリアでも、そしてドイツでもフランスでも、親や教師たちはみな、こう言う。「子育ての目標は、よき家庭人として、子どもを自立させること」と。が、一方、この日本では、いまだに、出世主義、名誉主義、さらには権威主義が、大手を振って、まかり通っている。封建時代の亡霊たちが、いまだに、のさばっている。そしてそれが教育について言えば、諸悪の根源になっている。

●「偉い」という言葉を、廃語にしよう
________________________________________

日本では、地位や肩書のある人を、「偉い人」という。一方、英語には、「偉い人」にあたる言葉すらない。あえて言うなら、「respected man」ということになる。「尊敬される人」という意味である。地位や肩書は、関係ない。だから子どもには、「偉い人になれ」ではなく、「尊敬される人になれ」と言う。それが子どもの心をまっすぐ伸ばす。

●「家族」という重圧
________________________________________

家族は、それ自体、美徳であり、個々の人の心をいやす、心のより所である。が、その家族も、ひとたびリズムが狂うと、今度は、重圧感となって、その人を苦しめることもある。事実、その重圧感(=家族自我群)の中で、もがき苦しんでいる人も多い。反対に、自分の子どもを、安易な親意識で、縛りつける親も少なくない。「産んでやった」「育ててやった」と。こうした言葉は、親子の間では、使うとしても、心して最小限にする。

●恩の押し売り
________________________________________

日本の親たちは、無意識のうちにも、子どもに対して、恩の押し売りをする。「産んでやった」「育ててやった」と。その代表的なものが、窪田聡という人が作詞した、『かあさんの歌』。「♪せっせと手袋編んでやった」「♪おとうは土間で、藁打ち仕事」と。あれほどまでに恩着せがましい歌はない。言うとしたら、「♪春になれば、温泉へ行ってくるよ」「♪家のことは心配しなくていいからね」だ。

●悪玉親意識
________________________________________

親意識にも、2種類ある。善玉親意識(=私は親としての責任を果たすという親意識)と、悪玉親意識(=親風を吹かし、自分の子どもを自分の支配下に置こうとする親意識)。悪玉親意識が強い親は、「産んでいやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と、そのつど、親の恩を子どもに押しつける。そしてあげくの果てには、「大学まで出してやったのに、何だ、その態度は!」と言うようになる。悪玉親意識に、注意!

●親の統合性
________________________________________

子どもは、自分のしたいこと(=自己概念)を、現実にすること(=現実自己)によって、自分を確立することができる。これを「自己の同一性」という。一方、親は、それでは満足できない。親は、自分がすべきことを、現実にすることによって、自分を確立する。これを「自己の統合性」という。その(すべきこと)には、多くのばあい、苦労や苦痛がともなう。親は子育てをしながらも、自己の統合性をめざす。

●人生の正午
________________________________________

満40歳前後を、「人生の正午」と呼ぶ。このころから、人は、老後の準備を始める。つまり「死」という限界状況の中で、自分のすべきことを模索するようになる。(したいこと)ではない。(すべきこと)を、だ。その準備を怠ると、その人の老後は、あわれで、みじめなものになる。孫の世話、庭木の手入れ、旅行ざんまいの生活が、けっしてあるべき(老後の生活)ではない。

●「だから、それがどうしたの?」
________________________________________

(したいこと)と、(すべきこと)の間には、大きな距離がある。それがわからなければ、自分にこう問うてみればよい。何か、おいしいものを食べた……だから、それがどうしたの?、と。あるいは何か、ぜいたくなものを買った……だから、それがどうしたの?、と。(したいこと)をしても、その答は返ってこない。(すべきこと)をしたときのみ、その答が返ってくる。

●子育ては、子離れ
________________________________________

心のどこかで子育てを意識したら、すかさず、子離れを考える。もっと言えば、いかに子どもの親離れをじょうずにさせるかを、考える。でないと、未熟な親のまま、いつまでも子離れできなくなってしまう。そのよい例が、野口英世の母である。外国で懸命に研究生活をしている自分の息子に向かって、「帰ってきておくれ」は、ない。言うとしたら、「私のことは心配しなくていい」「研究が終わるまで、帰ってくるな」である。未熟な親を、けっして美化してはいけない。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/++++++++++++++++はやし浩司

●「釣りバカ日誌」論
________________________________________

浜ちゃんとスーさんは、いつもいっしょに釣りに行く。しかし自分の妻は連れていかない。日本人には何でもない光景だが、欧米では、考えられない。会社の同僚たちとの飲み食い(=パーティ)するときでも、夫婦同伴が原則。もし欧米で、男どうしが、2人でいそいそと旅行に行こうものなら、同性愛者とまちがえられる。見なれた光景だが、日本の常識は、けっして世界の常識ではない。

■子はかすがい論
________________________________________

たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよくある。夫婦のきずなも、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならない。夫婦関係がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、子はまさに「足かせ」でしかない。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。

■親のうしろ姿
________________________________________

生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では「子は親のうしろ姿を見て育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がいる。「親のうしろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見せたくなくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとする。

■親の威厳
________________________________________

「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場にいるものには、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。その分だけ上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというものは、百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。

■育自論
________________________________________

よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちがってはいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係のないこと。子育てにかこつける必要はない。

■親孝行論
________________________________________

安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的な「孝行」を子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも子どもの問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。たがいにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲になるのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。親子は、あくまでも「尊敬する」「尊敬される」という関係をめざす。

■「産んでいただきました」論
________________________________________

● よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えていただきました」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そういうふうに思わせてしまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして恩着せがましい子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる依存型子育てというのが、それ。

■水戸黄門論
________________________________________

日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どんなことでもできる。ご注意!

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/++++++++++++++++はやし浩司

■「釣りバカ日誌」論
________________________________________

男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。

コメントを投稿