最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●希望論

2009-11-15 11:40:04 | 日記
●希望

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希望があれば、まだ何とか生きられる。
その希望にしがみついていけば、まだ何とか生きられる。
希望が、私たちを前向きに、ひっぱってくれる。

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●講演活動

 「あなたにとって希望とは何か」と聞かれたら、今の私は、「講演活動をすること」と
答える。
今は、その講演活動が楽しい。
見知らぬ土地へ行って、見知らぬ人に会う。
そして最近は、できるだけその土地のどこかの、旅館やホテルに泊まるように
している。
それが楽しい。

 今日も、沼津市の女性から、講演依頼が入った。
喜んで引き受けた。
このところ私の心が伝わるのか、遠方からの依頼が多くなった。
こういうのを心境の変化というのか。
ほんの少し前までは、県外からの講演については、ほとんど断っていた。
昨年(08年)は、北海道からの講演依頼も、2件あった。
(もちろん断ったが……。)

 講演が1本入ると、その日に備えて体力と知力を整える。
今までの講演の中で、もっとも長かったのは、4時間。
が、今は、4時間は、とても無理。
自分でもそれがよくわかっている。

 知力も整える。
講演というのは、ボケた頭では、できない。
そんな頭で講演したら、わざわざ聞きに来てくれた人に、申し訳ない。
つまりそうした(緊張感)が、私を未来へと引っ張ってくれる。

 で、明日はK市まで行って、講演をしてくる。
夜7時半~からの講演会である。
ときどき、そういう講演がある。
「そういう講演」というのは、夜の講演会をいう。
そういう時間帯にするのは、仕事をもっている人のため。

●孤独vs希望

 そこで希望とは、何か?
あえて今の心境をもとにして考えると、(孤独)の反対側にあるのが、(希望)と
いうことになる。

 講演の依頼があるというのは、まだ人の役に立てるということ。
私の話を聞いてくれる人が、まだいるということ。
そういう(人)がいると想像するだけで、孤独が癒される。
つまりそれが(希望)ということになる。

 今は、その希望にしがみついて生きていく。
細い糸かも知れないが、その糸が切れたら、おしまい。
私はそのまま(孤独)の世界へと、落ちていく。

 が、講演には、もうひとつの意味がある。

●真理の探究

 歌手が歌を歌っているのを見たりすると、ときどき、こう思う。
「いいなあ、あの人たちは……」と。
ステージにあがって、いつも同じ歌を歌えばよい。
それで観客は喜んでくれる。
もちろんそれなりの準備とか苦労は必要かもしれない。

 しかし講演のばあいは、同じ話は、できない。
私もしたくない。
毎回、ちがった話をしたいし、ちがった話をする以上、さらによい話をしたい。
そのためには日々の鍛錬あるのみ。
その鍛錬を通して、より「真理」に近づく。

 もちろんそのためには、本を読んだり、考えたりする。
文を書いたりする。
その過程が楽しい。
とくにその向こうに、キラリと光るものを発見したときは、宝石を見つけたときの
ように、うれしい。
その光るものの向こうに、私の知らなかった世界が広がっている。

 講演というのは、あくまでもその(結果)でしかない。

●緊張感

 その講演だが、ときどき1年先とか、1年半先の依頼があるときがある。
今から思うと、そのときどうしてそんなことで迷ったと思うのが、こんな
ことがあった。

 ちょうど50歳になったころ、1年先の講演依頼があった。
そのときのこと、私はこう思った。
「1年先だって?」「そのときまで、私は生きているだろうか?」と。

 それからもたびたび、そういう講演依頼があった。
が、やがてそういう思いは弱くなり、今では1年先の講演でも平気で受けるように
なった。
反対に、「どんなことがあっても、そのときまで元気でいよう」と心に誓う。
そのために体力づくりと、知力の維持に努める。
大きな講演会のばあいは、その1週間ほど前から、運動量をふやす。
体調を整える。
先にも書いたが、こうした一連の緊張感が、私を前へ、前へと、引っ張っていく。

 言うなれば、馬の前につりさげられたニンジンのようなもの。
「いつかは食べられるかもしれない」という思いをもって、前に進む。
 
だから今の私には、うしろを振り向いている暇はない。
向きたくもない。
そうでない人たちは、そういう私を見て、「親戚づきあいが悪い」とか、
「先祖を大切にしない」とか、言う。
しかし今の私には、そういう考え方は、みじんもない。

●宗教観

 こんなことを言うと、親戚の人たちは、顔を真っ赤にして怒るだろう。
しかし私はこの1年の間に、仏壇を開いて、手を合わせたのは一度しかない。
信仰心といっても、そういう信仰心は、私にはない。
仏教徒かキリスト教徒かと聞かれれば、心は、キリスト教徒のほうに、近い。

クリスマスは、毎年祝うが、釈迦の誕生日など、祝ったこともない。
それに「寺」というと、どこもジジ臭くていけない。
(自分がジジイのくせに、そういうことを言ってはいけないのだが……。)
私の年齢になると、四国八八か所巡りというのを始める人もいる。
が、今の私には、とても考えられない。
(そのうち、世話になるかもしれないが……。)

●直送+散骨

 とは言っても、死に方を考えていないわけではない。
しかし私は、直送(病院から直接、火葬場で火葬)を望む。
葬式はまったく、不要。
みなが集まって、おいしいものでも食べてくれれば、それでよい。
で、そのあと、遺骨は、散骨でも何でもよい。
庭の肥料にしてくれても、一向に構わない。

 大切なのは、今を懸命に生きること。
悔いが残らないように生きること。
生きて、生きて、生きまくること。
そこに(死)があるとしても、そのときまで、前に向かって生きること。
言うなればそのとき残る私の死体は、ただの燃えカス。
そんなものを大切にしてくれても、意味はない。
うれしくもない。

 自信はないが、(希望)があれば、それは可能。
いつまでも前向きに生きる。
それが可能。
大切なことは、希望を絶やさないこと。

●希望論

 その希望は、向こうからやってくるものではない。
自ら、作り出すもの。
努力によって、作り出すもの。
よく「私には生きがいがない」とこぼす人がいる。
しかしそれはその人の責任。
……というのは、少し言い過ぎということはわかっている。
しかし生きることの、本当のきびしさは、このあたりにある。

 だからエリクソンは、「統合性」という言葉を使って、こう説明した。
「人生の正午と言われている満40歳(ユング)から、その準備をせよ」と。
つまり40歳ごろから、老後の生きがいとなるものを、準備せよ、と。
(すべきこと)を発見し、その(すべきこと)の基礎を作っていく。
そして老後になったら、その(すべきこと)を、現実に(する)。
それを統合性の確立という。

 何度も書くが、「退職しました。明日からゴビの砂漠で、柳の木を植えてきます」
というわけにはいかない。
そんな取ってつけたようなことをしても、長つづきしない。

 で、統合性の確立には、ひとつ大切な条件がある。
無私、無欲でなければならないということ。
功利、打算が入ったとたん、統合性の確立は、霧散する。

●無への帰着

 釈迦も「無」を説いた。
あのサルトルも、「無の概念」という言葉を、最後に使った。
私から「私」を徹底的に取り去る。
その向こうにあるのが、「無」。

 もし「死の恐怖」「死という不条理」と闘う方法があるとすれば、それは
徹底的に、私から「私」を取り除くこと。
「私」がある間は、死は恐怖であり、死はあらゆる自由をあなたから、奪う。
が、「私」がなければ、あなたはもう、何も恐れる必要はない。
失うものは、もとから、何もない。

 ……が、これはたいへんなこと。
私のような凡人は、考えただけで、気が遠くなる。
はたして、それは可能なのか。
ひとつのヒントだが、昨年亡くなった母は、私に、こんなことを教えてくれた。

 元気なときは、あれほど、お金やモノにこだわった母だが、あるとき私に
こう言った。
「お金で、命は買えん(買えない)」と。

 それまでの母はともかくも、私の家に来てからの母は、まるで別人のように、
穏やかで静かだった。
やさしく、従順だった。
その母が、そう言った。
そして死ぬときは、身のまわりにあるものと言えば、わずかばかりの洗面具と、
食器類、それに何枚かの浴衣だけだった。

 母は母なりに、「無」の世界を作りあげ、その中で静かに息を引き取った。

●希望論

 では、最後にもう一度、希望とは何か、それを考えてみる。
私は先ほど、「希望とは、向こうからやってくるものではない。
自ら、作り出すもの。
努力によって、作り出すもの」と。

しかしここでいう希望というのは、ある意味で、世俗的な希望をいう。
「宝くじが当たるかもしれない」という希望と、それほどちがわない。
となると、真の希望とは、何かということになる。
それはあるのか。
またそれを自分のものにするのは、可能なのか。

 が、ここであきらめてはいけない。

 旧約聖書にこんな説話が残っている。
こんな話だ。

 ある日、ノアが神にこう聞く。
「神よ、どうして人間を滅ぼすのか。
滅ぼすくらいなら、最初から完ぺきな人間を創ればよかった」と。
それに答えて神は、こう言う。

「人間は努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 つまり人間は努力しだいで、神のような人間にもなれるが、そうでなければ、
そうでない、と。
それが「希望」と。

 神とは言わない。
しかし神のような人間になれた人は、自らの崇高さに、真の喜びを見出すかも
しれない。
この世のありとあらゆるものを、許し、受け入れる。
もちろんそこにあるのは、永遠の命。
死の恐怖を感ずることもない。
おおらかで満ち足りた世界。
私たちは努力によって、その神に近づくことができる。
希望といえば、それにまさる希望は、ない。

 言いかえると、どんな人にも希望はある。
希望のない人は、いない。
しかもその希望というのは、あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけて
もらうのを、静かに待っている。
そしてひとたびそれを知れば、あなたは明日からでもその希望をふところにいだきながら、
前向きに生きていくことができる。

 ……ということになる。
もちろん私はまだそんな世界を知らない。
「そこにそういう世界があるかもしれない」というところまではわかるが、そこまで。
あくまでも私の努力目標ということになる。

 ともあれ、生きるには、希望が必要。
希望さえあれば、何とか生きていかれる。
が、希望がなくなれば、いかに世俗的な欲望が満たされても、そこに待っているのは、
むなしさだけ。
それがふくらめば、絶望。
それだけは確かなようだ。

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●価値観の転換(ライフサイクル論)

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(したいこと)から(すべきこと)へ。
中年期から老年期の転換期における、
最大のテーマが、これ。
ユングは、満40歳前後を、『人生の
正午』と呼んだ。
この年齢を過ぎると、その人の人生は、
円熟期から、統合期へと向かう。
ユングは、『自己実現の過程』と位置
づけている。


それまでの自分を反省し、では自分は
どうあるべきかを模索する。
事実、満40歳を過ぎるころになると、
(したいこと)をしても、そこにある種の
虚しさを覚えるようになる。
「これではいけない」という思いが、より強く
心をふさぐようになる。
同時に老後への不安が増大し、死の影を
直接、肌で感ずるようになる。


青春時代に、「私とは何か」を模索するように、
中年期から老年期への過渡期においては、
「私の使命とは何か」を模索するようになる。
自分の命の位置づけといってもよい。
そして(自分のすべきこと)を発見し、
それに(自分)を一致させていく。
これを「統合性の確立」という。


この統合性の確立に失敗すると、老年期は
あわれで、みじめなものとなる。
死の待合室にいながら、そこを待合室とも
気づかず、悶々と、いつ晴れるともない
心の霧の中で、日々を過ごす。


ただ、中年期、老年期、その間の過渡期に
しても、年齢には個人差がある。
レヴィンソンは、『ライフサイクル論』の
中で、つぎのように区分している
(「ライフサイクルの心理学」講談社)。


45歳~60歳(中年期)
60歳~65歳(過渡期)
65歳~   (老年期)


日本人のばあい、「自分は老人である」と自覚
する年齢は、満75歳前後と言われている。
また満60歳という年齢は、日本では、
定年退職の年齢と重なる。
「退職」と同時に発生する喪失感には、
相当なものがある。
そうした喪失感とも闘わねばならない。


そういう点では、こうした数字には、
あまり意味はない。
あくまでも(あなた)という個人に
あてはめて、ライフサイクルを考える。
が、あえて自分を老人と自覚する必要はないに
しても、統合性への準備は、できるだけ
早い方がよい。
満40歳(人生の正午)から始めるのが
よいとはいうものの、何も40歳にかぎる
ことはない。


恩師のTK先生は、私がやっと30歳を過ぎた
ころ、こう言った。
「林君、もうそろそろライフワークを
始めなさい」と。


「ライフワーク」というのは、自分の死後、
これが(私)と言えるような業績をいう。
「一生の仕事」という意味ではない。


で、私が「先生、まだぼくは30歳になった
ばかりですよ」と反論すると、TK先生は、
「それでも遅いくらいです」と。


で、私はもうすぐ満62歳になる。
「60歳からの人生は、もうけもの」と
考えていたので、2年、もうけたことになる。
が、この2年間にしても、(何かをやりとげた)
という実感が、ほとんど、ない。
知恵や知識にしても、ザルで水をすくうように、
脳みその中から、外へこぼれ落ちていく。
無数の本を読んだはずなのに、それが脳の
中に残っていない。
残っていないばかりか、少し油断すると、
くだらない痴話話に巻き込まれて、
心を無意味に煩(わずら)わす。
統合性の確立など、いまだにその片鱗にさえ
たどりつけない。


今にして、統合性の確立が、いかにむずかしい
ものかを、思い知らされている。


そこで改めて、自分に問う。
「私がすべきことは、何なのか」と。


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