最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●姉妹は敵(かたき)どうし

2012-02-14 09:27:23 | 日記


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 子育て最前線の育児論byはやし浩司     2月  20日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【姉妹の嫉妬】(はやし浩司 2012-01-09・雑感)

●気力

++++++++++++++++++

貧乏性。
貧乏性と、昔は言った。
「何かをしていないと、落ち着かない」。
それを貧乏性と言った。

休みが1週間もつづくと、そうなる。
最初の2、3日は、あれこれと忙しい。
しかしそれを過ぎると、とたんに、貧乏性になる。

そこで何かをし始める。
ゴソゴソ……
ゴソゴソ……、と。

(コソコソではない。念のため!)

+++++++++++++++++

●モニター

 4、5年前、27インチのモニターを買った。
解像度は、1920x1200(これをAとする)。
が、しばらくすると、ワイド画面が主流になった。
解像度は、1920x1080(これをBとする)。
そこでワイド画面のモニターに買い換えた(これをCとする)。
27・5インチ。
が、どうもの足りない。
もっと大きいのが、ほしくなった。

 そこで液晶テレビをモニターに使ってみることにした。
テレビ用のモニターを購入。
32インチ。
画面がぐんと大きくなった。
「これはいい」と思ったのも、束の間。
字が粗くて使い物にならなかった。
それに明るすぎた。

 で、しばらく(B)を使っていたが、これにも問題があった。
上下幅が狭いため、サイトによっては、そのつどスクロールをしなければならない。
そこで今朝、再び(A)に、戻した。
で、今は、その(A)を使いながら、この文章を叩いている。

 で、一言。

 パソコンのモニターは、明るすぎるのはよくない。
目が疲れる。
やや薄暗いかな……という程度のものがよい。
何時間もつづけて使うときには、とくにそうだ。
その点、パソコン専用のモニターは、かなり薄暗くすることができる。
テレビ用のモニターでは、それができない。

 しばらくこのモニターを使ってみる。

●露天風呂

 自家製の露天風呂が欲しくなった。
それに湯を張り、星空をながめていたい。
……ということで、あれこれ計画を練っている。

 まず、小さなベランダを作る。
その上に、木製の浴槽を置く。
湯や水は、ホースで引けばよい。
その気になれば、半日仕事。

 友人のTさんは、自分の山荘では、浴槽に、本物のドラム缶を使っている。
それを川沿いの空地に置き、露天風呂にしている。
Tさんは、何をするにも、本格的。
「浴槽はドラム缶がいちばんいい」と。

 太陽熱温水器を使い、湯を入れる。
熱さが足りないときは、下から薪(まき)で温める。
風呂へは、下駄を履いて、入る。

ただし川のそばだから、使えるのは、春と秋だけ。
夏は虫が多く、使い物にならない。
昼間は、アブの襲撃を受ける。
冬は、寒い。
風呂から出た後が、つらい。

●オーストラリア

 ワイフがオーストラリアへ行こうと言っている。
それをオーストラリアの友人に話すと、毎日のように資料を送ってくれる。
「縁」というのは、それをいう。
人というのは、自分を望んでくれる人のそばに行きたい。
1人でも、そういう人がいると、そこへ行きたい。

 そこで計画。

 が、オーストラリアの物価は、高い。
メルボルン市内でも、ちょっとよいホテルになると、1泊1名で、4~5万円。
最低でも2万円前後。
もちろん素泊まり料金。

 「料金が高い」というより、為替レートがおかしい。
現在、オーストラリアドルは、1ドル=80円前後で取り引きされている。
が、実際には、1ドル=40~50円くらい(?)。
それくらいだと、日本の物価水準と同じくらいになる。
(食品価格をのぞいて……。)

 どうしようか?

●のぞき

 年賀状を見てわかったが、みな、私のHPを見ている。
「いつもHPを見ています」という人が、何人かいた。
しかし私的には、それを喜んでいいのか、悪いのか……?
本音を言えば、あまり見てほしくない。
そういう人がいると、書きにくい。
あれこれと、気を使わねばならない。

 というのも、私は、プライベートなことを書くときは、その人とわからないように書く。
たとえば身内の話を、近所の人の話にしたり、親類や知人、友人の話にしたりする。
「私の親戚に……」と書いたからといって、親戚の話とはかぎらない。
そうでないことのほうが多い。
もちろんその逆もある。

 さらに、2人~3人の話を1つにまとめることもある。
もちろんその逆もある。

 ウソを書いているのではない。
これは私のようなもの書きにとっては、最低限守らなければならないマナーである。
その人の名誉を傷つけると、たいへんなことになる。
が、読む人が読むと、それがだれかわかってしまう。
「これはあのXさんのことだ」と。
それがこわい。

 とくに不愉快ななのは、「のぞき」。
HPをのぞいては、私の家の事情を探ろうとする。
数年前だが、こう言った男がいた。

「浩司君、君のHPだけど、この1年くらい、見てないかなア~」と。

 が、これはウソ。
今ではフリーのサービスや、フリーのソフトを使うと、どこのだれが何回くらいアクセスしてきたかが、1日単位でわかる。
(もちろん相手のIP番号を登録しておく必要があるが……。)
その男は、毎晩、11時前後に、私のHPをのぞいていた。

 で、私はその男にこう言ってやった。
「あなたのサーバーは、Axxxxネットでしたね」と。
その男は、一瞬ギクリとしたあと、そのまま黙ってしまった。

 私のHPは、それを必要とする人に見てほしい。
のぞき目的で見るのは、厳禁!
あとはみなさんの良識に任せる。

●露天風呂(2)

 このところ、物価が上昇している。
それが実感として、よくわかる。
先ほども、浴槽のHPをあちこちのぞいてみた。
露天風呂に使えそうな浴槽を探してみた。

 が、価格を見て、驚いた。
ヒノキで作った丸形浴槽ともなると、いちばん小型のサイズでも、40万円前後。
その上のサイズとなると、50~70万円前後。

(露天風呂付きの温泉でも、50万円もあれば、食事付きで、40回は入浴できる。)

 「高いなア~」と思ったところで、思考停止。
こうなったら、自分で作るしかない。
木材を買ってきて、自分で作る。
箱形のものであれば、まさに「箱」を作ればよい。

 今日にでも近くのDIYショップへ行ってみる。
あれこれ、自分で考え、自分で作っているときが、いちばん楽しい。

●モニター(2)

 やはりワイド型(16:9)のモニターのほうが、使いやすい。
……ということで、結局は、もとのモニターに戻すことにした。

 ゴソゴソ……と。
ちょうどそこへワイフがお茶を届けてくれた。
「(テレビの)モニターはどうするの?」と。

私「不要だから、あげるよ」
ワ「じゃあ、もらとくわ」と。

 意外と簡単に、もらい手が決まった。
が、階下の居間までもっていくと、そこから息子にバトンタッチ。
息子がそのままそのモニターをもって、自分の部屋に消えた。

●相談

 ……とまあ、つまらない話ばかり書いていてはいけない。
読者のみなさんに、申し訳ない。

……。

 おととい、ある女性から、こんな相談を受けた。
電話での相談だった。

(ただし最初に書いておきますが、どなたかの紹介がないかぎり、電話での相談はお断りしています。
おとといの相談は、昨年世話になった、ある学校の校長の紹介の方からのものでした。)

 いわく、「姉妹が、仲が悪くて、悩んでいます」と。

 おおざっぱに言えば、こういう内容である。

(1)2人の姉妹(娘)が、いる。
(2)年齢は、上が28歳、下が26歳。
(3)上の娘は、ケチでためこみ屋。家業を継がせたくない。
(4)下の娘は、負けん気でやり手。家業を継がせたい。
(5)いつも喧嘩ばかりしている。
(6)一方に家を出るように言っているが、姉のほうは、一歩も譲らない。
(7)妹にボーイフレンドができた。
(8)そのボーイフレンドに、姉のほうが横恋慕。姉との結婚話まで進んでいる。
(9)現在、そのボーイフレンドを取り合って、家の中が大騒動。

 で、どうしたらいいか、と。

●姉妹

 『年齢の近い姉妹は、憎しみ相手』と。
昔からそう言う。
乳幼児期からの(わだかまり)があるから、その分だけ、根が深い。
姉妹がうまくいっているケースとなると、10に1つもない。

 が、話を聞くと、さらに深刻。

 姉が、ボーイフレンドと妹の仲を裂こうと、あれこれと告げ口をしているというのだ。
そのひとつが、妹に、中絶経験があること。
それを、姉は、ボーイフレンドに話してしまった。
それが大騒動の原因にもなった。
相談してきた女性(母親)は、こう言った。
「明日にでも事件になりそうで、恐ろしくてなりません」と。

●現在の状況

 姉は妹に向かって、「私が長女だから、家を出て行け」と。
妹は、「私が店を手伝っているから、あんたこそ、出て行け」と。
家は江戸時代からある、みやげもの屋。
その町の門前町の中でも、中心的な存在である。
敷地も広い。

現在の状況は、つぎのようらしい。

(1)たがいに口もきかない。
(2)ささいなことで、突発的に大げんかになる。
(3)夫(父親)は、「店を継いだものに、財産を譲る」と言っている。
(4)ボーイフレンド、つまり彼氏は、最近は、姉の方とデートしている。

●嫉妬

 こういう話を聞くと、乳幼児期の子育てがいかに重要かがわかってもらえると思う。
この時期の兄弟・姉妹関係が、そのままおとなになっても、尾を引く。
嫉妬がからんでいるだけに、それこそ相手を、殺す、もしくはその寸前のところまで発展する。
(実際、そういう例は少なくない。)

 原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

嫉妬について書いた原稿です。
中日新聞発表済み。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもの嫉妬

 嫉妬はたいへん原始的な、つまり本能に根ざす感情であるだけに、扱い方をまちがえると、その子どもの人間性そのものにまで影響を与える。
「原始的」というのは、犬やネコをみればわかる。
犬やネコは、一方だけをかわいがると、他方ははげしく嫉妬する。
また「人間性」というのは、情緒面のみならず、精神面にも大きな影響を与えるということ。
そしてそれは多くのばあい、行動となって表れる。

 嫉妬が「内」にこもると、子どもはぐずったり、いじけたりする。
ひがみが強くなったり、がんこになったりする。

幼児のばあい、原因不明の身体の不調(発熱、下痢、嘔吐)を訴えることもある。
「外」に出ると、いじめや動物への虐待となることが多い。嫉妬がからんでいるばあいには、それが相手に向けられたときには、「殺す」というところまでする。残虐かつ陰湿になるのが特徴で、容赦しないのが特徴。

弟に向かって自転車で突進したケースや、弟を逆さづりにして頭から落としたケース、さらに妹の人形をバラバラにしてしまったケースや、妹をトイレに閉じ込めてしまったケースなどがある。

 一人、妹にお菓子と偽り、チョークを口の中に入れた女の子(小2)もいた。
また動物への虐待では、飼っていたハトの背中に花火をくくりつけ、ハトを殺してしまったケース、つかまえてきたカエルを地面にたたきつけて殺してしまったケースなどがある。

 ふつう子どもが理由もなく(また原因がはっきりしないまま)、ぐずったり、ふさいだりするときは、愛情問題を疑ってみる。
そういうときは抱いてみるとわかる。
最初は抵抗する様子を見せるかもしれないが、強引に抱き込んだりすると、そのまま静かに落ち着く。

 乳幼児期は、静かで穏やかな生活を大切にし、嫉妬と闘争心の二つはいじらないようにする。
中に、わざと子どもを嫉妬させながら、親への依存心をもたせる人がいる。
一昔前の親がよく使った方法だが、依存心をもたせるという意味で、好ましくないことは言うまでもない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●いろいろなケース

 「嫉妬がからんでいるだけに、ことはたいへんやっかいです」と、私は答えた。
それに財産問題も、からんでいる。
(財産)イコール、(欲望の追求)と考えてよい。
こうなると、さらに、やっかい。
一筋縄では行かない。

 私は今までに知ったケースをいくつか、話してやった。

(1)財産(土地)をきちんと2等分したのだが、今度は南側の土地、北側の土地で、けんかになってしまった姉妹。
(2)娘の夫たち(夫には相続権はない)まで加わってきて、玄関先で毎週のように、大げんかした兄弟・姉妹。
(3)古い例では、『ブーリン家の姉妹』がある。
映画にもなっている。

●『ブーリン家の姉妹』

 映画『ブーリン家の姉妹』の映画案内には、つぎのようにある。

『……16世紀のイングランド。
新興貴族のトーマス・ブーリン卿は一族繁栄のために才気あふれる美しい娘アンを国王ヘンリー8世の愛人に差し出すことを目論む。
ところが、王の心を捉えたのはアンの妹で凡庸だが気立ての良いメアリーだった。
一家は宮中に移り住み……』と。

 イギリス王室にも、そんな暗い歴史がある。

 で、一度こうした確執ができると、それを解きほぐすのは、ほぼ不可能と考えてよい。
姉妹でも、他人以上の他人になる。

 ではどうするか?

●「流れ」

 この種の問題は、(流れ)に任すしかない。
『時は心の癒し人』(はやし浩司)だが、その「時」にも、手に負えないときがある。
で、そういうときは、(流れ)に任す。
流れに任せておくと、やがて水がより下を求めて流れていくように、自然な形で解決する。
親が介入すると、かえって火に油を注ぐようなことになりかねない。

 姉妹関係は壊れたまま。
姉とボーイフレンドが結婚するようなことにでもなれば、さらに壊れる。
そうなればなったで、もうどうしようもない。
この先もずっとそうと、あきらめる。
『あきらめは悟りの境地』(はやし浩司)ともいう。
コツは双方の聞き役に回り、親が意見を言ったり、結論を出してはいけない。
成り行きに任せれば、姉妹双方で、何らかの結論を出す。
あとは、それに従う、と。

 運命というのは、そういうもの。
無数の糸が、複雑にからみあいながら、その人の人生を決める。
「家」にしても、そうだ。
家の運命も、それで決まる。

 ……ということで、今朝はここまで。
昨夜、ワイフが食パン製造器をセットした。
そのにおいが、この2階にある書斎まで入ってきた。
「8時30分にセットしたはず」と。
今、時計を見るとその8時半。
台所のほうで、カチャカチャと器具を外す音がする。

 では今朝はここまで。
2012/01/09朝記

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

『時は心の癒し人』『あきらめは悟りの境地』について書いた
原稿を探してみます。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●『時は心の癒し人』(2003年07月15日記)

●子育て随筆byはやし浩司(978)

A市にお住まいの、Bさんからのメール

先日、A市での講演会に行かせていただきました。HPも見させていただき、色々思う事がありました。

私の兄は公務員で一人暮らし、二年ほど前に神経症になりました。
ある日、兄から電話があり、「お父さんが俺の仕事場の上司に俺の話をしているみたいだか
ら、上司に電話したりするのはやめるように言ってくれ……」ということでした。
私は実家に帰ったときに早速その話をしました。

父は「おかしいな。そんな話したことないのに……」と言い、その返事も兄に伝えました。

それからも何度かそんな内容の電話が兄からかかってきましたが、父の返事は変わりませんでした。

そんな電話から三か月くらいあとだったでしょうか、四国に旅行中の両親から電話があり「KK(兄)が調子悪くなって家に帰っているみたいだから、様子見てきて!」という事だったので実家に行ってみたところ、生気のない兄が母達が留守だった為、雨戸も開けずに暗い家の中にいました。

話しを聞けば病院で神経症と診断され、仕事を二週間休んできたという事でしたが、私にはとても二週間で復帰できるような状態でないことがわかりました。旅行中の両親も旅行をとりやめ帰宅。

その後は、もう大変でした、毎日のように母が泣いて電話をしてきたり、逃げるようにして父が私の家に来たり……。

兄は乱暴ではなく、とにかく元気がない状態。目の感じが違っていました。
仕事を休み始めた当初は私を呼びだし「俺、ホントに頭がおかしくなるかもしれないから、後は頼むな……。」

と言われた事もあります。「それだけ分かってるなら、頭おかしくないよ! 頭おかしい人はそんな事言わない」と返事しましたが、その返事も、それで良かったのか悪かったのか……。

どんな治療をしたかは、私は詳しく聞きませんでしたが「病院かえた方がいいかな?」とか、「この薬は普通こういう病気では処方されないらしい……」とか、とにかく、何もかもに神経質になっているのがわかりました。

あの時のおかしな電話の事もこれだったんだ……と後からわかりました。被害妄想のようなものだったようです。

「役所でみんなが俺の話をしてる。」とか「噂されてる。」とか色々言っていました。
結果、仕事場に行くとパニック症状が起きてしまい、どうにもならなくなり自分から病院に行ったようでした。

HPに、チックの事や神経症の事が書いてあるのを見て思い出したのですが、兄は小学校の頃チック症状で、目をぱちぱちさせていました。
それを母がとても気にしていました。

兄は昔からすくお腹が痛くなったり、頭が痛くなったりしていました。誰かが病気になると自分も調子が悪くなったような気がする……とか、とにかく変わった人でした。そして、神経症と診断されてから一年後、軽い鬱病だった……という診断にかわり(?)ましたが、とりあえず仕事に復帰出来る状態にまで回復し、今は部所を変えていただき、実家からなんとか仕事に通っています。

チックに始まり、三四歳で神経症。同じ家庭環境に育った私は何事もなく過ごしています。
今、私には、年中児の息子と五年生の息子、中三の息子がいますが、子育てにおいてあれこれ真剣に考えることもなく過ごして来たような気がします。

でも兄をみて、HPをみて、小さい頃のささいな事と思えたものが、その後大きな問題に発展してしまう恐怖を感じました。

長男はたまに寝言を言うし、一年前までおねしょ(年に一回くらい)しました。
実は、それも何かのサインだったのかと思うとドキドキします。

数日前、私の親類の子供が、脳炎を起こしました。結果、大脳がほとんどやられてしまっていて、治療の方法がない……と言うことでした。お見舞いに行きましたが、いとこは泣いていました。
かける言葉も見つからない状態です。

そんなこともあって、「おまえは生きているだけでいい……」という言葉が耳から離れません。

+++++++++++++++++++

【はやし浩司より、Bさんへ】

 講演をしていて、一番、気をつかうのは、聞きにきてくれた人に、不安感を与えないということです。もし私の講演が、Bさんを不安にしてしまったようでしたら、どうかお許しください。

 率直に言って、一つの講演の中でも、私は無数の話を織りまぜます。
で、そういう話のひとつずつに、それぞれの人が、まったく別の反応を示します。
ときに、私がまったく予期しないところで、まったく考えもおよばなかった反応を示す人もいます。
実のところ、Bさんがそうで、私は、申し訳ない気持ちで、いっぱいです。できれば楽しく、ハハハと笑っていただければよかったのですが……。
しかし私の話は、いつも暗いですね。申しわけありませんでした。

 が、私がここで答えられる部分は、「長男はたまに寝言を言うし、一年前までおねしょ(年に一回くらい)しました。
実は、それも何かのサインだったのかと思うとドキドキします」という部分だ
けです。
 
 これについては、寝言にしても、「たまに」ということですし、おねしょも、終わっているという点で、もう心配する必要はないと思います。
それに寝言にせよ、おねしょにせよ、ほとんどの子どもが経験することで、大きな問題ではありません。

 ただ子どもを包む環境が、神経質になっていないかは、反省してみてください。
コツは、子ども自身が安心して休めるような、時と場所を、家庭の中に用意することです。
子どもを、温かく包むように、無視する。
子どもの側から見て、親の視線を感じさせないようにします。

 こういうケースでは、Bさん自身が、問題そのものに気づいておられますので、少し時間はかかりますが、それで問題は解決します。
どうか自分を信じてみてください。

 で、話を戻します。

 お兄さんの件ですが、どの家庭も、外から見ると、うまくいっているように見えますが、それぞれ似たような問題をかかえています。
ほとんどが、そうではないかと思います。
みんなある意味で、懸命に、そして必死に、そうした問題と戦っています。
ですから、決して「自分だけが……」と思ってはいけません。
思う必要も、ありません。

 心だって、たまには病気になるのです。
ただふつうの、つまり風邪や肺炎のような体の病気と違うところは、心の病気は、外から見えにくいということ。
それにたいてい長期にわたるということです。
こじらせれば、一生つづくということも、珍しくありません。

 だから心が病気になったからといって、深刻になること自体、おかしいのです。
しかもこの種の「心の病気」は、まじめな人ほど、なります。
もっとわかりやすく言えば、そうなったとしても、基本的には、その人を取り巻く、社会や環境のほうが、おかしいのです。
脳に機質的な問題があれば、話は違いますが、機能的問題であれば、今、ほとんどの病気は治るという時代です。

 かく言う私も、過去において、何度か、人生そのものに絶望したことが、あります。
人前では、いつも明るく振る舞っている私ですが、実のところ、心はボロボロ。
私ほど、心の病気のデパートのような人間は、少ないと思います。
よく私は、「あらゆる精神病を、広く浅くもっている」と冗談ぽく言いますが、それはまちがっていません。

 また生まれながらにして(?)、家庭問題のいざこざには、常に悩まされました。
実のところ、今も悩まされています。
しかし私のばあいは、どれも長期で、もうなれたというか、あきらめたというか、そういう状態になっています。
またそういう私を悪く言う人もいますが、「勝手にどうぞ」という心境です。

 Bさんについても、今さら過去をほじくりかえしても、意味はありませんし、今の問題がどうかなることもありません。
しかたないのです。
みんな、懸命に生きていても、どこかで穴があき、そこから水が漏れることだってあるのです。懸命に生きていても、どうにもならない問題が、起きるときには、起きるのです。

 ここで大切なことは、仮にそういう問題が起きたとしても、それは私やあなたの問題ではないということです。
それが人間が、人間であるがゆえに、つまりは生きることにまつわる限界のようなものです。
そんなわけで、つぎに大切なことは、そういう問題が起きたとしても、それはそのまま、受け入れるということです。
まさに「なるようになれ!」と自分に言ってきかせることです。

 この言い方は、一見、無責任な言い方に見えるかもしれませんが、あのジョン・レノンも、『レット・イット・ビー』の中で、そう歌っています。
「♪レット・イット・ビー(あるがままにせよ)」と。
実のところ、私もずっと、そうしてきました。ものごとというのは、なるときには、放っておいても、なる。
しかしならないときは、がんばっても、ムダ……ですね。
とくに心の病気について言えば、そうではないでしょうか。

 ただお母さんの態度は、あまりほめられたものではありません。
娘のあなたに、「その後は、もう大変でした、毎日のように母が泣いて電話をしてきたり、逃げるようにして父が私の家に来たり……」とは?

 「逃げるようにして……」というのは、お父さんが、お母さんから、「逃げる」という意味でしょうか。
こういうケースでは、一番、自分を律しなければならないのが、お母さんなのですが……。
少し残念ですね。
お母さん自身が、あなたのお兄さんを、まったく受け入れていないばかりか、そうした態度が、お兄さんのみならず、あなたをも苦しめていることに気づいていない?
 またあなたのメールだけで、こう結論づけるのは、危険なことかもしれませんが、お兄さんが子どものころ見せた、いろいろな神経症による症状(チックなど)の原因も、お母さんにあったのではないかということです。
こういうケースでは、母親の態度というか、姿勢が、一番、重要なカギを握ります。
そのお母さんが、こうまで動揺してはいけません。

 ……と、ほとんど回答になっていない返事で、ごめんなさい。ただ言えることは、ことあなたについて言うなら、『時は、心の癒し人』ということです。
時間が解決してくれます。時間がたつと、あなた自身が、周囲を受け入れ、そして心穏やかになります。こういうときは、あせって、あれこれしないほうがよいです。
じっとがまんします。(もちろんそれでお兄さんが、よくなるとかということではありませんが……。あくまでも、あなた自身の問題が、です。)

 最後に、お兄さんがそうだったからといって、あなたのお子さんが、そうなるということは絶対にありません。
どうか過剰に不安になったり、心配したりしてはいけません。
一つだけ心配される点について、書いておきます。

 あなたのお母さんとあなたのお兄さんの関係においてですが、あなたのお母さんは、お兄さんを、全幅には受け入れてはいなかった? 
それが今いる、「お兄さん」をつくったと考えられます。
いろいろ事情があったのでしょう。
だからあなたのお母さんを責めても意味はありません。

 ただそういう関係、つまりあなたのお母さんのもつ、子育て観が、今のあなたの影響を与えている可能性はあります。
これを心理学では、世代伝播とか連鎖とか言います。つまり子育ては繰りかえすということです。

 そこでこれはあなたにとって、たいへんつらいことかもしれませんが、「母親である」という虚像というか、偶像を排除して、一度、あなたのお母さんを、一人の人間として、冷静に判断してみてください。
そしてあなたのお母さんのもつ、人間的な欠陥というか、精神的な未完成部分というか、はたまた情緒的な未熟性というか、そういうものを、冷静に判断してみてください。

 そしてそれに気づいたら、あなた自身は、それを繰りかえさないようにします。あなたの子どもに対して、です。
そこだけを注意すれば、もう心配はありません。ほとんどの人は、それに気づかないまま、同じことを繰りかえします。
どうかご注意ください。
繰りかえしますが、だからといって、あなたのお母さんを責めても意味はありません。
多分、もうかなりの年齢の方だと思います。
人間も、満四五歳前後を境に、あとは、急速に、人間的な進歩をやめます。
ばあいによっては、そのころを境に、退化します。
年配だから、人間的にもすぐれているだろうと考えるのは、幻想以外の何ものでもないということです。

 では、今日は、これで失礼します。また何かあれば、ご連絡ください。なおあなたからのメールは、このような形で、マガジンに転載させていただきますが、よろしくご了解ください。勝手なお願いですみません。よろしくお願いします。
(030715)

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あきらめは悟りの境地(中日新聞にて発表済み)

 子育てをしていて、あきらめることを恐れてはいけない。
子育てはまさに、あきらめの連続。
またあきらめることにより、その先に道が開ける。もともと子育てというのはそういうもの。

 一方、「そんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばればがんばるほど、子育ては袋小路に入る。
そしてやがてにっちもさっちもいかなくなる。
要はどの段階で、親があきらめるかだが、その時期は早ければ早いほどよい。
……と言っても、これは簡単なことではない。
どの親も、自分で失敗(失敗という言葉を使うのは適切でないかもしれないが)してみるまで、自分が失敗するとは思っていない。
「うちの子にかぎって」「私はだいじょうぶ」という思いの中で、行きつくところまで行く。
また行きつくところまで行かないと気がつかない。

 要は子どもの限界をどこで知るかということ。
それがわかれば親も納得し、その段階であきらめる。
そこで一つの方法だが、子どもに何か問題が生じたら、「自分ならどうか」「自分ならできるか」「自分ならどうするか」という視点で考える。
あるいは「自分が子どものときはどうだったか」と考えるのもよい。
子どもの中に自分を置いて、その問題を考える。

たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい」と言ったら、すかさず、「自分ならできるか」「自分ならできたか」と考える。
それでもわからなければ、こういうふうに考えてみる。

 もしあなたが妻として、つぎのように評価されたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。

「あなたの料理のし方、76点。
接客態度、54点。
家計簿のつけ方、80点。主婦としての偏差値48点。
あなたにふさわしい夫は、○○大学卒業程度の、収入○○万円程度の男」と。

またそういうあなたを見て、あなたの夫が、「もっと勉強しろ」「何だ、この点数は!」とあなたを叱ったら、あなたはそれに一体どう答えるだろうか。
子どもが置かれた立場というのは、それに近い。

 親というのは身勝手なものだ。
子どもに向かって「本を読め」という親は多くても、自分で本を読んでいる親は少ない。
子どもに向かって「勉強しろ」という親は多くても、自分で勉強する親は少ない。
そういう身勝手さを感じたら、あきらめる。

そしてここが子育ての不思議なところだが、親があきらめたとたん、子どもに笑顔がもどる。
親子のきずながその時点からまた太くなり始める。
もし今、あなたの子育てが袋小路に入っているなら、一度、勇気を出して、あきらめてみてほしい。
それで道は開ける。

(以上、2012/01/09記)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

**********以上、はやし浩司 2012年01月09日**********


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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●映画「フライト・ナイト」

2012-02-14 09:05:08 | 日記




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 子育て最前線の育児論byはやし浩司     2月 17日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【人間が存在する意味】

●映画『フライト・ナイト』(Fright Night)

 昨夜、映画『フライト・ナイト』を観てきた。
昨日が、封切り日だった。
あまり観たくなかった。
この種の映画は、見飽きた。

が、このところよい映画がない。
ボケ防止のためにということで、観てきた。
内容は、3流。
予想通り、意味のない恐怖映画。
星はつけようもない。

 帰りに劇場から歩いて5分ほどのところにあるレストランで、遅い夕食を食べた。
すでに時刻は午後10時を回っていた。
そこでワイフと、こんな話をした。

●ドラキュラ※

 ワイフがこう聞いた。
「ドラキュラって、本当にいるの?」と。
私は即座に、こう言った。
「いるわけがない。『いる』という意味がない」と。

 映画『フライト・ナイト』は、ドラキュラの映画だった。
そのドラキュラ。
どんな生物にも、その生物が存在するためには、その「意味」がある。
たとえば庭を這うアリにしても、そうだ。
もしアリがいなければ、この地上は、ゴミだらけになってしまっていただろう。
動物や虫の死骸だらけになってしまっていただろう。

 蚊にしても、ネズミにしてもそうだ。
基本的には、ふえすぎた生物を減らすという「意味」のために、「存在」する。
(もっとほかの「意味」もあるかもしれないが……。)

 アリがいるから、地上はいつも、クリーンな状態に保たれる。
蚊にしても、ネズミにしても、伝染病を蔓延させることで、「数」を減らす。
あのクモにしても、もしクモがいなかったら、人間は絶滅していただろうと言われている。
私の意見ではない。
生物学者たちの常識である。

それが「意味」ということになる。

 では、ドラキュラは、どうか?
存在したからといって、どういう意味があるのか?

 つまり意味がない。
いなくても、何も困らない。
意味がない生物は、10万年単位の淘汰を経て、絶滅する。
1万年でもよい。
1000年でも、100年でもよい。

(注※……ドラキュラではなく、「バンパイア」のまちがい。以下、同じ。

●思考力

 言い換えると、人間にしても、そうだ。
人間が「存在」するには、それなりの「意味」がある。
「意味」があるから、この世界に「存在」する。

 それを人間自身が自覚しているかどうかは、わからない。
庭を這うアリと同じように、自分たちの「存在の意味」を知らないまま生きているかもしれない。

が、人間には、思考力がある。
こうして文にして、他人に、考えたことを伝える能力がある。
そういう能力をフルに使えば、人間は、自ら、その「意味」を知ることができるかもしれない。
人間の「存在」をはるかに超えた、その向こうにある「意味」を知ることができるかもしれない。

 その「意味」を知ることが、人間の英知の最後の目標ということになる。

●人間の存在

 が、反対に、もし人間が「存在する意味」を失ってしまったら、どうだろうか。
たとえば今、地球温暖化が深刻な問題になっている。
人間どころか、そのため、ありとあらゆる生物が絶滅するかもしれない。
つまり「人間の存在」そのものが原因で、地球を火星のようにしてしまうかもしれない。

 人間という、たった一種類の生物のために、その他ありとあらゆる生物が犠牲になる?
もしそうなら、人間には「存在する意味」がないということになる。
が、そう考えることは、あまりにも絶望的。
またそういうふうには、考えたくない。

●がん細胞

 昔、東大の松井孝典教授(東京大大学院教授・惑星物理学)が、何かの会議でいっしょになったとき、こんなような言葉を使った(「愛知万博・諮問委員会)。
「生物圏」と。
(「生命圏」だったかもしれない。あるいは「人間圏」だったかもしれない。)

 宇宙から見ると、個々の生物を見ることはできない。
が、地上には「生物圏がある」と。

 私はその言葉を聞きながら、「ああ、人間って、がん細胞と同じだな」と思ってしまった。
宇宙から見ると、地球そのものが生命体。
生物は、その地球の表面を、皮膚のように覆っている。
つまり人間が住む「生物圏」は、まさに細胞の集合体のようなもの。
その細胞の中にあって、人間は自ら、地球という生命体を自ら滅ぼそうとしている。
だから、がん細胞。

 が、「がん」にしても、「存在する意味」がある。
最終的には、がんが、生命にピリオドを打つ。
もしがんがなければ、それこそ地球上は人間だらけになってしまう。
人間だらけになってしまったら、人間の進化は、そこで停止してしまう。
絶滅してしまう。

 つまりがんは、最終的には古い人間を解体するという「意味」をもっている。

 がんによって、古い世代が死に、新しい世代が生まれる。
そのプロセスの中で、人間は、進化をつづけることができる。

●貪欲さ
 
 ということは、仮に地球が火星化したとしても、そうするのが人間の「存在の意味」ということになる。
つまりありとあらゆる生物を絶滅させる。
そのために人間は存在する(?)。
が、先にも書いたように、そういうふうには考えたくない。
またそんなことには、だれも、納得しないだろう。
この文章を読んでいるあなたにしても、「バカな!」と言って吐き捨てるかもしれない。

 そこでもう一歩、踏み込んで考えてみる。
地球を破壊しつつあるのは、人間なのか、と。
「人間の存在」なのか、と。

 どうもそうではないような気がする。
現在、この地球を破壊しているのは、「人間の存在」ではなく、「人間が原罪的にもつ貪欲さ」が、原因ではないか、と。

 もし人間が、ほんの少しだけその貪欲さをコントロールできれば、地球を破壊しないですむかもしれない。
要するに、これは「頭の使い方」の問題であって、「存在」の問題ではない。

●「淘汰」というテスト

 が、こうも考えられる。
人間は、現在、宇宙的な規模で、テストされているのではないか、と。
飛躍した意見なので、驚く人もいるかもしれない。
が、ありえないことではない。

 もしどこかの惑星に、生物がいたとする。
その生物が、進化を遂げ、人間のような知的生物になったとする。
その生物は、やがて宇宙へと乗り出していくだろう。
ちょうど昔の船乗りたちが、海へ出て、つぎつぎと大陸を発見していったように、である。

そのとき、もしこれらの生物がみな、宇宙へ飛び出したとするなら、今ごろ、この宇宙は、東京の渋谷や新宿のようになっていたはず。
この銀河系だけでも、100万の「技術文明」が存在するという(「ドレイク方程式」)。

 つまり宇宙人だらけ!

 が、そうなったら、それこそ星間戦争が始まるかもしれない。
知的にすぐれているだけに、宇宙人たちがもつ武器も、それに比例して破壊力も大きくなる。
太陽くらいの星なら、一瞬にして消すこともできる。
そうなったら、宇宙全体が、危機に瀕する。

 そこで今、私たち地球人は、その「淘汰」というテストを受けている。
「宇宙へ飛び出す、宇宙人としてふさわしいか、どうか」と。

 地球が火星化し、知的生物がそこで絶滅する。
その資格がないなら、その時点で、絶滅する。
宇宙規模で生命を考えるなら、それも「あり」ということになる。
地球程度の惑星なら、それこそ掃いて捨てるほどある。

●本質的な問題

 人間が、科学、文化、芸術、教育、宗教……、ありとあらゆる英知を使って立ち向かうべきもの。
すべての英知の最終目標といってもよい。
それが人間が原罪的にもつ「貪欲さ」ということになる。

 この貪欲さの克服なしに、人間は、知的生物の地位を確立することはできない。
地球温暖化の問題も、いろいろな分野で議論されている。
しかしそれは言うなれば、各論。
それとも対症療法?
少なくとも本質的な問題ではない。
本質的な問題は、「貪欲さ」。
強欲さ。

この問題が残るかぎり、地球温暖化の問題は解決しない。
人間……ここまでくると、「人類」と書くべきだが……人間が絶滅するのも、しかたないということになる。
つまりまさに今、私たち人間は、宇宙的な規模でテストされている。

 英知をうまく結集できれば、私たちはこの宇宙で、宇宙人として生き残ることができる。
そうでなければ、「存在の意味」を失う。
その前の段階で絶滅する。

●ドラキュラ

 話が大きく広がってしまった。
再びドラキュラの話に戻る。

 中世のヨーロッパには、人間の血を飲む集団があったらしい。
カルト教団のひとつと考えてよい。
それがドラキュラの原点という説もある。
つまり「フィクション」。
作り話。
フィクションだから、その存在の有無を論じても意味はない。
日本の幽霊とかお化けと、同じ。
もし「存在の意味」があるとするなら、この日本にも、「いた」はず。
西洋だけにドラキュラがいたというのは、論理的に考えても、おかしい。

私「しかしどうして西洋人は、ああまでドラキュラが好きなのかねえ」
ワ「ホント!」と。

 日光に当たると、燃え出すとか、あるいは十字架を見せると、退散するとか、いろいろ考えていくと、矛盾だらけ。
論ずるのもバカらしいほど、矛盾だらけ。
娯楽映画は娯楽映画。
その範囲で楽しめばよい。
『フライト・ナイト』は、そういう映画。

 観れば、少しはボケ防止になる。
ここに書いたことを参考に、そのあと、何かの議論をしてみると、おもしろい。

 では、今朝はここまで!
これから義兄夫妻と山荘で、会食。
未完成な原稿だが、このまま掲載する。
ごめん!
(はやし浩司 2012-01-08記)

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【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【新・家族論byはやし浩司】(「家族崩壊(申京淑)」をどう考えるか)

+++++++++++++++++++++++++++

今、「家族崩壊」が、急速に進んでいる。
少子化だけが原因ではない。
日本人の意識が、180度、逆転してしまった。
なぜか。
またこの問題について、私たちはどう考えたらよいのか。

+++++++++++++++++++++++++++

●快晴

 今日は快晴。
山荘へ行く途中、富士山が見えた。
濃紺の山々の向こうに、白い頂(いただき)が、見えた。
この浜松でも、富士山が見える日は、めったにない。

●山荘へ

 車は今、我が山荘へと向かっている。
自宅から、35~40分。
場所はxx町。
xx山の中腹あたりにある。

 ……その昔、そのあたりをワイフと2人で歩き回った。
そしてたどりついたのが、現在の山荘あたり。
一目見て、「ここだ」と。
そこに私たちの夢を「建てる」ことにした。

 が、それからがたいへんだった。
地主が、なかなか「うん」と言ってくれなかった。
時折しも、バブル経済。
月ごとに、土地の価格は上昇していた。

●山荘

 結局、小山だが、一山買うような形になった。
宅地らしい形はできていたが、山は山。
それからというもの、つまり買い取ってからは、私たちが自ら造成した。
土日ごとに、ユンボを借りてきた。
それで造成した。

 以来、26年以上。
宅地造成に6年。
建築に半年。
家だけは、地元の建築会社に頼んだ。
「一条工務店」(会社名)といって、地元でも、もっとも信頼のおける建築会社だった。
「山荘だからといって、ぜったいに手を抜かないでほしい」が、私が出した条件だった。

●義兄夫婦

 今日はその山荘に、義兄を招待した。
「一席、もうけますから」と。
義兄は、喜んでそれに応じてくれた。

 ……義兄夫婦といっても、ワイフにとっては、両親的存在。
ワイフは4歳のとき、母を亡くしている。

●会食

 会食といっても、大げさなものではない。
仕出し屋で頼んだ弁当。
それを4人で食べた。
弁当はいつも、市内の一兆庵で頼んでいる。
四季折々の弁当を届けてくれる。
味もよく、値段も良心的。

●成人式

 今日は成人式。
忘れていた。
義兄の孫が、その成人式を迎えた。
義兄夫婦は、孫の話をしながら、うれしそうだった。
が、ここで待ったア!

 「今の若い人たちは、ぼくらの青年時代とは、ちがうね」と義兄。
誤解がないように言っておく。
その話題を持ち出したのは、義兄のほうだった。

●仕送り

 義兄は、現在、76歳。
その義兄も、ボーナスを手にすると、毎年、全額、親に送っていたという。
当時はそれが常識だった。

 私もそうしていたし、つづく世代の人たちも、みな、そうしていた。
が、それが今は逆転した。
成人式の祝いをするのも、ジー様、バー様だそうだ。
孫に祝い金(おひねり)を渡すのも、ジー様、バー様だそうだ。
「どうして?」と私が聞くと、「今の若い人は、貧乏だから」と。

●ワーキング・プア

 貧乏ではない。
目いっぱいの生活をしている。
だからいつも、お金が足りない。
車にパソコン、マンションに家具一式……。
だから貧乏?

 足りなくなると、親にせびる。
「車を買う金がないから、貸して」と。
返済計画をプリントアウトして、もってきたりする。
親だましの小道具。
しかし返す気は、最初からない。

●甘やかし
 
 どうしてここまで変わったか。
親子の立場が、逆転したか。
いろいろな説がある。

 が、基本的には、(甘やかし)。
それが世代間の意識を、逆転させた。
今の若い人たちは、「親にしてもらう」のが、当たり前と考える。
もう20年も前のこと。
そのころ書いた本に、こんな話を書いた。

 ある母親が、臆面もなく、私にこう言った。
「生活費が足りないので、毎月、親に援助してもらっています」と。

(この話とて、20年前の話だぞ!)

●生活費は7分の5

 そういう話になると、話題が尽きない。
こんな例もあるという。

 その若夫婦は、毎週、土日は、夫の実家で過ごすという。
さぞかし親孝行夫婦と思いきや、中身はそうでない。
その若夫婦は、土日を実家で過ごすことによって、食費や生活費を浮かしていた。
つまりそうすれば、生活費は、土日分を除いて、7分の5ですむ。
(7分の2は、実家の両親が負担する。)

 ついで孫の世話を両親に押しつけ、自分たちは遊び放題。

●孫はかわいい?

 そうは言っても、孫が、「ジイジ……」「バアバ……」と寄ってくると、かわいい。
ほろっとする。
ほろっとして、「何か買ってやろうか」となる。

 が、ここでも待ったア!

 サイコパス(サイコパシィ)という言葉を聞いたことがあるかと思う。
反社会的人格のひとつ。
精神病質のひとつと考えられている。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『……サイコパスは社会の捕食者(プレデター)であり、生涯を通じて他人を魅了し、操り、情け容赦なく我が道だけをいき、心を引き裂かれた人や期待を打ち砕かれた人、財産を奪われ尽くした人を後に残して行く。
良心や他人に対する思いやりに全く欠けており、罪悪感も後悔の念もなく社会の規範を犯し、人の期待を裏切り、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う』(ウィキペディア百科事典)と。

 そのサイコパスは、大別して、先天的なものと、後天的なもの(ソシオパス)に分けて考える。
後天的というのは、『親の育て方など』(ウィキペディア百科事典)によるものとされる。

 そのサイコパス(サイコパシー)とはちがうが、似ている部分もないわけでない。
たとえばあなたが孫に、高価なプレゼントを買ってあげたとする。
あなたはそのとき、「孫は喜んでいうはず」「感謝しているはず」「孫との絆(きずな)は太くなったはず」と考える。
しかし孫は、そうではない。
ひょっとしたら、こう考えるかもしれない。

 「しめしめ……うまくやった」「このジジーは単純だから、ちょっと甘えれば何でも買ってくれる」「もっと高価なものを買わせてやろう」と。

 こうしたものの考え方が、(そういうふうに考える孫は少数派と信じたいが)、どこかサイコパス(サイコパシー)的。
ものの考え方が、捕食的。

●欲望の渦

 実は、私たち老人組は、その愚かなことをしてしまった。
「子どもには、つらい思いや、ひもじい思いをさせたくない」と。
「貧乏で苦労させたくない」とか、「もっと楽しませてやりたい」とか、そんなふうに考えた人も多いはず。

 さらに戦後のあの物質文明の中で、自分を見失ってしまった。
「より高価なものを買ってやれば、親子の絆(きずな)も、その分だけ太くなる」と。
結果、子どもの周辺には、モノがあふれた。

 が、もちろん弊害も現れた。
物欲の追求に慣れた子どもたちは、物欲的に自分を満足させることを、「善」とした。
……というのは書き過ぎかもしれない。
しかし「子どもたちが欲望の渦の中で、溺れてしまった」というのは、それほどまちがっていない。

●恋愛至上主義

 戦後の日本は、当然のことながら、アメリカ文化の影響を強く受けるようになった。
その第一が、恋愛至上主義。
「恋愛こそが人生の一大事」と。

 現在の若い人たちは、「恋愛」を人生の柱に据えた。
「恋愛が、すべて」と。
映画『タイタニック』を例にあげるまでもない。
が、そんな程度のことなら、街中をうろつくイヌやネコでもしている。
イヌやネコでもしていることをしながら、「これが人間だ」と。

 まちがっているというより、馬鹿げている。
だから今では、自分たちの結婚式の費用ですら、親(ジー様&バー様)が負担する。
で、あとはお決まりの、「家族偏愛主義」。
「仕事より家族」と。

 それがまちがっているというのではない。
私たちの世代は、仕事のために家族を犠牲にした。
その反動が、行きすぎてしまった。

●反射的弊害

 昔は、「家族」というと、そこにはかならず、祖父母の姿があった。
祖父母がいて、両親がいて、そのつぎに子どもがいた。
が、今は、ない。
若い人たちが「家族」というときは、自分たち夫婦と、その子どもだけをいう。
目が下ばかり、向いている。

 だから今、その反射的弊害として、老人問題が起きている。
独居老人はふえ、孤独死、無縁死は、当たり前。
この先、60%の老人が、そういう死に方をするという。
介護施設にしても、100~200番待ちは、当たり前。
1~3年待ちも、これまた当たり前。

 私たち老人組だけの話ではない。
現在、40歳以上の人たちが、そうなる。

●限度

 わかりやすく言えば、私たち日本人は、限度を超え、子どもたちにやりすぎてしまった。
一億、総親バカ!
親バカなことをしてしまった。

 これは一例だが、子どものときから「勉強しろ」「勉強しろ」と子どもを追い立てるから、その責任を取らされる。
今では、(もう30年前からそうだが)、親に感謝しながら高校へ通う子どもなど、ゼロ。
大学生でもいない。
アルバイトをしている学生にしても、学費のためではない。
遊興費のため。
中には、「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすら、いる。

●大勢

 こういう現実を前にしても、まだ「うちの子はだいじょうぶ」とか、「うちの子にかぎって」と、はかない幻想にしがみついている親は多い。
が、子どもの先生は、子ども。
仲間。
あなたがいくらがんばっても、そこには限界がある。
大勢という流れの前では、あなたの抵抗など、激流に差した、竿のようなもの。
あっという間に、あなたの子どものその大勢の渦の中に、のみこまれていく。

 あなたの子どもだけが無事……ということは、ありえない。

●では、どうするか

 つまるところ、あのバートランド・ラッセルの言葉に行きつく。
バートランド・ラッセルは、こう言っている。

 それについて書いた原稿をさがしてみる。
一部内容がダブるが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●失われた存在感、父と母(「家族崩壊」の問題)(はやし浩司 2011-06-29日記)
++++++++++++++++++++++++++++++++++++

韓国の作家、申京淑氏の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっているという(韓国・東亞日報)。
申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。

『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろう
か」という質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。
見慣れないものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感す
ることが、より重要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。

ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではなく、「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。
この浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、
戻ってこない。
「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)と。
浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。
が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。

『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時も『ごめんね』という言葉を聞かされて育った。
私たちが当たり前のように耳にしながら育った。
この言葉は、いざ両親に対しては、かけたことがない。
言葉の順番が変わるべきだという気がした』(同)と。

つまり「家族崩壊」の背景には、この「一方向性」がある。
親から子への一方向性。
親はいつも子のことだけを考える。
が、子は、親のことは何も考えない。
だから「一方向性」。
またそれが原因と考えてよい。
それが原因で、家族は崩壊する。

申氏は、「親はつねに子どもたちに対して、『ごめんね』と声をかける。
しかし子どもの側から、そうした言葉が発せられたことはない。
今朝は、この問題について考えてみたい。
2011/06/12

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●保護と依存性

 日本では、親のことを、「保護者」という。
韓国でもそうだと理解している。
しかし保護と依存の関係は、申氏が指摘するように、つねに一方向的なもの。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
そして一度、この保護・依存の関係ができあがると、それを変えるのは容易なことではな
い。
それを基盤として、人間関係が構築されてしまう。

 が、悲劇はそのあとにつづく。
当初は感謝していた依存側も、それがしばらくつづくと、「当然」になり、さらにつづくと、今度は依存側が、保護する側に向かって、それを請求するようになる。
親子関係とて、例外ではない。

 ある息子氏は、結婚式の費用を親に請求した。
が、そのとき親は定年退職をしたあと。
貯金はあったが、老後資金としては、じゅうぶんではなかった。
それもあって「なら、半分くらいなら……」と答えた。
が、この言葉が、息子氏を激怒させた。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

 以後、息子氏は、親との縁を切った。
「2,30年後に許してやる」と
親が言ったのではない。
息子氏が、「許してやる」と言った。

 その親は、私にこう言った。
「息子が学生のときは、生活費のほか、毎月のようにお金を貸しました。
『就職したら返す』と言っていました。
で、東京の大手運輸会社に就職しましたが、当初の2年間は、『給料が少ない』と言っては、毎月のように、お金を借りに来ました。

『車を買うから、お金を貸してほしい』と言ってきたこともあります。
100万円でした。

『自動二輪の運転免許を取るため、30万円貸してほしい』と言ったこともあります。
そのつど『給料があがったら、返す』と言っていました。
が、縁を切った(?)ことをよいことに、以後、ナシのつぶてです。
もう5年になります」と。

 この話は事実である。
というのも、こうしたエッセーで(話)を書くときは、その本人とわからないように書
く。
いくつかの話しをまとめたり、あるいはフィクションを混ぜて書く。
が、あまりにも非常識な話しなので、あえて事実を書いた。
つまりこれが「家族崩壊」である。

 家族崩壊の根底には、保護・依存の関係がある。
それがいびつな形で増幅したとき、ここに書いたようなできごとが起こる。

●家族崩壊

 申氏には悪いが、申氏は、ひとつ事実誤認をしている。
申氏には、欧米の家族が、「家族崩壊」に見えるかもしれない。
しかし欧米では、伝統的にそうであり、それが社会の中で、「常識」として定着している。
だからたとえばアメリカ映画などをみても、そこにあるのは、両親と子どもだけ。
祖父母がからんでくることは、まず、ない。

 そのため社会のシステムそのものが、それを包む形で完成している。
たとえばオーストラリアでは、どんな小さな町にも、「オールドマン・ビレッジ(Old Men's Village)」というのがある。
老人たちは、そこに集まって生活をする。
たいてい町の中心部にある。
幼稚園や小学校の近くにある。
 
 そのビレッジで自活できなくなったら、その横の、日本で言う「特養」へ移動する。
わかりやすく言えば、「家族崩壊」を前提として、社会のしくみが、完成している。
フランスでも、事情は同じである。

 が、この日本では、そうでない。
若い人たちの意識だけが、先行する形で欧米化してしまった。
社会のシステムが置き去りになってしまった。
そのため多くの老人や、老人予備軍の退職者たちが、言うなれば「ハシゴをはずされてし
まった」。

 前にも書いたが、こうした悲劇は、地方の町や村で顕著に現われている。
北信(長野県北部)から来た男性(75歳くらい、元高校教師)はこう言った。
「過疎化なんて言葉は、一昔前のもの。私にも息子と娘がいますが、娘とは、もう20年
以上、会っていません」と。

●2つの解決策

 家族崩壊に対して、2つの解決策がある。
ひとつは、予防。
もうひとつは、事後対策。

 予防というのは、「親の存在感」の復権ということになる。
たとえば私たちが子どものころは、魚でも、いちばんおいしい部分は、祖父母、つぎに父親。
私たち子どもは、そのつぎの部分を口にした。
テレビ番組でも、祖父母が、「これを見たい」と言えば、私たちは何も言えなかった。
(それでもチャンネルを取りあって、結構、喧嘩をしたが……。)

 が、今は逆。
魚でも、いちばんおいしい部分は、子ども。
つぎに父親であり、母親。
祖父母と同居している家庭は、ほとんど、ない。
また同居していても、祖父母が口にするのは、(残り物)。

 つまり「復権」というときは、根本的な部分から、一度、ひっくり返すことを意味する。
が、今となっては、それも手遅れ。
親自身が、すでに、「親の存在感」を喪失している。

 で、事後対策。
今が、そのとき。
できること、やるべきことは、山のようにある。
そのヒントが、バートランド・ラッセルの言葉。
イギリスのノーベル文学賞受賞者。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。
いわく、

『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、
けっして程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』
と。

●3つのポイント

 順に考えてみよう。

(1)子どもたちに尊敬される
(2)子どもたちを尊敬する
(3)必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない
 が、現実は、きびしい。

★父親のようになりたくない

 平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、
「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。
また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

★親のめんどうをみない

第8回世界青年意識調査(2009)によれば、「将来、親のめんどうをみるか?」という質問に対して、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた若者は、
 
 イギリス  66.0%、
  アメリカ  63.5%、
  フランス  50.8%、
  韓国    35.2%、
  日本    28.3%、であった。
 
もう何もコメントする必要はない。
ここにあげた数字をじっと見つめているだけでよい。
それだけで、「家族崩壊」というのが、どういうものか、わかるはず。
同時に、今、私たちが親としていることの(愚かさ)に気づくはず。

●あなた自身のこと

 こう書くと、若い父親や母親は、こう言う。

「私たちの世代は、だいじょうぶ」
「私は子どもたちの心をしっかりとつかんでいる」
「私たち親子は、強い絆で結ばれているから、問題はない」と。

 が、そう思っている親たちほど、あぶない。
またここに書いたことは、50代、60代の私たちのことではない。
30代、40代の、若い親について書いたことである。
つまりあなた自身のことである。
それに気がついていないのは、あなた自身ということになる。

 では、どうするか?
結論は、すでに出ている。

『必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない』(バートランド・ラッセル)。

 子どもに尊敬されようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
子どもを尊敬しようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)

 へたに子どもに媚(こび)を売るから、話しがおかしくなる。
親は親で、親としてではなく、1人の人間として、好き勝手なことをすればよい。
自分の道を生きればよい。
子育ては重要事だが、けっしてすべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。
それが『けっして程度を越えない』ことに、つながる。

 先日も、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)上で、こんな相談を受けた。

「子どもが勉強しない。どうしたらいいか」と。
それに答えて私はこう書いた。

 「子どもの勉強の心配をする暇があったら、自分の老後の心配をしなさい」と。
へたに「勉強しろ」「勉強しろ」と言うから、親はその責任を負わされる。
中には「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する学生すらいる。
そういう子どもが社会へ出れば、どうなるか。
たぶん、こう言うようになる。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

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●良縁?

 かなりネガティブな意見を書いた。
もちろん中には、すばらしい(?)親子関係を築いている家族もいる。
が、その(すばらしさ)も、見方を変えると、一転する。

たとえばある母親は、自分の娘が、地元の会社に勤める男性と結婚したことを、「良縁、良縁」と言って、喜んでいた。

 たしかにその母親にしてみれば、そうかもしれない。
「男を取ってきた」ということになる。
が、相手の親、つまり婿の親は、どうなのか?
その母親が「良縁、良縁」と騒げば騒ぐほど、相手の親にとっては、「悪縁」。
つまりこのあたりに、「家族論」の限界がある。

 新年を迎え、すでに8日が過ぎた。
義兄と話しながら、こう思った。
「今夜、家に帰ったら、もう一度、家族論について考えてみよう」と。

 それがこの原稿である。
子育てのあり方を見つめなおす、ひとつのきっかけになればうれしい。
もちろん、あなた自身の子育てが、うまくいくことを願いながら……。

●義兄と……

 義兄はこう言った。

「こうした問題は、この先、何世代もつづくでしょうな」と。

 私も、そう思う。
一度緩んだネジは、簡単には元には戻らない。
韓国の申京淑は、「家族崩壊」という言葉を使った。
欧米化といっても、それが正しいわけではない。
そこに至るには、それにふさわしい社会制度の整備が必要。
欧米では、そうした周囲制度が、すでに整っている。
家族崩壊を前提とした社会が、整っている。
が、この日本では、そうでない。

 私たちの世代はそれでよいとしても、つぎの世代、さらにそのつぎの世代……。
苦労するのは、そういった世代ということになる。

 私たちは自ら、自分の首を絞めてしまった。
つぎの世代は、さらに強く、自ら自分の首を絞めることになる。
「自分たちは、自分の親のようにはならない」と言いつつ、さらに悲劇的な家族崩壊を経験する。
「自分たちは、すばらしい家族を築く」と言いつつ、さらに悲劇的な家族崩壊を経験する。

 中には、「私たち若者を、ここまでけなすことはないだろう」と怒る人もいるかもしれない。
その(怒り)はよく理解できる。
しかしもちろん、私はそれを願っているわけではない。
若い人たちは若い人たちで、すばらしい人生を送ってほしい。
そのヒントになればと思い、あえて『新・家族論』(家族崩壊)について書いてみた。
若い人たちは、私たちが犯した「愚」を、けっして繰り返してはいけない。 

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