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子育て最前線の育児論byはやし浩司 2011年 1月 26日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【暴論・論】
●暴論
+++++++++++++++
偏(かたよ)った意見。
一方的な意見。
偏見と誤解に基づいた意見。
論理性のない意見。
実現性のない意見。
宗教かぶれした意見。
空理、空想をもとにした意見。
短絡的で感情的な意見。
そういう意見が、パワーを
もったとき、それを「暴論」という。
ものを書くとき、もっとも
警戒すべきは、暴論という
ことになる。
暴論というのがどういうものかを
知りたかったら、『文G春秋』
(今月号=正月号)の対談記事を
読んでみればよい。
2人の学者が、「英語教育をやめ、
論語を教えろ」と主張していた。
++++++++++++++
●「英語教育は必要なし」という暴論
いまだに「英語教育は必要なし」という暴論が、天下の公論になっているのには、驚く。
中には、「日本語も満足に話せない子どもに、英語教育は必要ない」と説く人もいる。
一見、合理性があるように見えるが、その実、どこにもない。
仮に日本語も満足に話せない子どもがいたとしても、それは英語教育のせいではない。
すでにそうした現象は、20年前、30年前から見られた。
また英語教育をしたからといって、日本語が乱れるということもない。
外国に10年とか20年とか、それくらい長く住めば別。
日本語を忘れるということも、あるかもしれない。
そうでなければそうでない。
(ただし0歳~2歳までの言葉の適齢期には、バイリンガルにしないほうがよいという
説もある。
この時期に子どもは、言葉の文法を脳に刻む。
その文法が乱れる。
私の孫の誠司(Sage)もそうだった。
どこかの遊園地へ連れていったときのこと。
「帰ろうか?」と声をかけると、「NO GO HOME」と。
そのとき孫は、1歳半だった。)
むしろ日本語を英語と対比させることによって、言葉として認識を深めることになる。
この私がそうだった。
「過去形」「進行形」「完了形」「過去完了形」……と学ぶうちに、日本語も併せて
正確になっていった。
私が中学生のときのことである。
●変化する日本語
日本語はたしかに乱れている。
それは事実。
が、それは教育のせいと考えてはいけない。
また教育でできることにも限界がある。
とくに「言葉」については、そうである。
言葉を決めるのは、大衆。
教育ではない。
それにそもそも日本語という言語は、未完成な言語と考えてよい。
未熟な言語と言い換えてもよい。
たとえばほんの100年前に書かれた文章を読むのにさえ、私たちは苦労する。
400年前、500年前以上の文章となると、辞書なくして読むことさえできない。
書かれた手紙すら、読むことができない。
今の今でさえ、日本語は変化しつづけている。
10年単位で変化しつづけている。
たとえば10年前、「デニる」という言葉を知った。
意味を聞くと、その子ども(中学女子)はこう教えてくれた。
「(レストランの)デニーズで時間をつぶすこと」と。
ほかに「チクル」「シカト」「フタマタ」などなど。
それが最近では、二語言葉になった。
「マジ」「ダサ」「クサ」「ウザ」……など。
完成された言語なら、こういうことはありえない。
たまたま手元に、ソニーのPSP(ゲーム機)がある。
子どもたちの世界で人気NO1のゲームソフトが、「モンスターハンター」。
1人のハンターが訓練と努力を重ね、最強のハンターとなり、モンスターと戦う。
私もときどきしているが、結構、おもしろい。
そのゲームに出てくる会話をひとつ紹介する。
ハンターが、オープニングの第一に、猫と会話する場面である。
「ここはポッケ村。
雪山の懐に抱かれた、平和な村ニャ。
ほほう、あんたですニャ?
雪山で倒れてたっていうハンターは。
村長が心配してたニャ。
元気になったら、まず村長に挨拶してくる
ことニャ……」(モンスターハンター2Gより)と。
このあたりが、もっとも最近的な日本語ということになる。
が、100年後の日本人が果たして、この文章を読めるだろうか。
読めても、理解できるだろか。
日本語には、そういう危うさが、いつもつきまとう。
●英語教育
英語教育に賛成とか、反対とかいう議論そのものが、ナンセンス。
英語教育が必要と思う親がいる。
必要でないと思う親がいる。
英語を勉強したいと思う子どもがいる。
したくないと思う子どもがいる。
だったら、どうして英語教育を自由化しないのか。
わかりやすく言えば、学校教育という「場」から離れて、子どもに英語を学べる場を
提供すればよい。
クラブ制でも、何でもよい。
ドイツやイタリアでは、そうしている。
オーストラリアでも、そうしている。
日本でも、学外教育として英語教室がある。
英会話教室もある。
民間に任せられるものは任せたらよい。
言うなれば教育の民活化。
何も学校だけが、「道」ではない。
つまりそうした議論をまったく重ねないで、いきなり「英語教育は必要ない」は
ない。
さらに短絡的に、「日本語も満足に話せない子どもに……」と結びつけるのはおかしい。
昨日読んだ、文G春秋(今月号)では、2人の学者が対談していた。
いわく、「英語を公用語にしている会社はつぶれる」「イギリスでは全員英語を話せる
が、イギリスは落ちぶれてしまった」と。
そしてその返す刀で、「学校では、論語を教えろ」と。
いくら文G春秋でも、これはメチャメチャな論理と言ってもよい。
反論するのも疲れるが、順に考えてみたい。
●英語が公用語
日本から外資がどんどんと引きあげている。
今年になってからも、多くの外国企業が東京市場から撤退している。
今では、数えるほどしか残っていない。
2008年には、たったの16社。
ピークだった1991年(127社)の、8分の1。
それが2009年、2010年と、さらに減った(注※)。
理由は簡単。
翻訳料が高額すぎる。
日本では日本人投資家保護のもと、一度すべての書類(決算書など)を日本語に翻訳しな
ければならない。
これが第一の理由である。
で、日本を撤退した外国企業は、シンガポールや上海へ逃げている注。
とくにシンガポール。
シンガポールの公用語は、英語。
一人当たりの国民所得では、すでに日本はシンガポールに抜かれている。
こういう現実をさておき、「イギリス人はみな、英語を話せるが……」はない。
そのイギリスのことはよく知らない。
が、オーストラリアのグラマースクールでは、中1レベルで、中国語、日本語、
インドネシア語、フランス語、ドイツ語から、1科目を選択して学習できるように
なっている。
英語国では、英語しか教えないと考えるのは、まったくの誤解。
また企業レベルで英語を公用語にするのは、すばらしいこと。
どうしてそれが悪いことなのか。
外国の情報を、直に、しかも「生(なま)」のまま、自分のものにすることができる。
どうしてそういう会社が、「つぶれる(倒産する)」のか。
仮につぶれたとしても、(つぶれる会社も出てくるだろうが)、英語を公用語にしたから
ではない。
文G春秋には、こうあった。
「そういう会社をしっかり応援して、つぶれるのを楽しみにしましょう。
他山の石となるでしょう」と。
もしこんなアホな論理がまかり通るなら、(「アホ」と断言してもよい)、毎日朝礼の
場で、論語の素読を社員にさせてみればよい。
ついでに孔子信仰も始めてみたらよい。
そういう会社なら、つぶれないのか。
●論語
論語については、たびたび書いてきた。
「仁」は、まさに仏教でいう「慈悲」、キリスト教でいう「愛」と並ぶ。
尊い思想であることは、事実。
しかしこれは両刃の剣。
「学校で論語を教えろ」と言うことは、「学校で仏教典を教えろ」「学校で聖書を教えろ」
と言うことに等しい。
「イスラム経典を教えろ」でもよい。
現に中国では、昔から孔子は信仰の対象となっている。
(ノーベル平和賞に替えて、中国では、孔子平和賞を創設しようという動きすらあるぞ!)
最大の問題は、どうして英語教育と論語教育が、バーター(交換取り引き)されるのか
ということ。
両者の間には、つながりもなければ、因果関係もない。
英語教育に反対なら、反対でよい。
論語教育に賛成なら、賛成でよい。
しかしそれは別々の「場」で、別になされるべき議論。
その底流に見え隠れするのは、「教育万能主義」、あるいは「学校万能主義」。
飛躍した意見に思う人もいるかもしれない。
平たく言えば、文G春秋で意見を対論していた2人の学者は、現場で子どもたちを
教えた経験がない。
「学校」だけが、ゆいいつの教育機関と考えている。
また学校で科目として取りあげれば、それで問題は解決すると考えている。
子どもを教えたことがあるなら、こんなアホなことは言わない。
「学校で英語を教えれば、日本語がだめになる」
「学校で論語を教えたら、論語が身につく」と。
だったら自分で教壇に立って、論語を教えてみればよい。
子どもたちがどんな反応を示すか、それを自分で体験してみればよい。
●日本の英語教育
今ではほとんどの小学校で、何らかの形で、授業の中に組み込んでいる。
授業時間数や内容は、学校ごとに、まちまち。
が、同時に、多くの学校では、みな、デッドロックに乗り上げ、四苦八苦している。
英語の教師(外人)そのものが、逃げ腰。
資格がきびしい上に、重労働。
給料も安い。
地域によっては、英語教師をさがすのに苦労している。
「英会話」なるものにしても、言うなれば暗記につづく暗記。
が、だからといって、「英語教育が無駄」と書いているのではない。
問題点はある。
批判すべき点や反省すべき点はある。
しかしそれはつぎの一里塚への一歩に過ぎない。
試行錯誤を重ねながら、現場で苦労している教師も多い。
つまり方法論の問題であって、目的とすべき方向性はまちがっていない。
英語を第二言語と設定しても、何らおかしくない。
それとも日本は、このまま日本語だけの世界で生きていくというのか。
生きていかれると、思っているのか。
文G春秋の中の対談では、「英語を使って仕事をしているのは20%前後しかいない」
(数字は記憶)というようなことが書いてあった。
だから「英語教育は必要ない」と。
しかし本当にそうだろうか。
ひとつの例をあげて考えてみよう。
●山荘で
今、この原稿を浜松市郊外にある、私の山荘で書いている。
以前は、このあたりもミカン畑に埋もれ、秋を過ぎると黄色いミカンがまるで咲いた花
のように見えた。
が、今では見る影もない。
たった10年で、すっかり様変わりした。
その理由の第一が、専業農家の高齢化と人手不足。
ミカンの収穫作業は、まさに手作業。
重労働。
そこで考えられたのが、季節労働者を外国から呼び寄せること。
現にオーストラリアのリンゴ農家や、イチゴ(ワイン)農家ではそうしている。
東南アジアから労賃の安い労働者を連れてきて、彼らに収穫をさせている。
が、悲しいかなそうした労働者を使いこなす力量が、このあたりには「ない」。
農家にもないが、それを取り仕切る農協にもない。
国際的なマナーで外国人労働者を使いこなすことはもちろん、簡単な英会話すらでき
ない。
「英語を使って仕事をしているのは20%しかいない」(記憶)ではない。
「20%しかいないから、こういう問題が起きてくる」。
それが問題。
まず英語が話せる。
それが国際的であることの基盤。
国際性とは、それをいう。
その国際性のなさが、こんな山荘の周辺でも問題になっている。
●論語教室
教育の力には限界がある。
「時間数」という限界である。
「何もかも教育で」という発想には、そもそも無理がある。
学校教育の場で、論語を教えようとすれば、どこかでほかの教科の時間を
削らなければならない。
それが「英語」というわけだが、どうして英語なのか?
また「論語」という教科を作れば、それでよいというものでもない。
こういうのを教育万能主義というが、それについては、別のところで何度も書いて
きた。
だれが、何を、どう教えるのか?
一方、人間の脳力、なかんずく子どもの脳力には、限界がない。
子ども自身が興味をもてば、あとは子ども自身が自ら学んでいく。
が、これだけ子どもの興味が多様化している時代に、逆に、どうして今、論語なのか
という疑問も起きてくる。
私の生徒の中には、フルートのレッスンを個人的に受けている子ども(小6)がいる。
毎週、韓国語の講座を受けている子ども(中2)もいる。
スポーツにしても、野球やサッカーだけではない。
スケボーのクラブや、水上スキーのクラブに通っている子どももいる。
まさに何でもござれ。
つまりそういう子どもたちを、いっしょくたにして、「論語」とは!
もしそれでも……というのなら、先にも書いたようにクラブ制にすればよい。
何なら、自分で「論語教室」でも開いてみればよい。
自分で子どもたちに論語を教えてみればよい。
私も子どもたちに、「塾」という立場で英語を教えてきた。
40年のキャリアがある。
が、これだけは断言できる。
「論語教室」など開いても、生徒は1名も集まらないだろう。
世の親たちは、そんなに甘くない。
だれがそんな教室に金を払うか。
子どもを通わせるか。
子どもだって、素読をさせたら、1日もがまんしないだろう。
自分で子どもを教えたこともない学者が、研究室の奥から、やれ「英語教育は無駄」
だの、やれ「論語を教えろ」だのと、勝手なことばかり言っている。
このおかしさ。
それが集積されたとき、冒頭に書いた暴論となる。
●武士道?
今までは、こういう大(?)先生の意見に耳を傾けた。
天下の「文G春秋」に載った意見ともなれば、なおさら。
しかしみなさん、もうこうしたバカげた意見に従うのは、やめよう。
ありがたがるのも、やめよう。
日本人の悪い癖だ。
中央から来たというだけで、ハハーと頭をさげる。
……さげてしまう。
が、それではいけない。
私たちは私たちで自分の頭で考える。
自分の頭で考えて、意見を言う。
方法は簡単。
おかしいものに対しては、「おかしい」と声をあげる。
今が、そのときである。
結論を先に言えば、おかしな復古主義には、異議を唱えよう。
論語どころか、その学者は別のところで、「武士道こそ日本人の精神的バックボーンで
ある」と説いている。
が、どうして今、武士道なのか。
それについても私は繰り返し反論してきた。
無数の原稿も書いてきた。
こうした意見を野放しにしておいたら、本当に日本はそちらの方向に向かって
進んでしまう。
戦前の日本どころか、江戸時代にそのまま逆戻り!
それだけは何としても、防がねばならない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●付記(1)
少し頭を熱くし過ぎた。
ほどよく眠くはなっていたが、床に就くと頭が冴えてしまった。
30分ほどがんばってみたが、やはり眠れなかった。
起きあがり、パソコンの前に……。
「MS」という熟睡剤を少し割ってのむ。
これは朝方、効く薬だそうだ。
しかし舌の上で溶かしてのむと、少量でも睡眠薬がわりになる。
一度、自分の書いた原稿を読みなおす。
推敲する。
たしかに本を書くときとちがい、推敲の仕方も甘い。
いいかげん。
当然といえば当然だが、原稿料をもらって書くときの原稿と、そうでないときの
原稿とでは、書くときの真剣味がちがう。
言い換えると、こうした原稿を書くときは、自らの脳みそにムチを打たねばならない。
だれに頼まれたわけでもない。
原稿料が入るわけでもない。
こうした評論を書けば、損になることはあても、得になることはない。
文G春秋社にブラックリストがあるかどうかは知らない。
しかしあれば、まっさきに私の名前が載るはず。
が、「はやし浩司」の名前で原稿を発表する以上、妥協は許されない。
あえて「真剣味」を奮い立たせなければならない。
それが結構、たいへん。
●時刻は午前1時10分
時計を見たら、午前1時10分。
12月12日。
先ほど窓の外を見たが、満天の星空。
山荘でながめると、星空は何倍も広く見える。
寒さを忘れて、しばし見取れる。
話を戻す。
私は何も、論語教育に反対しているわけではない。
今の英語教育を支持しているわけでもない。
この原稿のタイトルは、「暴論・論」。
暴論というものが、この原稿を通して、どういうものかを読者のみなさんにわかって
ほしかった。
が、悲しいかな、私の力は、あまりにも弱い。
文G春秋に載った意見をブルドーザーにたとえるなら、私の意見など、その下に
巻き込まれる雑草。
その程度の抵抗力しかない。
一般世間の人たちも、そういう目で判断する。
天下の文G春秋にたてつけば、「何を偉そうに!」と、そう思う人も多いはず。
門前払いを受けるだけ。
このところそういう自分の限界が、よくわかるようになった。
言うなれば負け犬。
負け犬の遠吠え。
おまけにこのところ文章に鋭さがなくなってきた。
脳みそが鈍ってきた?
集中力もつづかない?
それが自分でもよくわかる。
やはり今夜はここまで。
明日(本当は今日)、自宅に帰ったら、真剣に(?)、この原稿をもう一度推敲してみよう。
今日(12月11日)も、たいした成果もなく終わった。
運動も、30分のウォーキングだけ。
みなさん、おやすみなさい。
そうそう、この原稿を書いているとき、ワイフは、ずっとビデオを観ていた。
『小さな命が呼ぶとき』という、ハリソン・フォード主演の映画だったそうだ。
先ほどいっしょに床に入るとき、私にこう言った。
「あなたも観なさいよ。すばらしい映画だったから」と。
「どう、すばらしかったの?」と聞いたら、「涙がポロポロ、こぼれたわ」と。
あのワイフが涙をこぼした!
それだけで星5つの、★★★★★と評価してよい。
言い忘れたが、ワイフは、めったに涙など、こぼさない。
私よりはるかに気丈夫。
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【暴論・論】
●暴論
+++++++++++++++
偏(かたよ)った意見。
一方的な意見。
偏見と誤解に基づいた意見。
論理性のない意見。
実現性のない意見。
宗教かぶれした意見。
空理、空想をもとにした意見。
短絡的で感情的な意見。
そういう意見が、パワーを
もったとき、それを「暴論」という。
ものを書くとき、もっとも
警戒すべきは、暴論という
ことになる。
暴論というのがどういうものかを
知りたかったら、『文G春秋』
(今月号=正月号)の対談記事を
読んでみればよい。
2人の学者が、「英語教育をやめ、
論語を教えろ」と主張していた。
++++++++++++++
●「英語教育は必要なし」という暴論
いまだに「英語教育は必要なし」という暴論が、天下の公論になっているのには、驚く。
中には、「日本語も満足に話せない子どもに、英語教育は必要ない」と説く人もいる。
一見、合理性があるように見えるが、その実、どこにもない。
仮に日本語も満足に話せない子どもがいたとしても、それは英語教育のせいではない。
すでにそうした現象は、20年前、30年前から見られた。
また英語教育をしたからといって、日本語が乱れるということもない。
外国に10年とか20年とか、それくらい長く住めば別。
日本語を忘れるということも、あるかもしれない。
そうでなければそうでない。
(ただし0歳~2歳までの言葉の適齢期には、バイリンガルにしないほうがよいという
説もある。
この時期に子どもは、言葉の文法を脳に刻む。
その文法が乱れる。
私の孫の誠司(Sage)もそうだった。
どこかの遊園地へ連れていったときのこと。
「帰ろうか?」と声をかけると、「NO GO HOME」と。
そのとき孫は、1歳半だった。)
むしろ日本語を英語と対比させることによって、言葉として認識を深めることになる。
この私がそうだった。
「過去形」「進行形」「完了形」「過去完了形」……と学ぶうちに、日本語も併せて
正確になっていった。
私が中学生のときのことである。
●変化する日本語
日本語はたしかに乱れている。
それは事実。
が、それは教育のせいと考えてはいけない。
また教育でできることにも限界がある。
とくに「言葉」については、そうである。
言葉を決めるのは、大衆。
教育ではない。
それにそもそも日本語という言語は、未完成な言語と考えてよい。
未熟な言語と言い換えてもよい。
たとえばほんの100年前に書かれた文章を読むのにさえ、私たちは苦労する。
400年前、500年前以上の文章となると、辞書なくして読むことさえできない。
書かれた手紙すら、読むことができない。
今の今でさえ、日本語は変化しつづけている。
10年単位で変化しつづけている。
たとえば10年前、「デニる」という言葉を知った。
意味を聞くと、その子ども(中学女子)はこう教えてくれた。
「(レストランの)デニーズで時間をつぶすこと」と。
ほかに「チクル」「シカト」「フタマタ」などなど。
それが最近では、二語言葉になった。
「マジ」「ダサ」「クサ」「ウザ」……など。
完成された言語なら、こういうことはありえない。
たまたま手元に、ソニーのPSP(ゲーム機)がある。
子どもたちの世界で人気NO1のゲームソフトが、「モンスターハンター」。
1人のハンターが訓練と努力を重ね、最強のハンターとなり、モンスターと戦う。
私もときどきしているが、結構、おもしろい。
そのゲームに出てくる会話をひとつ紹介する。
ハンターが、オープニングの第一に、猫と会話する場面である。
「ここはポッケ村。
雪山の懐に抱かれた、平和な村ニャ。
ほほう、あんたですニャ?
雪山で倒れてたっていうハンターは。
村長が心配してたニャ。
元気になったら、まず村長に挨拶してくる
ことニャ……」(モンスターハンター2Gより)と。
このあたりが、もっとも最近的な日本語ということになる。
が、100年後の日本人が果たして、この文章を読めるだろうか。
読めても、理解できるだろか。
日本語には、そういう危うさが、いつもつきまとう。
●英語教育
英語教育に賛成とか、反対とかいう議論そのものが、ナンセンス。
英語教育が必要と思う親がいる。
必要でないと思う親がいる。
英語を勉強したいと思う子どもがいる。
したくないと思う子どもがいる。
だったら、どうして英語教育を自由化しないのか。
わかりやすく言えば、学校教育という「場」から離れて、子どもに英語を学べる場を
提供すればよい。
クラブ制でも、何でもよい。
ドイツやイタリアでは、そうしている。
オーストラリアでも、そうしている。
日本でも、学外教育として英語教室がある。
英会話教室もある。
民間に任せられるものは任せたらよい。
言うなれば教育の民活化。
何も学校だけが、「道」ではない。
つまりそうした議論をまったく重ねないで、いきなり「英語教育は必要ない」は
ない。
さらに短絡的に、「日本語も満足に話せない子どもに……」と結びつけるのはおかしい。
昨日読んだ、文G春秋(今月号)では、2人の学者が対談していた。
いわく、「英語を公用語にしている会社はつぶれる」「イギリスでは全員英語を話せる
が、イギリスは落ちぶれてしまった」と。
そしてその返す刀で、「学校では、論語を教えろ」と。
いくら文G春秋でも、これはメチャメチャな論理と言ってもよい。
反論するのも疲れるが、順に考えてみたい。
●英語が公用語
日本から外資がどんどんと引きあげている。
今年になってからも、多くの外国企業が東京市場から撤退している。
今では、数えるほどしか残っていない。
2008年には、たったの16社。
ピークだった1991年(127社)の、8分の1。
それが2009年、2010年と、さらに減った(注※)。
理由は簡単。
翻訳料が高額すぎる。
日本では日本人投資家保護のもと、一度すべての書類(決算書など)を日本語に翻訳しな
ければならない。
これが第一の理由である。
で、日本を撤退した外国企業は、シンガポールや上海へ逃げている注。
とくにシンガポール。
シンガポールの公用語は、英語。
一人当たりの国民所得では、すでに日本はシンガポールに抜かれている。
こういう現実をさておき、「イギリス人はみな、英語を話せるが……」はない。
そのイギリスのことはよく知らない。
が、オーストラリアのグラマースクールでは、中1レベルで、中国語、日本語、
インドネシア語、フランス語、ドイツ語から、1科目を選択して学習できるように
なっている。
英語国では、英語しか教えないと考えるのは、まったくの誤解。
また企業レベルで英語を公用語にするのは、すばらしいこと。
どうしてそれが悪いことなのか。
外国の情報を、直に、しかも「生(なま)」のまま、自分のものにすることができる。
どうしてそういう会社が、「つぶれる(倒産する)」のか。
仮につぶれたとしても、(つぶれる会社も出てくるだろうが)、英語を公用語にしたから
ではない。
文G春秋には、こうあった。
「そういう会社をしっかり応援して、つぶれるのを楽しみにしましょう。
他山の石となるでしょう」と。
もしこんなアホな論理がまかり通るなら、(「アホ」と断言してもよい)、毎日朝礼の
場で、論語の素読を社員にさせてみればよい。
ついでに孔子信仰も始めてみたらよい。
そういう会社なら、つぶれないのか。
●論語
論語については、たびたび書いてきた。
「仁」は、まさに仏教でいう「慈悲」、キリスト教でいう「愛」と並ぶ。
尊い思想であることは、事実。
しかしこれは両刃の剣。
「学校で論語を教えろ」と言うことは、「学校で仏教典を教えろ」「学校で聖書を教えろ」
と言うことに等しい。
「イスラム経典を教えろ」でもよい。
現に中国では、昔から孔子は信仰の対象となっている。
(ノーベル平和賞に替えて、中国では、孔子平和賞を創設しようという動きすらあるぞ!)
最大の問題は、どうして英語教育と論語教育が、バーター(交換取り引き)されるのか
ということ。
両者の間には、つながりもなければ、因果関係もない。
英語教育に反対なら、反対でよい。
論語教育に賛成なら、賛成でよい。
しかしそれは別々の「場」で、別になされるべき議論。
その底流に見え隠れするのは、「教育万能主義」、あるいは「学校万能主義」。
飛躍した意見に思う人もいるかもしれない。
平たく言えば、文G春秋で意見を対論していた2人の学者は、現場で子どもたちを
教えた経験がない。
「学校」だけが、ゆいいつの教育機関と考えている。
また学校で科目として取りあげれば、それで問題は解決すると考えている。
子どもを教えたことがあるなら、こんなアホなことは言わない。
「学校で英語を教えれば、日本語がだめになる」
「学校で論語を教えたら、論語が身につく」と。
だったら自分で教壇に立って、論語を教えてみればよい。
子どもたちがどんな反応を示すか、それを自分で体験してみればよい。
●日本の英語教育
今ではほとんどの小学校で、何らかの形で、授業の中に組み込んでいる。
授業時間数や内容は、学校ごとに、まちまち。
が、同時に、多くの学校では、みな、デッドロックに乗り上げ、四苦八苦している。
英語の教師(外人)そのものが、逃げ腰。
資格がきびしい上に、重労働。
給料も安い。
地域によっては、英語教師をさがすのに苦労している。
「英会話」なるものにしても、言うなれば暗記につづく暗記。
が、だからといって、「英語教育が無駄」と書いているのではない。
問題点はある。
批判すべき点や反省すべき点はある。
しかしそれはつぎの一里塚への一歩に過ぎない。
試行錯誤を重ねながら、現場で苦労している教師も多い。
つまり方法論の問題であって、目的とすべき方向性はまちがっていない。
英語を第二言語と設定しても、何らおかしくない。
それとも日本は、このまま日本語だけの世界で生きていくというのか。
生きていかれると、思っているのか。
文G春秋の中の対談では、「英語を使って仕事をしているのは20%前後しかいない」
(数字は記憶)というようなことが書いてあった。
だから「英語教育は必要ない」と。
しかし本当にそうだろうか。
ひとつの例をあげて考えてみよう。
●山荘で
今、この原稿を浜松市郊外にある、私の山荘で書いている。
以前は、このあたりもミカン畑に埋もれ、秋を過ぎると黄色いミカンがまるで咲いた花
のように見えた。
が、今では見る影もない。
たった10年で、すっかり様変わりした。
その理由の第一が、専業農家の高齢化と人手不足。
ミカンの収穫作業は、まさに手作業。
重労働。
そこで考えられたのが、季節労働者を外国から呼び寄せること。
現にオーストラリアのリンゴ農家や、イチゴ(ワイン)農家ではそうしている。
東南アジアから労賃の安い労働者を連れてきて、彼らに収穫をさせている。
が、悲しいかなそうした労働者を使いこなす力量が、このあたりには「ない」。
農家にもないが、それを取り仕切る農協にもない。
国際的なマナーで外国人労働者を使いこなすことはもちろん、簡単な英会話すらでき
ない。
「英語を使って仕事をしているのは20%しかいない」(記憶)ではない。
「20%しかいないから、こういう問題が起きてくる」。
それが問題。
まず英語が話せる。
それが国際的であることの基盤。
国際性とは、それをいう。
その国際性のなさが、こんな山荘の周辺でも問題になっている。
●論語教室
教育の力には限界がある。
「時間数」という限界である。
「何もかも教育で」という発想には、そもそも無理がある。
学校教育の場で、論語を教えようとすれば、どこかでほかの教科の時間を
削らなければならない。
それが「英語」というわけだが、どうして英語なのか?
また「論語」という教科を作れば、それでよいというものでもない。
こういうのを教育万能主義というが、それについては、別のところで何度も書いて
きた。
だれが、何を、どう教えるのか?
一方、人間の脳力、なかんずく子どもの脳力には、限界がない。
子ども自身が興味をもてば、あとは子ども自身が自ら学んでいく。
が、これだけ子どもの興味が多様化している時代に、逆に、どうして今、論語なのか
という疑問も起きてくる。
私の生徒の中には、フルートのレッスンを個人的に受けている子ども(小6)がいる。
毎週、韓国語の講座を受けている子ども(中2)もいる。
スポーツにしても、野球やサッカーだけではない。
スケボーのクラブや、水上スキーのクラブに通っている子どももいる。
まさに何でもござれ。
つまりそういう子どもたちを、いっしょくたにして、「論語」とは!
もしそれでも……というのなら、先にも書いたようにクラブ制にすればよい。
何なら、自分で「論語教室」でも開いてみればよい。
自分で子どもたちに論語を教えてみればよい。
私も子どもたちに、「塾」という立場で英語を教えてきた。
40年のキャリアがある。
が、これだけは断言できる。
「論語教室」など開いても、生徒は1名も集まらないだろう。
世の親たちは、そんなに甘くない。
だれがそんな教室に金を払うか。
子どもを通わせるか。
子どもだって、素読をさせたら、1日もがまんしないだろう。
自分で子どもを教えたこともない学者が、研究室の奥から、やれ「英語教育は無駄」
だの、やれ「論語を教えろ」だのと、勝手なことばかり言っている。
このおかしさ。
それが集積されたとき、冒頭に書いた暴論となる。
●武士道?
今までは、こういう大(?)先生の意見に耳を傾けた。
天下の「文G春秋」に載った意見ともなれば、なおさら。
しかしみなさん、もうこうしたバカげた意見に従うのは、やめよう。
ありがたがるのも、やめよう。
日本人の悪い癖だ。
中央から来たというだけで、ハハーと頭をさげる。
……さげてしまう。
が、それではいけない。
私たちは私たちで自分の頭で考える。
自分の頭で考えて、意見を言う。
方法は簡単。
おかしいものに対しては、「おかしい」と声をあげる。
今が、そのときである。
結論を先に言えば、おかしな復古主義には、異議を唱えよう。
論語どころか、その学者は別のところで、「武士道こそ日本人の精神的バックボーンで
ある」と説いている。
が、どうして今、武士道なのか。
それについても私は繰り返し反論してきた。
無数の原稿も書いてきた。
こうした意見を野放しにしておいたら、本当に日本はそちらの方向に向かって
進んでしまう。
戦前の日本どころか、江戸時代にそのまま逆戻り!
それだけは何としても、防がねばならない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●付記(1)
少し頭を熱くし過ぎた。
ほどよく眠くはなっていたが、床に就くと頭が冴えてしまった。
30分ほどがんばってみたが、やはり眠れなかった。
起きあがり、パソコンの前に……。
「MS」という熟睡剤を少し割ってのむ。
これは朝方、効く薬だそうだ。
しかし舌の上で溶かしてのむと、少量でも睡眠薬がわりになる。
一度、自分の書いた原稿を読みなおす。
推敲する。
たしかに本を書くときとちがい、推敲の仕方も甘い。
いいかげん。
当然といえば当然だが、原稿料をもらって書くときの原稿と、そうでないときの
原稿とでは、書くときの真剣味がちがう。
言い換えると、こうした原稿を書くときは、自らの脳みそにムチを打たねばならない。
だれに頼まれたわけでもない。
原稿料が入るわけでもない。
こうした評論を書けば、損になることはあても、得になることはない。
文G春秋社にブラックリストがあるかどうかは知らない。
しかしあれば、まっさきに私の名前が載るはず。
が、「はやし浩司」の名前で原稿を発表する以上、妥協は許されない。
あえて「真剣味」を奮い立たせなければならない。
それが結構、たいへん。
●時刻は午前1時10分
時計を見たら、午前1時10分。
12月12日。
先ほど窓の外を見たが、満天の星空。
山荘でながめると、星空は何倍も広く見える。
寒さを忘れて、しばし見取れる。
話を戻す。
私は何も、論語教育に反対しているわけではない。
今の英語教育を支持しているわけでもない。
この原稿のタイトルは、「暴論・論」。
暴論というものが、この原稿を通して、どういうものかを読者のみなさんにわかって
ほしかった。
が、悲しいかな、私の力は、あまりにも弱い。
文G春秋に載った意見をブルドーザーにたとえるなら、私の意見など、その下に
巻き込まれる雑草。
その程度の抵抗力しかない。
一般世間の人たちも、そういう目で判断する。
天下の文G春秋にたてつけば、「何を偉そうに!」と、そう思う人も多いはず。
門前払いを受けるだけ。
このところそういう自分の限界が、よくわかるようになった。
言うなれば負け犬。
負け犬の遠吠え。
おまけにこのところ文章に鋭さがなくなってきた。
脳みそが鈍ってきた?
集中力もつづかない?
それが自分でもよくわかる。
やはり今夜はここまで。
明日(本当は今日)、自宅に帰ったら、真剣に(?)、この原稿をもう一度推敲してみよう。
今日(12月11日)も、たいした成果もなく終わった。
運動も、30分のウォーキングだけ。
みなさん、おやすみなさい。
そうそう、この原稿を書いているとき、ワイフは、ずっとビデオを観ていた。
『小さな命が呼ぶとき』という、ハリソン・フォード主演の映画だったそうだ。
先ほどいっしょに床に入るとき、私にこう言った。
「あなたも観なさいよ。すばらしい映画だったから」と。
「どう、すばらしかったの?」と聞いたら、「涙がポロポロ、こぼれたわ」と。
あのワイフが涙をこぼした!
それだけで星5つの、★★★★★と評価してよい。
言い忘れたが、ワイフは、めったに涙など、こぼさない。
私よりはるかに気丈夫。