最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子どもを虐待する母親

2011-01-22 17:21:32 | 日記
【滋賀県・O市のY先生(小学校教諭)より、はやし浩司へ】

●代償的過保護

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滋賀県のY先生より、こんなメールが届いている。
以下、要約。

「……私のクラスにKさん(女児、小4)という子がいるが、家に帰りたがりません。
いつもみなが帰ったあとも真っ暗になるまで、校舎の裏庭(小さな山になっていて、
ふだんは児童の遊び場になっている)で、時間を過ごしています。
近くに住むEさん(女児、小4)に話を聞くと、母親がたいへんきびしい人らしく、
おおまかに言えば、つぎのようだそうです。

(1)毎日、1時間の漢字の書き取りと、計算練習が義務づけられている。
(2)そのあと母親にテストされ、満点でないと、夕食が食べられない。
(3)友だちにもらった遊び道具などは、すべて捨てられる。
(4)家の前まではいっしょに帰るが、いつも裏の勝手口から家に入る。
(5)ほかに毎日プリント学習を2枚することになっていて、それがしてないと、
ベッドから引きずり出され、それをさせられる。
(6)「成績がさがったら、お弁当を作らない」と、母親に言われている。

 学校でも、ときどき「おなかが急に痛くなった」「足が痛い」と言って、保健室
で横になっています。
小学2年生ごろまで、授業中に、おもらしをすることがあったそうです」と。
 
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●代償的過保護と帰宅拒否

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典型的な代償的過保護である。
親の支配下におき、子どもを
親の思い通りにする。
一見、過保護だが、過保護に
ともなう(愛情)が希薄。
「代償的過保護」という。
過保護もどきの過保護。
そう考えるとわかりやすい。

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●代償的過保護

 同じ過保護でも、その基盤に愛情がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。

 ふつう「過保護」というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。

 しかし代償的過保護には、それがない。一見、同じ過保護に見えるが、そういう意味では、代償的過保護は、過保護とは、区別して考えたほうがよい。

 親が子どもに対して、支配的であると、詫摩武俊氏は、子どもに、つぎのような特徴がみられるようになると書いている(1969)。

 服従的になる。
 自発性がなくなる。
 消極的になる。
 依存的になる。
 温和になる。

 さらにつけ加えるなら、現実検証能力の欠如(現実を理解できない)、管理能力の不足(してよいことと悪いことの区別ができない)、極端な自己中心性なども、見られるようになる。

 この琢摩氏の指摘の中で、私が注目したのは、「温和」という部分である。ハキがなく、親に追従的、依存的であるがために、表面的には、温和に見えるようになる。しかしその温和性は、長い人生経験の中で、養われてできる人格的な温和性とは、まったく異質のものである。

 どこか、やさしい感じがする。どこか、柔和な感じがする。どこか、穏かな感じがする……といったふうになる。

 そのため親、とくに母親の多くは、かえってそういう子どもほど、「できのいい子ども」と誤解する傾向がみられる。そしてますます、問題の本質を見失う。

 ある母親(70歳)は、そういう息子(40歳)を、「すばらしい子ども」と評価している。臆面もなく、「うちの息子ほど、できのいい子どもはいない」と、自慢している。親の前では、借りてきたネコの子のようにおとなしく、ハキがない。

 子どもでも、小学3、4年生を境に、その傾向が、はっきりしてくる。が、本当の問題は、そのことではない。

 つまりこうした症状が現れることではなく、生涯にわたって、その子ども自身が、その呪縛性に苦しむということ。どこか、わけのわからない人生を送りながら、それが何であるかわからないまま、どこか悶々とした状態で過ごすということ。意識するかどうかは別として、その重圧感は、相当なものである。

 もっとも早い段階で、その呪縛性に気がつけばよい。しかし大半の人は、その呪縛性に気がつくこともなく、生涯を終える。あるいは中には、「母親の葬儀が終わったあと、生まれてはじめて、解放感を味わった」と言う人もいた。

 題名は忘れたが、息子が、父親をイスにしばりつけ、その父親を殴打しつづける映画もあった。アメリカ映画だったが、その息子も、それまで、父親の呪縛に苦しんでいた。

 ここでいう代償的過保護を、決して、軽く考えてはいけない。

【自己診断】

 ここにも書いたように、親の代償的過保護で、(つくられたあなた)を知るためには、まず、あなたの親があなたに対して、どうであったかを知る。そしてそれを手がかりに、あなた自身の中の、(つくられたあなた)を知る。

( )あなたの親は、(とくに母親は)、親意識が強く、親風をよく吹かした。
( )あなたの教育にせよ、進路にせよ、結局は、あなたの親は、自分の思いどおりにしてきた。
( )あなたから見て、あなたの親は、自分勝手でわがままなところがあった。
( )あなたの親は、あなたに過酷な勉強や、スポーツなどの練習、訓練を強いたことがある。
( )あなたの親は、あなたが従順であればあるほど、機嫌がよく、満足そうな表情を見せた。
( )あなたの子ども時代を思い浮かべたとき、いつもそこに絶大な親の影をいつも感ずる。

 これらの項目に当てはまるようであれば、あなたはまさに親の代償的過保護の被害者と考えてよい。あなた自身の中の(あなた)である部分と、(つくられたあなた)を、冷静に分析してみるとよい。

【補記】

 子どもに過酷なまでの勉強や、スポーツなどの訓練を強いる親は、少なくない。「子どものため」を口実にしながら、結局は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利用する。

 あるいは自分の果たせなかった夢や希望をかなえるための道具として、子どもを利用する。

 このタイプの親は、ときとして、子どもを奴隷化する。タイプとしては、攻撃的、暴力的、威圧的になる親と、反対に、子どもの服従的、隷属的、同情的になる親がいる。

 「勉強しなさい!」と怒鳴りしらしながら、子どもを従わせるタイプを攻撃型とするなら、お涙ちょうだい式に、わざと親のうしろ姿(=生活や子育てで苦労している姿)を見せつけながら、子どもを従わせるタイプは、同情型ということになる。

 どちらにせよ、子どもは、親の意向のまま、操られることになる。そして操られながら、操られているという意識すらもたない。子ども自身が、親の奴隷になりながら、その親に、異常なまでに依存するというケースも多い。
(はやし浩司 代償的過保護 過保護 過干渉)

【補記2】

 よく柔和で穏やか、やさしい子どもを、「できのいい子ども」と評価する人がいる。

 しかし子どもにかぎらず、その人の人格は、幾多の荒波にもまれてできあがるもの。生まれながらにして、(できのいい子ども)など、存在しない。もしそう見えるなら、その子ども自身が、かなり無理をしていると考えてよい。

 外からは見えないが、その(ひずみ)は、何らかの形で、子どもの心の中に蓄積される。そして子どもの心を、ゆがめる。

 そういう意味で、子どもの世界、なかんずく幼児の世界では、心の状態(情意)と、顔の表情とが一致している子どものことを、すなおな子どもという。

 うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。怒っているときは、怒った顔をする。そしてそれらを自然な形で、行動として、表現する。そういう子どもを、すなおな子どもという。

 子どもは、そういう子どもにする。 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 代償的過保護 すなおな子ども 素直な子供 子どもの素直さ 子供のすなおさ)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)●フリをする母親

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーという学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院へ連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親を、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンフハウゼン症候群」と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)に、一方で、姑(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい嫁)を、演じていた人がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたった一人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長女(当時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当然のことながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる女性(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、子どもが病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面というより、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないのか、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮してしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待 仮面をかぶる母親)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●帰宅拒否をする子ども

 不登校ばかりが問題になり、また目立つが、ほぼそれと同じ割合で、帰宅拒否の子どもがふえている。
S君(年中児)の母親がこんな相談をしてきた。
「幼稚園で帰る時刻になると、うちの子は、どこかへ行ってしまうのです。
それで先生から電話がかかってきて、これからは迎えにきてほしいと。
どうしたらいいでしょうか」と。

 そこで先生に会って話を聞くと、「バスで帰ることになっているが、その時刻になると、園舎の裏や炊事室の中など、そのつど、どこかへ隠れてしまうのです。
そこで皆でさがすのですが、おかげでバスの発車時刻が、毎日のように遅れてしまうのです」と。
私はその話を聞いて、「帰宅拒否」と判断した。原因はいろいろあるが、わかりやすく言えば、家庭が、家庭としての機能を果たしていない……。
まずそれを疑ってみる。

 子どもには三つの世界がある。「家庭」と「園や学校」。それに「友人との交遊世界」。
幼児のばあいは、この三つ目の世界はまだ小さいが、「園や学校」の比重が大きくなるにつれて、当然、家庭の役割も変わってくる。
また変わらねばならない。
子どもは外の世界で疲れた心や、キズついた心を、家庭の中でいやすようになる。

つまり家庭が、「やすらぎの場」でなければならない。
が、母親にはそれがわからない。S君の母親も、いつもこう言っていた。
「子どもが外の世界で恥をかかないように、私は家庭でのしつけを大切にしています」と。

 アメリカの諺に、『ビロードのクッションより、カボチャの頭』(随筆家・ソロー)というのがある。
つまり人というのは、ビロードのクッションの上にいるよりも、カボチャの頭の上に座ったほうが、気が休まるということを言ったものだが、本来、家庭というのは、そのカボチャの頭のようでなくてはいけない。
あなたがピリピリしていて、どうして子どもは気を休めることができるだろうか。そこでこんな簡単なテスト法がある。

 あなたの子どもが、園や学校から帰ってきたら、どこでどう気を休めるかを観察してみてほしい。
もしあなたのいる前で、気を休めるようであれば、あなたと子どもは、きわめてよい人間関係にある。
しかし好んで、あなたのいないところで気を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げていくようであれば、あなたと子どもは、かなり危険な状態にあると判断してよい。
もう少しひどくなると、ここでいう帰宅拒否、さらには家出、ということになるかもしれない。

 少し話が脱線したが、小学生にも、また中高校生にも、帰宅拒否はある。帰宅時間が不自然に遅い。
毎日のように寄り道や回り道をしてくる。
あるいは外出や外泊が多いということであれば、この帰宅拒否を疑ってみる。
家が狭くていつも外に遊びに行くというケースもあるが、子どもは無意識のうちにも、いやなことを避けるための行動をする。
帰宅拒否もその一つだが、「家がいやだ」「おもしろくない」という思いが、回りまわって、帰宅拒否につながる。
裏を返して言うと、毎日、園や学校から、子どもが明るい声で、「ただいま!」と帰ってくるだけでも、あなたの家庭はすばらしい家庭ということになる。

(はやし浩司 子供の帰宅拒否 帰宅拒否 家に帰りたがらない子ども 帰宅を拒否する子供)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Y先生へ】

 メール、ありがとうございました。
いろいろな母親がいますね。
まさに典型的な代償的過保護と言うべき母親ですね。
まず「子どもはこうあるべき」という設計図を頭の中で作り、その設計図どおりの
子どもにしようする。

 疑うべきは、まず母親の情緒問題です。
自分の情緒的欠陥、つまり穴をふさぐために子どもを利用しているだけ。
何かの精神的な問題をもった女性と考えます。

一見、過保護に見えますが、過保護には愛情があります。
その愛情(=「許して忘れる」)がありません。
先にも書いたように、過保護もどきの過保護。
だから代償的過保護と言います。
発達心理学の用語にもなっています。
それが過度になれば、「虐待」ということになります。
「食事を与えない」「眠らせない」というのは、立派な虐待です。

 が、母親には、その自覚がない。
「私は子どものためにそうしている」と確信しています。
だから余計にやっかいですね。
説得しても、その母親には理解できないでしょう。

 ……私も子どものころ、帰宅拒否児だったと思います。
(いろいろな思い出をつなぎあわせると、そういう「私」が浮かびあがってきます。)
いつも学校帰りには、道草を食って遊んでいました。
夏でも、毎日真っ暗になるまで、近くの寺で遊んで時間をつぶしました。
今、思い出しても、暗くて、つらい毎日でした。

 もしKさん(小4)も、同じようであるとするなら、同情します。
恐らく一生、その傷が癒されることはないでしょう。
今の私が、そうです。
63歳になろうというのに、いまだに心の中に暗い影を落としています。

 やはりこの問題は、先生が指摘しておられるように、児童相談所が介入
すべき問題ですね。
先にも書いたように、「食事を与えない」「眠らせない」というのは、虐待です。
また無理な勉強を強制するのも、虐待と考えてよいでしょう。
一応、報告だけは、きちんとしておかれることを、お勧めします。

 なお小4と言えば、思春期前夜。
この先、Kさんには、いろいろな試練が待ちかまえています。
非行に走らなければよいと心配しています。
(あるいは、引きこもり(マイマス型)、家庭内暴力(プラス型)へと進むことも
多いです。)

 父親はどういう人なのか。
またどのように考えているのか。
それがわかったら、どうかまたメールをください。
では、今日は、これで失礼します。


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●山荘にて

2011-01-22 11:04:33 | 日記
【山荘にて】(はやし浩司 2011-01-21)

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今夜は、8時過ぎになって、山荘へやってきた。
途中、コンビニで菓子類を買った。
山荘へ着いたのが、午後9時、少し前。

途中、車の中でワイフとあれこれ話す。

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●苦労論

 よく「私は苦労しました」と言う人がいる。
「苦痛に耐えること」。
それを「苦労」という。
それはそれで、よくわかる。
しかし「苦労」というときには、2つの意味がある。

(1) 自分のための苦労。つまり私利私欲のための苦労。
(2) 他人のための苦労。つまり無私無欲に根ざした苦労。

その中間にあるのが、(3)家族(配偶者、子ども、親)のための苦労ということ
になる。

 たとえば1人の学生が、受験勉強で苦労したとする。
夜遅くまで勉強した。
進学塾にも通った。
しかしこれは自分のための苦労。
上の分類法によれば、(1)の苦労ということになる。
(中には、将来、家族を支えるためにと考え、受験勉強にいそしむ学生もいるかも
しれない。
しかし今どき、そんな学生は、探さなければならないほど、少ない。)

 一方、世話好きで、いつも他人の心配ばかりしている人がいる。
あれこれ仕事を引き受けて、忙しい毎日を送っている。
自分の時間は、ほとんどない。
残ったお金も、あまりない。
明けても暮れても、ボランティア。
そういう人もいないわけではない。
上の分類法によれば、(2)の苦労ということになる。

 その間にあって、(3)子育てで苦労している人がいる。
子どもの学資を稼ぐために、パートに出て働く母親を想像すればよい。
子どもは「他人」ではない。
しかし「自分」でもない。
入れ込みの程度にもよるが、他人にかぎりなく近い子どももいれば、自分に
かぎりなく近い子どももいる。
どうであるにせよ、「自分」ではない。
「他人」でもない。

 そこであなたのばあいは、どうだろうか。
「私は苦労しました」と言うときのあなたを考えてみてほしい。
そのときあなたは、どういう苦労を、「苦労」と言うだろうか。
たとえば私のワイフは、いつもこう言う。

「私は、あなたで苦労したわ」と。

 が、これは(1)の苦労だろうか。
それとも(2)の苦労だろうか。
あるいは(3)の苦労だろうか。

●「私は苦労した」

 それを話すと、ワイフはこう言った。
「『私は苦労した』と言う人は、たいてい(1)の自分のことで苦労した人よ。
(2)の他人のために苦労した人は、『苦労した』とは言わないわよ。
むしろ楽しんで、そうしているのだから」と。

 ナルホド!

 ということは、「私は子育てで苦労しました」と言う人ほど、どこかで
私利私欲が、からんでいる。……ということになる。
無私無欲で子育てをした人ほど、「苦労した」とは言わない。
つまりその言葉を聞けば、親と子どもの関係がわかるということになる。

●私のばあい

 私のばあい、苦労したといえば、介護ということになる。
しかし介護そのものは、さしたる苦労ではなかった。
あるとき、兄や母の介護をしながら、こう思った。
「子どもの世話より、楽」と。

 苦労というより、苦痛だったのは、実姉からの電話。
何がどうということは、ここには書けないが、実姉から電話があるたびに、
心臓が踊った。
手が震えた。

 つぎに苦労と言えば、実家への仕送り。
が、その仕送りについても、ある時期までは、むしろ楽しんでしていた。
ワイフも協力的だった。
実母を助ける。
実兄を助ける。
それが楽しかった。

 その(楽しさ)が失われたのは、たがいの間の信頼関係が消えたとき。
以後、金銭的な負担というよりは、社会的な負担に苦しんだ。
「それでも仕送りをしなければならない」という思いが、そのまま重圧感となり、
私を押しつぶした。

 言い換えると、自分が納得しているばあいには、苦労は苦労ではない。
納得できないときに、「苦痛」は「苦労」に変わる。
その逆でもよい。

●問題は子育て

 サイトカイン。
カテコールアミン。
私は脳内ホルモンについては、名前しか知らない。
見たこともない。
手にしても、ただの液体にしか見えないだろう。

 が、この2つは、対照的な脳内ホルモンと考えている。
ストレスが慢性的につづくと、脳内は、サイトカインで満たされる。
一方、前向きに生き生きと活動していると、脳内は、カテコールアミンで満たされる。
あるいはその逆でもよい。
それぞれが悪循環、あるいは良循環となって、その人を後ろ向きに引っ張たり、反対に
前向きに引っ張ったりする。
このことは子どもの学習態度を見ていると、よくわかる。

 いやな科目を、いやいや学習している子どもは、表情が暗い。
苦労がとたんに、苦痛に変わる。
その逆でもよい。
好きな科目を、前向きに学習している子どもは、表情が明るい。
苦労を苦労とも思わない。
むしろそれを楽しんでしている。

 となると、自ずと結論が出てくる。
それが苦労であるかどうかは、その人の(心構え)で決まるということ。
子育てについても、しかり。
いやいや子育てをしていれば、苦労は苦労になる。
楽しく子育てをしていれば、苦労はそのまま霧散する。
で、そのちがいは何かといえば、「愛情」の問題ということになる。

●私とワイフ

 ワイフはこう言う。
「私の子育ては楽だった」と。
私はこう言う。
「ぼくは苦労ばかりしていた」と。

 つまりワイフは、3人の息子たちを愛情でくるんでいた。
一方、私は、生活の心配ばかりしていた。
自営業というのは、そういう職種をいう。
(たぶんに、弁解がましいが……。)
今日、病気か事故で倒れれば、万事休す。
明日からは、路頭に迷うことになる。
毎日が、そういうきびしさとの闘いだった。

 そう言えば、私の母はいつもこう言っていた。
「サラリーマンの人たちは、気が楽でいいわねえ」と。
サラリーマンの人たちは、そうは思っていないかもしれない。
サラリーマンの人たちには、サラリーマンの人たちの苦労がある。
しかし自営業の人たちから見ると、たしかにそう見える。
上り坂のときはよいが、下り坂になると、とたんに苦労が倍加する。

 話がそれたが、親子についても、そこに細くても一本の絆があれば、救われる。
しかしそれが消えたとき、苦労は苦痛に変わる。
その逆でもよいが……。
私には息子たちを愛情でくるむような、心の余裕はなかった。

●苦労

 ところで義兄は、いつもこう言う。
「今の若い人たちは、苦労をしていないからねエ」と。
つまり「だから、今の生活のありがたさがわからない」と。
けっして若い人たちを責めているのではない。
むしろ逆。
「……だから、かわいそう」と。

 「幸福」というのが、そこにあるのが当たり前と考える。
だから不幸に対する、耐性というものがない。
たとえば便器。

私たちの世代は、ボットン便所から出発している。
尻を拭く紙も、ザラザラの再生紙。
それ以前は、新聞紙。
だから最近の便器を見ると、臭いがしないというだけで、夢のように感ずる。

 が、今の若い世代は、それを知らない。
少しでも汚れていると、「生理的な嫌悪感を覚える」と言う。
生理的な嫌悪感?
いったい、それは何?
私はそういう言葉を聞くと、人間的な嫌悪感を覚える。
で、ときどき、こう思う。
「今のような豊かさが持続できれば、それでよし。
そうでなければ、この先、苦労の連続だろうな」と。

●耐性

 そんな話をしていると、ワイフがこう言った。
「私ね、父の酒を買いにいくのが、私の仕事だった」と。

 ワイフの父親は酒豪だった。
で、ワイフは子どものころ、一升瓶をもって、いつも酒屋へ酒を買いに行ったという。
一升瓶をもっていくと、酒屋がそれに酒を注いでくれた。
その一升瓶を、また家にもって帰る。

 当時の日本では、どこにでも見られた光景である。
それについて、私が「今の若い人は、それをしないね」と。

私「しないとうか、親がさせないね」
ワ「そんなことをさせたら、虐待と騒ぐ人もいるかもね」
私「……そうだろうな。ぼくでも、そこまではしなかった」
ワ「そういう生活感が、子どもの世界から消えたのよ」
私「そうだね」と。

 あくまでも比較の問題だが、私のワイフには、そういう耐性がある。
私よりはるかに、ある。
耐性のある人は、苦労をしながらも、苦痛を減少させることができる。
耐性のない人は、多少の苦労をしただけでも、大げさに騒ぐ。
私とワイフのちがいには、この耐性が大きくからんでいる。
言い換えると、「苦労」について考えるとき、「耐性の問題」も無視できないということ。

●結論

 このあたりでひとつの結論が出てくる。
こと、子育てにおいては、「子どもには苦労をさせろ」と。
その苦労が耐性を生む。
苦痛を乗り越える力となる。

しかしその苦労といっても、冒頭に書いた(1)のような苦労では意味がない。
(2)のような苦労をいう。

 たとえば受験勉強を熱心にして、有名大学(こういう言葉は本当に不愉快だが)に
入学したとしよう。
子ども自身は、自分では苦労したと思っているかもしれないが、それはここでいう
苦労ではない。
平たく言えば、自分の欲望を満足させただけ。

だから当然のことながら、そこからは感謝の念は生まれない。
それ以後、親が爪に灯をともしながら学資を送ったとしても、その子どもにとっては、
当たり前。
中には、「親のために大学へ行ってやっている」と豪語(?)する子どもさえいる。
(これは本当の話だぞ!)

 それもそのはず。
幼児のときから、「ほら、英語教室!」「ほら、ピアノ教室!」と。
中には、七五三の祝いに、親戚中を呼び集め、披露宴を開く親さえいる。
子どもをかえって不幸にしながら、その事実にすら気がついていない。

 最後に、こんな話。
これから書くことは、事実。
「事実」と断らなければならないほど、そうでない人には信じられないような話。
こういう話。

 毎週のように、嫁が、夫の実家にやってくる。
(嫁が、夫の実家にやってくるのだぞ!)
そして夫の両親から、小遣いをせびる。
「夫の給料だけでは、生活が苦しい」と訴える。
「夫の給料だけでは、子どもを進学塾へ通わせることもできない」と訴える。
で、最近、こんなことがあったという。

 いつものように、嫁が夫の実家にやってきた。
こう言った。
「100万円が必要。100万円、出してほしい」と。
が、両親といっても、80歳を過ぎている。
義父は元薬剤師。
義母は元看護士。
財産があるといっても、無限にあるわけではない。
そこで母親(=夫の母親)が、5万円を渡すと、その嫁は、「それでは足りない!」と言い、
その5万円を机の上に置いたまま、家に帰ってしまったという。

 ドラ娘も、ここに極まれり!、というような話である。
苦労を知らない人間というのは、そうなる。
そんな人間には、死ぬまで「幸福」は訪れない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 苦労論 苦労 苦労について)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2011++++++はやし浩司・林浩司