【父と子(親子断絶の問題)】
●葛藤する父子
+++++++++++++++++++++
20年ぶりか、何年かぶりに、父と子が再会する。
連絡を受けて子が病院へかけつけると、父は
臨終状態。
枕元には、思い出の品々が並んでいる……。
その中に古ぼけた一冊の本。
その本を開くと、子が子どものころに描いた絵。
それを見て子は涙を流す。
父は目で子を許す。
映画によく出てくるシーンである。
映画『送り人』の中にも、そんなようなシーンがあった。
最近見たDVDの『カイル』の中にも、そんなようなシーンがあった。
父と子、とくに父と息子は、そういう形で断絶しやすい。
私の知り合いにも、30年以上、たがいに会っていない
という父子(父親、84歳、息子50歳前後)がいる。
何かがあったのだろう……というより、その(何か)が、
引き金となってそこでそれまでの(わだかまり)が
一気に爆発する。
そしてそれが「永遠の別れ」になる。
が、たがいに悶々とした気分で、日々を過ごす。
一日とて気が晴れることはない。
それが臨終の場で、同じように爆発的に解消される。
……というのは、映画の中の話。
映画『マジソン郡の橋』の最後も、そのようなシーンで
終わっていた。
が、現実は、もう少し生々しい。
++++++++++++++++++++++
●ある補導で
ずいぶんと前のことだが、テレビでこんなシーンを見た。
東京のK町といえば、世界に名だたる歓楽街。
その歓楽街で、深夜遅くたむろする少女たち。
ものほしそうな目つきで、通行人をながめている。
そこへレポーターが、突撃取材を試みる。
「年齢は?」「住んでいることは?」「お母さんは?」と。
それに答えて、まだあどけなさを残している少女たちが、
「中学だヨ」「ウッセーナー」「親なんて関係ネーダロ」と。
が、レポーターは、何とか1人の少女を説得して、
名前と住所を聞き出す。
ついでに電話番号も聞きだす。
そこでレポーターはその電話番号に、電話をする。
が、ここで意外な展開となる。
レポーターが家に電話をすると、母親が電話口に出る。
その母親が、こう言う。
「そんな子は、どうなってもいいです。知りません。
私には関係ありません」と。
(詳しい内容は、後述。)
ここで私がもっていた「親だから……」「子だから……」
という常識が、ひっくり返る。
そこでレポーターを携帯電話を少女に回す。
少女は、母親と直接話す。
が、話し合い始めたとたん、喧嘩。
最後に母親は、その少女(娘)にこう言う。
「うちへなんか、戻ってくるんじゃ、ないわよ」と。
つまり「あんたとはもう関係ない」と。
●親子であるが故に
こうした事例を、極端なケースとみるか?
それとも例外的な事例とみるか?
あるいはごくありふれた事例とみるか?
程度の差もあって、統計的な数字で表すことはむずかしい。
しかし親子といっても、基本的には1対1の人間関係。
壊れるときには、壊れる。
が、それだけではない。
親子であるが故に、確執も深く、溝も大きい。
が、ここで誤解してはいけないことがある。
こうした断絶は、ある日突然、一回の事件で起こるものではない。
そこに至るには、それまでの長い過去がある。
葛藤がある。
根が深い。
それが積もりに積もり、ある臨界点に達したとき、爆発する。
爆発して、断絶する。
だから先の番組の中で、レポーターが電話で説得したくらいで、
氷解するような問題ではない。
それで「万事、めでたし」と終わるというような問題ではない。
●面会
映画を例にとるなら、ああした映画は、多くは若い制作者によって、
作られたものではないかということ。
つまり「子」の立場で作られたもの。
「親」の立場ではない。
そう考えてよい。
つまり「子」というのは、「親」というより、「親」という言葉に、
かぎりない幻想とあこがれをもちやすい。
つまりそこに自分の理想像を入れ混ぜてしまう。
そして勝手に、「親は、こうあるべき」という「像」を作ってしまう。
その結果、20年ぶりに病院で再会したとき、「親は子を許し……、
子は親を許し……」となる。
感動的なシーンだが、先にも書いたように、現実はもう少し生々しい。
私が親なら、こう思うかもしれない。
「20年も、私を放っておいて、何を今さら……」と。
実際、そういう映画もあった。
やはり20年ぶりくらいで子(息子)が病院へかけつけてみると、
親(父親)の方が面会を拒絶する。
「会いたくない」と。
子は病室のドアの外で、父の死を見送る。
つまり親といっても、1人の人間。
神様でも仏様でもない。
会いたくないものは、会いたくない。
親だから子どもの過ちを、すべて許すというわけではない。
またそれをしないからといって、親の愛の深さを疑ってはいけない。
●ふつうの人間
否定的なことを書いた。
理想としては、また映画としては、親子が許し合いながら、
ハッピーエンドで終わるのがよい。
またそのほうが、感動的。
しかしこの私も60歳を過ぎるころから、考え方が少しずつ変わってきた。
先に書いた私の知り合いの話を知ったときのこと。
父親の年齢は84歳。
息子は50歳くらいと聞いているが、詳しいことは知らない。
ひとり息子。
息子は大学を卒業すると家を飛び出し、以後、一度も家には帰っていない。
母親とはどうかということになるが、よくわからない。
父親の話によれば、母親とも連絡を取っていないようである。
言い忘れたが、母親も今年84歳になり、今は有料の老人ホームにいる。
その父親は、当然のことながら(?)、息子の話になると
顔をそむける。
ただときどき、「あいつも早く嫁さんを見つけるといい」と言う。
またそれが口癖になっている。
が、その程度。
●幻想と現実
で、そういう話を知ったとき、私は、こう思った。
「いつかは父子で、許し合うときがくるだろう」と。
しかし今は、ちがう。
「父のほうが、許さないだろうな」と。
最期の最期であればなおさら、もしそこで許してしまえば、
父親は自己否定をすることになってしまう。
「愛」とか「愛の深さ」とか、そんなロマンチックな話ではない。
つまりそれが現実ということ。
もし私がその知り合いなら、私は許さないまま、死ぬ。
面会に来ても、会わない。
それで地獄へ堕ちようとも、息子が作りあげた幻想とあこがれを
容認するよりはよい。
つまり親だって、ふつうの人間。
だからこそ、許せることと許せないことがある。
息子が、(娘でもよいが)、その一線を越えたとき、「たとえ子でも
許せない」と、なる。
それはまさに自分の人生観をかけた闘いということになる。
もう一言、念を押すなら、こういうことになる。
先に「親子の確執」という言葉を使った。
が、その確執というのは、何も、子どものほうだけの問題ではないということ。
親の方にも、ある。
親の方の確執が爆発することもある。
●ある姉・弟
これは親子の話ではない。
姉・弟の話である。
弟氏は生涯、定職にはつかなかった。
そのため弟氏は歯科医師の妻をしていた姉氏のところへ来ては、生活費を
受け取っていた。
弟氏には、3人の息子と娘がいたが、その学費もすべて姉が負担した。
それに加えて弟氏は女性にだらしなく、浮気はし放題。
偽物だったがロレックスの腕時計を身につけて、夜の繁華街を遊び歩いた。
で、50歳を過ぎるころから、姉氏は、弟氏と距離を置くようになった。
それまでは言うなりにお金を出していたが、姉氏は躊躇するようになった。
とたん弟氏は、泣き落とし戦術に出るようになった。
しかも回数が減った分だけ、額がふえた。
それまでは20~50万円という少額だったが、200~500万円の
高額になった。
ときに1000万円を超えることもあった。
そのつど弟氏は借用書を用意し、勝手に姉氏のところに置いていった。
まったく意味のない借用書だった。
姉氏もそれをよく知っていた。
で、その姉氏が、85歳で倒れた。
再発した乳がんが、体中に転移していた。
そのときのこと。
弟氏は、何度か見舞いにきたというが、姉氏は、最期の最期まで、
弟氏には会わなかったという。
そばにいる人たちに、「X男(=弟)だけは、部屋に入れるな」と、
いつも言っていた。
「葬儀にも出てほしくない」とも。
が、ノー天気な弟氏にはそれがわからない。
葬儀の席にやってきて、みなの前で大泣きをしてみせたという。
私はその話を聞いたとき、こう思った。
「私がYさん(=姉氏)なら、化けて出てやる!」と。
●確執
「確執」というのは、そういうものかもしれない。
つまりたがいに平等というのではない。
多くのばあい、一方的なもの。
子が親にいだく確執。
しかし親はそれに気づかない。
反対に親が子にいだく確執。
しかし子はそれに気づかない。
気づかないまま、どちらか一方が、ある日突然爆発する。
何も親子、兄弟にかぎらない。
夫婦の間でも、それはよく起こる。
20~30年前から「定年離婚」という言葉が、よく聞かれるようになった。
夫が定年で退職したとたん、妻のほうから離婚を申し出る。
このばあいも、夫にとっては寝耳に水……というケースがほとんどという。
妻の方はその何年も前から、離婚の準備に入る。
が、夫のほうは、それに気づかない。
気づかないまま、「私たちはいい夫婦」という幻想にしがみつく。
だから夫は、あわてる。
狼狽する。
「どうして離婚?」と。
こうしたケースのばあい、たとえば夫(元夫)が臨終を迎えたとしても、
妻(元妻)は、その場にはかけつけないだろう。
いわんやたがいに許し合うなどということは、ありえない。
(アメリカ映画などでは、そういうシーンもよくあるが、日本では
考えられない。)
「夫婦と親子はちがう」と言う人もいる。
たしかに母子関係、つまり母と子の関係には、特別なものがある。
しかし父子関係は、母子関係とくらべると、ずっと希薄。
「精液、ひとしずくの関係」と言ってもよい。
私がここで問題にしているのは、父子関係。
母子関係ではない。
●なぜか?
臨終の場で息子との面会を拒絶する父親。
娘との面会でもよい。
しかしそれは息子を許せないからではない。
こういうケースのばあい、父親は自分を許せない。
つまり自分という、「親バカ」を許せない。
たとえば『許して、忘れる』という言葉がある。
しかしそれは自分以外の人に向かって使う言葉。
自分自身については、『許して、忘れる』は、使えない。
だから親はもがく。
苦しむ。
それは心を引き裂くような苦しみといってもよい。
その過程で、親は息子を消し、娘を消す。
とことん、消す。
たとえ息子にせよ、娘にせよ、どこかでのたれ死にしたところで、
何も感じない。
そこまで自分を消さないと、その苦しみから逃れることはできない。
で、その息子にせよ、娘にせよ、それが臨終の場にやってきて、「お父さん!」と
声をかける。
そのとき父親は、「おお、お前か!」と言うことができるだろうか。
ここから先は私の想像になる。
なるが、私なら、言えない。
息子にせよ、娘にせよ、「何を今さら……」となる。
東京のK町でたむろしていた少女と母親の関係を、思い浮かべてみればよい。
その少女の母親は、娘の不幸を、とことん願っていた。
「そんな親がいるのか?」と思う人もいるかもしれない。
しかし現実には、いる。
こんな話を、以前、ワイフから聞いたことがある。
実の娘に対して、「あんたが不幸になるのを、墓場の中から
見届けてやる!」と。
それを口癖にしている、実の母親がいるという。
親子関係でも、こじれると、親子であるがゆえに、そこまでこじれる。
+++++++++++++++++
原稿をさがしていたら、先のK町で
たむろしていた少女について書いた
原稿が見つかりました。
日付は、2006年の4月になって
いました。
そのまま再掲載します。
●葛藤する父子
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20年ぶりか、何年かぶりに、父と子が再会する。
連絡を受けて子が病院へかけつけると、父は
臨終状態。
枕元には、思い出の品々が並んでいる……。
その中に古ぼけた一冊の本。
その本を開くと、子が子どものころに描いた絵。
それを見て子は涙を流す。
父は目で子を許す。
映画によく出てくるシーンである。
映画『送り人』の中にも、そんなようなシーンがあった。
最近見たDVDの『カイル』の中にも、そんなようなシーンがあった。
父と子、とくに父と息子は、そういう形で断絶しやすい。
私の知り合いにも、30年以上、たがいに会っていない
という父子(父親、84歳、息子50歳前後)がいる。
何かがあったのだろう……というより、その(何か)が、
引き金となってそこでそれまでの(わだかまり)が
一気に爆発する。
そしてそれが「永遠の別れ」になる。
が、たがいに悶々とした気分で、日々を過ごす。
一日とて気が晴れることはない。
それが臨終の場で、同じように爆発的に解消される。
……というのは、映画の中の話。
映画『マジソン郡の橋』の最後も、そのようなシーンで
終わっていた。
が、現実は、もう少し生々しい。
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●ある補導で
ずいぶんと前のことだが、テレビでこんなシーンを見た。
東京のK町といえば、世界に名だたる歓楽街。
その歓楽街で、深夜遅くたむろする少女たち。
ものほしそうな目つきで、通行人をながめている。
そこへレポーターが、突撃取材を試みる。
「年齢は?」「住んでいることは?」「お母さんは?」と。
それに答えて、まだあどけなさを残している少女たちが、
「中学だヨ」「ウッセーナー」「親なんて関係ネーダロ」と。
が、レポーターは、何とか1人の少女を説得して、
名前と住所を聞き出す。
ついでに電話番号も聞きだす。
そこでレポーターはその電話番号に、電話をする。
が、ここで意外な展開となる。
レポーターが家に電話をすると、母親が電話口に出る。
その母親が、こう言う。
「そんな子は、どうなってもいいです。知りません。
私には関係ありません」と。
(詳しい内容は、後述。)
ここで私がもっていた「親だから……」「子だから……」
という常識が、ひっくり返る。
そこでレポーターを携帯電話を少女に回す。
少女は、母親と直接話す。
が、話し合い始めたとたん、喧嘩。
最後に母親は、その少女(娘)にこう言う。
「うちへなんか、戻ってくるんじゃ、ないわよ」と。
つまり「あんたとはもう関係ない」と。
●親子であるが故に
こうした事例を、極端なケースとみるか?
それとも例外的な事例とみるか?
あるいはごくありふれた事例とみるか?
程度の差もあって、統計的な数字で表すことはむずかしい。
しかし親子といっても、基本的には1対1の人間関係。
壊れるときには、壊れる。
が、それだけではない。
親子であるが故に、確執も深く、溝も大きい。
が、ここで誤解してはいけないことがある。
こうした断絶は、ある日突然、一回の事件で起こるものではない。
そこに至るには、それまでの長い過去がある。
葛藤がある。
根が深い。
それが積もりに積もり、ある臨界点に達したとき、爆発する。
爆発して、断絶する。
だから先の番組の中で、レポーターが電話で説得したくらいで、
氷解するような問題ではない。
それで「万事、めでたし」と終わるというような問題ではない。
●面会
映画を例にとるなら、ああした映画は、多くは若い制作者によって、
作られたものではないかということ。
つまり「子」の立場で作られたもの。
「親」の立場ではない。
そう考えてよい。
つまり「子」というのは、「親」というより、「親」という言葉に、
かぎりない幻想とあこがれをもちやすい。
つまりそこに自分の理想像を入れ混ぜてしまう。
そして勝手に、「親は、こうあるべき」という「像」を作ってしまう。
その結果、20年ぶりに病院で再会したとき、「親は子を許し……、
子は親を許し……」となる。
感動的なシーンだが、先にも書いたように、現実はもう少し生々しい。
私が親なら、こう思うかもしれない。
「20年も、私を放っておいて、何を今さら……」と。
実際、そういう映画もあった。
やはり20年ぶりくらいで子(息子)が病院へかけつけてみると、
親(父親)の方が面会を拒絶する。
「会いたくない」と。
子は病室のドアの外で、父の死を見送る。
つまり親といっても、1人の人間。
神様でも仏様でもない。
会いたくないものは、会いたくない。
親だから子どもの過ちを、すべて許すというわけではない。
またそれをしないからといって、親の愛の深さを疑ってはいけない。
●ふつうの人間
否定的なことを書いた。
理想としては、また映画としては、親子が許し合いながら、
ハッピーエンドで終わるのがよい。
またそのほうが、感動的。
しかしこの私も60歳を過ぎるころから、考え方が少しずつ変わってきた。
先に書いた私の知り合いの話を知ったときのこと。
父親の年齢は84歳。
息子は50歳くらいと聞いているが、詳しいことは知らない。
ひとり息子。
息子は大学を卒業すると家を飛び出し、以後、一度も家には帰っていない。
母親とはどうかということになるが、よくわからない。
父親の話によれば、母親とも連絡を取っていないようである。
言い忘れたが、母親も今年84歳になり、今は有料の老人ホームにいる。
その父親は、当然のことながら(?)、息子の話になると
顔をそむける。
ただときどき、「あいつも早く嫁さんを見つけるといい」と言う。
またそれが口癖になっている。
が、その程度。
●幻想と現実
で、そういう話を知ったとき、私は、こう思った。
「いつかは父子で、許し合うときがくるだろう」と。
しかし今は、ちがう。
「父のほうが、許さないだろうな」と。
最期の最期であればなおさら、もしそこで許してしまえば、
父親は自己否定をすることになってしまう。
「愛」とか「愛の深さ」とか、そんなロマンチックな話ではない。
つまりそれが現実ということ。
もし私がその知り合いなら、私は許さないまま、死ぬ。
面会に来ても、会わない。
それで地獄へ堕ちようとも、息子が作りあげた幻想とあこがれを
容認するよりはよい。
つまり親だって、ふつうの人間。
だからこそ、許せることと許せないことがある。
息子が、(娘でもよいが)、その一線を越えたとき、「たとえ子でも
許せない」と、なる。
それはまさに自分の人生観をかけた闘いということになる。
もう一言、念を押すなら、こういうことになる。
先に「親子の確執」という言葉を使った。
が、その確執というのは、何も、子どものほうだけの問題ではないということ。
親の方にも、ある。
親の方の確執が爆発することもある。
●ある姉・弟
これは親子の話ではない。
姉・弟の話である。
弟氏は生涯、定職にはつかなかった。
そのため弟氏は歯科医師の妻をしていた姉氏のところへ来ては、生活費を
受け取っていた。
弟氏には、3人の息子と娘がいたが、その学費もすべて姉が負担した。
それに加えて弟氏は女性にだらしなく、浮気はし放題。
偽物だったがロレックスの腕時計を身につけて、夜の繁華街を遊び歩いた。
で、50歳を過ぎるころから、姉氏は、弟氏と距離を置くようになった。
それまでは言うなりにお金を出していたが、姉氏は躊躇するようになった。
とたん弟氏は、泣き落とし戦術に出るようになった。
しかも回数が減った分だけ、額がふえた。
それまでは20~50万円という少額だったが、200~500万円の
高額になった。
ときに1000万円を超えることもあった。
そのつど弟氏は借用書を用意し、勝手に姉氏のところに置いていった。
まったく意味のない借用書だった。
姉氏もそれをよく知っていた。
で、その姉氏が、85歳で倒れた。
再発した乳がんが、体中に転移していた。
そのときのこと。
弟氏は、何度か見舞いにきたというが、姉氏は、最期の最期まで、
弟氏には会わなかったという。
そばにいる人たちに、「X男(=弟)だけは、部屋に入れるな」と、
いつも言っていた。
「葬儀にも出てほしくない」とも。
が、ノー天気な弟氏にはそれがわからない。
葬儀の席にやってきて、みなの前で大泣きをしてみせたという。
私はその話を聞いたとき、こう思った。
「私がYさん(=姉氏)なら、化けて出てやる!」と。
●確執
「確執」というのは、そういうものかもしれない。
つまりたがいに平等というのではない。
多くのばあい、一方的なもの。
子が親にいだく確執。
しかし親はそれに気づかない。
反対に親が子にいだく確執。
しかし子はそれに気づかない。
気づかないまま、どちらか一方が、ある日突然爆発する。
何も親子、兄弟にかぎらない。
夫婦の間でも、それはよく起こる。
20~30年前から「定年離婚」という言葉が、よく聞かれるようになった。
夫が定年で退職したとたん、妻のほうから離婚を申し出る。
このばあいも、夫にとっては寝耳に水……というケースがほとんどという。
妻の方はその何年も前から、離婚の準備に入る。
が、夫のほうは、それに気づかない。
気づかないまま、「私たちはいい夫婦」という幻想にしがみつく。
だから夫は、あわてる。
狼狽する。
「どうして離婚?」と。
こうしたケースのばあい、たとえば夫(元夫)が臨終を迎えたとしても、
妻(元妻)は、その場にはかけつけないだろう。
いわんやたがいに許し合うなどということは、ありえない。
(アメリカ映画などでは、そういうシーンもよくあるが、日本では
考えられない。)
「夫婦と親子はちがう」と言う人もいる。
たしかに母子関係、つまり母と子の関係には、特別なものがある。
しかし父子関係は、母子関係とくらべると、ずっと希薄。
「精液、ひとしずくの関係」と言ってもよい。
私がここで問題にしているのは、父子関係。
母子関係ではない。
●なぜか?
臨終の場で息子との面会を拒絶する父親。
娘との面会でもよい。
しかしそれは息子を許せないからではない。
こういうケースのばあい、父親は自分を許せない。
つまり自分という、「親バカ」を許せない。
たとえば『許して、忘れる』という言葉がある。
しかしそれは自分以外の人に向かって使う言葉。
自分自身については、『許して、忘れる』は、使えない。
だから親はもがく。
苦しむ。
それは心を引き裂くような苦しみといってもよい。
その過程で、親は息子を消し、娘を消す。
とことん、消す。
たとえ息子にせよ、娘にせよ、どこかでのたれ死にしたところで、
何も感じない。
そこまで自分を消さないと、その苦しみから逃れることはできない。
で、その息子にせよ、娘にせよ、それが臨終の場にやってきて、「お父さん!」と
声をかける。
そのとき父親は、「おお、お前か!」と言うことができるだろうか。
ここから先は私の想像になる。
なるが、私なら、言えない。
息子にせよ、娘にせよ、「何を今さら……」となる。
東京のK町でたむろしていた少女と母親の関係を、思い浮かべてみればよい。
その少女の母親は、娘の不幸を、とことん願っていた。
「そんな親がいるのか?」と思う人もいるかもしれない。
しかし現実には、いる。
こんな話を、以前、ワイフから聞いたことがある。
実の娘に対して、「あんたが不幸になるのを、墓場の中から
見届けてやる!」と。
それを口癖にしている、実の母親がいるという。
親子関係でも、こじれると、親子であるがゆえに、そこまでこじれる。
+++++++++++++++++
原稿をさがしていたら、先のK町で
たむろしていた少女について書いた
原稿が見つかりました。
日付は、2006年の4月になって
いました。
そのまま再掲載します。