文庫道場の太陽のような男(リョーちゃん)より、コメントありましたので、少しじむちょーもリョーちゃんが、話したという道場開設当時のことを書きたいと思います。(恐ろしかった方ではなく、楽しかった方を担当ね♪)
開設当初といえば、ありがたいことに毎日のように一般部の入門があり、横須賀移籍組の先輩達にまじって、一クラスに毎回20人以上の人達が稽古に来ていましたね!それも顔なじみ、まるで大家族のようでした(笑)稽古で誰かしらににすれ違うから、他の誰かの様子がそこから自然に伝わっていくような・・・もちろん稽古は、初心者なりに厳しいものでしたが、その後のコミニケーションもいっぱいでした。じむちょーも毎晩最後まで事務所にいましたので、一般部の稽古に出て、脳酸欠でセンセーの声が遠のいていたっけ。息子は、皆の気合が子守り歌がわり、すやすや事務所で眠らせて育てていただきました。
無我夢中、忙しい日々でしたが、楽しい毎日でもありました。でもその頃、センセーに念を押されていたことがありました。『覚悟をしておくように』と。それは、自営業の大変さや訪れるかもしれない貧乏生活?とかではなく、私の性格を見越して、『思い入れの深い稽古生との別れ』です。月日が流れ、確かに本当に私にとってそこが一番辛いとこだということも知りました。きっと師範やマネージャー、長く空手を続けてきた先輩方は、いくつもの仲間との別れも乗り越えてきているのだと思います。いくら経験してもなれるということはありません。ただこちら側の勝手な思いでは、どうにもならないこともあるということです。それならどうしたらいいのか?それは道場を良くしていくとこしかありません。皆が戻ってくる場所として、他にはない大切な場所として、家や学校・仕事場以外のもう一つの場所として・・・。
以前ブログにかいた中野家との最後の少年部の稽古で、あけみに内緒でかけた曲があります。ともに’コブクロ’の『桜』と『ここにしか咲かない花』という曲です。
センセーも大好きな曲です。
開設当初といえば、ありがたいことに毎日のように一般部の入門があり、横須賀移籍組の先輩達にまじって、一クラスに毎回20人以上の人達が稽古に来ていましたね!それも顔なじみ、まるで大家族のようでした(笑)稽古で誰かしらににすれ違うから、他の誰かの様子がそこから自然に伝わっていくような・・・もちろん稽古は、初心者なりに厳しいものでしたが、その後のコミニケーションもいっぱいでした。じむちょーも毎晩最後まで事務所にいましたので、一般部の稽古に出て、脳酸欠でセンセーの声が遠のいていたっけ。息子は、皆の気合が子守り歌がわり、すやすや事務所で眠らせて育てていただきました。
無我夢中、忙しい日々でしたが、楽しい毎日でもありました。でもその頃、センセーに念を押されていたことがありました。『覚悟をしておくように』と。それは、自営業の大変さや訪れるかもしれない貧乏生活?とかではなく、私の性格を見越して、『思い入れの深い稽古生との別れ』です。月日が流れ、確かに本当に私にとってそこが一番辛いとこだということも知りました。きっと師範やマネージャー、長く空手を続けてきた先輩方は、いくつもの仲間との別れも乗り越えてきているのだと思います。いくら経験してもなれるということはありません。ただこちら側の勝手な思いでは、どうにもならないこともあるということです。それならどうしたらいいのか?それは道場を良くしていくとこしかありません。皆が戻ってくる場所として、他にはない大切な場所として、家や学校・仕事場以外のもう一つの場所として・・・。
以前ブログにかいた中野家との最後の少年部の稽古で、あけみに内緒でかけた曲があります。ともに’コブクロ’の『桜』と『ここにしか咲かない花』という曲です。
センセーも大好きな曲です。
道場の忘年会のカラオケで行ったコートダジュールの前で勇太先輩と組手をおっぱじめた牛丼魂ヨッシーさんも最近自主練にきてたので復帰も近いのではと思われます。
勇太先輩も仕事に余裕が出来たらぜひ戻ってきて欲しいと思います。押忍
(まじめすぎますか?でも本音です。次回からはdirty gotohのカラーを出した書き込みにしますのでご期待のほど。)。
厳正なる審査に合格し,晴れて緑帯を締めることを許されるわけですが,平安の裏では回転の動作が多く,平安Ⅴの最後の動作も回転してから貫手で攻撃なので,回る角度を間違えて味方の金的を攻撃してしまわぬよう注意していただきたいと思います。押忍
父親は68歳で亡くなりました。生前から「俺は太く短く生きるんだ」と言っていましたが、そのとおりになってしまいました。父は高校時代は、成績がダントツトップで、担任の進めで北大を受験し合格し、バス停で札幌へ行くバスを待っているときに、母親がバス停で待っている父のところに来て「家が貧乏で大変なんだから大学行かずに商売を手伝ってくれ」と言われ、結局大学を断念しました。そのときの父の気持ちを思うと断腸の思いです。ですから、父は僕も含め息子達には「家を継ごうなんて考えるな。勉強したいだけ勉強して自分の好きな人生を生きろ」と絶えず言っていました。僕が若いときは、あまり意味がわからなかったのですが、今となっては良くわかります。父はただ苦労して死んでいったのだと思ってしまい、そう思うと本当に悲しくなります。父のぶんまで自分ががんばって、もういないですけど親孝行したいと思っています。空手に関係なく長文ですみません。押忍。