コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

京都支部法座 ~迷いの姿~

2010-03-02 00:01:03 | 真宗
日曜は京都支部法座、辻家家庭法座として行われました。
家庭法座というのは、そのお家を会場に提供していただくことで、普段お参りになりにくい家族・親族やご近所の方のご縁になって欲しいと言う願いから、その準備・お世話・講師へのお礼などをお世話してくださるところに、有縁方はご一緒にとの願いで支部の法座として開放してくださっているものです。
辻さんの場合は、熱心に法座を開いてくださっていたおばあちゃんやご主人が先に旅立たれ、お子様方もすでに独立していると言う中で、毎年家庭法座をしてくださっています。
華光会館のご近所と言うこともあって、最近は皆が集まりやすい会館を会場にして行われています。


今年も、増井悟朗先生を講師に、ご法話と座談会。

ご法話の内容も触れたいのですが、今私の気持ちは後の座談会の関わりに心が向いています。
まぁ、どんなに説明しても私のフィルターを通したものなので、出来事を忠実に記載することはしません。
というか、法座といえど、その時間にその場所でそのメンバーで行われた時間ですので、誰が何を言ったかなどのことをブログで公開したくないなと言う思いがあります。

なので、私の中ではつながっているけど、表に現れる文章だとよく通じないかもしれません。


座談の中で、「先生にお聞きしたい」ということで質問をされる方が居られました。
まぁよく見る光景ですし、先生も丁寧に答えられます。
が、ひとつの回答に満足(?)しても次々と質問が繰り返されていきます。

私にとっては予想されていたことでもあるんですが、ネット上で何度も目にする話題。
そのことを華光会は、増井先生はどう捉えているのかという。

今まで、自分が聞いていたことが正しいかどうか不安になってくるんですね。
一部を否定したら、他のことも否定したくなってくる。
そういう人の否定する言葉で、自分も不安になってくる。
それがどんどんいろんな人に増殖し、ある人は否定することを目的とし、ある人はまだ否定できない人を目覚めさせようとする。
おそらくそういうことだろうと”想像”しています。

今の今、南無阿弥陀仏のお心の話を先生がされていたんですよね。

でも、自分が質問したいことが解決しないと、なにも聞けないのかもしれません。
その気持ちを大事にしたい感じがひとつ。
もう一方では、10年間(人によっては20年だったり30年だったり)積み上げてきたことの「正しい・間違い」を全部検証するには同じ年月が必要なんじゃないかなという(私が)待ちきれない感じがひとつ。

そこには、法を説いている指の検証であって、その先の月が一切目に入っていない。

捨てさせられるものの正体がありますね。

そしておそらく、そのことをいくら周りが「間違っている」と詰め寄ったところで、自分自身で気付かないことには、方法のもちかえで、手法が「組織・個人の否定」から「駄目と言われたからがんばって意識しないようにする」という、どちらも法抜きの「自分で変化を求める」姿でしかないのが悲しいことですね。

そういう姿を見抜くためにすでに一劫を費やされて、もうお見通しだからそんなところに力を入れなくてもいいんだよとの願いが、すでに南無阿弥陀仏として出来上がっているんですけどね。


「先生に直接答えていただいて、安心しました」というようなことを最後のほうで話してくださったんですが、その「安心させてくれた」先生の伝えたいことに向いてくれたら、この日質問したことは無駄にならないんだけどなと言う気持ちがあります。

もしかしたら、また別の質問で、不安を解消する作業が続くかもしれません。
でも、そこには際限がない。
私の欲を満たすことでしかないですから。

まさに、この日法話で話してくださった四苦八苦が、この欲を満たすと言う私の根本から起こっているということを…
まさにそこがお目当ての「願行具足」の南無のお心ですよね。


ある人が「まだ間違った教えを信じている仲間に、正しいことを伝えたいから聞いてている(信心獲得したい)」と言っていました。
昔、ある人は「自分を師として法を聞いてくださる方のために、法を聞かなければ(信心獲得したい)」と言っていました。
私は「連れ合いや、連れ合いのお父さんに認めてもらうため(信心獲得したい)」に、熱心に聴いているふりをしていました。
(私のは別として)どれも世間的には尊い姿で、利他行ですよね。

でも、私が抜けています。
「すべての衆生」というのは、わたし抜きのすべての人が法を聞いても、私一人が聞いていなければ成立しないんです。
ならば、周りの人を目覚めさせるより先に、大事なことがあるんじゃないでしょうかね。

なのに、ついつい人のことを問題にしているのは、誰を隠そうこの私ですね。
そういうご縁を通じてしか、この身が知れない…もったいない話です。