増渕邦治全仕事
ART DIRECTION vol-07・南洋真珠協会
『一通りの仕事はしたけれど』
ミキモトを退社して独立したのが1992年の冬でした。
ちょうどバブルが弾けて、ジュエリー業界にも未曾有の不況がくる前年でした。
それまで日本の小売市場が2兆8000億円で
誰もが5兆円産業になる、と信じて疑わなかったのです。
また、1993年はミキモト真珠発明100周年にあたり
大きな事業計画が進んでいました。
そんな時に独立したのですから、誰の目から見ても無謀としか映らなかった。
ところが“案ずるよりは産むが易し”で、仕事は順調に進みました。
まもなく、黒蝶真珠輸入協議会やJJDA、南洋真珠協会
そして複数のメーカーからお座敷がかかるようになったのです。
この画像は南洋真珠協会の業界誌や会員向けのポスター用に作成した物です。
ご存知のように南洋真珠(シロチョウパール)協会のボスは
オーストラリアのパスパレーで
日本の南洋真珠を取り扱う業者は
いってみればパスパレーの下部組織のようなものです。
日本のアコヤ真珠が下降線を辿る中
南洋真珠は生産量では中国淡水には及びませんが
世界の真珠を牛耳っているといえるでしょう。
残念ながら、南洋真珠協会の仕事は
担当者と基本的な意見が食い違って、1年ほどで降りました。
パスパレーに直接食い込んでいたら
もしかしたら状況は変わっていたかもわかりませんが・・・。
でも一通りやりたいことはやれたので、悲観的にはなりませんでした。
独立すると、社内でいたのとは違った局面がでてきます。
それを乗り越えなければ、独立してフリーになった意味がありません。
面白い15年を過ごすことになります。